猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

伊藤亜紗の『記憶する体』、普遍性より個別性、個人の豊かな心的世界

2020-07-18 22:30:00 | 脳とニューロンとコンピュータ


昨年の暮れ、新聞の書評で伊藤亜紗の『記憶する体』(春秋社)を知って、図書館に予約して、8カ月、ようやく、きょう、本を手にした。伊藤亜紗のファンがいかに多いかということだ。

「記憶する」とは、脳の神経網の働きである。タイトルに「体」とあるのは、身体的に何かの障害をもった人のことを、伊藤亜紗は書いているからだ。

彼女の特徴は、障害をもった人を書いているのにもかかわらず、暗いところがまったくない。個性として書いている。私には脳科学の話しとも読めるが、脳科学の知見を持ち出さない。あくまで、書かれているのは、生き生きとした個人の感じ方である。

本書のプロローグで、彼女は、つぎのように書く。

〈小説ならば、こうした固有性についてダイレクトに語ることができるでしょう。
ですが、学問となるとそうはいきません。哲学にせよ認知科学にせよ生理学にせよ、科学であるかぎり、普遍性のある合理的な記述を目指します。〉
〈けれども、身体の研究として、それだけでは何だか半分な気がする。〉
〈本書は、この「もやもや」に対して、私なりに答えを出そうとした本です。
そのために選んだのが、「記憶」というテーマでした。〉

「普遍性」でなく、「個別性」を重視した調査研究手法を、文化人類学や社会学において「エスノグラフィー(ethnography)」と言う。伊藤亜紗の行っていることは、まさに、エスノグラフィーである。この手法を私がはじめて知ったのは、中村かれんの『クレイジー・イン・ジャパン(A Disability of the Soul)』(医学書院)である。

「人間」に関する研究では、統計とか理論とか「普遍性」を仮定した研究手法では、欠落する「真理」があると私は思う。

今回の新型コロナウイルスSARS-CoV-2の感染に関しても、エスノグラフィーのアプローチも必要である。定説からものをいう専門家が多いが、定説が適用できない可能性もあり、あくまで、実例を集めることが、SARS-CoV-2固有の感染メカニズムを理解し、適切な感染対策を行うに必要である。

私自身も、昔、理系博士課程で『分子間力の個性』という論文を物理教室に提出し、それまで関わりのない植村泰忠先生に おほめの言葉をいただいた。じつは、深く考えずに「個性」という言葉を使ったのだが、「普遍性」を暗黙のルールとする物理教室で「個性」という言葉を使ったことを先生は高く評価してくれたのだ。いま思うと、「個性」というアプローチは良かったと思う。「普遍性」に縛られると、「自然」の表面的理解に終わってしまう。

人間の脳は、汎用コンピュータと同じく、同じような構造の繰り返しから成り立っている。ブロードマンの脳地図といって、脳の機能を大脳皮質の局所に割り振るが、その大脳皮質は、場所によらず、ほぼ同じような構造をしている。体験を通じて、脳の神経網が個性化していく。

個性化によって、どのように感じ方が人によって違うか、身体の障害をもった人にインタビューすることで、伊藤亜紗はせまっている。そして、身体の障害にかかわらず、人は、それぞれの豊かな世界「記憶する体」をもっていることを、伊藤亜紗は見いだす。

生活していけるなら、障害というのは、多数派からみた偏見である。

脳の神経網でどのような処理が行われているか、考えるうえでも、本書は素晴らしいインスピレーションを与えてくれる。

どもること、音声がこもること、音程とリズムがはずれること

2020-07-04 00:30:23 | 脳とニューロンとコンピュータ

伊藤亜紗の『どもる体』(医学書院)が面白い。
シリーズ「ケアをひらく」の一冊である。
「どもる人」の立場からの「どもること」のルポあるいは研究である。
医学書院がこのような本を出版するなんて、
このようなシリーズを出版するなんて、と私は感激してしまう。

「どもる」は吃音のことである。米国精神医学会の診断マニュアルDMS-5では、「神経発達症群」の中の「コミュニケーション症群」の中の「小児期発症流暢症」(Childhood-Onset Fluency Disorder)である。

実は、小学1年の時、先生か校医が私のことを親に「どもっている」と告げた、と記憶している。
DMS-5には、大人になれば多くの人が治ると書かれている。しかし、伊藤亜紗は、そんな簡単なものではない、と言う。

「どもる」ということは、ある言葉を話そうという意思に反して、体がエラーを起こすことだそうだ。典型的な「どもり」では、最初の子音が連発して出てしまう。「たまご」と言おうと思うと「たったったったったまご」となる。意識して直そうとすると、最初の音が出なくなる。「・まご」となる。これを難発という。これを意識すると、連発や難発がおきる言葉を避け、他の言葉で言い換えしようとする。

大人になって「どもらなくなる」といっても、本人は非常に苦労しているのである。だから、意識して話しているときは「どもらなく」ても、親しい人と話しているときに「どもり」が出てしまう。

脳科学的に見れば、体がエラーを起こすとは、実は脳がエラーを起こすことである。
話すためには、運動神経系が、肺、喉、顎、舌、唇の筋肉を動的に制御しなければならない。

運動神経系は、脳内の多数の神経細胞から伸びる軸索が集まった繊維のことだ。一本一本の軸索は興奮を、収縮命令として、それぞれの筋肉に伝えているだけである。興奮が伝えられると、筋肉は縮むだけで、伸びろの命令がない。体の器官の1つずつに複数の筋肉がついていて、どれかが縮むことで、動くべき方向に動く。

脳(中枢神経系)が、脳内の一群の運動神経細胞の興奮を時間的に制御するという形で、この一連の収縮命令を発する。この複雑な処理を、意識せずに、多くの人がしている。

「体がエラーを起こす」というのは、「意識される脳の部分」が組み立てた「言葉」を、「意識されない脳の部分」が、一連の「運動神経細胞の動的興奮」に変換するのに失敗すること(disorder)だ。

さて、現在の私自身は、「どもっている」との気がしないのである。だから、本当は、学校側から親が何と言われたのか、わからない。

ただ、現在、私が意識しているのは、自分の「発音」が不明瞭であることだ。DSM-5 の「コミュニケーション症群」の中の「語音症」にあたる。教材を読みあげるときは、明瞭に話すことができる。しかし、思ったことをすぐ言おうとすると、「発音」が不明瞭になる。言葉を組み立てることと、明瞭に話すことが、同時にできないのだ。「発音」を明瞭にするためには、顎や舌や唇を意識せざるを得ない。

これは、どもりの人が抱えている問題と同じだ。

私にはさらに音痴という問題を抱えている。頭の中では、聞いた歌や演奏が鳴り響くのに、そのメロディーを口にすると、音程やリズムが制御できなくなる。歌うことが嫌いでないのに、自分の音程とリズムが制御できない。

さらに、私は、これだけでなく、リズム運動の問題も抱えている。フォークダンスが好きだが、動作のテンポがずれてしまう。

ただ、このような困難を抱えていたため、ほかの人の脅威となることはなかった。だから、子ども時代、みんなに好かれた、と本当に思っている。だから、「エラーする体」を恥じない。私はユニークな存在なのだ。

【参考図書】
伊藤亜紗:「どもる体」≪シリーズ ケアをひらく≫、医学書院、2018.06、ISBN978-4-260-03636-8

言葉を理解できることと言葉を話せること、脳とコンピューター

2020-06-25 22:53:17 | 脳とニューロンとコンピュータ

私の下の息子はひきこもっている。自分がうまく話せないから、みんなにいじめられるのだと思いこんでいる。

NPOでいろいろな子どもたちを見ると、発話できない子と発話できる子とがいる。発話できるように指導するのにずいぶん苦労した。

それで、どうしても、言葉とは何か、どうして話せたり話せなかったりするのか、と思ってしまう。このことについて、長く考えてきたが、いまだに、わからない。

私自身も、年老いてきたから、気づいた手がかりも、私の記憶力とともに失ってしまうだろう。まとまりがないが、言葉についての考察を少しずつ、書き留めておきたい。
  ☆     ☆     ☆

まず。言葉をはなすということと、コミュニケーションとを区別しないといけない。

アメリカの精神医学会の最新の診断マニュアルDSM-5は、コミュニケーション障害群で、言葉を話せることと、コミュニケーションができることを区別している。そうしないと、唖(おし)だとコミュニケーションができないことになる。じっさいには、手話や身ぶりや手書き文字で十分なコミュニケーションができる。

10年近く前に、沖縄で、障害者教育を行っている夫婦と会って、色々な話を聞いたが、彼女は耳が聞こえず、私との意思疎通は手書き文字を通じてだった。彼女は,漫画に自分の気持を描いて、社会に聴覚障害者への理解を訴えているという。

私の義兄は、咽頭がんで声帯をとった。胸にホワイトボードをぶら下げ、身ぶりで意思疎通できないときには、ホワイトボードに字を書いて、私とコミュニケーションをとった。

私の担当したダウン症の男の子も、発声するのに気管に障害があり、話しているのだが、何を言っているのか、私にはわからない。しかし、身ぶりで、それを補っていた。
  ☆     ☆     ☆

診断マニュアルDSM-5は、言葉が話せないことと、自閉スペクトラム症とを分けている。言葉が話せないからといって、自閉スペクトラム症ではないのだ。

しかし、今の社会は、コミュニケーションができるのに、言葉が話せないと差別する。
また、コミュニケーションが十分にとれないと、虐待をうける。

私が、発話にこだわるのは、虐待を受けたときに、親や善意の第三者に訴えることができるためだ。言葉が話せないと思われると平気で虐待する人がいる。そうでなくても、言葉で嫌なことは嫌だと言えれば、虐待のリスクは減る。

私の下の息子の「うまく話せない」というのは、コミュニケーションの問題である。これは、自分が理解してもらえない、自分の主張(assertion)を聞いてもらえないということである。したがって、これは mental disorder(精神疾患)というより、social skill(社会スキル)が身についていないという問題である。

NPOで子どもたちに接していると、自分が理解してもらえない、自分の主張を聞いてもらえないというのは、意外に多い悩みである。そして、いじめにあったり、自分の欲しくないモノを買わされたり、先生に誤解されたりする。 
  ☆     ☆     ☆

発話ができないのは、言葉が本当にでてこない場合と、心理的な抑圧で言葉が出てこない場合とがある。後者は、診断マニュアルDSM-5では、不安症群の選択性緘黙(Selective Mutism)に分類される。後者は、「選択性」で判断する。例えば、母親とはコミュニケーションができるが、学校では一言も話せないということが起きる。

言葉が本当にでてこないのは、私のような老人によくあることである。

先日、妻が私の朝食を用意してくれ、突如、「あれがある? あれがないね、あれが!」と言い出した。「あれ」は、食べるに使う「はし」のことである。そのとき、妻は「はし」という言葉を最後まで思い出せなかった。

これ自体は老人としては珍しいことではない。しかし、そのとき、私が気づいたことは、妻が、「はし」という言葉を忘れたが、私の食卓を見て欠けているモノに気づいたのである。すなわち、「あれ」がないと食事ができないと思ったのである。十分、知的な脳の働きである。発話しようとしたとき、言葉を見いだせなかっただけである。
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発話ができないのに、発話したい内容が脳で構成できるか否かの区別がある。

つぎに、脳で話したいことを構成できても、単語と単語とを組み合わせることができないと、話したことにならない。コミュニケーションとはならない。私の妻の場合は、「はし」が言えなかっただけだ。意思疎通はできた。

5、6年も前のことだが、平仮名や漢字が書けて、「助詞」の使い方のドリルの問題をもくもくとする子が、指導の時間が終わると、とつぜん、お母さんに向かって「ニラニラ」と叫んだ。何のことかわからずに、非常に面くらった。一語だと何を言いたいのか、理解できない。助詞がなくても、いくつかの単語が頭の中に駆け巡ってこそ、言いたいことを理解できるのだ。例えば、「ニラ 好き」か「ニラ きらい」か「ニラ 食べたい」か「ニラ 買いたい」がわかる。

わかったことは、「助詞」の使い方のもくもくとドリルをこなすことと、発話ができることと異なるのだ。ドリルをこなすことをやめ、自分に起きたことを作文として書かすこと、また、対話を試みることで、苦労したが発話できるようになった。「かぜひいた」と私に文の形で言ってくれたとき、とても、うれしかった。
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言葉を理解する、言葉を話すということは、とても脳に負担をかけるように、思える。

いまは、言葉の出てこない子どもに対して、語彙をやたらと増やすことより、言葉を組み合わせて話す訓練に重点を置くようにしている。たとえば、中学英語は700語でできている。じっさいには、300語でも、組み合わせれば意志疎通ができる。日本語でも、同じだ。

言葉を自由に使いこなせない子は、見ていると、暗示にかかりやすい。なにかを指示をすると、それが頭のなかでぐるぐると回っているように見える。何か尋ねると、私を喜ばせようとして、意味もわからず、肯定してしまう。雨が降っているのに、「きょうは晴れだね」と言うと「晴れだね」と返ってくる。言葉を理解するのに苦労しているのだ。

私の母はある時から、ニコニコして隅に引っ込んでしまうようになった。母が死んでから、最近になってだが、私はそれが理解できるようになった。声が聞こえるが理解できないという症状が私にも起きるようになったからだ。

NPOで子どもの指導をしているとき、それが起きると、私はニコニコしてごまかすしかない。母も言葉の聞き取りが難しくなり、ニコニコするしかなかったのだろう。プライドの高い母だったから、それが大変苦しかっただろう。
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では、人間は、どうやって言葉を理解しているのだろうか。コンピューターと脳と比較すると、大きな謎がうまれる。

コンピューターにとって、言葉は記号列である。具体的には、言葉はビット列であり、普段は記憶装置にしまわれており、必要に応じて記憶装置から取り出されて、処理機構に送られ、処理が済むと、記憶装置に送られ、しまわれる。

脳のなかにはビット列なるものは存在しない。音素とか音節とか単語とか文法とかは、人類が文字をもってからできた人為的概念であって、人間の脳のなかにはそんなものはない。

脳のなかで起きているのは、刺激を受けて神経細胞が興奮し、シナプスを通じて、次々と他の神経細胞を興奮させていくことだ。長期記憶は興奮の伝わっていく神経回路の書き換えとして蓄えられ、一時的記憶は、脳のなかの興奮の広がりとして、本当に一時的にしか存在しない。このように、コンピューターと異なり、脳はとても無駄の多い仕組みで、あたかも多数決かのように言葉を理解している。

したがって、人間は、言葉を理解し、話すために非常に苦労している。私も、老人になり、脳の機能が衰えると、しみじみと実感する。
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世の中には、人の言っていることを言葉どおりにしか理解できず、推察できない子どもを「発達障害」だという先生がたやカウンセラーがいるが、そんな差別発言をするよりも、相手にわかるように話す社会にすれば良い。

左と右、左利きと右利き

2020-01-28 22:39:29 | 脳とニューロンとコンピュータ

私の父は左利きであったという。私の母がそう言うのである。父の父、私の祖父がムリヤリ右利きに矯正したのだと母が言う。確かに、左手が右手と同じように使えるから、そうかもしれない。

母は、祖父がそういうことをしたから、父が気の弱い人間になったと言う。だから、左利きをムリヤリ直してはいけないと言う。

子どもに無理じいしてはいけないと思うが、「気の弱い」というのは、そのまま受け取れない。「押しが弱い」だけだ。別の言い方をすれば、aggressiveでないだけだ。
押しが強いということがそんなに良いことだと思わない。押しが強いということは、誰かを押しつぶすことになる。

母は義父、私の祖父が大嫌いだったから、ちょっと言い過ぎたのだろう。母も父も死んで、いまは、私の記憶の中でだけ生きている。

また、NPOで私の担当した女の子に左利きがいた。左手で字を書くのである。

ある日、その子が、ひとりで漢検の練習のために、右手の人差し指で漢字をなぞっているのをみた。左利きなのに、右手で漢字をなぞるのがとても不思議に思った。どうも、書き順を覚えるのに、はねるところ、とめるところなどを覚えるために、右手でないとダメらしい。

左利きだと、左利き用の道具でないと具合がわるいと よく言われるが、漢字が右利き専用にできていることを、このとき、はじめて理解した。甲骨文字の場合は、左利きでも右利きでも問題がない。ところが、筆で字を書くようになってから、右利き用の書体になった。教科書体や明朝体は、差別的な書体である。

私自身はべつに左利きではない。しかし、どちら側が左か右かが、とっさに出てこない。左か右かの混乱が生じる。

子どもとき、私は、自分の右側の手が、向かい合った人の左側になるのが、理解できなかった。小学校でラジオ体操をするとき、先生と同じように手足を動かしているはずなのに、みんなと反対になってしまう。向かい合っている先生と同じ側の手足を動かしてはいけないのだ。

これがトラウマになって、頭の中で左、右を意識すると、どちら側が左なのか、右なのか、私は困ってしまう。

私の混乱は、数学的には、鏡面対称の問題である。鏡に映った自分は、右手をあげれば、右側の手があがる。大人になって、理屈としては納得できたが、いまでも、混乱する。

脳科学と発達障害、記憶とは何か

2019-12-30 23:30:54 | 脳とニューロンとコンピュータ

脳についての知識は、私の学生の頃とびっくりするほど、増えている。

この驚きを、NPOのスタッフ研修会で話してみたいのだが、聞いてもらえるか、非常に不安である。脳科学の知識は、「発達障害」とは何か、「理解力」とは何かを理解してもらうには、とても だいじだと思うのだが、みんな、ハウツーが大好きで、「どうすれば」を「どうして」から考えようとしない。

知識がびっくりするほど増えているといっても、それでも、人間の脳の神経細胞(ニューロン)の数は、よくわかっていない。理化学研究所の脳科学総合研究センターが3年前に出版した『つながる脳科学』(ブルーバックス)では、千億近くといい、最近の同じ脳科学総合研究センターのウェブサイトでは千数百億という。大脳皮質の神経細胞の数は百億から二百億以上と差がある。

神経細胞と神経細胞と接続部をシナプス結合という。この結合部には20ナノメートルの隙間があるが、光学顕微鏡ではこの隙間を見ることができない。神経細胞は軸索と言われる1本の繊維のようなものが飛び出して、興奮がいっぽう方向に流れる。軸索上は興奮がパルス状の電気信号で伝わるが、シナプス結合部では、化学物質を放出して、つぎの神経細胞に興奮を伝える。この化学物質にはいろいろあるが、神経伝達物質と総称されている。

脳のなかにこの軸索がぎっしりつまっており、しかも、シナプスの隙間が狭いので、100年前には、脳の神経細胞がバラバラであるか、それとも細胞膜自体がつながって、多核細胞になっているか、確定していなかった。1906年のノーベル生理・医学賞は、多核細胞説のカミッロ・ゴルジと多細胞説のサンティアゴ・ラモン・イ・カハールが同時受賞となった。

1つの神経細胞がいくつのシナプス結合をもつのか、これも確定していない。私の学生の頃は、多くても百ぐらいと思われていた。ちょっと前の本には、数千になっていた。3年前の『つながる脳』では、数万のシナプス結合になっている。脳の神経細胞の数を数えるのも難しいが、シナプス結合の数を数えるのは、はるかに難しい。電子顕微鏡を使って得られる像は平面的なのだ。シナプス結合に20ナノメートルの隙間があるまでは、わかるが、断片を見ているので、1つの神経細胞にいくつのシナプス結合があるか、推定するのは難しい。

そして、そのことは、神経細胞が互いにシナプス結合でつながって、どのような回路を作っているのか知るのがもっと難しいことを意味する。外国では、10年前から、アカゲザルの脳を30ナノメートル厚さに切片化して、電子顕微鏡写真をコンピュータに自動判読させ、脳の神経回路立体図を作成する試みがなされているが、まだ成果がでていないようである。

ただ、神経細胞の機能が昔より驚くほどわかってきている。いくつか挙げてみよう。

記憶とは神経細胞間の新しいつながり、シナプス結合ができることだ、とわかっている。

2000年にエリック・カンデルがその発見でノーベル生理・医学賞をもらっている。立証につかったのは、海底に住むアメフラシという簡単な動物である。外界から刺激にどう反応するか学習されれば、すなわち、新しい反応の仕方が繰り返されるようになれば、記憶したと言える。カンデルは、このとき、神経細胞の新しい「つながり」ができることを視覚的に確認した。

脳科学総合研究センターの『つながる脳』には、神経細胞の興奮の伝達が確率的なこと、また、外部から刺激をうけなくても、自発的に確率的に興奮することが書かれている。

1個の神経細胞の機能は、下等動物も哺乳類も同じである。シナプス結合部で放出される化学物質によって、つぎの神経細胞の興奮を強めたり、抑えたりする。現在は、脳をシステムとして研究する段階に、はいっている。

面白いのは、ネズミも人間も脳の構造が変わらないということである。脳科学総合研究センターでは、アメフラシでなく、マウスを使って研究を進めている。

『つながる脳』の面白いトピックスは、臨界期の話である。神経細胞のつながりは、まず、遺伝子に書かれた設計図にしたがってできていくが、ある段階から外界の刺激、すなわち、個体の体験に沿って、神経細胞のつながりができるようになるという。これが、「臨界期」である。

大脳皮質は52のブロードマン領野に分割され、それぞれ異なった機能をもっているとされてきたが、おのおのの領野は同じ6層構造をしている。すなわち、大脳皮質の各領野は汎用構造をしており、機能は学習によって作られていくとも言える。これが「臨界期」の役割である。

私のNPOに来ているスタッフに保育所でも働いている人がいる。赤ちゃんをあずかって世話しているのだ。赤ちゃんを抱いたり、赤ちゃんに顔を寄せたりして、いつも話しかけているという。「かわいいね」「おなかすいた」「暑くない」「ぬれて気持ち悪くない」と声をかけているという。単に、ミルクが与えられる、オムツがとりかえられるだけでなく、保護されている接触感がだいじなのだと私は思う。仕事のために多くの母親は自分の赤ちゃんを保育士にあずけるが、もし保育園の労働環境が悪く、保育士が愛情というものを赤ちゃんにあたえなかったら、その赤ちゃんは人間関係の基本である「愛」を学習しないことになる。

もちろん、外界からの学習期間である、臨界期は長くつづく。記憶ということができなくなったら、動物は柔軟に外界に反応できなくなり、生存の危機に直面するからだ。たまたま、病気などで、新生児が親と隔離され、長期的に接触できないこともある。臨界期がつづくということが救いだ。

現在、「発達障害」ということは、「生まれつきの特性」ということになって
いる。「うまれつき」が脳構造の欠陥とすると、本当にその特性が「うまれつき」なのか、どうかは、よくわからないのである。

50年前、子どもが社会的規範から外れると親の教育が悪いと責められた。「発達障害」という概念は、扱いにくい子どもをもった親を非難の嵐から解放した。しかし、本当に脳構造の欠陥なのか、親や先生や社会の規範に問題があるのか、まだ、わかっていないのだ。「大人のAD/HD」や「アスペルガー症候群」が増えるのは、単なる流行であるかもしれない。精神医学はまだ前時代的なのだ。

マウスも人間も脳の構造が同じということは、「特性」を「望む特性」に変えるということは、親や先生や医師や心理療法士の「言葉」によってできるとは、限らないのである。わかりやすい日本語で子どもに話すとは、こちらの願いを伝えるために、重要なテクニックであるが、「愛情」や「信頼感」は言葉で生じない。言葉を越えた日常の体験を通じて育てるものである。

なまじ、言葉で物事を暗記した学校体験によって、多くの人は記憶とは言葉が脳のなかにしまわれることと誤解しているが、それは間違いである。言葉の限界を認識することがだいじである。ほめて育てろ、というが、ほめるというのは、言葉を発する方に認識を改めさせるためで、言葉でほめられても、ほめられるほうは、言葉に着目しているとは限らない。

では、人が言葉を理解するとはどのようなことか……。