猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

小学校の卒業式に袴と着物姿の子どもたちと教師を見たくない

2024-03-17 21:17:11 | 社会時評

私は人の好みに干渉したくないが、小学校の卒業式に袴と着物を着ているのを見たくない。

先日、テレビで被災地能登での小学校の卒業式を見たが、女の校長が着物姿であったので、驚くとともに、とがめたくなった。

二日前、市営地下鉄で口紅を塗った着物と袴姿の女の子が3人乗り込んでくるのを目にした。私の横の老齢の婦人がちょっと驚いた顔をした。その横にいた中年の婦人が小学校の卒業式ですよと教えていた。

私は知的な女の人が好きである。男が粗暴で配慮が足りないとき、知的な女の人が暴走を抑えられる。私にとって知的というのは、勉強できることではない。周りの雰囲気にながされずに、自分の頭で考えることができることである。自分があることである。

インタネットをみると、呉服屋や写真スタジオが小学校の卒業式に着物・袴を着ることを勧めている。一生に一度の卒業式だから、記念に着物・袴でおしゃれしましょうと言う。

男女平等とか女性の社会進出だとか言う人はこの事態をどう思っているのだろうか。

この女の子たちは、この子たちの親は、世界に戦争があること、社会に貧富の格差があること、人が人を支配しようとすることを、どう考えているのだろうか。

私には、日本社会の何かが壊れ始めていると感じる。節分に恵方巻を食べるのが広がったときと同じ不愉快さを感じる。

私は商家に生まれたので、ビジネスの無節操さを知っている。商売というものは、人の欲望を煽って、売り上げを増やすのである。この欲望を煽るのは、今や広告業が手伝っている。この欲望の煽りから泰然として居られるのが知性である。


3月11日は東日本大震災の日、大津波と原発事故の映像を流して欲しい

2024-03-12 20:43:43 | 社会時評

きのう、3月11日は東日本大震災13周年であった。今年の元日に能登半島地震があったためか、例年になく、テレビの各局は特集を組んだ。当時の記憶が人々から薄れていくとの声を放映していた。それなのに、当時の大津波の映像や福島第1原発事故の映像が流されなかったのは、残念である。

3月11日、私は、横浜の集合住宅7階の居間で食卓が大きく揺れるのに、恐怖を感じた。私の妻は、ちょうどそのとき、外にいて、私のいる建物が大きく揺れるのに、また、恐怖していた。それから、来る日も来る日も、テレビでは大津波と原発事故の映像を流していた。たしかに、ウンザリしていたような気もする。

しかし、大津波と原発事故を忘れないため、また、新しい世代の子たちに大津波と原発事故が起きたことを知ってもらうため、見たくない映像でも、1年に1度はテレビで大津波と原発事故の映像を流すべきではないだろうか。

今回の能登半島地震で、能登半島の東側の海岸にある志賀原発は、危うく大惨事をまぬがれた。西側の海岸では2メートルから4メートルの隆起があった。使用済み核燃料を冷やすプールの電源が切れたにもかかわらず、志賀原発は停止してから13年が経過したこと、今回の震源からはずれていたことがあって、大事にいたらなかった。

いっぽう、半島に位置した原発が事故にあった場合の避難路に問題があることが明らかになった。地震によって、道に崖崩れや亀裂が走り、避難用のバスを走らせられないことが明らかになった。海からは、港湾施設が壊れ、救助船が接岸できないのである。

テレビ討論を見ていると、今後は、避難をするのではなく、屋内待機する方向で検討すると政府関係者は言っている。原発事故の最初の瞬間は、揮発性の放射性物質が放出され、拡散のスピードが遅いので、放射性の空気のかたまりが風に吹かれて流れていくだけで、屋内にいれば、放射性の空気を吸うことはない。しかし、1、2日すれば、放射性物質はあたり1面につもり、屋内にいても安全でなくなる。避難は必要なのだ。

地震や大津波は人間の力で防げない。しかし、それによって引き起こされる家屋の倒壊や原発事故は人間の力で少なくできるはずである。特に原発事故は、原発を稼働しなければ、原発を建設しなければ、防げるのである。

そのことを人々が忘れないために、また、新しい世代の子たちに大津波と原発事故が起きたことを知ってもらうために、1年に1度はテレビで大津波と原発事故の映像を流して欲しい。


日本は経済力を誇る国であるべきか、政治の質を誇る国であるべきか

2024-02-16 11:24:31 | 社会時評

けさの朝日新聞1面トップは、「日本GDP4位に転落」であった。しかし、私はそれよりも政治の質のほうが心配である。

一人あたりのGDPで言えば、日本は、IMFの参加国198国の中で2018年に27位にすぎない。日本の経済力は、もともと、中のちょっと上にすぎない。日本の経済成長がとまったのは安倍晋三が政権を握った2013年ごろからである。株価操作を伴うアベノミクスが日本の経済に影を落とした。

私のところに毎週来る23歳の男の子に、これまでに何回投票にいったか、と聞いたら、選挙権を得てから10回の選挙があったが、投票に行ったのは1回だけ、と答えが返ってきた。

彼は特別かもしれないが、現在、日本の国政選挙の投票率は50%前後、地方選挙のそれは40%前後である。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと、第1次世界大戦後のドイツでも、政治への無関心が国全体をおおっていたようだ。彼女はその理由を「自分を代表する政党がいない」「厳しい競争社会の中で自分のことだけで精いっぱいだ」とする。先ほどの男の子に理由を聞くと同じだと言う。

政治への関心は公共財や福祉の充実に結びつく。政治への関心は、権力闘争劇への興味だけではない。野党が政権奪取を口にしないと票が伸びないというのは、健全でないと思う。

男の子の答えを聞いた夜、トンデモナイ夢を見た。行き交うバスや電車にとても多くの人が詰め込まれている。おしっこをしたくなって公衆トイレを探したが、どこにもない。やっと駅の片隅にトイレを見つけたが、すごく小さいうえに、とてつもなく汚かった。

多くの人々が政治に無関心なとき、公共財や弱者が見捨てられ、社会に不公平が増大する。ハンナ・アーレントは、そういうときに、全体主義運動が勢いをもち、権力を奪取すると、運動に参加した人びとを見捨て、全体的支配がはじまると言う。

第1次世界大戦後のドイツと現在の日本との違いは、当時のドイツでは人が余っていたが、いまの日本は人手不足である。ハンナ・アーレントは、全体的支配は、人が余っていて いくら殺してもかまわない時に、可能となると主張する。だから、全体的支配は、ロシアとドイツで可能となったという。

彼女は、プロイセンの社会に郷愁をもっており、ブルジョアジーの観点から、世界を見ている。彼女の言うことそのまま正しいと私は思わない。

しかし、「自分を代表する政党がいない」ということが、国民の大多数だとすると、それは「議会民主主義」の失敗を意味する。保守か革新かという抽象的な世界観、政権党か政権奪取かという権力闘争しか、政党が主張できないとすれば、その政党はすでに死にかかっている。


天才は崇拝する対象なのか、松本人志のばあい

2024-01-30 10:47:19 | 社会時評

けさのテレビで、松本人志は天才だ、崇拝している、との趣旨の発言があった。妻も「えっ」という感じで見ていた。

ちょうど昨日 読んでいたハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)の第6章に、つぎの文章があった。

〈個人の「個性」に捧げた際限のない賛美である。そこでは完全な気ままさこそ天才の証明だとされる。いわゆるロマン主義的な世界感情・生命感情の中核をなすのは、天才の概念と生産性の概念であり、天才の程度は彼が生産し得る思いつきの数によって決まるとされている。ロマン主義のこの天才崇拝・個性崇拝は、近代知識人の相貌を決めるうえで他のすべてにまさる決定役割を演じた。〉

ここでは、天才とは何か、という問題と、天才は崇拝の対象か、という問題が提起されている。

英語版の『全体主義の起源』では、「個人の「個性」」は"personality" of the individualとなっている。「崇拝」はidolization、「思いつき」はthe entirely arbitrary game of his "ideas" となっている。(みすず書房の版はドイツ語版の翻訳。英語版はネットで無料でダウンロードできる。)

明らかに、アーレントは、天才の概念に疑いをもっており、だれかを安易に天才と偶像化することに警告を与えている。

私自身は「天才」とは、人のいうことを受け売りするのではなく、自分の頭で考え判断することだと軽く考えている。あなたも私も、だれもが天才になれるのである。だから、だれかを天才と崇拝するのではなく、自分自身が天才になるよう、つとめるものだと考える。だれもが自分の思いつきをおしゃべりして良いと思う。

アーレントは、上に引用した文章の背景として、ドイツの知識人が 遅れて西欧文化圏に参加したことの劣等感の反動として、天才の待望や天才の崇拝があると考えていたようだ。

松本人志の場合は、自分の思ったことを発言できないという日本社会の閉鎖的風土と、吉本興業の芸人売らんがためのイメージ作りとの 合体ではないか、と私は考える。

吉本興業は、安倍晋三に尻尾をふりふり、NHKの教育番組制作に食い込み、また、大阪万博にも食い込んでいる。松本人志は来年の大阪万博のアンバサダーになっていた。


横浜市の図書館情報システムの切り替えに苦言を呈する

2024-01-21 23:55:01 | 社会時評

横浜市の図書館情報システムがこの年末年始で入れかわった。これに関して私は大きな不満がある。

第1に、昨年の12月25日から今年の1月14日まで、3週間も、図書館情報システムのサービスをやめたにもかかわらず、切り替え後、1月15日、1月16日まで情報システムが混乱した。第2に、前システムのインタフェースと新システムのインタフェースに連続性がない。第3に、前システムの図書検索機能が改善されていない。

横浜市の図書館情報システムの入れ替えは4度目である。前回の入れ替えでは、図書館情報システムは長期にとまることも混乱もなかった。しかし、前回の入れ替えでも、インタフェースの断絶があった。検索機能は改善されるどころか、悪くなったと私は感じた。

前のシステムは、日立製作所が開発を請け負い、検索機能はトウハンが下請けしたようである。

トウハンは書籍流通の大手であるので、検索機能が前より劣るのは、私にはとても不思議だった。日本社会では旧漢字と常用漢字が併存しており、また、海外の著者名をカタカナに直す際に表記が一意的でない、タイトルに副題がついているなど、タイトルや著者名には、曖昧検索が必須である。

今回のシステムの入れ替えは、横浜市教育委員会事務局中央図書館企画運営課が2021年3月1日にシステム仕様書を作成し、同年10 月12 日に公開入札した。翌年の3月1日に富士通Japan株式会社神奈川支社が落札した。横浜市は「AIを利用した蔵書探索サービスを全国で初めて導入する」と発表したが、入れ替えたシステムは、前と同じく検索の精度が悪い。AIをなにに使ったか不明である。

新システムで、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を検索しても該当なしである。3分冊になっているから、『全体主義の起源1』、『全体主義の起源 1』、『全体主義の起源 新版』と入力してもだめだった。いろいろ試して分かったのは、『全体主義の起源 1 新版』と入力しないと検索にヒットしないのである。

落札する会社によってインタフェースが変わるのも困ったものである。横浜市はインタフェースの連続性を保つようシステム仕様書に書くべきである。

また、今回のシステムでは、画面に表示される文字の大きさが、項目によって異なる。どうも図書システムを使ったことない人が画面をデザインしたらしく、大事な情報の文字が通常より小さいのである。私のような年寄りには、すべて同じ大きさでいいから、ほかのサイトと同じ大きさにして欲しかった。

つぎに、今回のシステム入れ替えで、3週間もかかったのに、新システムの初日と翌日のアクセス処理に混乱が起きたことを検討してみたい。

まず、システムの停止期間が長かったのは、横浜市がシステムをハードウェア中心に考えていたことである。もう3度目のシステムの切り替えだから、ソフトウェアの入れ替えだけでよかったはずだ。

システム開発の発注において、ソフトウェアとハードウェアを切り離すべきであった。今回、ハードウェアは図書館にすでにあるのものをベースにすべきであった。そうすれば、ソフトウェアシステムの開発に1年かかっても、切り替えの期間は数日あれば十分である。じっさい、多くの基幹システムの切り替えは数時間で行っている。

現在のシステムはサーバとクライアントからできている。どちらも、ソフトウェア側からみれば、ハードウェアがどこのメーカでも動くのである。とくに、クライアントは町で売っている普通のパソコンで十分である。ハードウェアは消耗品である。

今回入札したシステム価格は、ハードウェアベースに評価しており、ソフトウェアがおまけになっている。これはソフトウェア軽視であり、システム開発の経験者からすればあり得ない話である。

また、サービス開始におけるアクセス集中のトラブルも、開発請負会社の図書館システム運用実態の無知に起因すると考える。

今回、システム切り替えで、これまでのユーザーのログインパスワードを無効にした。利用者は新規パスワードを登録しないと、図書館システムが使えないのである。ユーザインタフェースがこれまでと異なるうえに、また、パスワードがこれまでと違い、8文字以上でアルファベットと数字と記号を含まないとだめに変更した。インタフェースの違いやパスワード規格の違いなどがあり、パスワード登録にユーザーの操作ミスでアクセス数が異様に増えたと私は考える。

利用者が旧パスワードでログインでき、1月中に新規格のパスワードに切り替えるとすれば良かったのだ。前回の切り替えでは、パスワードの変更が要求されなかったので混乱を招かなかったと考える。

システムの運営においては、サーバー側の運用に専門性が求められる。したがって、バッグアップなどのサーバーの管理は運営会社に委託すればよい。図書館側は各サービスのアクセス数とか不具合の発生とかの報告を運営会社から受け取ればよい。

サーバーの管理を運営会社に委託する利点はアクセスの増加・減少に合わせてサーバーの台数を動的に変えることができることにある。サービス開始時のアクセス集中を処理するためには、サービス開始時だけ、サーバー数を増やすのが20年前から世界の常識である。

請負会社を10年ごとに取っ変えるだけでは、図書館情報システムは良くならない。図書館側としては、図書館を愛する利用者が指摘する改善点をまとめ、継続的にシステムの改善をソフトウェア開発会社に求めて行くのが望ましい。

図書館を利用しない営業マンが「AIだ」「ビジュアル・インタフェースだ」と言うのを信用していけない。図書館側はソフトウェアシステムが分かる人を職員として正規採用し、富士通とか日立とかに騙されないようにすべきである。資本主義社会では、IT会社の経営者と営業マンはどこもごろつきである。彼らは、情報処理システムに無知なうえ、会社が儲かることしか考えていない。

[追記]

横浜市の図書館が教育委員会事務局の下にあるのに私は違和感がある。図書館は市の文化事業であるべきである。教育委員会が文化のことがわかるはずはない。