猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

文系の思考法と理系の思考法

2021-01-23 23:41:12 | 脳とニューロンとコンピュータ
 
理系の私には、加藤陽子の本を読むのに、ずいぶん忍耐が必要だった。それは、思考の過程が理系と文系とは根本的に違うからではないか、と思う。
 
私が思うに、加藤陽子の場合は、たくさんの事実が脳内に記憶として蓄えられ、何か問題が投げつけられたとき、それぞれの記憶がいろいろな思いを活性化し、それらの思いの多数決から、なにかしらの判断が出てくるのだと思う。そのために、彼女の本や講義では、一見、関連がないような多数の歴史的事柄や色々の人の考えが、のべられる。それによって、読み手や聞き手が、多くの知識を彼女と共有することで、彼女の結論する判断を共有できる。
 
加藤陽子は、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)で、面白い例を挙げていた。それは、日米開戦の直前に、東条英機がつくらせた、日米戦争はどのように終了するか、というシナリオである。
 
(1)戦争していたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させる。
(2)ソ連との戦争を中止したドイツの戦力をイギリス戦に集中させる。
(3)ドイツの集中した戦力でイギリスを屈服させる。
(4)イギリスが屈服することで、アメリカ国民の戦争を続けるの意欲が薄れる。
(5)戦争を続ける意欲が薄れると、戦争が終わる。
 
筋道を立てて論じているが、論理ではない。あくまで希望的なシナリオである。それぞれのステップが妥当である確率を例えば1%とすれば、戦争が終わる確率は0.00000001%となる。戦争が終わる可能性はほとんどないといってよい。いっぽう、私は、終わらない戦争を見たことも聞いたこともない。
 
辞書的に言えば、筋道を立てて考えることが「論理」であるが、各ステップが信頼できるものでなければ、筋道を立てても、結論は信用できない。逆に論理的でなくても、多数の起きた事柄や事実や多数の人の意見をごっちゃまぜにし、なんとなく出てきた判断のほうが、信頼できる場合が多いように思う。
 
これは、数学の論証とまったく異なる。そして、政治的決断には加藤陽子のような脳内多数決思考法の方が向いているように思う。
 
ただ理系の人間にとって、そうすることの負担は大きい。一言で言えば、理系の人間は記憶力が弱いので、加藤陽子が挙げる雑多な知識は、目から入ってきても、次々と忘れてしまう。脳内にとどまらない。
 
数学では、論じていることを記号列として紙に書く。紙に書かれた記号列に操作を加える。ここで試行錯誤を繰り返し、望ましい記号列にたどり着く。すなわち、情報を、脳の外にとりだし、具体的で操作可能なものとすることで、脳の負担を減らしている。
 
理系の人間が扱っている対象は、文系より単純だから、これができる。アインシュタインの脳は、普通の人より小さかったが、理系の学問に向かったから、成功できた。
 
加藤陽子のような思考方法の重要性を認めるが、正直言って、記憶力の悪い私がそれをまねるのは容易ではない。
 
[追記]
よく考えてみると、加藤陽子のような多数決型の思考法は、他者から見ると思考の結果が正しいかどうかの判断がむずかしくなる。論理的な思考法、筋道を立てた話には、間違いを見つけやすく、反論もできる。
これは、コンピューターのAIによる判断に通じる問題である。AIの判断は、学習の結果、そうなったというだけで、それ以外、どうして、そう判断するのかを説明しようがない。
筋道を立てて話すことも大事なのではないか。

きょうは井上陽水のアルバムを聞き、加藤陽子の本を読む

2021-01-11 22:38:32 | 脳とニューロンとコンピュータ


きょうは、井上陽水のアルバム『氷の世界』を、加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読みながら、聞く。

今日の夕方、新型コロナの解説する晴恵おばさんを見て、そういえば、井上陽水が『晴恵おばさん』という歌を歌っていたというのを思い出し、20年以上も前のCDアルバムを引っ張り出し、それ以上に古いステレオにかけた。

しばらく前にみたときは、晴恵おばさんは、痩せて、そのうえ、目の上を茶色に塗っていたので、幽霊か病人のように見えた。きょうは、眼鏡をつけていて、いつもの晴恵おばさんだ。

井上陽水の歌は『晴恵おばさん』でなかった。
  ☆   ☆   ☆
 風は冷たい北風
 早くおばさんの家で
 子猫を膝にのせ、いつもののおばさんの
 昔話を聞きたいな
 小春おばさん会いに行くよ
 明日必ず会いに行くよ
  ☆   ☆   ☆
『小春おばさん』だった。

井上陽水の歌詞は斬新だな、思ってアルバムを聞き続けた。
  ☆   ☆   ☆
まっ白い掃除機をながめては飽きもせず
かと言って触れもせず、そんなふうに君のまわりで
僕の1日が過ぎてゆく
  ☆   ☆   ☆
あとで歌詞をみたら、「掃除機」でなく、「陶磁器」であった。私がNPOで中学から担当している知的障害の子は、新幹線などの乗り物よりも、掃除機などの家庭用品に興味をもつ。「掃除機」をテーマとする童話がほしいと思っていたから、そう聞こえたのだろう。

加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、最初のうちは連想ゲームをやっているように、話しがつぎからつぎへと飛ぶ。人間の歴史や人間の脳とは、論理的なものではないからだろう。面白いが、頭が混乱してくる。後半の4章、5章で話がようやく集約してくる。

私は、人間の脳は、コンピューターと違い、論理的にものを考えることが苦手にできていると思う。囲碁とか将棋のAIソフトは、論理的に勝ちを探すステップと統計的に判断するステップと切り替える戦略をとっている。人間の脳は自分の経験をもとに統計的に判断するようにできている。外からの刺激で、脳の中を興奮が四方八方に広がり、記憶の断片を活性化することで、結果的に多数決を行い、統計的な判断を下す。人間は連想によって判断するとも言える。

考えるのは人間だけでなく、カラスでもアライグマでも考える。考えるとは試行錯誤をすることである。試行錯誤の結果 得た筋道は手続きとして記憶される。これが論理と見なされる。誤解されるといった方がよいかもしれない。

加藤陽子によれば、1941年9月6日の御前会議で、日本が米国に開戦すべき理由として、1614年の大阪冬の陣の和平交渉をひきあいにだし、日米交渉を妥結すると、より戦争で勝てない状況に追い込まれると、軍令部総長が天皇に説明した。

1941年11月15日に、海軍が真珠湾攻撃を含んだ作戦計画を天皇に説明するに、1560年の織田信長の奇襲攻撃、桶狭間の戦いを例に引いた。

これらの戦争の記憶(伝承)が、現在行おうという戦争の論理的裏付けになると思えない。人間の統計的判断を逆に狂わす要因になる。

どうして言葉を理解でき、言葉を話せるのか、『言語の起源』

2021-01-04 00:19:59 | 脳とニューロンとコンピュータ


1週間前に、ダニエル・L・エヴェレットの『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白揚社)を読み始めたが、むずかしすぎて、いま、読むのをやめている。つぎの人が待っているから1週間後に図書館にその本を返さないといけない。無理をして、これから読むしかない。

私は、発語か大変な子どもとか、どもりの子とか、ディスレクシアの子とか、自閉スペクトラム症の子とNPOでつきあっている。したがって、「言語とは何か」でなく、「どうして言葉を話せるのか」に私は興味をもっている。

私は、NPOで働く前は、定年になるまでITの会社の研究所にいた。だから、人間の脳とコンピューターとの違いには敏感である。ITの研究所で行っているAI(Artificial Intelligent)は、あくまで外から見れば、コンピュータ―が人間であるかのような知的な活動をして見せることである。コンピューターと人間の脳との稼働原理はまったく異なる。

1.コンピューターは言葉をビット列で処理するが、人間の脳にはビット列というものが存在しない。人間の脳で行われているのは、興奮の四方八方への伝達である。すなわち、興奮があるか否かである。
2.コンピューターにはアドレスでビット列がいつでも取り出せる記憶装置があるが、人間の脳にはそのような記憶装置がない。アドレスで記憶を取り出せないのである。

 

人間の脳は神経細胞(ニューロン)の集まりからできている。1つの神経細胞は、細胞体と一本の軸索と多数の樹状突起からできている。

軸索上の興奮は、細胞体から軸先の先端に一方向に、電圧の変化として伝わる。軸索は他の神経細胞の樹状突起と接していて、シナプス結合という。結合といっても10から20ナノメートルの隙間がある。原子が数十から百個ならぶ距離である。軸索上の興奮は、シナプス結合部で伝達化学物質を放出させ、樹状突起がそれを受け取ることで興奮が伝わる。

軸索上を興奮が走ることを発火という。樹状突起が伝達化学物質を受けとっても、受け取り側の神経細胞が発火するとは限らない。確率的現象と捉えてよい。確実に興奮を伝えるためには、2つの神経細胞間に いくつものシナプス結合を作ればよい。

また、複数の神経細胞から同時に興奮を受け取れば、発火の確率が高まる。軸索のシナプス結合から放出される化学物質によっては、受け取り側の発火を抑える。このことは、複数の神経細胞から同時に化学物質を受け取れば、興奮の演算が行われること意味する。

このように、神経細胞の集団は興奮を伝える回路を作っており、神経細胞の1つ1つはコンピューターの演算素子に当たると言える。1つの神経細胞がもつシナプス結合の数は数千から数万といわれる。コンピューターと異なり、脳は非常に複雑な回路を作っている。

神経細胞をもつ生物、人間などの長期記憶は、シナプス結合で作られる回路を書き換えることでなされる。人間の脳の回路は書きかえ可能であるが、コンピューターの回路は書きかえできない。コンピューターは、電気をためる素子(コンデンサー)の集まりで、内部にビット列を保管する。これを記憶装置と呼ぶ。

ここまでくると、つぎの疑問がわく。異なる神経細胞から同時に興奮を受け取らないと、神経細胞は演算素子として機能しない。どうして、それが可能なのか。

脊椎動物では、爬虫類の脳といわれる大脳基底核の神経細胞が、脳での時計の役割を果たし、同時性に寄与している。これらの神経細胞が、他からの刺激がなくても、一定のリズムで、自律的に発火する。これらが大脳皮質の神経細胞の発火を制御している。

それでも、脳の中にビット列が存在しないのに、どうやって情報処理をしているのか、という疑問がわく。感覚器官からきた1つの興奮が脳全体に広がり、時間差をおいてきた次の興奮、あるいは別の感覚器官からきた興奮の広がりと広域に演算を行うことで、脳の情報処理が行われる。すなわち、興奮が四方八方に広がることで、ビット列の代わりをしている。このためには、興奮を神経細胞の局所的集団で持続させるメカニズムが必要となる。

このように考えると、人間の言語理解の機構は、音声と書物とは異なるのではないか、と思う。ここで、エヴェレットの議論についていけなくなる。文法の議論は、書物の言語の世界である。文法の議論は、「どうして言葉を話せるのか」や「どうして言葉を理解できるか」に答えてくれない。再帰構造にしろ、階層構造にしろ、コンピューターの言語処理に意味があるかもしれないが、生身の人間が脳の中でやっていることと関係しない。

人間は過去の長期記憶(脳の回路)にもとづいて理解していくが、脳に入力された刺激はつぎとつぎと脳の中で興奮として広がり、その興奮の広がり同士が干渉しあって、言葉を理解していくのではと思う。すると単語はつぎの単語の解釈に、あるいは、それ飛び越えて後にくる単語の解釈に影響していくのであって、再帰とか階層とかとはまったく関係ない世界ではないかと私は思う。

人間は、書くという手段を獲得して、はじめて、論理的思考ができるようになったのだ、と私は思っている。だから、書いて自省しない限り、人間は論理的思考はできないとも、思っている。

[関連ブログ]




ダニエル・エヴェレットの驚くべき世界『言語の起源』

2020-12-28 23:27:29 | 脳とニューロンとコンピュータ


私は、NPOで発語ができない子どもたちを担当してから、人間はどうして言葉を話せるのかを不思議に思うようになった。もちろん、話せないのは子どもたちだけでなく、私も、私の妻も、老いのせいか、言葉が出なくなっている。

ずっと私が不思議に思ってきたのは、コンピューターは言葉をビット列で処理するが、人間の脳にはビット列というものが存在しない。人間の脳で行われているのは、興奮の四方八方への伝達である。すなわち、興奮があるか否かである。しかも、コンピューターにはアドレスでビット列がいつでも取り出せる記憶装置があるが、人間の脳にはそのような記憶装置がない。

9月5日の朝日新聞で、ダニエル・L・エヴェレットの『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白揚社)を読み、早速、図書館に予約した。3ヵ月と20日以上もかかって、おととい、ようやく、本が届いた。読むと画期的な内容である。

私の疑問を解くものではないが、私が怪しいと思っていた従来の脳の言語処理の学説を、明確に否定している。すなわち、私たちは、まだ、脳の中の言語処理を解明できていないのだ。これまでの学説は、コンピューター処理に影響されて推察しただけの、でたらめだったのだ。

エヴェレットは『言語の起源』で、ヒトの言語獲得は突然のものではなく、長い進化の過程で少しずつ獲得してきたものだと考える。遺伝子は脳の基本的構造を定めるが、脳の機能は学習によって発達する。学習とは、外的刺激によって、脳の神経細胞の結びつき(配線)が作られ、変更されることである。

彼は序でつぎのように語っている。

〈 遠い過去のことはいざ知らず、現在、世界中の誰もが理解できる普遍的な人間の言語は存在しない。〉

これは、ノーム・チョムスキーの普遍文法あるいは生成文法の否定を宣言している。

いまから、40年前、私がいた職場で機械翻訳を研究していた。チョムスキーに触発され、対象とする言語の文を二分岐の木構造に分解し、それを別の言語の二分岐の変更し、自動的に翻訳しようとするものだった。これが、うまくいかない。例外処理をどんどん持ち込まないと実用に耐える機械翻訳にならない。

チョムスキーの普遍文法は、人工的言語、プログラミング言語と相性がよく、コンパイラーの設計に向いているが、自然言語には無力なのである。文法的アプローチよりも、確率的なアプローチのほうが適しており、もとのテキストと人間が翻訳したテキストを学習させるアプローチのほうが良いのである。

研究所では自動音声認識もやっていたが、ここでも、文法より、確率的アプローチのほうが品質の良い音声認識が得られた。

第6章の「脳はいかにして言語を可能にするか」でも、従来の言語処理専用の局所的脳領域の存在を否定している。

〈脳には言語に固有の領域があって、ウェルニッケ野やブローカ野などがそれに相当する言う主張も多いが、そのようなものは存在しない。〉

これは、30年ほど前から、外から刺激に脳がどう反応しているかの動画がとれるようになったからである。もちろん、神経細胞の1つ1つがわかる解像度ではないが、脳が局所的に処理しているというより、興奮が脳全体に広がって処理されていることがわかってきたからである。

「ウェルニッケ野」や「ブローカ野」は、100年以上前のコルビニアン・ブロードマンによる大脳新皮質の解剖学・細胞構築学的区分の一員である。エヴェレットは、「ウェルニッケ野」や「ブローカ野」は言語処理に特化していないと言う。

脳の機能が、古典的脳科学で、解剖学的区分と関連づけられたのは、脳の損傷によって、特定の脳の機能が失われるという経験に基づく。しかし、脳の機能がいろいろな部分を興奮が走って実行されるとすると、その途中の損傷でも機能が損なわれるので、古典的脳科学を見直す必要があると前から私は思っていた。

私は、脳というものを、外的刺激のセンサー(感覚器官)と運動のアクチェーター(運動器官)とを結ぶ神経回路の最も密集している部分と理解している。

エヴェレットは、それだけでなく、ブロードマンによる解剖学的区分自体不明確だと言う。

〈さらにややこしいのは、人間の脳はすべてその人限りのものであり、回や溝のパターンがまったく同じ脳は2つとしてないことだ。〉

「回」は、大脳皮質を外から見たときの膨らんでいる部分で、「溝」はへこんでいる部分である。大脳皮質は神経細胞からなる1.5~4.0mmほどの層で、しわくちゃになってヒトの頭蓋骨に押し込まれている。

エヴェレットは言語処理で大脳基底核に注目しているが、私は大脳基底核から大脳皮質に行く神経線維は広い範囲の神経細胞の興奮を抑えたり、強めたりするもので、どちらかというと、処理の制御に関わっているように見え、処理そのものではないと思う。

とにかく、エヴェレットのこの著作は、驚くべき仮説を提唱しており、検討に値する。

伊藤亜紗の『どもる体』と『記憶する体』

2020-07-19 21:47:55 | 脳とニューロンとコンピュータ

きょう、昼に散歩していたら、親が子に向かって「話したら負けよ」と言っている親子とすれ違った。そのとき、「だるまさん、だるまさん、にらめっこしよう。笑ったら負けよ」という子どものときの遊びを思い出した。これは、「笑う」という情動を意識すればするほど、その情動を意識が制御できないことを利用した遊びである。

伊藤亜紗の『どもる体』(医学書院)が扱っている問題は、人間の脳のなかに、自分がコントロールできない自分がいるということだった。どもりを直そうとすると、自分が自分でなくなるという、どもる当事者たちの率直な話を書いていた。

私は、最近、統一された「自己」というものはないと思うようになった。笑う自分も、笑うまいとする自分も、自己。どもる自分も、どもるまいとする自分も、自己。いろんな自分が争わなければ、悩むこともない。

笑うまいとする自分、どもりを直そうとする自分は、対人関係のなかで生じた自分である。対人関係のなかで生じた自分は、言葉で自分を分析し、脳のなかにたくさんいる自分を言葉でコントロールしようする。そんなことができるはずがない。

伊藤亜紗は、『記憶する体』(春秋社)のエピソード10「吃音のフラッシュバック」で、どもらずに話せるようになった「柳川太希さん」が、どもる他の人を見たくないと言う。どもっていたときのトラウマがフラッシュバックするからだと言う。

このようなことをも「トラウマ」というのかと思うが、嫌な思い出は、しっかりと、人間の脳のなかで長期記憶になっている。長期記憶は削除できない。思い出さないようにするしかない。

もちろん、トラウマをもっている人に向かって、思い出すなと言っても無駄であるし、ますます、嫌な思い出を意識するようにさせる。「思い出すな」と絶対に言ってはならない。

「柳川さん」は、昔、保育園で、みんなの前で立って話すように仕向けられたとき、「発作みたいな感じで動機が激しくなって」しゃべれなくなったという。

自己主張をみんなの前ですることは、競争社会で勝ち抜くために有用かもしれないが、それが別に正しい生き方ではない。勝たなくても生きていける。

保育園によっては、「みんなの前で立って話す」ことが、個性を育てる教育で、名門幼稚園や名門小学校の「お受験」に役立つと考えている。間違っている、間違っている、許さないぞ。それは支配―被支配の構造を固定化させる行為だ。

「柳川さん」のトラウマは、思い出したとき、当時の保育園の園長や保育士はグズだったと思うことで、ダメージを弱めることができる。

対人関係のなかで生じた「自分」のなかには、現実社会の掟を維持しようとする保守的監視人が内在化した「自分」がある。監視人の「自分」は、ほかの多くの「自分」を劣っていると非難する。そういう監視人の「自分」にみずから気づき、それを排除する」と、人は楽になれる。

人は言葉を使うようになったばかりに、言葉を通じて、他人が、社会の掟が、脳のなかに監視人や命令者として入ってくる。

どもらずに話せるようになるため、「柳川さん」は非常に苦労したのであろう。コントロールできない自分とコントロールしたい自分とが妥協したのであろう。いまにも壊れそうな妥協であるから、どもる他人を見れないのだろう。

どもることは悪くない、どもることは悪くない、と心から納得できるまで、コントロールされる自分とコントロールしたい自分との休戦の不安定は続くと思う。