猫じじいのブログ

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民主主義とは何か、代議制ではない、自己統治の理念だ

2021-07-22 23:59:48 | 民主主義、共産主義、社会主義

デモクラシー(民主主義)を支持する、反対するといっても、それがなんであるかは、人によって異なる。その意味で、宇野重規の『民主主義は何か』(講談社現代新書)は、民主主義の1つの定義の試みであり、貴重なものである。

私が民主主義を支持をするのは、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』のつぎの一節による。

《「民主政」(デモクラシー)のもとで苦しんでいる人々は、これを「無政府」(アナキィ)〔統治の欠如の意〕と呼ぶ。》

私は人から理由もなく命令されることは いやである。あれを食べろ これを食べろと言われたくない。だから、統治者がいない、自分自身で自分を支配する「アナキィ」のを良しとする。

宇野が古代ギリシアのアテナイでの民主政から論じたのは、現代の代議制民主政を相対化するのに必要だったから、と思う。

よく、西洋は古代ギリシアの文化と連続のように言うが、そうではなく、古代ギリシアの文化はイスラム国家がひきついだのであって、西洋社会はゲルマン文化の申し子で、そこにキリスト教がいびつな形(西ローマ帝国のなれのはて)で入り込んだものである。

古代ギリシアのアテナイでは、国会にあたるのは民会(エクレーシア)で、政府にあたるのは評議会である。民会は、市民の誰もが参加でき、発言でき、その評決が、ポリスの最高意思決定になる。評議会のメンバーは市民の間から、くじで選ばれ、民会への提案をつくり、可決された提案の実施を担当し、任期が終了すると、公正な行動をしたかの審査があったという。

どこで読んだか いま思い出せないが、ゲルマン社会はもともと貴族政で、王は貴族の間の選挙で選ばれたという。それが破られたのが、西暦800年のカール大帝の戴冠である。それまで、選挙が王であることに権威をあたえたのだが、これ以降は、ローマの教皇の支持を権威として、世襲制になった。

現在の代議制民主政は、ゲルマン文化に由来するもの、と私は思っている。代議制民主政は、世襲制に対する反対するという程度の正当性にすぎない。代議制だから民主主義的だ、とは言えない。

宇野は、デモクラシーの語源が、紀元前508年のクレイステネスの改革で、旧来の4部族制から10部族制に移行したときの、行政単位、デーモスだと言う。4部族制が血縁にもとづいていたのに対し、10部族制は、市民がどこに住んでいるか、にもとづいて行政をおこなったという。だから、本当は10「部族」という言葉はオカシイ。とにかく、血縁から地縁に統治を移行することで、貴族の政治的基盤を弱めようとしたのである。

その後、デーモスは、行政単位から、血縁によらない人びとの集まりを意味する言葉になり、大衆とか、群衆とかを意味するようになった。

したがって、デモクラシーは、選挙か直接かを問わず、みんなが公共の事柄に関与でき、だれか一部の人びとによって、みんなが統治されることがない ことだという。

デモクラシーを非難してきたのは、文字を読み書きできる人たち(知識人)だった、と宇野は言う。

ギリシア語聖書(新約聖書)によれば、初期キリスト教徒は、自分たちの集会をエクレーシアと呼び、グラマティウス(読み書きできる人)を敵視していた。初期のキリスト教にはギリシアの民主主義の香りが残っていたように思える。エクレーシアを「教会」、グラマティウスを「律法学者」と訳すのは間違いである。

デモクラシーに対抗する思想が古代ローマの共和政(res publica リパブリカ)であると、宇野は言う。このリパブリカは「公共の事柄」と意味する。共和政派からすると、デモクラシーが多数派による衆愚政治で、共和政は賢いものが社会を統治することである。この共和政の罠は、社会にとって何が正しいか、ということが、自明でないことだ。そして、一部の人間たちが多数の人々を「愚か者」呼ばわりし、エリートがデーモスを支配することが起きる。

現在でも、政治家がかってに「国益」という言葉を使う。それは、あなたが決めることではないでしょう、と言いたくなる。「国益」を言う政治家はデモクラシーを否定している。自分だけが偉いんだと思っている。

私にとって不思議なのは、ドイツで、ローマ教皇によるゲルマン社会の政治への関与に反対するのに、デモクラシーではなく、リパブリカが持ち出されたことである。ゲルマン社会にデモクラシーが登場するのに19世紀まで待たなければならなかったのである。


宇野重規の『民主主義とは何か』はとても面白い、読むに値する

2021-07-13 22:03:54 | 民主主義、共産主義、社会主義

期待通り、宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)は面白い。コンパクトに論点がよくまとまっている。

「はじめに」から、彼は通念に直球勝負をしている。

A1 「民主主義とは多数決だ。より多くのひとびとが賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」
A2 「民主主義の下、すべての平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない」

B1 「選挙を通じて国民の代表を選ぶのが民主主義だ」
B2 「選挙だけが民主主義である」

C1 「民主主義とは国の制度のことだ」
C2 「民主主義とは理念だ」

お気づきのように、1が「通念」で、2が宇野の「信念」である。私も2の意見である。本書は、彼がなぜ 2の立場をとるのかを説明する。

   ☆   ☆   ☆

「序 民主主義の危機」も論点がしぼられている。目前の民主主義の危機とはつぎである。

  • ポピュリズムの台頭
  • 独裁的指導者の増加
  • 第4次産業革命の影響
  • コロナ危機と民主主義

彼は現在の4つの危機を民主主義の乗り越えるべき試練ととらえ、それを乗り越えることで、民主主義がより素晴らしいものになると考えている。それは民主主義が「理念」だからである。

宇野は「ポピュリズムには既成政治や既成エリートに対する大衆の意義申し立ての側面」「ポピュリズムが提起した問題に対して、民主主義も正面から取り組む必要」と述べている。アメリカ政治学の中山俊宏もトランプ元大統領の評について同じ立場を述べている。

第4次産業革命とはIT技術の勃興ということだが、宇野はAI技術を過大評価していると思う。IT技術が事務職の地位を引き下げたことは評価すべきであると思う。私は中間層は要らないと思う。中間層は民主主義を安定化させると考える人もいるが、現実の中間層は特権階級を守る防波堤として機能しており、民主主義の担い手ではない。中間層が没落することは、特権階級を追放するために、必要な道標である。

また、人が自分に都合の良い情報だけのなかに埋没しようとするのは昔からのことであり、IT技術やAI技術のせいではない。マイクロソフトやグーグルがいつもステレオタイプ的な情報の押し売りをするのに私はうんざりしている。ツイッターやフェースブックやラインは絶対に使わないことにしている。

AI技術が行政に使われたときの危険は、学習という統計的手法のため、個々人のユニークネスが無視され、個別性を無視した一律的な対応がされること、すなわち、人間であることが否定されることである。AIは個人を尊重しない保守政治家、官僚のように機能する。

   ☆   ☆   ☆

「第1章 民主主義の「誕生」」は、古代ギリシアの民主主義を扱っている。現在の民主主義を相対化するために、重要な章である。M.I.フィンリーの『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)より単刀直入で詳細である。

《最盛期のアテナイの民主主義においては、一部の例外を除き、すべての公職が抽選で選ばれました。》

これはよく知られているが、宇野はつぎの言葉を添えている。

《これに対し、選挙はむしろ「より優れた人々」を選ぶ仕組みとして理解され、その意味で貴族的であるとされました。》

また、彼はつぎの指摘をしている。

《古代ギリシアの人々は、民主主義の制度と実践について、きわめて自覚的でした。彼らは自分たちが採用している仕組みについて誇りをもち、これをみずからのアイデンティティとしました。》

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)で、ギリシアの古代民主主義は王侯貴族と血塗られた抗争の結果、勝ち取られたものであると書いている。宇野もこの事実を指摘しながら、もっと広い世界史的視点から、メソポタミアの強国の周辺国だったことが、古代民主主義に幸いしたという視点を付け加えている。

また、奴隷と市民との関係についても、ギリシアとローマとの違いに言及している。ギリシアの市民が自分自身の手でものを生産する労働者(worker)であったことが、民主主義を存続させたと指摘している。

プラトンをはじめとする古代民主主義の敵対者も取り上げている。

民主主義とは何かを考えるうえで本書は貴重な論点を与えてくれる。


宇野重規の民主主義は平等であるは画期的な発見だ

2021-07-12 22:33:39 | 民主主義、共産主義、社会主義

私は民主主義を支持する。誰かに命令されて動くのは嫌だ。自分の意志で動きたい。これって、民主主義とは自由主義なのかと思いこんでいた。

宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)読み、民主主義の根本は平等である、というのを知った。人はみな平等であるべきである。私は、ますます、民主主義を支持するようになった。

宇野重規の最新作、『民主主義を信じる』(青土社)を図書館から借りて読んだが、この『トクヴィル』より面白くなかった。これは、彼が民主主義を信じる理由を書いたものではなかった。そうではなく、2016年から2020年にかけての、その時々の内外の政治問題の評である。東京新聞にほぼ毎月寄稿していたものをまとめて出版したものである。

この5年間、戦後レジームからの脱却、アベノミクス、地方創生、一億総活躍社会、女性が輝く社会、などなど、キャッチコピーが安倍政権から目まぐるしく発信された。このような戯言に国民が騙されるのは、電通の知恵袋の優秀さよりも、国民は戦うより騙されたいからではないか、の疑念が起きる。森友学園事件で死んだ赤木俊夫さんの妻の無念さを思うといたたまれない。

宇野の『民主主義を信じる』の個々の政治問題の評は同意できるが、そこにいたる理由の説明が不十分で、物足りない。不甲斐ない国民への叱咤激励がほしい。

ベルリンの壁の崩壊以降、日本ではイデオロギーが軽んじられ過ぎている。民主主義を単なるルールと思いたくない。理念であるからこそ、本当の民主主義を実現するために、努力しがいがある。だから、私にとって、「民主主義を信じる」というより、「民主主義を欲する」というのが適切かもしれない。

同じく予約した宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)が図書館に届いたので、借りて読む予定である。期待している。

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民主主義の根本は平等にある

2021-06-20 23:09:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)の書評を読むうちに、これは、「平等」の問題と関係していると思った。

「平等」は、宇野重規が説いているように、民主主義の基本である。人間はみな対等であり、専門家でなくても、臆することなく、自由に発言して良い。人間関係に上下がなく、子と親の関係、生徒と先生、患者と医師、社員と社長との関係も対等でなければならない。

育鵬社の公民の中学教科書は、「平等」を「法の下の平等」と説明する。

《人は顔や体格はもちろん能力も性格も千差万別です。しかし法はそのようなちがいをこえて平等な内容をもち、すべての国民に等しく適用されなければなりません。》

《一方で、憲法は人間の才能や性格のちがいを無視した一律な平等を保障しているわけでありません。》

これでは、「機会の平等」と同じく、現実の格差や人間関係の上下を正当化するもので、誤りである。また、「法」を「平等」の中心にすえるので、法律の専門家に有利な社会制度を許してしまうことになる。

東京書籍の公民の中学教科書の「平等権」はつぎではじまる。

《全ての人間は平等な存在であり、平等な扱いを受ける権利である平等権を持っています。》

したがって、民主主義の理念、「人権」とは、人間みんなが対等であるという根本理念にもとづき、支配者だけがもっていたすべての権利を、すべての人に与えたものである。

しかし、東京書籍は、上の文の直後に、つぎの厄介な文を付け加える。

《しかし、偏見に基づく差別が、今なお残っています。特に「生まれ」による差別は、基本的人権の尊重という日本国憲法の基本原理に反するもので、決して許されません。》

「差別」とは「平等」の反対語なのだろうか。「差別」とは、「差別」する主体の存在を仮定していないだろうか。「偏見に基づく」とは誰が判定できるのだろうか。なぜ、「偏見」が生じるのだろうか。

辞書によると、「差別」とは、「わけへだて」、「けじめ」のことだとある。ビジネスでは「商品の差別化」という使われ方をしているが、社会問題では、「格差の肯定」や「侮蔑」という意味で使われている。

私は、社会に不公平があり、それを正当化したい側がつける屁理屈が「差別」であると思う。したがって、「偏見に基づく」という言葉はいらない。「格差」を肯定することも、自分より格下として「侮蔑」することも、あってはならない。

去年の11月に、TBS『報道1930』で、森本あんり、中山俊宏をゲストに迎え、『米大統領選挙の主役となった「陰謀論」』というテーマで対話があった。

そこで、森本は、アメリカの労働者(workers)がトランプの嘘に騙されていると単純に見てはいけないと言った。この指摘は、アメリカの人びとにある不公平の現実を見逃して、知識に欠く労働者が騙されたとだけ見るのは、「偏見」だということである。

そして、森本は「ディープストーリー」(心の奥深くで感じる物語)という観点を紹介した。それが、A.R.ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』 (岩波書店)のたとえである。

《山頂には豊かになれるというアメリカン・ドリームがあると信じ、人々が長い行列に辛抱強く並んでいる。が、列に割り込んで先に行くものがいる。それは移民であり、マイノリティであるという。》

このたとえのおかしなところは、自分より先に豊かになれる人がいるのに、それを問題にしない所である。「長い行列に辛抱強く並んでいる」が、格差があるのこと、不平等があることを問題にしていない。根本的に誤っている。

しかし、彼らが誤っていることをばかにしてはいけない、というのが森本あんりの主張である。彼らにそう見えているのは、それなりの事情があるからで、対話を諦めてはいけない、ということなのだろうか。

日本でも同じ問題がある。ネットで不平不満をいうと、それを叩く人々がいる。不平不満の矛先がオカシイというのではなく、単に首相の悪口はいけないとか、世の中は厳しいだとか、いう現状に甘んじろという意見でしかない。

本来、この格差社会の頂点にあるものを批判し、引きずりおろさなければならないのに、自分より下にあると思った対象に不公平の怒りをぶつけるのは、誤りである。これは、日本での「在日特権を許さない」とかアメリカでの「アジア系へのヘイトクライム」に典型的見られる。

いっぽう、トランピズム批判のなかにある偏見にも、厳しく正していく必要がある。

 

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民主主義はどこも悪くない、ひとはみな対等である

2021-06-17 22:25:03 | 民主主義、共産主義、社会主義

きょうの朝日新聞の〈インタビュー〉は宇野重規だった。『民主主義を信じる?』が記事のタイトルである。疑問符?は記者が勝手につけたもので、宇野は、私と同じく民主主義の擁護する。

私は、彼の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)を読んでいたが、最近の本、『民主主義を信じる』(青土社)や『民主主義とは何か』(講談社現代新書)を読んでいなかった。これらを読んでみたくなった。

民主主義を否定する、あるいは、信頼しない理由が、私はわからない。

19世紀の「民主主義」の否定は、大衆の登場によって、自分の地位が脅かされることのエリート層の不安である。フリードリヒ・ニーチェの著作を読むと、「愚かな大衆」が発言しだすことの不安が前面にでている。

しかし、自分の意志が、「愚かな大衆」のたわごとと無視される側からすれば、民主主義ほど、素晴らしいものはない。

「民主主義」を否定する者は、自分だけが優秀で、ほかの者は口答えするな、という立場である。菅義偉は、自分は首相だからすべて自分が決めるんだ、という。私からすれば、彼は明らかに横暴な人間である。

宇野重規は、ポピュリズムについて、つぎのように言う。

《ポピュリズムは民主主義の敵とされることもありますが、『腐敗したエリートたち』によって自分たちの声が排除されているという、異議申し立ての側面があります。もっと参加させろ、と》

私もそう思う。「ポピュリズム」は決して悪いことではない。ところが、新聞などでは、よく「ポピュリズム」という言葉を罵り言葉として使う。「愚かな大衆」は黙っていろという趣旨で使う。

藤原貴一は民主主義を「代議制」だと言っていたが、宇野重規はこれを否定する。

《歴史を振り返ると、民主主義と議会制は本来、別のものでした。少なくとも18世紀までは、市民による直接的な統治である民主制と、選ばれた代表者による意思決定である共和政は明確に区別されていました》

私は、民主主義とは、人はみな対等であるという原則に基づき社会をきずくことだと思っている。宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』もそれに近い考えを書いている。代議制とは単なる便宜的なもので、いったん、選ばればなんでもやっていいわけではない、少なくても民主主義を否定することはやってはいけない。それを防ぐために、「表現の自由」の1つにデモの権利がある。そして、どれだけ、少人数であっても、デモを堂々とすべきであると思う。

宇野重規は、現在の日本社会をつぎのように批判する。

《自分たちが意見を言おうが言うまいが、議論をしようがしなかろうが、答えは決まっている。ならば誰か他の人が決めてくれればそれでいい――そういうあきらめの感覚に支配されること。これこそが民主主義の最大の敵であり、脅威だと思います》

安倍晋三、菅義偉は、政治をヤクザの抗争のように、戦国時代の天下取りのようにみなし、大衆のいうことは聞こえないふりをし、大衆を諦めに追い込もうとしている。どの政党もくだらないものと思わせ、棄権に追い込もうとしている。

これに逆らうには、自民党に反対する政党に投票するか、自分自身で党をつくるか、デモの権利を実行するかすればよいのだ。

民主主義では、みんなが対等である。自分が自分の意見を言うことは悪いことでない。それが、個人の尊重である。政府は、国民を統治するのではない。政府は、国民にサービスする機関である。

 

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