猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

昭和も子どもを叩くことが当たり前ではなかった

2024-03-29 12:34:04 | こころ

けさテレビを見てたら、TBSの金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の宣伝として、昭和には先生や親が子どもを叩くのが当たり前だったという町の女子生徒の声が流れた。私はそんなことはない、と思う。昔も、子どもを叩くのは間違ったこととの認識があった。

22年前に出版された榊原洋一の『アスペルガー症候群と学習障害』の序章の冒頭は「日本は昔から、子どもをかわいがる文化的背景を持った国であった」で始まる。昭和でも、子どもを叩く親は異常なのである。病気なのだ。

二日前の朝日新聞に、日本のカウンセリングの先駆者、信田さよ子はインタビューでつぎのように言う。

「1995年当時、40歳前後の女性の虐待経験が他の世代と比べて際立っていました」

「多くは『父は復員して人が変わり、酒飲みになって暴力的になった』という話しに行き着きます」

「米国では(ベトナム戦争の帰還兵の)PTSD(診断名)の誕生と前後してDV・虐待を処罰する法律が各州に広がり、戦争トラウマと家庭内暴力とつながりました」

ここで、括弧内は私が補ったもので、「つながった」とは、影響を及ぼしていることがわかったという意味である。信田の主張で注目すべきはつぎである。

「こうした構図は虐待の『連鎖』にも見えますが、連鎖という荒っぽい言葉には注意が必要です。『元兵士は加害者だが、被害者でもあり可哀想だ』という言説につながりかねません。それでは殴られ続けた妻や子が置き去りにされてしまいます」

被害者だからといって加害者になる必然性はない。子どもを虐待するのは犯罪である。トラウマによって犯罪を犯すのは病気である。病気は直すべきである。

イジメの調査報告が最近でたが、言葉による暴力が肉体的暴力の3倍あるという。自分のストレスを子どもにぶつけるのは病気であり、犯罪である。最近は、塾が子どもへの虐待の隠れた発生源ではないかと感じている。中学受験進学塾「四谷大塚」の盗撮犯は「ふだんから騒がしい児童に対して盗撮で『仕返し』してやろうと思った」と裁判で語った。

この講師も病気である。病気は直すべきである。犯罪は犯罪として罰するべきである。虐待を「しつけ」であるかのような誤解を社会に生みがちなのは、言論界には いつの世も権威主義的な知識人、人を支配したがる知識人が幅をきかしているからだ、と思う。


朝日新聞の「《耕論》自分らしさ?」は「地上軍ガザ侵攻」を隠すため?

2023-10-28 23:15:26 | こころ

きょうの朝日新聞の《耕論》のテーマは「自分らしさ?」だった。以前にもブログに書いたのだが、「自分らしさ」という意味が私にはわからない。

《耕論》の冒頭の朝日新聞の側の問題提起に「『自分らしく生きよう』というメッセージを目にすることが多い」「なぜ『自分らしさ』を求められるのだろうか」とある。

本当にそんなメッセージが多いのだろうか。誰がそんなことを言うのか。「自分らしさ」には、「女らしさ」「男らしさ」と同じく、うさん臭さ、陰謀臭さを感じる。

ネットで「自分らしく生きる」を検索してみると、「自分らしく生きるとは、周りの目を気にせずにやりたいことや楽しいと思えることを選択して、自分の気持ちに正直に生きることです」と答えが返ってくる。それなら、「自由に生きよう」で良いのではないか。「らしさ」をつけると、何か、「自分の能力にふさわしく生きよう」と聞こえてしまう。

キズキ塾のサイトをみると、「『自分らしさ』に縛られ過ぎず、自分の生き方を探していきましょう」と書いてある。「自分らしさ」とは自分の思い込みのことを言うのだろうか。

「自分らしさ」という言葉には、自分が何をやりたいのか、わからないという状態が想定されている気がする。それで、「自分の意思」ではなく、「自分の気持ち」に忠実に生きようと言っている気がする。自由のために闘わなくていいのだよ、無理しないでいいのだよ、そのままでいいのだよ、と言っているような気がする。

「自分のやりたいことがない」「自分のやりたいことがわからない」という状態は、我慢し過ぎやあきらめ過ぎからくる、病的な状態だと思う。放課後等デイサービスで、低学年の子どもたちを見ていると、やりたいことがいっぱいあって、大騒ぎである。大人の言うことなんて聞く耳をもたない。

私は、小さい子どもには、我慢しなくてよい、あきらめなくてよい、と言いたい。そして、大人には、自分勝手な都合で、子どもたちの自由を奪うな、と言いたい。

問題は、病的な状態に陥った大人である。精神科の医師が薬を出して解決とはいかない。もし、意志力が強いのなら、思いつくままに自分のやりたいことを書き抜いていき、しだいに明確な自分の意志を育てることである。どうしたら、自分の意思が実現するのか、少しづつ、その戦略を考えていく。

意志力が強くないなら、自分の思いを聞いてくれる相手を見つけることである。自分とともに行動してくれなくてもよい。耳を傾けてくれる人がいるだけで、自分が何がやりたいのか、整理できる。

総じて、自分の思うままに物事はならない。しかし、自分の思うままに動いてみることは、物事がそうならなくても、満足感がある。

[関連ブログ]


「ありのままの自分で良い」「個性だ」と言われも、うれしくない

2023-09-25 21:11:31 | こころ

日本社会では、コースが決まっていて、コースから外れるとなかなか戻れない、と多くの人が思っている。やり直しがきかないと多くの人が思っている。

ことし、週刊女性と朝日新聞がそうでないという記事をのせた。

藤井健人は、中学校時代に不登校で、定時制高校しかいけなかった。が、そこで、普通になりたいと猛勉強をして、早稲田大学、東京大学大学院に進み、定時制高校の教諭を経て、今年、文科省のキャリア官僚になったとのことである。

一見、めでたし、めでたしのようだが、彼はもう少し問題をえぐった発言をしている。

<不登校だったころ、周囲から「人と比べる必要はない」「ありのままの自分を大切に」というような言葉をかけられることがありました。>

「普通」になりたいと願っていた彼は、それらの言葉をうれしいとは感じなかったと言う。現状を変えたいという意欲をくじくものだと言う。

<当時、「不登校も個性や多様性なんだよ」という言葉をかけられることもありましたが、こうした言葉にも抵抗感がありました。>

彼は、望んで不登校になったわけではなく、「普通になりたいのに、なれない」という葛藤にたいして、何の慰めにもならないと言う。

じつは、私は、NPOでうつ状態の子どもに接すると、「自分を肯定して欲しい」と思うことも多い。

斎藤環と與那覇潤も『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)で適度にあきらめることを「成熟」として勧めている。

斎藤と与那覇が「あきらめる」ことを勧めるのは、社会は変えられないが、自分は変えられるからだという。やはり、心を病むことを心配している。

私が「自分を肯定し欲しい」と思うのは、社会から排除された子どもたちが、自分を責めがちだからだ。自分は悪くないと思ってほしい。少なくても、社会が悪いと思ってほしい。

藤井健人が「普通に戻りたい」という強い思いで、不登校から脱出し、早稲田大学、東京大学大学院に進んだことに、彼の精神力の強さを私は賞賛する。しかし、これは「普通」ではない。

彼はこれからキャリア官僚になる。強い自分を基準にすることなく、弱い普通の人がやり直しできる社会を作ってほしい。

参照記事


ロシア兵士が「人間性を取り戻した」のか、「人間性に触れて涙した」のか

2023-09-11 00:15:31 | こころ

土曜日の朝日新聞3面《ひと》の欄に気になる文章があった。

〈捕虜収容所の若いロシア兵は、家族からの手紙を受け取ると涙を流した。兵士が「人間性(ヒュマニティー)」を取り戻した瞬間だった。〉

この文章では、若いロシア兵は家族からの手紙を受け取るまで、「人間性」が欠けているように読める。そんなことをどうして断定できたのか。

この欄を書いた記者が、「ロシア兵」だから、「人間性」に欠けていると思って、勝手にそう書いたのか。

この《ひと》の欄は、新しく赤十字国際委員会の駐日代表に就任した榛澤祥子を紹介する記事だ。本人は「難民や捕虜という言葉でひとくくりに捕らえず、一人ひとりが人間であることを忘れずに活動したい」と語ったとのことだ。

だとすれば、彼女は「兵士が人間性を取り戻した」と言わないはずだ。しいていえば、「兵士が人間性に触れて涙を流した」という表現になるだろう。

記者が自分の原稿を榛澤に見せてチェックしてもらわなかったか、それとも、榛澤が鈍感であったか、どちらかである。わたしは、前者かと思う。


「あきらめること」が「人間になる」ことなのか、斎藤環・与那覇潤を批判

2023-08-26 18:49:43 | こころ

双極性障害になると、躁とうつとを繰り返す。苦しいのはうつだけでない。躁状態になると自分を止めることができなくなり、気づいたときは疲れ果てた状態の自分を見いだし、一気にうつに落ち込む。

5,6年前に、放課後デイサービス利用の親との面談で、自分の凄惨な双極性障害の体験を書いた本をもらい、私は、双極性障害というものの苦しみをはじめて理解した。そして2,3年前から、私の担当のうつの子(20歳すぎ)も双極性障害を示すようになった。幸いに、どちらも、双極性障害の症状が、薬でコントロールできている。

   ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

斎藤環と与那覇潤は『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)で、「あきらめ」が人間になるために必要であると語っている。私は必要とは思わないが、双極性障害を体験している彼らがそう思うのも無理もないとも思う。

与那覇〈1998年の『社会的引きこもり』ではひきこもり脱却のカギとして、適度なあきらめが大事だと書かれていますよね。〉

斎藤〈自己肯定感を伴う適切なレベルのあきらめが回復には必要なんです。〉

ここまでは、「あ、そう」とも言える。

ところが、ふたりは戦後民主主義や日教組や岩波書店や朝日新聞の非難をしはじめる。

与那覇〈戦後日本は政治的には自民党の家父長主義が主流で、しかし文化的にはある時期まで圧倒的に左派が優位でした。岩波書店や朝日新聞が権威を持ち、学校の教員にも熱心な左翼活動家が多かった。結果として「お前らはその程度だ、あきらめろ」「いや、あきらめるな」と二重の声が聞こえてくる、ダブルバインド的な状況に日本人が置かれてきた〉

斎藤〈「社会的ひきこもり」で指摘したのは、ある意味身でダブルスタンダードの問題で、口では「無限の可能性」を言いながら一方で「協調第一主義」によって支配する教育が強すぎた〉

こうなると、私はほっと置くわけにいかない。私は戦後生まれである。その私より彼らはずっと若い。斎藤は14歳若い。与那覇は22歳若い。彼らが戦後民主主義がどんなものかわかっていない。彼らが初等教育を受けたときは、日教組はすでに日本政府の前に政治的には負けている。また、岩波書店や朝日新聞が偏向していて「去勢」を否認させたと思えない。

だいたい、あきらめることが成熟にそんなにだいじなのか。それよりも、自分の「好き」をだいじにして、ちょっとした障害にくじけず、成長し続けることではないか。

   ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

斎藤環はもともとオカシイ。斎藤環は『社会的ひきこもり―終わらない思春期』(PHP新書)では、つぎのように書いている。

〈精神分析において「ペニス」は「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関りを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」と言うことを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。〉

「万能感」で突っ走ることは、普通ではありえなく、病的な躁状態である。「万能感」をあきらめることで、普通は悩みを解決できない。

引きこもりの子の多くは劣等感で悩んでおり、周囲に「承認」を求めている。引きこもることで、イジメられなくなっているにかかわらず、自分が肯定できず、苦しんでいる。

私は、彼らを承認するようにしている。周りが「あなたは悪くない、そのままでいいのだよ」と承認することがだいじだと考える。

つづけて斎藤環は書く。

〈(学校には)明らかに二面性があります。「平等」「多数決」「個性」が重視される「均質化」の局面と、「内申書」と「偏差値」が重視される「差異化」の局面です。子どもはあらゆる意味で集団として均質化され、その均質性を前提として差異化がなされます。〉

「個性」の重視が「均質化」でないことは明らかであろう。「平等」は、宇野重規が言うように「民主主義」の基本であり、すべての人が対等であることだ。「平等」と「均質化」とはむすびつかない。「多数決」は確かに多数が少数を抑圧するという側面があるが、政治的決着の便宜的なつけ方で、これが本当に正しいとするのは自民党ぐらいではないだろうか。

「偏差値」は、単一の価値基準のもとの競争結果の評価手段である。「個性」を重視するなら、単一の価値基準はあるはずがなく、「偏差値」もありえない。いわゆる知能テストのIQも偏差値であり、そんなものでお金を得る業者は社会から駆除すべきだと日ごろから私は思っている。

「均質化」「差異化」は自民党政権がもたらした弊害であり、そのことで、左翼や日教組や岩波書店や朝日新聞が責められるいわれがない。

はっきり言おう。斎藤も与那覇も頭がいかれている。

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左翼とはあらゆる権威、人が人を支配することを拒否することである。私が子ども時代、日本の敗戦によって、あらゆる権威が崩れ、自由がいっぱいあった。60年代の終わりの学生の反乱は、戦後が終わりを迎え、自由が狭まったことに対する反抗であった。それは、当時、日本だけでなく、全世界の若者が思ったことである。

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