徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

東洋水産 マルちゃん正麺 ゆず香る塩まぜそば

2020-07-10 21:52:23 | 
今回は「正麺って何?」という疑問が付きまとうマルちゃんの塩まぜそばです。




本日は第11回私が好きなマンガの話。今回取り上げるのは泉昌之の『食の軍師』(全8巻・日本文芸社)です。
『ダンドリくん』のときも話しましたけど、泉昌之は原作担当の久住昌之さんと絵画担当の和泉晴紀さん(元・泉晴紀)の合名。このシリーズで紹介する久住昌之原作マンガ3本目になります。
この作品は、食に偏執的なこだわりを持つ男が、食を戦略ととらえ、心の中の軍師(諸葛亮孔明)とともにグルメの攻略を目指す、変則的グルメマンガです。これを読むと、デビュー作の「夜行」からまったくブレてないというか、良くも悪くも同じテーマを反復し続けていることがよくわかります。
Amazonレビューで、「他人の注文にイチャモンつけるな、細かいこと言わずに黙って食え」みたいな批判的評価があったんですけど、このマンガはまさに「食に対するどうでもいいこだわり」とか「他人からしたらうっとおしい目の付け所」なんかが面白さのポイントであって、それに乗れるかどうかが本作を楽しめるかどうかにかかっています。
あとはまあ主人公の本郷播が力石をライバル視しているけど、当の力石のほうは主人公をたまに会う友達としか思ってないだろうな、という認識のズレとか、ミックスフライとマカロニサラダをよく頼むなとか、内容について言えることはいろいろあるんですけど、それよりなにより声を大にして言いたいことは、これが記念すべき和泉晴紀の商業マンガ復帰作だということですよ!
「ガロ」でデビューして以降、ずっとマイナー漫画家だった和泉晴紀さん。それが次第に、時代の変化か、需要の変容か、商業誌での仕事がなくなり、「実話ナックルズ」とか「劇画マッドマックス」みたいな雑誌で実録マンガを描くようになってしまいました。
久住さんは多才な人だから、文章書いたり、音楽活動したり、他のマンガ家さんの原作手がけたり(水沢悦子『花のズボラ飯』、土山しげる『野武士のグルメ』)など、いろんな活動の場があったんですけど、和泉さんはマンガ描きだから、生活のためにヤクザやら犯罪やらをネタにしたマンガの仕事を引き受けざるを得なかったのでしょう。僕はそのさまを見て、「和泉さんはこの種の描き手になってしまわれたのか」と、涙そうそうでした。(「裏モノJAPAN」でやってた『インテリやくざ文さん』とか、『芸能グルメストーカー』みたいな、半商業誌の作品もあるにはあったわけですが)
で、もうこのまま戻ってこられないのかと思っていたまさにその矢先に始まったのが『食の軍師』なのです!これが祝わずにいられましょうか。
残念ながら8巻で完結してしまいましたが、まだこれだけ描けるのなら、いずれどこかの媒体に戻ってきてくれるでしょう。フォーエバー!


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース・・・ではなく雑感。
RIZINが8月の9,10日に大会を開催すると発表しました。コロナにより当面の間のイベント休止をアナウンスしたときにぶち上げてた「夏にメガイベントを行いたい」って構想、僕は不可能だと思ってたんですけど、実現しましたね。ただ、榊原CEOが「観客がいなかったらRIZINが成り立たない」っつってたけど、「そうかなあ」って思います。個人的な感覚にこだわりすぎてんじゃないか?時節を考えたら無観客でやったほうがいいんじゃないか?って思うんですけどね。
プロ野球とJリーグも今日から有観客での試合が始まりますけど、そっちで感染出たらどうなるか。RIZINも観客入れんのあきらめざるを得なくなるんじゃないか。なんにせよ地上波放送してほしいですね。

東京じゃ先週木曜に感染者が100人超えて以降、8日を除いて感染者数3ケタが続いてますけど、僕は、「感染者数」より「感染率」を重視すべきだと思うんですよね。
東京の人口は約1400万人。1400万中100だと、感染率は14万人中1人です。日中は他県から仕事で来てる人もかなりの数いるし(200万だっけ?)、人口密度も高いから、ほかの自治体よりもある程度感染者数が多くなるのは当然なわけで、「感染率」で考えたらそれほど高いとは言えませんよね。
また、いくらか感染者数が増えたとしても、特定の団体内(老人ホームとかホストクラブとか)で集団感染が起きているだけなら、感染箇所が限定されているので「感染が拡大してる」とは言えない。
それから、「第2波」ってなんなんだろう、って思うんですよね。北九州で感染者が一時的に増えたときには北橋健治市長が第2波の発生を宣言してましたけど、何をもって第2波と判断するのかという、明確な基準がないでしょ。ということは、最終的には自治体の首長の胸先三寸で決まる、ということではないでしょうか。もちろん専門家の意見を仰ぎつつでしょうけど、最終的な判断基準は首長の恣意でしかないのではないか。ウイルスの動きは目に見えませんしね。
だとすると、「第2波宣言」も、「ああ、第2波が起きたんだな」って受け止めるんじゃなくて、「(首長が)第2波が発生したと理解させたいんだな」と解釈したほうが正確なんじゃないでしょうか。「第2波が起きた状態の中にある」のではなく、「第2波にふさわしい行動を求められている」ということです。「事態がどうあるか」ではなく、「事態がこうあるものとして行動してほしい」というメッセージが「第2波宣言」だということ。
小池百合子東京都知事も、「第2波宣言しないのか」みたいな質問されてましたけど、それはつまり、「都民の行動を引き締めるために第2波が起きたことにすべきじゃないか」ってことでしょ。事実がどうあるかじゃなくて、自粛などの行動制限のレベルを引き上げよう、ということ。そのために「第2波が起きたということにしときましょう」というのが「第2波宣言」なのではないか。
そのメッセージには素直に従ったほうがいいのか?それとも自分の頭で考えて行動すべきか?
それは時と場合によるでしょう。皆さんの賢明なるご判断を期待します。
んで、仮に東京で第2波が起きたとなると、緊急事態宣言の発出も付随しますよね。そーすっと飲食店にまた自粛要請しなくちゃならなくなりますけど、もういい加減聞いてもらえないんじゃないか。「生活保障してくれないくせに自粛ばっかりさせんな」ってみんな怒り出すんじゃないか。だから小池さんも第2波が起きたと認めようとしないんじゃないか・・・(政府との兼ね合いもあるんでしょうけど)。
この推測が正しいとすると、東京の1日の感染者数が300人400人と増えていっても小池さんは第2波とは言わないんじゃないか、という気がします。「補償金出さない自粛要請はもうできないのではないか」ってことです。

時間と金を惜しむ我々がその代償として失い続けているもの――JR福知山線脱線事故と津久井やまゆり園殺傷事件によせて

2020-07-07 22:04:05 | 雑文
スーパーやコンビニなどのレジ前では、順番をめぐって些細な争いが起きることがある。とにかくみんな少しでも早く会計を終わらせたいと思っているのだ。我々は1秒を待つことができずにいる。
駅の改札で料金不足やチャージミスによって出口をふさいでしまうと、うしろの人に舌打ちされるらしい。隣の改札に移るだけのことなのに。我々は1秒を待つことができずにいる。

2005年4月25日にJR福知山線で起きた脱線事故は、死者107名、負傷者562名という戦後4番目の被害を出した。到着時刻に間に合わせるため、運転手がスピードを出しすぎてしまい、カーブ地点を曲がり切れなかったことによって引き起こされた事故だった。
メディアは連日この事故の経緯を報じ、JR西日本は大バッシングを浴びた。その企業体質が事故を招いたとされ、「日勤教育」などの経営手法が槍玉に挙げられた。「利益優先・効率優先」を追求するあまり人命を軽視し、人を運んでいるのではなく、モノを運んでいるかのように鉄道を運行していたのだ、と言われた。
JRは、これでもかというほど叩かれた。本質的でない批判もあったが、JRはひたすらこうべを垂れるしかなかった。
僕は当時、その一連の報道を、苦々しい思いで眺めていた。「苦々しい」というのは、JRに腹を立てていたからではない。JRを批判している人たちの態度に違和感を感じていたからだ。
当時の福知山線は、混雑時には2,3分置きに便がくるほど緊密なダイヤ運行をしており、その行程を滞りなく循環するために1分1秒の遅れに神経を尖らせねばならなかった。それこそが運転手の焦りをうみ、大事故を帰結したのだとされた。
しかし、その緊密なダイヤは、そもそも誰が望んだものだったのか。「1秒を待てない」我々が、JRの利用者である我々こそが望んだものではなかったのか。JRは、企業努力として、利用者の要望に極力応えようとしてきただけではなかったのか。
電車に遅れが出ると、駅員が乗客に詰め寄られる。遅れに対するプレッシャーを与えているのは、鉄道会社の上層部よりむしろ乗客のほうだ。運転手はつねにこのプレッシャーに脅かされている。「遅延証明書」なる奇妙な書類を発行しているのも世界中で日本くらいのものだろう。
もちろん営利企業である以上、利益を追求することを念頭に置いていなかったわけではあるまい。利益優先・効率優先で運営していなかった、とは言えまい。その限りで、当然JRには企業責任がある。だが、「利益優先・効率優先」とは、資本主義下で生きる我々、日本社会全体の基本方針であったはずだ。JRは一企業として、日本全体のその方向性に乗っかっていた、というだけに過ぎない。
利益優先・効率優先は、日本の企業なら当たり前、日本人なら当たり前の大前提であった。だから本来ならば、日本社会全体が、あの事故をきっかけに反省せねばならなかったはずだ。自分達の利益優先・効率優先の精神こそがこの事故を招いたのであり、それはひとりJRのみの責任ではない。日本社会全体の方針こそがこの事故を招聘したのだ、と。
なのに当時の日本社会は、それをしなかった。ただJRだけが悪なのであり、叩かれるべきはJRでしかなく、JRをひたすら批判し続ければ状況は改善されるのだと言わんばかりであった。普段は電車の遅れに腹を立てておきながら、あたかも自分たちは利益優先・効率優先とは無縁であるかのような顔をして、JRを叩いていた。「正義」を僭称し、一方的にJRを「悪」と名指していた。僕は、その態度を苦々しく感じていたのである。
JRの職員の中にも、批判者の態度を理不尽に感じていた者が少なからずいたはずである。だが加害側である以上、異議申し立ては許されなかった。批判のすべてを、黙して受け止めねばならなかった。
念のため断っておくが、これは事故に遭った人達のことを自業自得だと言っているのではない。被害者の犠牲を無駄にしないためにこそ、その本質をきちんと見極めなくてはならない、ということである。
JRをバッシングすれば、JRというひとつの企業は改善されるだろう。だが、日本全体の「利益優先・効率優先」という方向性はそのまま温存される。そうなれば、JRは事故と無縁の良質な企業に生まれ変わるかもしれないが、どこかほかの場所で「利益優先・効率優先」を原因とする悲惨な事故がまた必ず起きる・・・。
当時の僕は、そう考えていた。
そして、それは現実になった。2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発の事故。
あれから9年。日本社会も少しは意識を改めつつあるようだが、根本の部分はまだ変わっていないのではないだろうか。


2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で、元職員による連続殺人事件が起きた。死者19名、重軽傷者26人。その被害の大きさと犯行の残忍さから、事件は大々的に報じられ、犯人は強い非難に晒された。
犯人の植松聖は逮捕後、「重度障害者は悲しみしか生まない」「障害者は死んだほうが世のため」などといった発言を繰り返したため、事件は「強い差別意識」によって引き起こされた犯行とされ、植松は差別主義者のレッテルを張られた。
その見解が間違っているとは思わない。だが、それだけでは見落としてしまうものがある、と思う。
問題は「差別」だけではない。差別という視点だけでは、事件の全体像、および事件の背後にあるものが見えてこない。僕は、差別意識だけが事件の要因ではないと考えている。
なぜ、「重度障害者は悲しみしか生まない」などという考えが生まれるのだろう。それは、人間の価値を「カネ」という尺度でしか計れないからではないだろうか。
「カネ」は、現代において重要な価値の尺度である。いくら稼いでいるか、ひいてはどんな職業に就いているかが、人間の最も重要な社会的評価になっている。人によっては、それが評価のすべてということもある。
その意識が極端になれば、「稼いでないヤツは死んだほうがマシ」となる。
人間の価値は、カネで決まるものではない。家族や友達と一緒にいて、喜びをお互いに感じられればそれは価値があるし、カネにならなくても、趣味に没頭して充実していればそれも価値だし、ぼーっとしたりゴロゴロしたり、ただダラダラ寝ているだけでも、それで幸せだというならそれも充分価値だし、何より、生きているということ、それそのものがおおいに価値のあることなのだ。
人間の価値を計る尺度が「カネ」しかないというのは、あまりに貧しい。植松の犯行は、その貧しい思想に基づくものである。
しかしその貧しさは、決して我々と無縁ではない。多かれ少なかれ、我々もその貧しさを共有している。
資本主義経済下では、「時は金なり信仰」が人々を支配する。「時は金なり信仰」のもとでは、「1秒を惜しむ」ことと「1円を惜しむ」ことは同義だ。だから、「1秒を待てない」我々は、薄々であれ、カネを稼いでいない人を良く思っていない。ニートや引きこもりを良く思っていない人は多い。その延長線上に、「重度障害者は悲しみしか生まない」という考えが位置している。
資本主義社会では、「働かざるもの食うべからず」という考えが支配的になる。それは言い換えれば、「稼ぎがないヤツは死んでしまえ」ということだ。我々は、植松の思想と無縁ではない。
植松が犯行を通じて日本社会に突き付けた問いはこうである。
「お前たちも心の奥底では俺と同じように考えているのだろう」。
残念だが、日本人はいまだこの問いかけを否定しきれずにいる。ひょっとしたら、日本人は植松の「カネを唯一の尺度として障害者を殺傷するに至った」という犯行動機に、薄々気づいているのかもしれない。だからこそ「差別的」というわかりやすい視点を単一の犯行動機として、それ以外の動機を見て見ぬふりをしたのではないか。
そうすることによって、「自分たちは植松とは違う。自分たちには差別意識などない」と思い込み、「善」(自分たち)の立場から「悪」(植松聖)を叩こうとしたのではないか。


「青い芝の会」という重症身体障害者反戦の会がある。彼らは「働くことは悪だ」ときめつける。(中略)それは労働することを善とし、その上に超過利潤の王国を築き上げてきた現代日本資本主義、また彼らの美意識への公然たる挑戦である。彼らの言葉が真実なのは、働くことができず、従ってブルジョアジーにとって何の役にも立たない重症身体障害者を、それだけの理由で醜いと切り捨てるブルジョアジーに対する全面的な反抗である。当然のことながら、われわれはブルジョアジーのために生きているのではない。だがブルジョアジーは特殊彼らの階級的利益を擁護するために、普遍性を装った人間の価値、モラル、美意識をはりめぐらしているのだ。われわれのアジテイションはこれらのひとつひとつを確実に撃破し、それら一つ一つを裏返してゆくことでなければならない。
(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像論集』晶文社)


あるいは、植松もまた犠牲者のひとりであると言えるのかもしれない。物心つく頃から、いや、ひょっとしたらそれ以前から働くこと(=金を稼ぐこと)を善しとする言説に浸され続け、その結果として「時は金なり信仰」の信奉者に転じさせられてしまったのだから。
「働くことは悪だ」という言明は、今もなおその有効性を失っていない。「重度障害者は悲しみしか生まない」という思想、その思想を有する人物、その思想の背景たる「時は金なり信仰」を支える資本主義経済。これらが社会全体を覆い、活発に機能している以上――それはつまり、仮に植松がいなくても重度障害者を排除する空気がやんわりと充満している以上――、「働くことは悪」なのだ。
働くことを善であるとして、働けない人々を、程度の差こそあれ苦しめている社会は、どう言い繕っても悪でしかない。働いていようがいまいが、人がただ生きて存在しているだけでその尊厳が尊重される社会が訪れない限り、重度障害者からの「働くことは悪である」という揚言は、資本主義社会を止むことなく糾弾し続けるだろう。

横浜地裁の一審の死刑判決に弁護人が控訴したものの、先般植松自身が控訴を取り下げたことで死刑が確定した。数年後か十数年後か、植松は刑場の露と消えるだろう。だが、それで「植松聖的なもの」が消えてなくなるわけではない。現代の日本社会には、いたるところに「植松聖的なもの」が偏在している。おそらくは、我々の内にもそれはある。
だからこそ、植松を差別主義者と名指しして断罪するだけでは足りないのだ。我々の社会から、我々の内側から「植松聖的なもの」を剔抉しなくてはならない。植松の思想が差別的であったとして、ではその差別的思考はどこからきたのか?人間の価値を「カネ」という単一の尺度で測定する貧しい思想からだ。
そして我々は、その貧しさと無縁ではない。1秒を惜しみ、1円を惜しんで日々過ごしている。
僕はカネと時間を重視することそれ自体を批判しているのではない。今のこの社会で生きる以上、カネを稼ぎ、時間を節約することは必要欠くべからざる行為だ。問題なのは、「カネ」(=「時間」)でしか価値判断することができない、という「思想の貧困」なのだ。
人間の多様な価値観を担保するため、社会を奥行きのある豊かなものとするために、「カネ」(=「時間」)以外の尺度を充実させておかねばならない。「カネ」という尺度しか持ち合わせていないくせに、したり顔で「多様性」などと口にする輩が多すぎる。その「思想の貧困」に気づかなければならないのだ。


福知山線脱線事故と津久井やまゆり園殺傷事件では、ともに単一の犯人が名指された。福知山線脱線事故ではJR。津久井やまゆり園事件では植松聖。それぞれの犯人に責任の所在を押し付けて断罪し、彼らの「悪の視点」から物語を構成し、事故(事件)の幕引きを図ろうとした。
だが、本当にそれでいいのか。両件の背後にある、「時は金なり信仰」を見なくていいのか。時間を惜しむ意識から福知山線脱線事故が、カネを惜しむ意識から津久井やまゆり園事件が起きた。
このままでは、時間を惜しむ意識からまた大きな事故が、カネを惜しむ意識からニートや引きこもりや生活保護受給者やホームレスをターゲットとした殺傷事件が起きかねない。
時間とカネを惜しむ意識を生み出す大元の「時は金なり信仰」は、今も変わらず活発に機能しているのだ。自分達はJRとも植松聖とも無縁であると思い込むことで、我々は「時は金なり信仰」から目を背けてきた。だから「カネ」(=「時間」)という尺度しかない「思想の貧困」は温存され続けているし、この社会の根本は変わっていない。
いつになったら変わるのだろう。どんなきっかけがあれば変わるのだろう。
それとも、変わることはないのだろうか。

ル・フレンド とろけるチョコクッキー あまおういちご

2020-07-03 23:36:00 | 
今回はファミリーマートで販売されてるいちごのクッキーです。




僕思うんですけど、「あまおう」って、ネーミングの勝利ですよね。いちごも今はいろんな品種があって、みんなそれなりに質が高いはずですけど、全国的な売れ行きはあまおうが頭一つ抜けてるでしょ。これって、覚えやすくてインパクトのある名前によるところが大きいんじゃないかと思うんです。甘い王様で「あまおう」ね。
正直、よっぽどいちごをたくさん食べてる人じゃない限り、品種ごとの味の違いなんてわかりませんよね、細かすぎて。だから品種を選ぶ場合、味よりも名前がポイントになってきがちだと思うんです。だから覚えにくい横文字の品種よりも「あまおう」。
あまおうは、その名前によって多くの人に選ばれている。どの品種も味はある程度のレベルにあるなら、最終的には名前がものをいう。あまおうの売れ具合はそれを表しているのだと僕は思います。

でね、ネーミングの勝利って言ったときに思い出すのは古市さんですよ、古市憲寿!現在テレビでひっぱりだこになってる古市憲寿さん。
彼が世に出るきっかけとなったのが『絶望の国の幸福な若者たち』でした。この本がベストセラーとなり、新進気鋭の社会学者として注目を浴び、今はご存じの通り、ご意見番としてテレビの顔になっています。
僕はね、彼の著作『絶望の国の幸福な若者たち』が「ネーミングの勝利だった」と思うのですよ。なんせインパクトあるじゃないですか。国は絶望的なのに若者は幸福だ、なんてね。そりゃ注目されますよ。なんか新しい社会潮流が記されてるんじゃないかって気になりますよ。このインパクトがベストセラーとなった起爆剤であり、今の古市さんの足場となった。ベストセラーを出しているという事実が、社会学者としての古市さんの説得力の裏付けになっているし、ご意見番であることの社会的同意のもとにもなっている。
しかし、ですね。僕はちょっと疑義を呈したい。『絶望の国の幸福な若者たち』は、ネーミングの勝利・・・より正確に言えば、名前の付け方がうまかった“だけ”なのではないか、と。
僕も『絶望の国の幸福な若者たち』を読んだんですけど、はっきり言って中身はスカスカです。社会学というよりはほとんどルポルタージュといった感じだし、「絶望的な国で若者たちは幸福に暮らしている」という切り口、目の付け所はよかったけど、そこが深く掘り下げられてはいない、というのが正直な感想なんですね。だから、中身よりもタイトルで売れた本だという印象をぬぐえないのです。
僕は読書好きで、社会学の本もわりと読むんですけど、真面目に社会学やってる人たちはみんな古市さんのことバカにしてるんじゃないかと思うんですよね。普通の社会学者からしたら古市さんは邪道だし、社会学はほとんどやらずに、テレビによって都合よく消費される「御用学者」に成り下がってるように見えるはずです。
僕としても、彼には社会学者を名乗ってほしくないというか、「社会学者風タレント」といったほうが正確だと思うんですよ。西川史子が「医師免許を持ってるだけのタレント」であったようにね。
頭がいい人であることは事実です。だからどんな話題についてでも話せるし、どんな番組にも対応できる。でも、僕はそういう知性の使い方はつまんないし、もったいないと思う。テレビのような陽の当たる場所ではなくても、社会的・学問的に意義のある仕事が古市さんにはできるのではないかと。それとも、社会学における自分の才能に早々に見切りをつけて、テレビに活路を見出した、ということなのでしょうか。社会学の本じゃなくて、小説書くようになっちゃったし・・・。
なんにせよ、社会学の本も読む読書好きとしては、彼に難癖つけたくなってしまうのです。皆さん、読むなら本物の社会学の本を読みましょう。大澤真幸さんとか、宮台真司さんとかね。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース。
コロナと直接関係ないんですけど、コロナ絡みの話をひとつ。
通ってる図書館が、緊急事態宣言を受けて臨時休館になり、しかたないからAmazonで古本を買うことにした、という話を以前しました。その後日談。
僕ね、臨時休館が終わったら、購入した本をすべて寄贈するつもりでいたんですよ。同じ本を2度読むことなんてまずないし、お世話になってる図書館の書庫を充実させてあげようと思いましてね(よっ、太っ腹!)。
んで休館中に購入した9冊を持っていきました。したら、「会議を行って寄贈を受け付けるかどうかを決める」とのこと。2週間後にまた図書館行ったときに結果が出ていて、「県内のほかの図書館に所蔵があるのがほとんどで、書庫がいっぱいになってしまうので受け付けられない。1冊だけどこにも所蔵がないのがあったから、それだけ頂く」とのこと。
僕ね、そこの図書館に所蔵されてない本ばかりを選んで買っていたんですよ。それなら全部寄贈を受け付けてもらえると思ってね。したらそうじゃなかったんですね。そこの図書館だけじゃなくて、県内全体の図書館の所蔵で決まることになっていたのです。
図書館には相互貸借っていうシステムがあって、所蔵がない本はほかの図書館から取り寄せることができるんですね。なんで、ここになくても他んとこにあればそれでよし、っていうふうに考えてるということなのでしょう。
たしかに本っつーのは毎日大量に刊行されてるけど、書庫の広さは有限だから、冊数を絞る必要がありますよね。僕はたまに、すべての発行図書を収蔵してるという国会図書館の書庫はどうなってるのか、と想像しちゃいます。
寄贈できなかった本は古本屋に売りましょうかね・・・。