大澤真幸の『現実の向こう』(春秋社)を読んでの発見。
この本は社会学者の大澤が、2004年の春から夏にかけて、東京の神田三省堂と池袋ジュンク堂で、「現代」をテーマに行った講演を収録したものである。その内容は多岐にわたっているのだが、松本清張の『砂の器』に言及している箇所がある。つい先月にも東山紀之主演でドラマ化された、国民作家である清張の代表作については、いちいちあらすじを説明するまでもないと思うので、省略させていただく(ご存じなければ各自調べたうえでお読みください)。大澤は、2004年に制作されたドラマ版の『砂の器』をみて、今まで誰も気付かなかった原作の秘密を発見したという。以下にその箇所を引用するが、今回はほぼ引用のみで、僕の私見は付け加えられておらず、また、引用がだいぶ長いことをあらかじめお断りしておく。
大澤は、登場人物の名前に注目し、2004年のドラマでは、原作からの名前の変更がいくつか見られると表をあげて指摘する。
原作(1961年) → ドラマ(2004年)
和賀英良 → 和賀英良・犯人(若手音楽家)
本浦千代吉 → 本浦千代吉・父
成瀬リエ子 → 成瀬あさみ・恋人
田所佐知子 → 田所綾香・婚約者
関川重雄 → 関川雄介・ライバル(評論家)
三浦恵美子 → 扇原玲子・ライバルの恋人
今西栄太郎 → 今西修一郎・刑事
吉村弘 → 吉村雅哉・刑事部下
三木謙一 → 三木謙一・犠牲者(元巡査)
中心人物の「和賀英良」という名前は、原作もドラマも同じです。でも成瀬の名前は、原作では「あさみ」じゃない。「リエ子」です。婚約者もドラマでは田所「綾香」ですが、原作では「佐知子」だった。ドラマの脚本家が、名前を変えたくなる気持ちはわかりますね。一九六一年の原作なので、たとえば、女性には「子」がつく名前が多かったりして、なんとなく古めかしい。二〇〇四年らしくするために、今ふうの名前に変えているわけです。名前が変わったのは、女性だけではありません。たとえば、和賀のライバル関川は、原作では「重雄」ですが、ドラマでは「雄介」に、中心的な刑事は、今西「栄太郎」から今西「修一郎」に、それぞれ変わっている。
(中略)
変わらなかった人はほんのわずかしかいません。変わらなかった最大の人は、和賀英良その人です。
現代の脚本家が、この名前を変えなかった気持ちもよくわかりますね。「和賀英良」。カッコいい名前です。これが古めかしい名前なら「もっとカッコつけたほうがいいんじゃないの、音楽家だしさあ」みたいなことになったかもしれないけれど、その必要はまったくない。
しかし、こう考えたとたんに、僕には、ひとつの疑問が浮かんできたんです。このようになるということは、和賀の名前は、一九六一年の段階で相当モダンな名前だったということです。(中略)いまでも「英良(えいりょう)」なんて、そうある名前ではない。ほかのみんなは一九六一年っぽい名前だから、いま見ると何か変えざるをえないというので、和賀と並ぶ主人公格の刑事の名前ですら変わっているのに、和賀だけは、「いいじゃん。一番大事な人だしさあ、カッコいい名前だし、いまでも通用するよ」ということになる。
そこで逆に、疑問が生じてしまうのです。松本清張はなぜ、犯人にこんな名前をつけたんだろう。他の人は六一年っぽい名前なのに、この犯人にはきわめて変わった、言ってみれば奇抜な名前をつけたことになる。
しかもさらに考えてみると、この名前は、ストーリーの上で、たいへん不自然な名前だということに気づきます。ドラマでは他人になりかわるという方法で戸籍をつくりますけれど、原作では、大阪の某地区が空襲で壊滅し、役所の資料も焼失する。それに乗じて、「和賀英良」という架空の名前で届けでて、そのまま戸籍ができたことになっている。つまり、「和賀英良」というのは、ドラマの本浦秀夫にとっては、与えられた名前ですが、原作の方では、自分が創作した名前です。
そこで本浦秀夫の気持ちになってほしい。自分のニセの戸籍をつくるとき、「私の名前は和賀英良です」というだろうか。考えてみると変です。そういうシチュエーションで自分が名前をつくるとしたら、絶対、平凡な名前にするはずです。そうでしょ。だって、いくら激しい空爆を受けたところだとしても、何人か生き延びているかもしれない。どこかに、その地区のことに詳しい人がいるかもしれない。そんなとき「和賀」なんて、結構めずらしい苗字ですから、「和賀さんって家、あったっけ?記憶にないぞ」ということになる。「和賀英良」なんていう個性的な名前にしてしまえば、生き延びた町内会長が、「町内には和賀なんて苗字の人はいなかった」とか、たまたま生存した同じ年頃の人が、「同級生に英良君なんていう人はいなかったぞ」とか、いうかもしれない。こんなときには、絶対に、平凡で、埋没しやすい名前をつくるはずです。(中略)
そこで、僕は思う。松本清張はこの名前にこだわったのだ。この名前に、どうしても、したかったのだ。松本清張には、ミステリーの筋の自然さを犠牲にしてでも、どうしてもこの名前にしたかった、何か理由があったのだ。
そして、僕は、松本清張の熱心なファンである脚本家や番組のスタッフたちが見逃した、名前に隠されている決定的に重大な秘密を、ついに発見したのです。(中略)
鍵は、「英良」を「えいりょう」と音読みにするところにある。よく考えてみれば、この字であれば、普通だったら「ひでよし」でしょう。こういうふうに音読みするのは「吉本隆明」を「よしもと・りゅうめい」と呼ぶように、よく知らない人が相手を呼ぶときに使うもので、僕(大澤真幸)も「おおわさ・しんこう」なんて呼ばれることもある。だけど、友だちだったら「しんこう」くん、なんてことはまずいわない。吉本さんも「たかあき」さんであって、「りゅうめい」さんとは、近しい人はいわない。とすると、「和賀英良」も、普通は「ひでよし」なんですよ。ということは、松本清張はこの名前の読みかたにもこだわったわけです。
実は、この名前には、原作にしか通用しない寓意がこめられているのです。(中略)
松本清張は読みにこだわったわけだから、名前を、ローマ字で書いてみる。
WAGA EIRYO
これから「R」を脱落させてみます。そうすると、
WAGA EIYO
になる。これは、
わが栄誉
と読めます。つまり、「和賀英良(わがえいりょう)」とは、「わが栄誉」に「R」が混入した名前なのです。それならば、「R」とは何か。もちろん「癩(RAI)病」の頭文字の「R」なんです。つまりこの名前には、「癩病」の痕跡が混入しているがために、「わが栄誉」が台なしになってしまったという寓意がこめられているのですよ。これこそ、この作品のストーリーそのものではないですか。
つまり、「和賀英良」という名前は、父との関係を断つために創作されたものなのですが、結局は、父の痕跡を、父の幽霊を、その内部に留めているわけです。この名前は、和賀が、結局は、父の呪縛から逃れ得なかったことを、暗に示していることになる。そして、父こそ、父との放浪こそが、結局は、三木謙一との関係を作り出し、また三木を過去から呼び寄せていることを思えば、「R」は、あの死者が、戦前・戦中の死者が、和賀にとりついていることの徴ではないでしょうか。
松本清張ファンに「どうよ?」と聞かせてみたい話である。
この本は社会学者の大澤が、2004年の春から夏にかけて、東京の神田三省堂と池袋ジュンク堂で、「現代」をテーマに行った講演を収録したものである。その内容は多岐にわたっているのだが、松本清張の『砂の器』に言及している箇所がある。つい先月にも東山紀之主演でドラマ化された、国民作家である清張の代表作については、いちいちあらすじを説明するまでもないと思うので、省略させていただく(ご存じなければ各自調べたうえでお読みください)。大澤は、2004年に制作されたドラマ版の『砂の器』をみて、今まで誰も気付かなかった原作の秘密を発見したという。以下にその箇所を引用するが、今回はほぼ引用のみで、僕の私見は付け加えられておらず、また、引用がだいぶ長いことをあらかじめお断りしておく。
大澤は、登場人物の名前に注目し、2004年のドラマでは、原作からの名前の変更がいくつか見られると表をあげて指摘する。
原作(1961年) → ドラマ(2004年)
和賀英良 → 和賀英良・犯人(若手音楽家)
本浦千代吉 → 本浦千代吉・父
成瀬リエ子 → 成瀬あさみ・恋人
田所佐知子 → 田所綾香・婚約者
関川重雄 → 関川雄介・ライバル(評論家)
三浦恵美子 → 扇原玲子・ライバルの恋人
今西栄太郎 → 今西修一郎・刑事
吉村弘 → 吉村雅哉・刑事部下
三木謙一 → 三木謙一・犠牲者(元巡査)
中心人物の「和賀英良」という名前は、原作もドラマも同じです。でも成瀬の名前は、原作では「あさみ」じゃない。「リエ子」です。婚約者もドラマでは田所「綾香」ですが、原作では「佐知子」だった。ドラマの脚本家が、名前を変えたくなる気持ちはわかりますね。一九六一年の原作なので、たとえば、女性には「子」がつく名前が多かったりして、なんとなく古めかしい。二〇〇四年らしくするために、今ふうの名前に変えているわけです。名前が変わったのは、女性だけではありません。たとえば、和賀のライバル関川は、原作では「重雄」ですが、ドラマでは「雄介」に、中心的な刑事は、今西「栄太郎」から今西「修一郎」に、それぞれ変わっている。
(中略)
変わらなかった人はほんのわずかしかいません。変わらなかった最大の人は、和賀英良その人です。
現代の脚本家が、この名前を変えなかった気持ちもよくわかりますね。「和賀英良」。カッコいい名前です。これが古めかしい名前なら「もっとカッコつけたほうがいいんじゃないの、音楽家だしさあ」みたいなことになったかもしれないけれど、その必要はまったくない。
しかし、こう考えたとたんに、僕には、ひとつの疑問が浮かんできたんです。このようになるということは、和賀の名前は、一九六一年の段階で相当モダンな名前だったということです。(中略)いまでも「英良(えいりょう)」なんて、そうある名前ではない。ほかのみんなは一九六一年っぽい名前だから、いま見ると何か変えざるをえないというので、和賀と並ぶ主人公格の刑事の名前ですら変わっているのに、和賀だけは、「いいじゃん。一番大事な人だしさあ、カッコいい名前だし、いまでも通用するよ」ということになる。
そこで逆に、疑問が生じてしまうのです。松本清張はなぜ、犯人にこんな名前をつけたんだろう。他の人は六一年っぽい名前なのに、この犯人にはきわめて変わった、言ってみれば奇抜な名前をつけたことになる。
しかもさらに考えてみると、この名前は、ストーリーの上で、たいへん不自然な名前だということに気づきます。ドラマでは他人になりかわるという方法で戸籍をつくりますけれど、原作では、大阪の某地区が空襲で壊滅し、役所の資料も焼失する。それに乗じて、「和賀英良」という架空の名前で届けでて、そのまま戸籍ができたことになっている。つまり、「和賀英良」というのは、ドラマの本浦秀夫にとっては、与えられた名前ですが、原作の方では、自分が創作した名前です。
そこで本浦秀夫の気持ちになってほしい。自分のニセの戸籍をつくるとき、「私の名前は和賀英良です」というだろうか。考えてみると変です。そういうシチュエーションで自分が名前をつくるとしたら、絶対、平凡な名前にするはずです。そうでしょ。だって、いくら激しい空爆を受けたところだとしても、何人か生き延びているかもしれない。どこかに、その地区のことに詳しい人がいるかもしれない。そんなとき「和賀」なんて、結構めずらしい苗字ですから、「和賀さんって家、あったっけ?記憶にないぞ」ということになる。「和賀英良」なんていう個性的な名前にしてしまえば、生き延びた町内会長が、「町内には和賀なんて苗字の人はいなかった」とか、たまたま生存した同じ年頃の人が、「同級生に英良君なんていう人はいなかったぞ」とか、いうかもしれない。こんなときには、絶対に、平凡で、埋没しやすい名前をつくるはずです。(中略)
そこで、僕は思う。松本清張はこの名前にこだわったのだ。この名前に、どうしても、したかったのだ。松本清張には、ミステリーの筋の自然さを犠牲にしてでも、どうしてもこの名前にしたかった、何か理由があったのだ。
そして、僕は、松本清張の熱心なファンである脚本家や番組のスタッフたちが見逃した、名前に隠されている決定的に重大な秘密を、ついに発見したのです。(中略)
鍵は、「英良」を「えいりょう」と音読みにするところにある。よく考えてみれば、この字であれば、普通だったら「ひでよし」でしょう。こういうふうに音読みするのは「吉本隆明」を「よしもと・りゅうめい」と呼ぶように、よく知らない人が相手を呼ぶときに使うもので、僕(大澤真幸)も「おおわさ・しんこう」なんて呼ばれることもある。だけど、友だちだったら「しんこう」くん、なんてことはまずいわない。吉本さんも「たかあき」さんであって、「りゅうめい」さんとは、近しい人はいわない。とすると、「和賀英良」も、普通は「ひでよし」なんですよ。ということは、松本清張はこの名前の読みかたにもこだわったわけです。
実は、この名前には、原作にしか通用しない寓意がこめられているのです。(中略)
松本清張は読みにこだわったわけだから、名前を、ローマ字で書いてみる。
WAGA EIRYO
これから「R」を脱落させてみます。そうすると、
WAGA EIYO
になる。これは、
わが栄誉
と読めます。つまり、「和賀英良(わがえいりょう)」とは、「わが栄誉」に「R」が混入した名前なのです。それならば、「R」とは何か。もちろん「癩(RAI)病」の頭文字の「R」なんです。つまりこの名前には、「癩病」の痕跡が混入しているがために、「わが栄誉」が台なしになってしまったという寓意がこめられているのですよ。これこそ、この作品のストーリーそのものではないですか。
つまり、「和賀英良」という名前は、父との関係を断つために創作されたものなのですが、結局は、父の痕跡を、父の幽霊を、その内部に留めているわけです。この名前は、和賀が、結局は、父の呪縛から逃れ得なかったことを、暗に示していることになる。そして、父こそ、父との放浪こそが、結局は、三木謙一との関係を作り出し、また三木を過去から呼び寄せていることを思えば、「R」は、あの死者が、戦前・戦中の死者が、和賀にとりついていることの徴ではないでしょうか。
松本清張ファンに「どうよ?」と聞かせてみたい話である。