猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「うつ」は再発しやすい、心を癒やす人がもっともっと いて欲しい

2020-09-20 21:29:52 | こころの病(やまい)


今年の梅雨はとても長く、夏はとても暑かった。それに春先からコロナ感染騒ぎが続いた。

私のいるNPOは心に問題を抱えている子どもたちの教育を行っている。知識の伝授ではないので、リモート学習も試みたが、対面でないとうまくいかないことが多い。この間、綱渡りのような対面学習を続けてきたが、幸いなことに、まだコロナ感染者を出さないですんでいる。

しかし、夏の疲労で倒れるスタッフが出ている。私も仕事が終わると寝ころんでいる日々である。

ことしは、肉体的な疲労だけでなく、心も疲れ果てた人たちがいたのではないだろうか。心の悩みは、人との接触で作られるが、その悩みは、また、人との接触によって癒される。

大野裕は『「うつ」を治す』(PHP研究所)で、「うつ」は再発しやすいと、書いている。治っても薬を飲み続けろと、主張している。

薬に依存性はないと彼は言うが、やめるときには離脱症が生じるという。「治っても薬を飲み続ける」では、依存性とどこが違うのだろうか。精神科医が関わって「制御」されているから安全なのだろうか。

また、再発しやすいだけでなく、何年も何年も薬を飲んでいて、治らない男の子もいる。その子が20歳になったので、今年、私のいるNPOで成人式をし、みんなで祝う予定であったが、コロナ騒ぎで できなかった。来月に、遅ればせながら、NPOでの成人式をすることにしている。

同じ歳の女の子だが、その子が、今年の8月に、夜間に寝付けず、頓服薬リスパダールOD錠1錠を飲んだら、けいれんを起した。翌日、総合病院に受診して、ミオクローヌスと診断され、リボトリール錠0.5㎎を毎日のんだ。その後、職場にパラパラとしか通えなくなった。

その子の持病に てんかんの小発作(欠伸発作)があり、また、中学、高校、卒業後も何度か、うつ状態を示すことがあり、両方の薬を異なる病院で処方されている。私は医者でないので口をだせない。問題は、そのことではない。

9月に職場から「昼休みは元気だし、福祉ではないから、これ以上休まれると困る。完全に治るまで来ないでください」と言われ、休職扱いになり、給料が出なくなったことである。高校と先ほど言ったが、特別支援学校高等部で、職場は「特例子会社」である。障害者手帳で就職したので、「福祉」でないと言われても本人が戸惑うだけである。

この件で、女の子の相談にのったが、わからないのは母親の態度である。職場の「ジョブコーチ」の言い分を信用するが、自分の娘には「まとわりついて欲しくない」という。どうも、家庭が崩壊しかかっているのではないか。

2年前の春にも職場に通えぬということがあり、その後、落ち着いたので、安心していた。

心の病(やまい)は、薬だけで治るものではない。脳科学者の加藤忠史は「うつ」はこれから自分に起きることへの不安からくるという。細菌感染の治療薬は細菌を殺す。それに対し、心の病の薬は対処療法である。薬を使って症状を和らげるあいだに、自分の力で回復することを期待している。周りの人たちも、自分で自分を治すのを助けるのが望ましい。「自力」だけでなく「他力」もいるのだ。

今回のコロナ騒ぎのせいか、暑い夏のせいか、職場のジョブコーチも母親も心の余裕を失っている。特に母親の心の状態が心配である。だれか、寄り添ってあげないと、母親の心が壊れたままになる。

心を病む人は多いが、心を癒やす人はまだまだ少ない。きょうは涼しくなって、秋が来たようだから、事態は好転するかもしれないが。

「自閉スペクトラム症」の診断が多すぎはしないか

2020-07-01 22:50:51 | こころの病(やまい)

米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5の「自閉スペクトラム症」項の記述に、私は違和感がある。医学書院の『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』から、抜き書きしながら、必要に応じて、原文を参照しながら、考えてみたい。

診断的特徴(Diagnostic Features)につぎの記述がある。

〈自閉スペクトラム症は、以前には早期幼児自閉症、小児自閉症、カナー型自閉症、高機能自閉症、非定型自閉症、特定不能の広汎性発達障害、小児期崩壊性障害、およびアスペルガー障害と呼ばれていた障害を包括している。〉

ここでの「障害」はすべて “disorder”である。

精神科医のカナーとかアスペルガーとかが、自分の診療所に連れてこられる子どもたちのなかに、どこか普通の子と違うと感じる子どもがいたということが、これらの多数の「症候群」がつくられた発端である。

精神科医の斎藤環が言うように、これらの診断名はゴミ箱になりやすい。とくに「特定不能の広汎性発達障害」はいかにもゴミ箱に使ってくださいというものだ。この「広汎性」とは、 “pervasive”の翻訳で、「ありふれた」という意味である。

何か変だと感じたとき、精神科医は、自分のメンツにかけ、何か診断名をつけないといけないと考える。こういうときに使われる診断名を斎藤環は「ゴミ箱」と呼ぶ。アメリカでは、保険金請求のため、もっともらしい診断名が必要となるから、必要悪でもある。

DMS-5の作成作業メンバーは、診断名が健全に使われることを期待して、これらのゴミ箱をまとめて、「自閉スペクトラム症」としたのだと思う。

このためには、いままで何か変だなと思われていたものが、根っこが同じものからくるということをDSM-5は示さないといけない。「スペクトラム」は、本質は同じだが異なってみえるものをいう。根っこが同じでないと、ふたたび、ゴミ箱になる危険が出てくる。

診断名は類型化であり、私の本音からいうと、異なるものを無理やり同じとするより、異なるものは個性だとみた方がよい、と思う。ヒトは工業製製品ではなく、すべて同じ規格を満たしている必要はない。

DMS-5の「自閉スペクトラム症」の診断基準は、A、B、C、D、Eからなる。A、Bは症状の規定、Cは発症時期、Dは「その症状は、社会的、職業的、または他の重要な領域における現在の機能に臨床的に意味ある障害を引き起こしている」で、Eは「これらの障害は、知的能力障害(知的発達症)または全般的発達遅延ではうまく説明されない」である。

「全般的発達遅延」は、単に、知的心的発達が平均の子どもより、ゆっくりしているという診断名である。

基準A、B、C、D、Eのすべてが満たされないと、「自閉スペクトラム症」と診断してはいけない。たぶん、DSM-5の作成作業メンバーは、これで自閉スペクトラム症の診断基準が厳しくなったので、ゴミ箱に使われないと思ったのではないか。

基準Dの「社会的」の“social”は日本人の考えるものと違い、「お付き合いができる」とか「コミュニティを維持するための約束ごとを守る」という意味である。

基準Eの「障害」は “disturbances”の訳で、“disorders”より具体的なことをいう。患者が引き起こす「もめごと」は、知的能力障害(知的発達症)または全般的発達遅延ではうまく説明できない、ことをいう。これは非常に重要な条件である。というのは、AやBの症状があっても、「知的能力障害」や「全般的発達障害遅延」で説明がつくなら、「自閉スペクトラム症」と診断してはいけないという規定である。以前の「知的能力障害」を伴う「自閉症」の多くは、この規定によって、「自閉スペクトラム症」から除外される。

基準Bは「行動、興味、または活動の限定された反復的な様式で、現在または病歴によって、以下の少なくとも2つにより明らかになる」である。

B1 常同的または反復的な身体の運動、物の使用、または会話
B2 同一性への固執、習慣への頑ななこだわり、または言語的、非言語的な儀式的行動様式
B3 強度または対象において異常なほど、きわめて限定され執着する興味
B4 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ、または環境の感覚的側面に対する並外れた興味

(「常同的」は“stereotyped”の訳で「固定化した」という意味。)

まず、理解してほしいのは、自閉スペクトラム症の人に、上の4つすべての行動パターンがみられると言っているのではない。自閉スペクトラム症にも、症状の違いがある、と言っているのである。

自閉スペクトラム症になぜ、このBがあるのか、私は、納得いかない。じつは、B1、B2、B3の行動は、脳に負担をかけまいとする行為で、他のメンタル不調(たとえば知的能力障害やうつ)でも、正常の人でも現れる行為である。B4も誰にでもあるもので、特に脳が疲れているときに起きる症状である。

私自身、B1、B2、B3、B4のすべてがあてはまる。私は脳の節約を考え、だいじだと思う対象以外には、固定化したパターンを繰り返してきた。私は自閉スペクトラム症だろうか。

それゆえ、自閉スペクトラム症の共通の根っこは、基準Aではないかと思いたい。

基準A は、「複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥があり、現時点または病歴によって、以下により明らかになる」である。

ここで、「複数の状況で」は“across multiple contexts”の訳で、“contexts”とは「前後関係がだいじな状況」という意味である。
「対人的相互反応」は “social interaction”の訳である。「対人的」が “social”の訳だということは、「ヒトとの社交的なかかわり」をも意味している。

A1 相互の対人的-情緒的関係の欠落
A2 対人的相互反応で非言語的コミュニケーションを用いることの欠陥
A3 人間関係を発展させ、維持し、それを理解することの欠陥

「診断的特徴」でA1を「他者とかかわり、考えや感情を共有する能力の欠陥」とDSM-5は言い換えている。「情動の共有も欠如しており、他者の行動を模倣することは少ない」「なにか言語が存在するとき、それはしばしば一方的で、対人的相互性を欠き、意見を言う、感情を共有する、会話をかわすなどというよりはむしろ、要求する、分類することに用いられる。」
(「なにか言語が存在するとき」は “What language exists”の訳で、「言語がなんであれ」の意味ではないか、と思う。)

この説明はわかりやすい。A1は人間味がないと悪口を言っているのだ。しかし、他者に流されないとも言える。A1の特性は良い面と悪い面があるのだ。したがって、A1を病的というより個性といったほうが良い。

「診断的特徴」を読むと、A2はA1と対応しており、A1の身体的現れである。「他者と関心を共有するために対象を指さしたり、見せたり、持ってきたりすることの欠如、あるいは他者の指さしや注視の先を追うことの欠陥などで示される共同注意の障害」。

A3は「年齢、性別、および文化的な基準に照らし合わせて判定されるべき」と「診断的特徴」に書かれている。ここで挙げられている説明には同意できないものが多い。A1、A2からすると、「人間に興味がない」がくるべきように感ずる。

再度まとめると、基準Aは、極端な行動をとらないかぎり、個性として許容することができるものである。だとすれば、現在、自閉スペクトラム症と診断される子どもが多すぎるのではないか。

他人が指差している方向を見るような人が多いと、新型コロナ騒ぎのように簡単にパニックにおちいり、東京に職があるというと、みんなが東京に押し寄せ一極集中が起きる。社会は、他人に同調しない変わり者を必要としていると思う。

アレン・フランセスのDSM-5への警告『〈正常〉を救え』

2020-06-30 18:21:44 | こころの病(やまい)
 
アレン・フランセスは、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-IVの作成委員長である。その彼が、『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(講談社)のなかで、精神医学では診断名に流行があり、また、正常と病気との境目があいまいである、と指摘している。原題は“Saving Normal”である。
 
〈19世紀末に、「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」の診断が精神科医の間で流行したが、いまは、それらみんなはどこかにいってしまった。そのかわり、「注意欠如・多動症(ADHD)」「自閉スペクトラム症」「双極性障害」の診断がいま流行している〉
 
「神経衰弱」はノイローゼや神経症ともいわれ、「ヒステリー」と同じく日常語になっている。別に確たる意味がなく、相手や自分を揶揄する言葉として使われる。私が子どものとき、母が怒ると、兄は母に向かって「ヒステリー」とはやし立てていた。
 
19世紀に起源をもつ近代医学は、病気では何か人体の器官に異常が見いだされるという信念にもとづいていた。さらに、ロベルト・コッホは、1876年に炭疽菌、1882年に結核菌、1883年にコレラ菌を発見し、病気とは細菌に感染することとなった。
 
もともと、病気は体の不調を訴えることで、確認されるものであった。ところが、体のこの部分に異常が生じているとか、この細菌、あのウイルスに感染しているとかから、病気と診断されることになった。診断手段の進歩である。
 
私の場合でいうと、息切れがする、ということで病院を訪れた段階で「病気の疑い」、CT検査で心臓血管を撮影すると冠動脈疾患という「病気」が確定した。
 
新型コロナ騒動の場合、本人が体の不調を訴えなくても、症状がなくても、PCR検査で新型コロナウイルスが発見されれば、感染、すなわち、病人として隔離される。
 
しかし、メンタル不調の場合は、本人が苦しいと訴えることで、または周りが困っていると訴えることで「病気の疑い」とされ、「診療」が始まる。
 
もちろん、DSM-5に「メンタル不調(mental disorder)」の定義がいちおう与えられている。
 
〈精神疾患(mental disorder)とは、精神機能の基盤となる心理学的、生物学的、または発達過程の機能障害によってもたらされた、個人的認知、情動制御、または行動における臨床的に意味のある障害によって特徴づけられる症候群である。精神疾患は通常、社会的、職業的、または他の重要な活動における著しい苦痛または機能低下と関連する。〉(『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』(医学書院))
 
漢字がつらなり、何か意味あるように感じられるかもしれないが、「心理学的、生物学的、または発達過程の機能障害」の部分は単なる枕詞で、CT検査などで見えるものではなく、各学派が病因の仮説をもっているよ、という程度のもので、確たるものではない。
 
「臨床的に意味のある障害」とは、英語の“clinically significant disturbance”を訳したものである。“disturbance”は “disorder”に近く、「困ったもんだ」というニュアンスの語である。診療医師が本当に困ったもんだと思う症候群が、“mental disorder”である。
 
症候群は“syndrome”の訳で、徴候(signs)と症状(symptoms)にもとづくひとつのカテゴリーという意味である。
 
多数のヒトたち、子どもたちを見ていると、確かに変わっているというケースに出あう。これは、平均的なヒトから、平均的な子どもから、大きく外れていることをいう。大きく外れているとは、確かに感覚的にわかる。しかし、優秀なヒトや子どもをみても、ふつうは病気とはいわない。脳の機能に欠陥がある病気だという場合には、価値観がかかわっている。
 
だから、「正常」「病気」ということには、もともと、怪しげなところがある。したがって、本人が苦しいと訴えることで、または周りが困っていると訴えることで「病気」とするしかなく、「治療」とは、頼られた者が訴える人のために何かしてあげる行為となる。
 
また、診断名にも無理がある。平均から外れるにはいろいろな方向がある。ヒトがヒトして生きていくには多数の心的知的機能を用いている。これらの不調を、グループ化して診断名を与えることは無理で、もしかしたら無意味なことをしているかもしれない。偏見や差別を強めているだけかもしれない。
 
しかも診断名と治療法が結びつくわけでもない。
 
「発達障害」の場合は本人の認識と周りの認識が違う場合が多い。親が子を「発達障害」と思い込むと、子の成長に気づかない場合がある。親の期待過剰の場合がある。
 
アレン・フランセスは、DSM-IVに「アスペルガー障害」を載せたことが、「自閉スペクトラム症」をはやらせてしまった、と後悔している。他の精神疾患と比べ、特に正常と病気との境があいまいであるという。精神科医による診断のばらつきがどうしても出てしまうという。
 
私は「自閉スペクトラム症」も疑っている。子どもの1%以上が「自閉スペクトラム症」だということが信じられない。ある人は3%ともいう。
 
子どもの権利が無視され、「集団主義」の価値が尊重され、「同調圧力」に屈するのが良い子とされる日本では、その価値観から「正常」「病気」の境界が作られるのでは、と私は心配する。実際には「知的能力障害(Intellectual Disabilities)」のほうが多いのではないか。「発達障害」の早期診断よりも、「知的能力障害」があっても、プライドをもって楽しく生きていける社会を作ることが、だいじではないか、と私は思う。

精神科医ジョエル・パリス教授のDSM-5批判

2020-06-29 14:45:19 | こころの病(やまい)

私は、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5をいまも愛用している。そして、使うにあたって、ジョエル・パリスの『DSM-5をつかうということ その可能性と限界』(メディカル・サイエンス・インターナショナル)が参考になった。この原題は、”The Intelligent Clinician's Guide to the DSM-5®”である。

ジョエル・パリスは、現在の精神医療の診断カテゴリーは、病理によるのではなく、あくまで、徴候(signs)と症状(symptoms)の観察にもとづく症候群(syndomes)なので、どうしても、併存症が多くなったり、また、正常なのか病気なのかの境目があいまいになったりする、と指摘する。そのため、診断基準そのものが、外部からの圧力を受けやすくなっているという。

ここで、徴候とは客観的な身体的変化のことで、症状とは主観的な不調のことである。私のように子どもを相手にしていると、子どもが自分の不調を訴えることはめずらしく、多くは保護者側からの訴えである。保護者側からの訴えが的を射ていると限らない。DSM-5では、持続的する心的不調(mental disorders)を病気と考えている。そのため、保護者の正確な訴えが大事だが、子どもの「ときおり」のパニックでも、いっぱい いっぱいの母親にとっては「毎日毎日」のことになる。

ジョエル・パリスの言う外部からの圧力とは、患者団体や医薬業界からである。保険業界が取り上げられていない。レイチェル・クーパーのいうように、保険業界からは、心的不調の患者を増やすなという圧力があるはずだと私は思っている。ネットではDSM-IVの改訂の大きな理由のひとつは、心的不調の患者の急激な増大といわれている。

ジョエル・パリスは患者団体の圧力の例として、DSM-5で自閉症とアスペルガー症とを合わせて自閉スペクトラム症としたときのことを書いている。診断基準の境界域にいる患者の家族が、高額な治療と特別な学校教育の費用がなくなることを心配し、また、アスペルガー症がスティグマ(刻印による社会的差別)を伴う自閉症と一緒に扱われることをいやがったという。これは医学的な問題ではなく、社会的政治的問題である。

私自身もDSM-IVのアスペルガー症や高機能広汎性発達障害の存在は疑わしいと思っている。スケジュールを立てられない、提出物のスケジュールを守れない大学生を「発達障害」のせいにするのは、社会的偏見をより強めるだけだ、と私は思う。

ジョエル・パリスが「自閉症は遺伝性で脳機能の障害に起因することが知られるようになった」と書くが、遺伝子が特定されていなく、また、脳機能のメカニズムが解明されていない現段階で、この主張は言いすぎだと思う。「自閉症の一部には遺伝性で脳機能の障害に起因すると思われるものもある」とすべきではないか。

ジョエル・パリスの主張で最も重要なのは医薬品の使用に関するものである。心的不調の重度なものには薬が確かに効くが、軽度や中度なものはブラセボ(偽薬)と同程度の効果しかないという。そして、軽度や中度のものは自然になおったりもするという。同じ事実は医療哲学者のレイチェル・クーパーも精神科医の斎藤環も指摘している。
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私は、中学2年のときにウツになった不登校の高校生をNPOで指導したが、20歳になった彼はいまだに薬を飲んでいる。朝、寝床から出られない、気力がなんとなく湧いてこないという、斎藤環のいうところの「社会的ウツ」である。いくら長くウツの薬を飲んでいてもそれだけでは回復するはずがない。

はじめ、彼の話を聞いても、ウツや不登校の背景に、深刻ないじめがあったように思えなかった。何年かたって気づいたが、プライドが高く、同級生による いじめがあったことを認めることができない、ということに気づいた。

本人の訴えを言葉どおりそのまま信じてはならない。また、深刻に見えなくても、希死の思いを秘めている。プライドのため、本当の自分を見せないよう、演技する。したがって、この子は人間関係が長つづきしない。相手が本当の自分のことを気づく前に、逃げるのである。

気になったのは、両親や先生に強い不信感があり、適切な人間関係がもてないことだった。母親と会うと、しんぼう強く聡明なタイプであった。中学・高校の数学を教えながら、哲学、宗教、言語学、論理学の話しをしながら、それとなく母親のことをほめていたら、母親とは会話するようになった。いまは、家族が生きる支えになっている、と彼は私に言う。

新型コロナ騒動の間に、彼は かかりつけの精神科医を変えたとのことで、今度の医師が自分の話を聞いてくれると言う。今度こそ、うまくいくと いいのだが、と祈っている。
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ジョエル・パリスの”The Intelligent Clinician's Guide to the DSM-5®”の第2版が2015年3月オックスフォード大学から出版された。日本語訳の『DSM-5をつかうということ その可能性と限界』は、第1版に基づいている。第1版は、DSM-5の正式出版前に書かれた、すなわち、DSM-5の草稿に基づいている。

第2版は、2章増え、DSM-5出版後の精神医学会の反応も書かれている。第1版の日本語訳に質の問題があるので、この際、第2版に合わせて改訳したら、どうだろうか。面白い本なのでもったいない。

レイチェルが米国精神医学会診断マニュアルDSM-5を診断する

2020-06-28 21:34:46 | こころの病(やまい)
レイチェル・クーパー

横浜市立図書館では、英文学書が原文で手に入る。例えば、J. D. サリンジャーやカズオ・イシグロが原書で読める。すばらしいことだ。

いっぽう、日本語でも、政治、哲学、医学となると、図書館にそろっていない。1か月前、朝日新聞の書評にあった『鉄筆とビラ』(同時代社)は今、他の市の図書館から取り寄せ中である。

きょう紹介したいのは、レイチェル・クーパーの『DSM-5を診断する』(日本評論社)と『精神医学の科学哲学』(名古屋大学出版会)である。これも横浜市の図書館が購入していないので、他の市の図書館から取り寄せて読んだ。
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ここでDSMとは、米国精神医学学会(APA)が出版している『精神疾患の診断・統計マニュアル』のことである。DSM-5 は、2013年5月に出版された最新版である。DSMはおよそ15年ごとに大きく改訂されている。

1980年のDSM-IIIで、初めて、mental diseasesという用語をmental disordersに改めた。この影響か、日本精神神経学会は2004年に「精神分裂病」を「統合失調症」と名前を改めている。

レイチェルによれば、DSM-IIIで大きな改革が行われた最大の理由は、当時のアメリカでの、精神分析への不信の爆発だという。同じ患者が、精神科医によって、異なる診断名を受けると、メディアは批判した。

米国精神医学学会は、DSM-IIIから、診断アルゴリズムをいれ、診断の客観性をもたすようにした。

そして、大事なことだが、米国精神医学学会はワーキング・グループをいくつも立ち上げ、数年かけて診断基準の公開の討議を行い、さらに1年かけて、異なる精神科医の診断がこのDSM-III診断基準で一致するか検証した。

さらに、DSM-III は、「証明されていない理論的な前提を用いない、純粋に記述的な分類となることを追求し」た。理論とは仮説にすぎない。異なるパラダイムに立つ、精神分析的思考の精神科医と生物学的思考の精神科医とが対話できるよう、理論(仮説)に捕らわれない分類(診断)を作ることができた、ともいわれる。

しかし、レイチェルは、実際には、多くの利害団体の格闘する場にDSM改定作業がなったという。保険業界、薬品業界、患者団体などが、DSMの改訂に影響を与えるようになったという。分類(診断)を増やすことは、薬品業界にとって新しい薬を開発し売る機会を増やすことになり、売り上げが増える。保険業界にとっては逆にサービス出費を増やし利益が減る。米国の保険会社は、DSMに記載されたmental disordersにのみ、支払いをするからだ。

したがって、改定作業にお金と時間がかかるようになり、今後も15年のペースで改定できるか、危ぶまれている。

レイチェルによれば、「アスペルガー症」はDSM-IVで初めて はいったが、患者の親たちは、この新しい診断名と保険会社のサービスが気にいり、患者数が急激に増加した。日本でも、うちの子は「アスペルガー」ですという親が出てきた。

2008年のウィリアムズらの研究によれば、「アスペルガー症」の診断を受けた子どもの大半は実際にはDSM-IVにおける診断基準を満たしていなかった。つまり、臨床現場(clinic)で医師と患者とが組んで新しい精神疾患が作られたことになる。

そして改訂にあたり、DSM-5から「アスペルガー症」を削除しようしたが、親たちが激しく抵抗した。そのため、DSM-5の自閉症スペクトラム症の診断基準に、
〈DSM-IVで自閉性障害、アスペルガー障害、または特定不能の広汎性発達障害の診断が十分に確定しているものには、自閉スペクトラム症の診断が下される。〉
という変な注が加えられた。これによって、学会は「アスペルガー症」を削除でき、「アスペルガー症」の子を持つ親が今まで通りの保険金を受けとれた。

とにかく、DSM-5では「アスペルガー症」という診断名はない。

レイチェルは、さらに、DSMが症状から診断名を与えることに医学会が専念するあまり、本質的な原因にさかのぼって考えることをやめ、患者に差別的烙印を押すことになっている、と警告する。まったく、同感である。

レイチェルは、注意欠如多動症(ADHD)の診断は、すべての責任を子どもにおしつける、と言う。もしかしたら、子どもたちが授業を妨害するのは、教師の教え方が退屈なのかもしれない。いや、小さな子どもは閉じ込められて算数をして日々を過ごすのにそもそも向いていないのかもしれない。単なる行儀の悪さの問題かもしれない。現代の養育スタイルがどこか不適切なのかもしれない。

しかし、ADHDの診断は、現場から、これらの可能性をしりぞけ、授業妨害の原因は子どもの脳の疾患とする。その結果、薬物療法が解決策とされ、教師や両親は悩む必要がなく、薬品会社の売り上げだけが増える。しかし、薬が使われすぎて副作用を生じるかもしれないし、その診断を受けた子どもの「人生上の好機」が減ってしまうこともありえる。

レイチェルのこれらの指摘は、現実に日本にも起きている、と私は思う。個別支援級が子どもたちの「人生上の好機」を取り除く差別的烙印になっている、と心配する。ゆっくりと学ぶ子どもたちがいてよい、と私は思う。