猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

安倍晋三の尊敬する吉田松陰とは何者ぞ

2019-08-25 20:51:13 | 国家


安倍晋三の『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)を読むと、「闘う政治家」「大義に殉ずる」「国に誇りをもて」という言葉がちりばめられているが、何のために誰と戦うのか、大義とは何か、国とは何か、がまったく考察されていない。

もしかしたら、山口県の誇り、吉田松陰の書を読めば、何かがわかるかと思って、古川薫の『吉田松陰留魂録』(講談社学術文庫)を読んでみた。本書は松陰の死の直前に書き残した「留魂録」に、古川の「解題」、「〈付〉史伝・吉田松陰」を添えたものである。

わかったのは、吉田松陰の頭の中は空っぽで、ただの熱しやすい大言壮語の青年にすぎない。安倍は、熱しやすいかどうかわからないが、頭の中は空っぽで、ただの大言壮語の老人にすぎない。松陰は同志と酒を飲んで「国の大事」を論ずるが、安倍は友とバーベキューを食べながら悪だくみを論ずる。

安倍の「《闘わない政治家》とは、《あなたのいうことは正しい》と同調はするものの、けっして批判の矢面に立とうしない政治家だ」は、「留魂録」にある孟子のことば「至誠にして動かざる者は未だ是れ有らざるなり」の焼き直しである。安倍は、子どものときから、松陰の語録を聞いて育ったのであろう。

松陰は山鹿流兵学者として育てられる。しかし、驚いたことに、松陰など当時の兵学者は、漢籍をもとに、戦う侍の事前の心構えを教えるだけで、近代戦には全く役にたたない。根性論なのである。これでは、欧米との戦争に勝てるはずがない。

松陰には思想がない。哲学がない。松陰もイギリスやフランスの書を読み、自由、平等、民主主義、主権、議会などを知っていれば、もう少し、まともな考えを持てただろう。松陰はまともな思想というものに出会っていないのだ。せめて、聖書の知識やギリシア哲学に触れていればと思う。

松陰は、アヘン戦争やナポレオンとの戦争についての書を読んでいる。したがって、オランダ語のフレーヘド(vrijheid、自由freedom)に接しても、ナポレオンに抗しての独立を守る欧州戦争しか連想しないようである。安倍がやたらと「日本の独立」を唱えることに通じる。

松陰は、11歳のとき、藩主の毛利敬親の前で御前講義(親試)を行なう。これは、藩主の「藩学興隆」という政策の一環で、勉学する若者にヨイショをするわけだ。子どもの松陰は何も考えているわけでなく、漢籍から学んだ知識を披露するだけだが、舞い上がって、自分を優秀で まれにみる傑才だと思い込む。

大人になった松陰は『講孟余話』を自信満々で書き、ある儒学者に送るのだが、古川によれば、その儒学者に「その非論理性が、いくらかは揚げ足を取られるように暴露されていく」のである。

松陰が幕府に捕らえられ、三奉行に「汝陳白する所 悉く的当とも思はれず、且つ卑賎の身にして国家の大事を議すること不届きなり」と叱責される。このことに対して、「言論の自由」の立場からは反論しない。優秀な自分が国を思って発言したことを聞き従わないことを怒るだけである。

松陰には人権という概念もないのである。

松陰には、思想といえるものは、天皇への絶対忠誠と、海外勢力(夷)から日本の独立を守ることしかない。すなわち、尊王攘夷と富国強兵である。こんな空っぽの思想で長州藩が倒幕に向かったから、「勝てば官軍 負ければ賊軍」「勝ち馬に乗る」で、「至誠」の反対の腹黒い輩が集まり、明治維新が起きたのもやむをえない。

バカなのは、刑死した松陰だけではない。田中彰の『明治維新と西洋文明 岩倉使節団は何を見たか』(岩波新書)を見ると、明治政府の使節団は、機械文明に感銘するだけで、議会を見学しても、西洋の政治のしくみが理解できない。なんと非効率的なことをしているのだろう、となる。日本のように、すべて、優秀な役人が粛々とものごとを決めれば良いとなる。

さて、松陰や明治維新に敬意を表する安倍は思想がないことがわかったが、安倍が身内に起きる腐敗に寛容なことは、そして、平成天皇をバカにしていることは、彼自身は「至誠」の反対の極にいると想像させられる。

権力闘争の好きな自民党、国家主義者の安倍晋三

2019-08-11 19:57:55 | 国家


先日、小泉進次郎と滝川クリステルの婚約会見で、進次郎が次のように語った。

「政治の世界って、私からすると戦場なんです。いつ命を落とすか分からない。やるかやられるか、そういった権力闘争が避けられない部分があって。」

そして、クリステルと一緒にいると、無防備な自分でいることができ、救われる思いがして、結婚することにしたという。

小泉進次郎だけでなく、自民党の政治家は権力闘争が好きで闘っているようだ。

「闘う政治家」を自認する安倍晋三も、『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)で次のように言う。

抗争を繰り返していた……二つの保守政党が、恩讐を乗り越えて合併をはたし、自由民主党が誕生した。」

安穏と「時機を待って」いていいのか。最後は自分自身で決めるべき問題でした。私の決意の聞いた同志たちと火の玉となって総裁選を戦った。」

まるでヤクザの出入りである。

安倍はなんのために闘うのか。「日本が本当の意味での独立を取り戻す」ためだと言う。それは、「国の骨格は、日本国民自らの手で、白地からつくりださなければならない」、すなわち、「自主憲法の制定」だと言う。憲法が米国の押し付けだから、日本が独立していないという論理だ。

しかし、安倍は、現在の憲法のどこが問題だ、と言うのか。

「連合軍の最初の意図は、日本が二度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった。」

後で自分の発言に いいわけ できるように「最初の」という修飾語を入れるところが安倍の巧妙さである。

「列強」が、安倍の本音を表わすキーワードである。

太平洋戦争(日米戦争)を次のように評価する。

「昭和17、8年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。」

「民意の多く」という言葉が出てくるのは、安倍の祖父 岸信介が、東条英機内閣の商工大臣として、太平洋戦争の開戦の奏上に署名しているから、その正当化のために挿入された歴史の偽造である。

「日本の独立」というが、対米従属政策を行ってきたのは自民党そのものである。安倍のトランプ接待外交は何なのか。

安倍は対米従属を行う理由を次のように述べる。

「核抑止力や極東地域の安定を考えるなら、米国のとの同盟は不可欠であり、米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである。」

安倍は米国の「最強の軍事力」だと言っているのだ。

しかし、私は、この50年間、日本が米国に従属してきた理由は、米国の経済力であったと思う。EU諸国からは、日本の工業製品を買ってもらえない。米国は安ければ買ってくれる。

ところが、1980年代から自動車輸出をめぐって米国から文句が来るようになった。このころから、日本も米国の軍事作戦に直接協力しろという要請がきた。韓国は、米軍の指揮のもとにベトナムなどの海外の戦争に参加していたからである。日本に米軍基地を置くだけでなく、基地維持の経費を日本に払わせるようになった。

すなわち、お金の問題で、日米の利害が対立していることが明らかになったのである。これは、現在の米中の対立構造と同じである。

じつは、米国とは、USA政府のことで、米国の金持ちの利害を代弁しているのにすぎない。もちろん、日本というとき、日本は、日本の金持ちの利害を代弁している。

ここに、「国家主義」の詭弁がある。国家主義は、国内に格差があり、政府は金持ちを代弁しているだけである。弱い敵国を作り、それと争うことで、自分たちを正当化しているだけである。権力を握りつづけるために、たいしたことがなくても、安全保障上の危機を煽るのである。

安倍は、次のように言う。

「日本とアメリカは、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争――市場経済という、基本的な価値観を共有している」

しかし、日本政府も米国政府もおこなっているのは、金持ちの自由「自由な競争――市場経済」にすぎない。民主主義とはひとりひとりが対等であるということだ。

安倍は「自由」「人権」を制限しようとするが、弱い者、貧しい者の「自由」「人権」を擁護しようとしない。そして、次のように述べる。

「アメリカのいうままにならずに、日本はもっといいたいことをいえ、という人がいるが、日米同盟における双務性を高めてこそ、基地問題を含めて、わたしたちの発言力は格段に増すのである。」

安倍は、日本に米軍基地があるのは、日本人がアメリカ人のために血を流さないからだ、と結論付ける。

「日本が真に独立していない」のは、憲法が米国の押し付けで、他国と戦争できず、アメリカ人のために血を流せないからだ、では、論理的に破綻している。自民党が経済的な動機から対米従属をおこなってきたことを無理に弁解をしているだけだ。

日本が「列強」になるために、自由と民主主義を抑え込み、吉田松陰の理念の「富国強兵」を進めているのが、安倍である。

私は、日本が列強になる必要はない、と考える。それより、自由、平等、愛を大切にする国であるべきだ。

戦後70年安倍談話と民族派・親米派

2019-08-01 23:38:51 | 国家


4年前の安倍晋三の戦後70年談話は、その年の保守系の論者の間で、米国が主導した東京裁判を否定する民族派と、米国主導の秩序を肯定する親米派をともに満足させることができた、と高く評価された。

安倍談話は 別に親米派を喜ばせることを言っていなように思えるのに、なぜ満足したかが、私には不思議であった。

しかし、現在から、安倍談話を振り返ると、親米派には、なんのイデオロギーがないからである。米国に日本製品を買ってもらいたい、米国に日本を武力で守ってもらいたい、この2点しか、親米派にはないからだ。米国を怒らせることを安倍談話に書かなければ、それだけで良いのだ。

民族派から見れば、日本は、民族の独立という崇高な考えから、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜き」、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と、戦前を美化しているから、談話は満足ゆくものだった。「富国強兵」のもと、欧米の領地拡大競争に日本が参加した、明治以降の歴史を隠したものである。

安倍晋三もイデオロギーのない男である。祖父や叔父や父から受け継いだ吉田松陰の教え、「日本の独立」「富国強兵」と親米派の「貿易立国」「対米従属」が共存している。

彼の『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)の第4章で「リヴァイアサンこそがアメリカの役割」だと書く。この意味は、アメリカによって世界の秩序と日本の安全が保たれるという意味だ。

安倍晋三がトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を読んだか怪しい。

自然状態では、ひとは、互いに能力の大差がないうえに、他を支配しようという欲望をもつから、争いが絶えなくなる。だから、1つの意志をもつ生き物のように動くひとびとの集まり「リヴァイアサン」に、自分の自由を差しだし、その代わりに安全を得る、という考えを、トマス・ホッブズが主張している。

ここで意志を担うものを主権者という。トマス・ホッブズは、主権者と、臣民(自分の自由を差しだし手足になる者たち)とを区別している。

「リヴァイアサンこそがアメリカの役割」というとき、ローマ帝国による地中海の平和「パクス・ローマーナ」のように、世界がアメリカの属国になればよいという考えを言っているのだ。

「日本の独立」と「対米従属」とが本来矛盾するはずなのに、安倍晋三はそう思わないのだ。彼の『新しい国へ』で、日本が「自由」と「民主主義」のために闘っていると書く。この「自由」と「民主主義」のもとに、日本をアメリカに投影することで、国に誇りをもてるように、するという。

これが、トランプ大統領への安倍晋三の接待外交を生む。ところが、トランプは、安倍を弱い男と思い、要求をどんどん高くしてくる。接待外交はすでに破綻している。

トマス・ホッブズは王党派であるが、主権者である王が自分の安全を脅かすとき、臣民は王を捨てても良いと言っている。

日本の取るべき選択は、安保を破棄し、米軍に日本から去ってもらうことでないだろうか。

ところが、いま、安倍政権がおこなっていることは、トランプ政権に対する怒りを、ムン・ジェイン政権にぶっつけているだけだ。日本国民は、事実を見つめないといけない。

「国」という漢字が嫌い、「国家」という語はもっと嫌い

2019-07-30 22:46:56 | 国家


安倍晋三は、「国に自信をもて」「国に誇りをもて」という。彼のいう「国」とは何か、何に自信をもてというのか、何を誇りとするのか、彼の著作『新しい国へ――美しい国へ完全版』を読んでも わからない。

よくわからないのに、「大義に殉ぜよ」という。

第一、私は「国」という漢字が好きでない。戦後、「國」から「国」に字体が変えられた。この事実を子供のとき知ったが、「口」の中にどうして「玉」と書くのか、いまでも納得いかないままである。戦後の国語教育改革で、王党派による陰謀があったのではないか。

私の学生時代は、みんなは「国」という字体を使わず、「口」の中に「ヽ」を書いた略字を使っていた。

それに、もともとの日本語の「くに」とは、自分の生まれた土地、すなわち、自然をいい、「国家」という意味はなかった。英語の“country”に近い。したがって、「くに」に「邦」の漢字をあてた。「國(こく)」には、縄張りの争いのイメージがあり、「戦國時代」にぴったり合う。

トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』では、「国家」にあたる英語として、 “COMMON-WEALTH”や“STATE”を、または、ラテン語の“CIVITAS”(キウィタス)を使う。プラトンの『国家』は、原語では“πολιτεία”(ポリテイア)である。英語に翻訳されると“The Republic”となる。いずれにせよ、日本語の「国家」とイメージが大きく異なる。

英語の”common wealth”や“state”や“republic”やラテン語の“civitas”の訳に、明治時代に、なぜ「國家」を当てたのか、わからない。「國家」の「家」は、もともと王朝を意味する。ホッブズは、「多数の人間が、約束にもとづき、一体となって意志をもつもの」を”common wealth”と定義する。

ホッブズは17世紀の人である。明治は19世紀の後半である。安倍晋三は「国誇りをもて」というが、どうして、日本のような文化的後進国に誇りがもてるのか。誇りは自分にもつので十分である。

先日、安倍と付き合う吉本興業の岡村社長は、自分と所属芸人の関係は「親子」の関係だと言った。17世紀のホッブズは、人間は対等、同じ能力をもっている、という。21世紀の岡本社長は、自分と6000人の芸人は親子という。そこには「対等」という概念がない。
首相が情けないバカであれば、まわりに集まるものもバカである。

単一の意志をもって動く人間集団の怪物リヴァイアサン

2019-07-28 17:15:53 | 国家

リヴァイアサン(Leviathan)は、旧約聖書(ヨブ記3章8節、40章25、27、29節、詩編74編14節、104編26節、イザヤ書27章1節)に登場する水陸の怪物レビヤタンのことである。

ところが、17世紀のイギリスの法哲学者トマス・ホッブズは、ひとびとが集まって1つの意志をもつ「人工の人間」のようになる、COMMON-WEALTHあるいはSTATEのことをリヴァイアサンと呼んだ。

上の図は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の扉絵の部分で、ひとりひとりのヒトが怪物レビヤタンの鱗をなしている。

安倍晋三も豊永郁子もこのホッブズの『リヴァイアサン』を引用しているが、それが大きく違う。

安倍晋三は『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)の第4章で次のように書く。

《 『リヴァイアサン』には次のような1節がある。

 人間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。人間社会がジャングルのような世界であれば、万人の自然の権利である私利私欲が激突しあい、破壊的な結末しか生まない。そんな「自然状態」のなかの人間の人生は、孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになる。だから人々は、互いに暴力をふるう権利を放棄するという契約に同意するだろう。しかし、そうした緊張状態では、誰かがいったん破れば、また元の自然状態に逆戻りしかねない。人間社会を平和で、安定したものにするには、その契約のなかに絶対権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なのだ。

 ロバート・ケーガンは、このリヴァイアサンこそがアメリカの役割であり、そのためには力をもたなくてはならないという。そして力の行使をけっして畏れてはならない。》

最初の行「『リヴァイアサン』には次のような1節がある」は、安倍の記憶違いだろう。続く段落の節は、『リヴァイアサン』にない。多分、ネオコンのロバート・ケーガンが『リヴァイアサン』を要約したものを、安倍が書き抜いたのだろう。

17世紀のホッブズは、国のことをCOMMON-WEALTHあるいはSTATEを書く。王国( Kingdom)と書きたくなかったからだ。一人の人が権力を握るのではなく、人間の集団が1つの意志をもち行動する人工の人間(artificial man)を怪物というのである。

いっぽう、豊永郁子は、去年の11月7日の朝日新聞〈政治季評〉に次のように書く。

《このように社会と国家に先行し、社会契約を生む「万人の万人に対する闘争」を、ホッブズは一貫して強者を諫める観点から、つまり強者に恐れを抱かせ、生存のために社会契約を受け入れさせるものとして論じている。自然状態では、強者の支配はすぐに覆され、強者は天寿を全うできず、強者が常に勝つとも限らない。つまり、それは「弱肉強食」の状態ではないのである。

 むしろ人間が平等だから、そして人間同士の欲求が競合するから、「万人の万人に対する闘争」は起こる。平等だから決着もつかず、「闘争」は永遠に続く。ここでホッブズが言う平等は、人間の総合的な能力の平等である。つまり、人間の間には大した能力の差はないということだ。

 これには驚かされる。規範として、希望として、平等を論じる思想は多数あっても、事実としての平等を告げる思想は稀(まれ)だ。さらにホッブズは、「最も弱い者が最も強い者を殺すことができる」ことを、人間のそうした平等の根拠とする。ギョッとするが、そうかもしれない。ホッブズが好んで引く旧約聖書では、少年が大男を倒し、か弱い女性が英雄を滅ぼす。これらは勇気や奸智(かんち)の物語である以前に、人間の平等を伝える物語であったのだろう。

 要するに、ホッブズはこう言っているようである。「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」。これは「弱肉強食」の主張を封じ、弱者に尊厳を取り戻す論に他ならない。》

私は、豊永の「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」に共鳴する。

しかし、国家が1つの意志をもって行動することは、ホッブズの言うように、やはり、怪物ではないか、と思う。