猫じじいのブログ

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江利川春雄の『英語教育論争史』に加える言葉

2023-02-01 00:36:42 | 教育を考える

いま私は江利川春雄の『英語教育論争史』(講談社選書メチエ)を読んでいる。江利川は、明治以降の、英語教育の縮廃論とその反論の歴史を、英語教師の立場から本書にまとめている。

私は、覚えることが嫌いで英語が好きでなかった立場から、私も英語教育論争に参加したい。

「縮廃」という言葉は、パソコンの「かな漢字変換」も機能せず、インタネット検索にも引かからない。これは、江利川が縮小論と廃止論とを統合して新しい言葉「縮廃論」を使っているからである。この選択は、江利川が英語教育「擁護」の立場に立っているからだ。

江利川は論争の歴史を、「欧化」と「国粋」の対立から書き出している。第六章にいたって、これを「英語帝国主義」と「反英語帝国主義」と言い替えている。彼の言う「帝国主義」は、軍事的に政治的に経済的に劣る国の言語や文化を破壊することを言う。ただし、江利川はどちらかの立場に立つわけではない。

私自身は、言語が時間をかけて共通化していくことは、文化に起因する戦争を生むこともなく、経済的交流に利すると考える。言語が入り混じることで、言語がより豊かになるであろう。

いっぽう「英語帝国主義」は、世代間のコミュニケーションを分断するだけでなく、確かに、古い世代の権威を奪う。が、ある程度はやむ得ないと思っている。英語は現状では有用であるから、私も英語教育を縮廃せよと意見には同意しない。

「英語帝国主義」の本質をまず掘り下げたい。

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江利川は次のエピソードを紹介する。

「英語が、連合王国内のケルト系諸言語を駆逐する過程で英語を話せない人々は「二級市民」とされ、母語を話した子どもの首には「方言札」が吊るされ、教師に鞭打たれた」

私もカナダにいるとき、アイルランド系の大学院生から同じ話を聞いた。

現在もそのような暴力が教育現場で行われているとは思わない。しかし、英語能力で厳然たる差別があることも事実である。「英語帝国主義」とは「英語能力」で差別することの問題である。反対すべきは、「差別」である。

最近、BBCが英国内の「発音」による差別をとりあげていた。「発音」で上・中流階級に属するか否かがわかるのだという。それが、弁護士事務所や一流企業の採用面接に影響するので、「発音」を矯正する教育が盛んだという。

私は理系の人間であるから、下層の「労働者階級」に自分が属していると思っている。じっさい、アメリカのIT企業の研究所には、ひと昔前と違い、アングロサクソン系の人間が応募してくることがない。イタリアンやアイリッシュやスラブ系もほとんど応募しなくなり、応募してくるのはアフリカン(黒人)かイスラム系かインド系か中国系か韓国系である。研究所ではブロークン・イングリシュが行きかっている。

特権階級は確かにある。そして、彼らは言語だけで差別しているのではない。

私の同級生に銀行マンがいる。彼が言うに、いくら発音を矯正し完璧な英語を話しても、出身大学で差別されるという。その大学の寮でしか通用しない記憶をもって、パーティで差別されるという。差別は「英語」だけの問題ではない。上流・中流階級は他者が自分たちの中に流れ込まないように、いろいろなフィルター(ガラスの天井)をもうける。

繰り返すと、警戒すべき「英語帝国主義」は、自分たちの特権を守るための、英語を名目にした差別である。

日本国内でも、英語の能力で行われる差別が問題である。英語教師が、その差別を前提にして、英語教師の特権を楽しんでいないか、という問題もある。英語を教えるという理由で高い時給のアルバイトをしていないか、ということである。

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私は、英語が有用だと理由で、英語教育が行われるのはそれで良いと思う。

日本語のなかに英語を取り組んでいくことも当然だと思う。日本語にない概念が英語にある。明治時代のように、それを漢字を組み合わせた造語に置き換えるより、原語をそのまま使ったほうが良いと考える。そのためには、縦書きの著作をやめて、すべて横書きにした方が良い。横書きなら英語やドイツ語やフランス語やラテン語やギリシア語が混ざっても不自然でない。

また、英語の構文が日本語の中に取り入れられていくのも当然である。夏目漱石は英語の構文にならって新しい日本語をあみだした。宇野重規や加藤陽子の著作を読むと英語の構文の影響をよく見いだす。言いたいことを先にだし、しだいに補足を加えていく、英語の構文は論理的な文章に向いている。

日本語はゆっくりと変化して、世界共通語に近づくのでよいと考える。

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英語縮廃論に、英語の習得が難しいから公費で教育するだのは無駄だという主張がある。

私はそう思わない。上・中流階級に加わろうと思わなければ、発音や文法がでたらめでかまわない。やさしい英語で通用する。完璧な英語を話す教育を施さなくても良いと思う。

もちろん、現在の英語の書字の難しさは、スペルと発音とに距離があることにある。英語を母語とする人にもスペルが正しく書けない人がいる。これは、イギリスやアメリカの政府が特権階級を守ろうとして、書字改革をおこわないことにある。フランス語も同じ問題を抱えている。イタリア語やドイツ語はスペルが発音に近い。

日本の大学入学共通テストの英語は、無理のない範囲でできている。時間をかけて勉強しなくてもできる範囲である。週に4、5時間の学校授業で充分である。予習も復習も必要がない。人によってそうでないのは、受けた英語教育に問題があるか、満点を取りたいと思うからである。

時間をかけて教育しても英語で手紙のひとつも書けないと縮廃論者は言うが、やさしい英語で心のこもった手紙を十分に書ける。和英辞書を引く必要もない。相手の気持ちを考えて書けば良い。単語にはニュアンスがあるから、よく知っている単語を使って手紙を書くほうが無難である。

何年か前、新渡戸稲造の“Bushido: The Soul of Japan”(『武士道』)を読んだが、難しい単語ばかり使って、英語のリズムがない。こんな下手な英語しか書けないのは、彼が間違った英語教育を受けていたからだと考える。

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私は、英語がとくに素晴らしい言語だとも思わない。英語は、他のヨーロッパ言語と比べると表現力に欠く言語である。

ラテン語やギリシア語やスラブ語には格変化がある。これらの言語では、名詞、形容詞、冠詞が相互にどういう関係にあるか、また、動詞とどういう関係にあるかを明確にするため、語尾が変化する。したがって、強調したい語から言葉を連ねてもかまわない。語順の自由度が大きい。また、動詞の語尾が主語によって変化するから、主語と動詞の語順が変わってもかまわない。

英語は名詞、形容詞、冠詞の格変化がなくなったため、語順が限定される。名詞の動詞との関係を明確にするため、英語では前置詞の使用が発達した。前置詞はもともと副詞だったのである。主語による動詞の変化もなくなったため、動詞と主語との距離を離せない。英語の文法というものは慣用句を整理したものにすぎない。

もちろん、私は日本語も嫌いである。日本語は人間の上下関係から言葉を変える。論理的な文章を書くのがむずかしい。心の底では私は日本語がなくなってしまえと思っている。

未来の世界共通語はどうなるかは、単に今後どの国が経済力や政治力や軍事力をもつかにかかわる。古代ではギリシア語が地中海沿岸の共通語であり、中世からルネサンスまではラテン語がヨーロッパの共通語である。現在は、英語とスペイン語とアラブ語がたまたま世界共通語である。中国語も、将来、世界共通語の候補になるかもしれない。