猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

タダで見れるロシアの大スペクトラル映画『タレス・ブリーバ』

2022-04-01 23:38:48 | 映画のなかの思想

(映画『タレス・ブリーバ』)

私が子ども時代(小学校低学年)にカバヤ文庫で読んだロシアの物語に『隊長ブリーバ』がある。コッサクの隊長が二人の息子を失い、自分自身も枯れ木に縛られ、火あぶりになって死ぬという戦いの物語である。すっかり、そのことを忘れていたが、数年前、YouTubeに『タレス・ブリーバ(Тарас Бульба)』という映画の動画があがっていて、全編タダで見ることができ、子どものとき読んだということを思い出した。

カバヤとは岡山県の菓子メーカーで、当時キャラメルを出していた。5つ上の兄がそのキャラメルの箱を集めて、カバヤに送って、カバヤ文庫の本を得ていた。私がアンデルセンの童話をはじめて読んだのもカバヤ文庫であり、旧約聖書の物語に接したのもカバヤ文庫である。たぶん、カバヤはキャラメルを売りまくるための「おまけ」として文庫をだしただけではなく、戦後間もない当時、仕事に恵まれない地方の知識人に、文化の香りのある翻訳という仕事を与えていたのであろう。

このロシア映画『タレス・ブリーバ』はすごい迫力である。思わず、ザポロージャ・コサックの隊長タレス・ブリーバの人生に見入ってしまった。私はロシア語の勉強を一度もしたことがないのに、カバヤ文庫の『隊長ブリーバ』を読んでいたので、映像と音だけで、筋についていけたのである。映画は隊長のタレスが雨の中、半裸のコサックの集めて、戦いの演説している場面から、始まる。そして、キエフの神学校から帰ってきたふたりの息子を、妻とともに喜んで迎えた回想シーンに変わる。その2人の息子がポーランドに殺されたのだ。タレスが闘えと言っているのはポーランド軍とだ。タレスの息子のうち、兄はポーランド軍の拷問の中で殺され、弟はコサックを裏切ったので、自分が殺したのだ。弟はポーランド人の若い美女のためにポーランド軍の戦士になったのである。

映画では、コッサクがロシア人で、敵はポーランド人なのだ。捕らえられたタレスが火あぶりで殺されるとき、ロシア賛歌の言葉を口にする。この動画はいまでもYouTubeでタダで見られる。

今から考えると、すごくお金をかけて作った2時間11分の映画がタダで見られるというのは おかしい。ザポロージャは、現在、ウクライナの中央を流れるドニエプル川にある町の名になっている。今回のロシア軍に占領されたウクライナの原子力発電所があるところがザポロージャである。そう、これは、ロシアの愛国的宣伝映画なのだ。

ウクライナは、タタール人の国、クリミア・ハーンの力が弱まった16世紀から自由の地となった。その自由の地の人びと、コッサクが、18世紀になると、ドニエプル川をはさんで、東側はロシアに従属を強いられ、西側はポーランドに従属を強いられた。だから、ポーランドだけが侵略者ではない。

じつは、『タレス・ブリーバ』は、ニコライ・ゴーゴリの小説であって、歴史的事実ではない。ゴーゴリはウクライナ人にもかかわらず、ロシア語で小説を書き、ロシアの大流行作家になった。彼の生きた18世紀後半は、ウクライナ民族主義運動が始まっていて、ウクライナ系知識人はロシア語でなく、ウクラナイ語で小説や詩歌を書くようになった。しかし、ゴーゴリはロシア語でロシアの大地に生きる人々を描いたのである。

コッサクがモスクワとも戦った事実を忘れて、小説『タレス・ブリーバ』を2009年に美女美男をそろえ大スペクトル絵巻物語にしあげたのである。タダで見れるものには悪意がある。


映画『日の名残り』と小説『日の名残り』とには決定的違いがある

2022-03-25 23:22:56 | 映画のなかの思想

きのうの私のブログの過ちに気づいた。イギリス映画『日の名残り』とカズオ・イシグロの小説『日の名残り』とがあまりにも違っていている。きのうから小説を読み始めたので、まだ、頭のなかは整理されていないが、本当にこれがイギリス映画なのか、観客に媚びた「ただのアメリカ映画」ではないかとまで思えてくる。映画としては興行的に成功しており評論家の受けもよい。しかし、原作の小説がもっていた物事の底深さを失っている。

カズオ・イシグロの小説を読むと、執事のミスター・スティーヴンスが昔の同僚ミス・ケントンに会いに行く自動車はフォードである。そのフォードの所有者はアメリカの金持ちファラディ様である。ファラディ様が、屋敷ダーリントン・ホールを執事ごと買い取ったのである。

映画では、その自動車はダイムラーである。その自動車は主人のものであるが、主人はルーイス様である。

フォードはイギリス人には豪華な外車に思えるかもしれないが、アメリカ人には普通のアメリカ車に思う。ミスター・スティーヴンスがミス・ケントンに会いにいく旅の途中、服装と車から田舎の人びとに大人物と誤解されるのだが、アメリカで映画がヒットするためにはフォードでは困る。

これは小さな変更だと思われるかもしれないが、主人がルーイス様かファラディ様は実は大きな違いである。両者はともにアメリカ人であるが、映画のルイス様は昔ダーリントン・ホールで開かれた国際会議でダーリントン卿を「政治のアマチュア」と非難したアメリカ人である。いっぽう、小説のファラディ様は、ミスター・スティーヴンスと初対面のアメリカ人であり、その国際会議とは無関係の設定となっている。

これも小さな変更と思われるかもしれないが、映画ではルーイス様は大戦後ダーリントン・ホールを買い取り、 勝利者としてミスター・スティーヴンスの前に登場する。アメリカ人の受けを狙っている。

小説では、「政治のアマチュア」と非難されたダーリントン卿は、つぎのようにルーイスに反論する。

「あなたが『アマチュアリズム』と軽蔑的に呼ばれたものを、ここにいる我々の大半はいまだに『名誉』と呼んで、尊んでおります」

「私にはあなたが『プロ』という言葉で何を意味しておられるのか、だいたいの見当はついております。それは虚偽や権謀術で自分の言い分を押し通す人のことではありませんか?世界に善や正義が行き渡るのを見たいという高尚な望みより、自分の貪欲や利権から物事の優先順位を決める人のことではありませんか?」

カズオ・イシグロはダーリントン卿を理想的イギリス紳士と描き、ルイス様をアメリカのプロ政治屋として描いている。ここに、彼の小説の重さがある。

さらに大きな違いは、ミスター・スティーヴンスの転換点となる出来事の、ダーリントン・ホールでの国際会議の開かれた年である。映画では1935年に設定されている。いっぽう、小説では1923年3月である。

1923年では、ナチスは小さな小さな地方政党で、その11月8日にヒトラーはミューヘンで一揆(ブッチ)を起こし、失敗して捕らえられている。したがって、1923年ではナチスがダーリントン・ホールの会議に潜入してダーリントン卿を操るというの無理である。しかし、映画の設定の1935年では、すでにナチスが政権をとっており、ヒトラーがドイツの独裁者になっている。この国際会議がナチスに操られているとなる。

したがって、小説と映画はタイトルが同じだが、中身がまったく違う。映画は、軽薄なアメリカ人に受け入れられるように、改変されているため、ミス・ケントンとあって取り返しのつかない自分の過去の過ちを理解したミスター・スティーヴンスが、なぜ、勝利したアメリカ人のもとに、執事として戻るのかが、説明のつかない不整合となっている。

小説では、ミスター・スティーヴンスが自分の過ちを認めるが、それはイギリス的価値観を否定するものとまで思わないから、余生を執事の仕事に捧げようと思うのである。イギリスで文学賞をもらえるプロットとなっている。


『ドゥ・ザ・ライト・シング』は黒人のための黒人によるアメリカ映画

2022-02-08 22:28:54 | 映画のなかの思想

(ムーキーとサル)

『ドゥ・ザ・ライト・シング』は30年以上前の1989年公開のアメリカ映画だが、いま、見ても古さを感じさせない映画である。正直に言うと、30年前には見てないが。

黒人が黒人のために作った映画で、スパイク・リーが監督・製作・脚本・主演をしている。

物語は、華氏99度(37℃)の蒸し暑い夏の日に、ピザ店でイタリア系の店主と3人の黒人とが喧嘩になり、止めに入った警官がその黒人の首を警棒で締め殺したことで、黒人街の暴動に発展してしまう。

映画では、ピザ店の店主サルから「黒人街」という言葉はでてこない。彼は、あくまで、「コミュニティ」と自分たちの暮らす街(まち)を呼ぶ。「わが街」という感じであろう。みんな、自分のピザを食って育った隣人だと言う。暴動の前に、巡回にピザ店に寄った警官や、店主の息子が、店を売ってイタリア系が多い街に移ったら、と言う。

元野球選手の老いた黒人ダー・メイヤー(Da Mayor)は街をぶらぶら回って、みんな仲良く暮らすよう、お節介をしている。字幕では「市長」と訳していたが、本当に、「わが街のおとうさん」という感じの役どころであろう。

街には仕事がなくブラブラしている黒人がいることも描いている。3人組の老いた黒人はチンポコの大きさを話題にしている。

スパイク・リーはそのピザ店で週250ドルで働く配達員ムーキーを演じている。彼は給料の前払いを店主に求めるが、お金を払ったら戻ってこないから、払えないと断る。じっさい、ピザの配達にでた彼は、恋人とセックスを始める。

この映画は、わがコミュニティをだいじにしたいとの思いがある、いっぽう、窒息しそうなうっぷんもコミュニティにたまっているさまを ていねいに描いている。

だからこそ、暴動という行動に出ることの後味の悪さ、気まずさがうまく描かれる。

暴動は、警官に黒人が殺された後、ムーキーが自分の働いていたピザ店にごみ缶を投げることから始まる。集まった群衆は事情もよく知らずに店に火をつけ、レジのお金を盗んでいく。

翌日、壊された店の前で茫然として座り込む店主サルに、配達員のムーキーは給料250ドルを請求する。サルは腹を立てるが、給料は給料と、100ドル札を5枚、ムーキーに投げつける。ムーキーはお金をひろって、給料は250ドルだと、100ドル札を2枚投げ返し、50ドルは借りだと言う。

暴動が起ころうとも、コミュニティはコミュニティである。住む人びとは、気まずいを思いを残し、日常に戻るしかない。

結局、目覚めて(Wake up)正しいこと(Do the righto thing)をするしかない。政治に参加することである。マーチン・ルーサー・キング牧師とマルコムXの言葉が画面に映し出され、映画は終わる。

映画は非常に常識的に終わるが、それまでの細部の心理描写にリアリティがあり、非常に現代的なものを感じさせる。

[補足]

ブログで、黒人という言葉を使ったが、いまのアメリカで、ブラックとかニグロとかは差別語とされ、おおやけの場ではアフリカンと言う。しかし、人種問題に起因する暴動が いまなお ある状況では、黒人(ブラック)と言葉を使って現実を見たほうが良いと思う。


ディケンズ原作の映画『どん底作家の人生に幸あれ!』の配役に驚く

2022-02-03 22:21:26 | 映画のなかの思想

昨夜、2019年公開のコメディ映画『どん底作家の人生に幸あれ!』をテレビで見て、その配役に驚いた。新型コロナ感染拡大のなかで公開されたので、ウィキペディアによると、まだ、映画製作費を回収できていないが、映画批評家の受けは良い。

映画は、ヴィクトリア朝時代を代表する英国の人気作家チャールズ・ディケンズの半自伝的長編小説『デイヴィッド・コパフィールド(David Copperfield)』を原作としている。英文科卒の私の妻もあまりにも長くて読みきれなかったという原作を、映画は思い切って短く書き換え、120分のなかに抑え込んでいる。ちなみに、岩波文庫は原作の翻訳を5冊に分冊している。新潮文庫は4冊に分冊している。

原作では、主人公デイヴィッドをはじめ、みんな生粋のイギリス人であるが、この映画ではそうではない。人種という概念を打ち破っている。ナスにウリがなっても、トンビがタカを生んでも構わないという感じの配役である。親子で人種が異なる配役である。

デイヴィッドにはインド系イギリス俳優のデーヴ・パテールをあてている。11年前に『スラムドッグ$ミリオネア』に出てていた名子役である。デイヴィッドが思いを寄せているアグネスにはアフリカ系俳優のロサリンド・イレアザルをあてている。その父親には、香港系俳優のベネディクト・ウォンをあてている。また、デイヴィッドの悪友ジェームスの母親である貴族には、アフリカ系のニキ・アムカ=バードをあてている。

この人種という思い込みを打ち破る配役で、ヴィクトリア朝の上流社会の気取りを、笑いものにするコメディである。

ディケンズは大衆に人気があったというから、多分、原作にも上流階級をコケにするところがあったのではないか。私は、早速、新潮文庫の原作の翻訳を図書館に予約した。


貧しい人びとを良心の呵責なく社会が殺す映画『パージ:エクスペリメント』

2022-01-28 22:45:55 | 映画のなかの思想

おとといの夜、テレビで2018年公開のアメリカ映画『パージ:エクスペリメント』を見て驚いてしまった。貧しい人々は もういらない、殺してしまえばよいという考えの存在を前提にしている。

この映画の「パージ(purge)」はジェームズ・デモナコが考え出した特別の夜で、夜7時から翌朝7時までの12時間、殺人を含むすべての犯罪が合法化された夜を指す。このテーマで、5本のホラー映画や多数のテレビドラマシリーズやグッズが作られている。この集約した商売をパージフランチャイズと呼ぶらしい。

私の見た『パージ:エクスペリメント』は4作目の映画で、マンネリ化していると ヒットしなかった。脚本も映画としては整理されていないと私は思う。それでも、4作目は、1300万ドルの製作費で、全世界で1億3700万ドルを売り上げたのである。たった、3か月の撮影で仕上げたホ-ラ映画がである。パージの考えを面白がって見ている人びとがいたのである。

この4作目はパージをなぜ新政権が導入したかを説明する。新政権は、犯罪を効率的に減らすために、1年に12時間だけ、すべての犯罪を合法化すればよいと主張し、その実証実験をニューヨークの貧民街で行う。ところが、思いのほか、住民同士が殺し合わないので、政権が傭兵にお面やフードをかぶせ、住民を殺しまくり、翌朝、実験が成功したとテレビが報道するという映画である。

この映画の中で、新政権の幹部は、貧しい人々は もういらない、殺してしまえばよいという本当の目的を語り、傭兵を雇ったという事実に気づいた社会心理学者をも殺す。

これまでは、資本主義社会では失業者や貧困者は必要だというのが、経済学者の主流の意見であった。社会維持に人間の労働力が必要だが、失業者や貧困層がいれば、個々人の生存に必要最低限の賃金で労働者を雇うことができる、と彼らは主張していた。

貧困層は不要だ、みんな殺してしまえという主張は、これまで表には出てこなかった。無能だから貧困に苦しむのだと、富裕層は あざけっているだけだった。

ただ、富裕層は、選挙権を全国民に与えたばかりに、社会保障や福祉も貧困層に少しは与えないと選挙に負けると不満をこぼしていた。

政府も殺人を犯したとか、国家に反逆したとかの人を死刑にすればよかった。貧困者が増え過ぎれば、他国と戦争すれば、人口を調整できた。

ところが、経済がグローバル化した現在、国内に失業者や貧困層を抱えなくても、海外の貧困層に働いてもらえば良い、という考えが出てきた。そうすれば、国内の貧困層は役立たずの犯罪者や怠け者や不満分子で、みんな殺してしまえ という考えも出てきても不思議でない。

この映画の主題は、道徳心を痛めず、貧困層を殺すには、貧困者同志が殺しあうパージが有効だ、である。

いま、全世界の新型コロナ対策を見ていると、この機会に、貧困者や老人や病人には死んでもらおうという、深層心理が政治家や官僚や財界に働いているように思える。日本でも「経済を守る」という言葉を夕方のTBSテレビのアナウンサーは口にし、東京都都知事の小池百合子は「社会機能の維持」という言葉を口にしている。

LGBTやジェンダだけを口にすることが社会正義ではない。弱者を見捨てない、殺さないことこそが社会正義ではないか。

思うに、去年のおわり、アメリカで 一時 新型コロナがおさまったとき、貧困層が職場に復帰せず、労働者不足で賃金が高騰し、インフレになった。すべての職種は社会に貢献していたのだ。経済のグローバル化で、国内の労働者は不要だというのは、幻想である。