猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その3 伝統文化の押し付け

2020-07-22 20:57:28 | 育鵬社の中学教科書を検討する


育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』の「第1章 私たちの生活と現代社会」の第1節から見ていこう。

第1節の13ページ目につぎのようにある。

〈真に望ましいグローバル化とは、国家間の違いがなくなることではありません。〉

これだけでは「国家間の違い」が何を意味するか、よくわからない。

私は、現実の国家というものが、支配者による統治と考えている。大きな国家に小さな国家が吸収されることは、大衆自身による統治「民主政」が より遠のくから、国家の「併合」に反対である。「大国」より「小国」がよい。

しかし、つぎの文を読むと、「国家間の違い」は、「文化」や「思想」の違いを意味することがわかる。

〈各国の国民は、それぞれの国の歴史や伝統や文化を踏まえ、アイデンティティー(自分は何ものであるかという意識)を確認しつつ、他国との良好な関係を築いてゆく必要があります。そのような資質をもった存在こそグローバル人材と言えます。〉

「アイデンティティーを確認しつつ」というのが意味不明である。それが「自分は何ものであるかという意識」なら、個人的な問題で、グローバル化となんの接点もない。ところが、「それぞれの国の歴史や伝統や文化を踏まえ」とあるので、「民族意識」のことを「アイデンティティー」と言っているように思える。

日本でちやほやされていた人が、いざ、海外で生活し、異国の文化に接すると、突然、自分に自信がなくなり、日本の歴史、日本の伝統と、日本の文化と言い出し、もっと勉強しておけば、と「後悔」する。クソ野郎である。自分がないのは「勉強」しなかったからではない。自分がないのは、ものごとを批判的精神で見てこなかったからである。「勉強」するという志(こころざし)が、すでに、自己を放棄している。

また、「伝統」とはいかがわしいものである。現在のお祭りも、「町おこし」や「観光産業」の名目で最近作られたものが多い。現在の「神社」と「寺院」のすがたは、明治政府が「神仏分離」令によって、無理やり作ったものである。それまでは、「神仏習合」といって、日本の人格神は仏教の菩薩の仮の姿で、神社と寺院と一体となっていた。

伝統は、常に、政府、すなわち、権力者の都合で、変えられる。

じつは、今から約150年前、明治政府は、開国によって、西洋諸国の文明に出あい、その工業の生産力に圧倒されるとともに、「民主政」には非効率と反発した。明治政府のスローガン「和魂洋才」は、工業生産力の源になった「科学技術」だけを輸入し、「民主政」の思想を拒否することだ。「尊王攘夷」の「攘夷」だけを外し、「尊王」を「天皇の神格化」に引き上げ、「民衆」が権力をにぎらないように、維新の功労者と新興の官僚勢力による集団支配体制を築いた。

グローバル化は、人や物の交流によって引き起こされる思想や文化の衝突のことで、歴史上、たえず起きている。それによって、新しい文化や思想が生まれた。たとえば、キリスト教は、アレクサンダー大王の遠征によって引き起こされた地中海沿岸諸国、メソポタミア、エジプトのあいだのグローバリゼーションの結実である。

日本が、現在のグローバリゼーションのなかで、新しい生活様式、新しい文化、新しい思想を生んでいくことこそ、望ましいのではないか。

昔ながらの「菓子店」「料理店」においしい店があったためしがない。農業や輸送手段の進歩で、色々な素材が手に入るようになっている。そのなかで、味覚も進化している。昔ながらの味では、お客の進化についていけない。

18ページ目には

〈一方で、育児期の家庭では夫が仕事をして妻が専業主婦の夫婦が、現在も高い割合を占めています。〉

とある。妊娠、出産、育児期に、外での仕事をいったんやめるは、別に、「専業主婦」というわけではない。「専業主婦」という言い方に、何か、男女の役割の違いを押しつけているように感じる。

19ページ目に、

〈自分が生まれ育った土地のことを郷土と言います。郷土は自己の形成に大きな役割を果たすとともに、一生にわたって大きな精神的な支えとなるものです。〉
〈私たちが地域のコミュニティーを維持していくためには、各自が郷土の一員として発展に貢献していくという公共の精神を持つことが重要となります。〉

人によっては、「郷土」が「一生にわたって大きな精神的な支え」とならない。自分の自由を束縛した、あるいは、自分たち一家を差別した「郷土」に怒りをもって、郷土を出た者も多い。

ちょっと第2節に飛ぶが、33ページ目の

〈伝統文化の尊重は、それらをはぐくんできた日本や郷土を愛することにつながります。〉

は、ちょっと無理がある。

伝統文化に興味を感じず、バッハやラヴェルの音楽が好きで、なにも悪くない。和菓子や日本料理が嫌いで、何も悪くない。専業主婦になる必要もなく、夫より稼いでも良い。生まれ育った所より、今住んでいる所が素晴らしいと感じたって良いじゃないか。「公民」が個人の好みの世界に立ちいってはいけない。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その2 なぜ「公民」を学ぶ

2020-07-21 19:51:18 | 育鵬社の中学教科書を検討する

育鵬社の『新しいみんなの公民』の2ページ目、「なぜ「公民」を学ぶのか」に、はや、問題の箇所がでてくる。

〈 「公の民」と書く公民は、このように自分を国や社会の一員として考え、公のために行動できる人のことをいいます。〉

ここから、もはや、この教科書はいかがわしい。「公のために」とは何なのか。
「このように」と書いてあるから、その直前にある文を読んでみよう。

〈アメリカの第35代大統領のケネディ(1917~63年)は、大統領就任演説でアメリカ国民に「国があなたのために何をしているのかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるのかを問おう」と訴えたことがあります。〉

この部分の英文は、つぎである。

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country. 

じつは、この演説で、J. F. ケネディは ずっと “state”や “states”を使ってきたのに、演説の終わりのここで、“country”を使う。英語では、“state”は法律の整備された近代的「国家」、いっぽう、“country”は、心のなかの「くに」、「おらがむら」をいう。ケネディは、聞き手が“country”と聞いて「愛国心」に燃え、理性を放棄することを期待したのである。

ちなみに、トランプ大統領は “state”を使わずに、いつも、“country”を使う。そして、アメリカ第1と叫ぶ。

ケネディは、第2次世界大戦に参加した将校である。戦争の残酷さ、勝者の不正をみた一兵卒のJ. D. サリンジャーと異なり、将校のケネディは、第2次世界大戦を正義の戦いとみる。

上記の英文に先立つ段落で、ケネディはつぎのように言っている。

Since this country was founded, each generation of Americans has been summoned to give testimony to its national loyalty. The graves of young Americans who answered the call to service surround the globe.

「国のために何ができるのか」とは、「国のために死ぬ」ことである。“graves”とは延々と続く戦没者の「墓」のことである。

ケネディが大統領として登場したとき、アメリカは公民権運動(civil rights movement)で揺れ動いていた。この演説で、ケネディは、世界に向けて自由のために戦うよう、国民に呼びかけることで、公民権運動から国民の目をそらそうとしたのである。245年前のアメリカの独立戦争から話をはじめ、世界の自由を守る戦いへの参加を訴えたのだ。

演説のどこにも “equality”や“fairness”に言及しない。ケネディにとって、「自由平等」ではなく「自由」だけが正義なのである。黒人たちにたいする公民権運動が完全に忘れ去ろうとしている。「平等」や「公平」を抜きにし、「自由」を守ることと「貧乏からの解放」だけを訴えている。

ケネディは国民の目を「公民権運動」から そらすため、北ベトナムへの爆撃を始める。ケネディは、泥沼のベトナム戦争の引き金をひいた大統領である。

そんなケネディがそう言ったからといって、日本で生きている私たちが、なぜ、「国のために何ができるのか」と問われなければならないのか。

ケネディは悪人である。ケネディの父親は、アイリッシュをアメリカのトップにすえたいから、息子にその夢を託した。そのとき、息子が政治家の道を進むのに邪魔になる、性に奔放なケネディの妹を、精神病院に入れ、ロボトミー手術を行い、廃人にした。そして、ケネディ自身は大統領になってからもマリリン・モンーロを公邸に呼び、不倫を行っていたのである。

育鵬社の『新しいみんなの公民』に戻ろう。その3ページ目に

〈「人間は社会的な存在」といわれるように、さまざまな社会とかかわりをもたずには生きていけません。〉

ここで、“social skill”を学びましょうとくるのかと思うと、つぎのようにくる。

〈私たちは、これらの社会を構成している一員であると同時に、その社会を支えていく役割も担っているのです。〉

すなわち、「社会」を支える「公民」となるために、「公民」を学ぶのだと説明する。

ここでいう「社会」とは何なのか。

英語で「社会(society)」といったとき、これは「対人関係」を意味する。いじめに会わないように、自分の権利をうまく主張できるように、自分の身を守る法律を知るために、「公民」を学ぶのである。それが、日本以外で、子どもたちが“social skills”を学ぶ理由である。けっして、社会を支え、国のために死ぬことではない。

育鵬社の『新しいみんなの公民』を検討する、その1 はじめに

2020-07-21 17:03:45 | 育鵬社の中学教科書を検討する

横浜市は2011年から全市で育鵬社の「歴史」と「公民」の教科書を使っている。その採択に中心的役割を果たした元横浜教育委員長の今田忠彦は、朝日新聞地方版のインタビューの中で つぎのように語っている。

〈(それまで)教科書調査員を務める現場の先生の各教科書への評価を、その上の教科書取扱審議会が追認し、さらに上の教育委員会が追認してきた。ですが法律上、教科書を決めるのは教育委員会であり、私はそれを実践したまでです。〉

〈(11年の)採択後、首相に再指名される前の安倍さんにパーティーでお会いし、「(06年の第1次安倍内閣のもとで)教育基本法を変えて下さったおかげで、教科書採択がやりやすくなりました」とお礼を言いました。教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明確に書かれ、それに沿った教科書を選びやすくなったのです。〉

彼は、現場の先生の評価に関係なく、教育委員会が教科書を選択すればよく、選択基準は「愛国」である、と言っている。「歴史」の教科書は、事実にもとづいているかが 基準のはずであり、「公民」は自分の権利を守るための知識が書かれているかが 基準のはずだ。

「歴史」や「公民」の教科書は、「客観的権威」をまとっているので、「道徳」の教科書以上に、子どもたちを洗脳しやすい。たとえば、きのう、期末テスト対策として「公民」の教科書のドグマを まる暗記している子どもを、NPOの自習の場で、見つけた。

きょうから、育鵬社の中学校教科書『新しいみんなの公民』を検討していきたいと思う。

[追記]
8月4日、横浜市教育委員会は、2021年度から市立中学校で使用する教科書のうち、歴史と公民は育鵬社版を不採択とした。