猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

大人のADHD、大人の発達障害の流行に懸念

2022-05-12 15:13:26 | こころの病(やまい)

いわゆるADHDや「発達障害」と言っているものに、程度の大きな差がある。

大人になってADHDや「発達障害」と診断されるものは、子ども時代には気づかなかったのだから、たいしたことはなく、「正常な範囲」の揺らぎと言ってよい。すなわち、個性である。したがって、社会のほうが、その揺らぎに寛容であれば、何の問題も起きない。

集団行動なんて軍国主義の名残で、不必要である。女性だからといって、家事・育児・賃金労働をすべてこなすなんて、はじめから無理である。やりたいことだけやればよい。嫌なことはしない。そういう社会であれば、大人のADHD、大人の発達障害は「病気」でなくなる。それで浮いた医療資源を重い「発達障害」に注ぐべきである。

ところが、あいかわらず、大人のADHD、大人の発達障害の診断や体験記が流行している。

この流行に、水をさすため、あえて、4年前のブログを4件ここで再録する。それは、岩波明の『発達障害』(文春新書)を読んで、納得できなかった点を私が書いたものである。

私は、岩波明が「発達障害者」を真摯に助けようとしていると思っている。したがって、彼個人への批判としてではなく、4年前の精神医学界の通念に対する不服申し立てとして読んで欲しい。


きのうの朝日新聞の「大人のADHD」にコメントしたい

2022-05-11 23:55:15 | こころの病(やまい)

きのうときょうの朝日新聞で、〈生活〉の面で女性のADHD(注意欠如・多動症)をとりあげている。

きのうの記事では、「ADHD」を個性と見なした方が良いと、昭和大学烏山病院の精神科医、林若穂が述べていた。私もそう思う。「病気」だと思う必要が本当にあるのか、疑うべきである。多くの人がADHDなら、ADHDを病気というのはおかしい。人間の特性の1つである。

彼女は、また、女性が求められる役割や やらなければいけない負担が、大人になると急に多くなると述べている。私もそう思う。人から、あれをやれ、これをやれと言われても、それに従う必要はない。男でも女でも、ひとりの人間が何でもかんでもできるはずがない。無理をすれば、体か神経か、どこかが悪くなる。

私は子どものときから、日本社会は間違っている、と思って、無理と思うことはやらないを貫き通してきた。闘うのが難しければバカなふりをすればよい。

ところで、彼女は、ADHDと診断された男女がうつ病や双極性障害になる割合は、女性は男性の2倍以上であるという論文を書いている。

アメリカでは、ADHDに限らくなくても、女性がうつ病になる確率は男性の1.5倍から3倍であると言われている。ADHDだから、女性がうつになる割合が男性の2倍となる、とは言えない。そうではなく、社会が女性に重い負担を要求しすぎるから、うつ病になるというのが、真実であると私は思う。

だから、女性だから家事も育児もやって、その上に、外で働いてお金をもらってくるというバカげた社会通念を蹴っ飛ばすべきである。

私の家は、私や妻の歳のせいもあって、ごみの山である。布団の周りも、布団の上も衣服や本がちらばっている。私の部屋や机がないから、食卓の上は本と書類を積んだままである。食事のとき、パソコンをどかして、そこに皿を置く。

社会通念にしたがって働けばうつになる。それより、知的な生活を送る方が、無駄なエネルギーも使わず、健康で楽しい人生を送れる。多少貧しいだけである。

  ☆    ☆    ☆    ☆

ところで、私は、朝日新聞が大人のADHDを強調しすぎのように、以前から思っている。個性ならば、ほっといてくれと言いたい。というのは、私の担当の子は双極性障害の薬に加えて、ADHDの薬が処置されている。双極性障害だ、強迫症だ、ADHDだと、本当にそんなに多数の薬が必要なのか、心の奥で、私は いぶかしく思っている。早く、精神医学も科学になってほしいと願っている。

大人になってからは、ADHDとパーソナル障害とは症状が似ているから判別しにくい。精神医学の診断名は、症状の分類にすぎないので、判別がむずかしい。

たとえば、咳やくしゃみが出ると、昔は「風邪」といっていたが、気温の変化に対する体の単なる反応かもしれないし、花粉アレルギーかもしれないし、コロナかもしれないし、インフルエンザかもしれない。現在は、それを判定する客観的方法を医者がもっているから、病因に対して有効な治療手段をもっている。

現在の精神医学は、病因を特定できる客観的手段をもたずに、治療するという、前時代的な業界であり、そのことを知っておいて、精神科に通うべきである。

60年前に、精神科医の診断がバラバラなので社会的批判を浴びた。アメリカの診断マニュアル DSMは、その批判をかわすために、問診などで同じ診断名がでるよう、開発されたものである。いつのまにか権威をもってしまったが、医師にによる診断名のばらつきを減らしただけである。

最新の診断マニュアル DSM-5によれば、ADHDの診断には、A「不注意または多動性-衝動性の症状」に加え、B「その症状のいくつかが12歳になる前から存在していた」、C「その症状が2つ以上の状況(settings)において存在する」、D「その症状が社会的・学業的・職業的機能に負の影響を与えている」、E「他の精神疾患ではうまく説明できない」の5つがすべて満たされたときのみ、ADHDと診断される。

診断基準Bがあるから、大人のADHDの診断はむずかしい。患者は医師に強く言われれば「12歳になる前から」症状があった気がしてしまう。だから医師が病気をつくる可能性がある。

社会が変われば、社会的・学業的・職業的機能に問題が生じないなら、病因もわからずにADHDの薬を使うより、社会を変えた方が良いと私は思う。


妥当か?点滴混入で3人の患者を殺した大口病院の元看護士に無期懲役判決

2021-11-10 23:13:52 | こころの病(やまい)

きのう、11月9日、大口病院で点滴に消毒液を混入して3人の入院患者を中毒死させた元看護士に、横浜地裁は無期懲役の判決を言い渡した。

私は、遺族の復讐感情に安易に応じて死刑判決を行うことに、反対であるから、死刑の求刑に対して、無期懲役の判決に賛成である。罪を償うために死ねというのは、あまり、正しいとは思えない。見せしめは、損得の判断ができる人にしか効果がない。

しかし、判決文の要旨を読むと、なにか、すっきりしない。本裁判は、裁判員裁判であるから、本当のところは、裁判員たちが弁護側の主張を聞いて同情すべき余地があると感じて、死刑にするには忍び難く、無期懲役にしたのではないかと思う。判決文の要旨では、裁判員たちの思いが読み取れない。

大口病院では不審死が続発していたから、もしかしたら、この3人だけが元看護士による中毒死でないかもしれない。あるいは、大口病院は終末医療を行っていたから、検察のいう通り、この3人だけかもしれない。大口病院の死因にたいする医学的な検死が、普段から、ちゃんとしていたのだろうか、という疑問を持つ。

もう1つの疑念は、元看護士の言動が普段からおかしくなかったか、である。弁護側の精神鑑定医が文春オンラインで語っていることを読むと、元看護士は被害妄想があるし、幻聴がある。問題となる幻聴は、誰もいないのに人の声が聞こえるだけでなく、その声が自分の悪口を言っていたり、命令しているときである。このことを、精神鑑定医は元看護士が統合失調症的と言っている。そして、元看護士は、拘留中に、向精神薬を与えられている。

だとすれば、大口病院での看護士の振る舞いに奇異なところがあったはずである。毎日、看護士のミーティングをもち、その日の介護に改良点がなかったか、を話し合っていれば奇異な言動に気づくはずである。また、看護士研修を毎月もち、終末患者に対する奉仕行為について話し合えば、看護士のこころの変調に気づくはずである。

毎日のミーティング、毎月の研修は、介護業務などで行われている、虐待予防の標準的手法である。

大口病院はたぶん人手不足で、そのようなミーティングや研修をもてなかったのではないか。大口病院だけでなく、新型コロナがなくても、多くの病院で人手不足で、看護士のこころの健康に気をくばることができていないのではないか。

判決文要旨では、争点を犯行当時の被告の責任能力の程度とし、検察の「軽度の自閉スペクトラム症で うつ状態」か「統合失調症による心神耗弱」かに絞り、検察の鑑定にもとづき、「弁識能力と行動制御能力は著しく減退してはおらず、完全責任能力が認められる」とした。

このくだりで、判決文が「検討すると、被告は、複数のことが同時に処理できない、対人関係の対応力に難がある、問題解決の視野が狭く自己中心的といった、自閉スペクトラム症の特性を有し、うつ状態だったことが認められる」と言うのは、納得できない。「複数のことが同時に処理できない」や「問題解決の視野が狭く自己中心的」は別に「自閉スペクトラル症の特性」ではない。自閉スペクトラル症でなくても、ありうることである。

父親のブッシュ大統領は、歩きながらチュインガムが噛めないと言われていた。また、問題解決の視野が狭く自己中心的の人はあまたといる。

大事なことは元看護士が「うつ状態」だったことである。「うつ状態」が重ければ、被害妄想があったり、幻聴があったりしても、おかしくない。そして、だれもが、「うつ状態」になりうる。

元看護士は、もともと看護士になる強い意志をもっておらず、周囲に押されて看護士になり、終末医療で働く前に、老人保健施設でこころを病んで精神科クリニックを受診し、3か月休職している。

したがって、病院側に、看護士のこころの健康に注意し、適切な対応すべきだったと言える。この点に裁判員たちは同情したのでないかと思う。


新聞の人生相談「夫をストレスから解放してあげたい」

2021-10-12 22:49:19 | こころの病(やまい)

先週の土曜日の新聞の人生の相談は「夫をストレスから解放してあげたい」であった。5つ年上の会社員の夫を心配しているのである。優しい伴侶である。

しかし、相談する文章は整理されキチンと書けている。編集員が文章を直しているのではないか、という疑問が浮かぶ。冷やかしの相談でなければ、相談するということは、相談者も苦しんでいるはずである。直接対面で相談受けたのであれば、苦悩が表情や声のトーンにでる。もともとの文章に心の乱れがでていなかったのか。

心を病んでいる伴侶を支えるのは大変だ。自分自身も病む可能性がある。

《専門機関に相談したほうがいいのか、でもわたしから言うのは出しゃばりではないか……。夫婦なのに何がしてあげられるのか分からなくて自己嫌悪に陥ります。》

もちろん、専門機関に相談した方が良い。いっしょに相談するのがよい。

問題はどこに相談するかである。精神科医やカウンセラーの腕の情報を集めないといけない。精神科医やカウンセラーの能力に大きな差異があるからである。

《夜中に飛び起きたり、自傷行為をしたり(私が止めました)》

自傷行為は自己否定の感情のあらわれである。と同時に、助けてほしいというシグナルであることが多い。だから、助けようとすることは「出しゃばり」でない。

夫からみれば、相談者は5つ下の妻である。夫は、かっこつけて、結婚までいったのかもしれない。本当の自分を見せたら見捨てられるのではないかと思っているかもしれない。夫に私が助言するならば、そんなことで離婚する伴侶とは、いっしょにいる必要がない。伴侶に率直に打ち分けるのでよい。

結婚するとは、互いに、仲間となって助け合い、全世界に対峙することである。

《最初は、結婚生活が負担になっている?と考えましたが、ストレスの原因は仕事だといいます。》

《無理に聞くのも逆にストレスになりそうなので、話してきたときはねぎらう、そうではない時はひたすら感謝してほめています。》

「ストレスの原因が仕事」というのが、具体的には よくわからないが、自営業では商売で騙されたとか、資金繰りがうまくいかないとか、が多いが、会社員では人間関係のことが多い。会社で不当労働行為を受けているかもしれない。「能力がない」「やめろ」「死ね」と言われているのかもしれない。この場合は労働運動に携わっている弁護士にも相談すべきである。

話しを聞くのは、相手の置かれている状況をよく理解し、適切な社会的行動をとるためである。伴侶は、自己否定に落ち込んでいるかもしれない。不用意な言葉は、相手が自分を非難していると受け取られやすい。

《仕事を頑張ってくれているのはありがとう。でもつらいのならいつでも辞めていい》

これはまずい言葉である。「仕事を頑張る」必要がないなら、「ありがとう」なんていう必要もない。この言葉は仕事をしろと聞こえる。「つらいのなら・・・・・・」は、見くだしているように聞こえる。適切な言葉が見つからなければ「うん、うん」と言って聞けばよい。あくまで、夫が不当労働行為を受けているのか、心が壊れて治療が必要かを、判断するために聞く。そして適切な機関に相談する。

「ねぎらう」「感謝してほめる」は、「夫をストレスから解放」するに、適切な行為ではない。夫の「自己嫌悪」「自己否定」を強めるだけである。「共感」するということは「同情」することと異なる。


約40年精神科病棟に閉じ込められた69歳の男の国への賠償訴訟

2020-10-01 21:12:57 | こころの病(やまい)


きょうの朝日新聞に、計約40年精神科病院に閉じ込められた69歳の男が、国に3300万円の賠償を求めて、9月30日、東京地裁に提訴したとあった。

彼は、16歳で統合失調症を発症し、1973年、福島県の精神病院に転院後、退院したいと医師に訴えたにもかからず、そのまま、閉じ込められ、2011年の東日本大震災、福島原発事故で茨城県の病院に避難し、翌年、医師から退院してグループホームに行くよう勧められ、61歳で精神科病棟からようやく脱出できた。

朝日新聞によれば、訴えはつぎのようである。

〈原告側は、1968年に世界保健機関(WHO)の顧問から長期入院の改善を勧告されるなど、以前から問題が指摘されてきたのに、50年施行の精神衛生法(現在の精神保健福祉法)で定められた、家族らの同意があれば入院できる同意入院(現在の医療保護入院)の要件があいまいなままで、地域移行への予算も不十分などとして「国は実効性のある退院措置を講じなかった」と主張。地域生活の自由を奪われ、憲法が保障する幸福追求権や居住・移転及び職業選択の自由を侵害されたと訴えている。〉

精神科病棟に患者が閉じ込められるというハリウッド映画が昔からあった。1960年代に閉鎖病棟のあまりに環境の悪さにびっくりした米国民は、精神疾患の治療は通院の形でという運動をはじめ、精神科病院もできるだけ退院させるよう努力した。

統合失調症であれ双極性障害であれ、急性症状を引き起こしているのは、一時的である。したがって、現在、日本でも、入院は原則本人の同意によってであり、薬で症状がコントロールできるようになると、通院となる。閉鎖病棟もなくなり、病棟に自由に出入りができ、部屋もきれいになっている。

ところが、いっぽうで、昔、精神科病棟に閉じ込められた患者は、長く閉じ込められたまま、老いていくうちに、気力もなくなり、戻るところもない。現在、精神科病棟に行くと、年寄りばっかりが入院している。

彼の場合、大震災で病院を移ったおかげで、良心的な医師に出会え、退院を進められると同時に、グループホームという住む場所をあたえられた。ほんとうに彼は幸運であった。

しかし、本来は、国の制度として、退院できる状態かどうかを、第3者の医師の目で判定される権利が患者にあるはずだ。患者が訴えれば、客観的な判定をうける退院判定制度を、アメリカでは、1960年代末に国が作ったと記憶している。(判定会の場をハリウッド映画でみたような気がするが、小説だったかもしれない。)

また、退院後の住む場所を地域社会は提供する必要がある。ところが、悲しいことに、グループホームをつくるとなると、日本では、時価が下がると反対運動が起きる。私の住んでいる場所の近くでも反対運動が起きている。

今回の訴訟を期に、メディアも精神疾患の患者への偏見を壊し、地域社会で共生できるようにしてほしいと願う。