猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ハンナ・アーレントの歴史観は間違っていると思う

2024-03-19 20:44:00 | 思想

(1848年のドイツ市民革命の失敗)

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)を読みだして、すでに3か月になる。読みだした動機は、ユダヤ人がどうしてガザやヨルダン川西岸でアラブ人を虐待したり殺害したりするようになったのかだったが、彼女の「国民国家の衰退と階級社会の崩壊が全体主義運動と全体的支配とを招いた」の論理がわからず、いまだに読み続けている。

前者の問いは、ユダヤ人のエリート層はいまだに選民意識をもっていて、アラブ人、スラブ人、アジア人を劣った民族とみていることにあると、いま、思うようになっている。

後者の問いに答えるために、ドイツ史関係の書を読み続けてきた。

オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落 』 (中公クラシックス) は読むに堪えない馬鹿げた本である。こんな本が第1次世界大戦後のドイツで大ヒットしたということは、当時のドイツに知的レベルの低い人が多数いたということを示していると思う。ナチスが台頭する土壌をうかがわせる。

フリードリヒ・マイネッケの『ドイツの悲劇』(中公文庫)やセバスチャン・ハフナーの『ドイツ現代史の正しい見方』(草思社文庫)は、それぞれ、ヒトラーが台頭した理由をブルジョワジーの立場から分析するエッセイである。私の立場からすれば、こんなバカな知識人がドイツにいたのかと思ってしまう。アーレントも同じ立場にいるのではと私は考え始めている。

マイネッケとハフナーの違いは前者がプロイセンに批判的、ハフナーが好意的であることだ。アーレントはハフナーに近い。マイネッケとハフナーとの共通点は共産主義に対するすさまじい嫌悪感である。

ドイツの外からみたドイツ史、阿部謹也の『物語 ドイツの歴史』(中公新書)、メアリー・フルブロックの『ケンブリッジ版世界史 ドイツの歴史』(創土社)のほうが、本質をついていると思う。阿部やフルブロックはそもそもドイツ人という民族がいたのか から疑っている。言語が互いに近いというだけで歴史的に文化を共有していたわけでない。

17世紀の30年戦争終結以降は、ドイツは大小100以上の国に分かれて、人々が暮らした。それ以前は、形式上の皇帝は存在したが、カトリックの教皇に権威付けられた象徴であって、ザクセン、バイエルンとか部族単位の社会があっただけだ。皇帝は居城を持たず、家臣を連れて、国内を移動して歩いた。

「国民国家」とは、18世紀後半から20世紀にかけてのドイツのブルジョワジーの幻想である。したがって、国民国家が衰退したというよりも、もともとなかったのだ。アーレントの歴史観は間違っている。

「ブルジョワジー」とは、日本では、ときどき、「市民」と訳されるが、この訳は誤解を受ける。ブルジョワとは城塞都市に貴族とともに住んだ裕福な市民をさしていたのが、城塞都市でなくても、裕福な市民をさすようになった。ブルジョワジーは「有産市民」のことである。「無産市民」は、古代ローマ帝国にならって、「プロレタリア」と呼ばれることが多い。

「国民国家」という幻想がドイツの知識人にあるのは、ばらばらの君主国家がプロイセンのもとにドイツ帝国に統合されていったからである。マイネッケもハフナーも、「国民国家」が市民階級と労働者階級の対立を解決するものと考えている。

アーレントが言う「階級の崩壊」とはこの階級対立の解消を言うようにみえる。第1次世界大戦後のドイツでは、社会民主党が政権を担った。この時代のドイツをワイマール共和国という。

アーレントの両親も社会民主党の支持だったとウィキペデイアにある。社会民主党がドイツ共和国の憲法を作った。しかし、ドイツ帝国軍は解体されず、皇帝の復帰を画策した。ヒトラーははじめドイツ軍の諜報員として働いていたという。また、ドイツ軍は義勇兵と一緒に行動して共産主義者の運動を暴力的に鎮圧した。社会民主党はそれを黙認した。ワイマール共和国は非常に脆い政治的基盤の上にあった。厳然とした「階級社会」である。

マイネッケは、プロイセンを軍人と官僚とブルジョワジーとが支配する国家としてみて、プロイセンの軍国主義を非難する。プロイセンでは軍人=貴族=地主と考えてほぼ正しい。ハフナーはベルリン生まれだから、プロイセンを理想化し、プロイセンが他のドイツを急いで統合したがゆえに、ドイツの悲劇が起きたとする。

どちらにしろ、ブルジョワ知識人の戯言である。しかし、戦前の帝国日本はプロイセンをお手本として「富国強兵」の道を歩んで、過ちを犯したのにもかかわらず、天皇制を残し、知識人はいつまにか資本主義を称賛するようになっている。第1次世界大戦後のドイツと同じ誤りに日本が落ちいる可能性があると危惧する。

[補遺]

「階級社会の崩壊」はもしかしたら、第1次世界大戦後のドイツのインフレーションによる小市民階級(小規模の資産をもつ人々)の没落を言うのかもしれない。アーレントの『全体主義の起源』第9章「国民国家の没落と人権の終焉」に「戦争に続いたインフレーションは所有関係を根底から変えてしまい、階級社会はそこから立ち直れないでいる」とある。大製造業の所有者・経営者は戦後のインフレーションを生き残り、ブルジョワジーと労働者階級の対立は以前として残っており、階級社会は残っている。映画『メトロポリタン』は、SFの形をとって、この事実を当たり前のことかのように描いている。

 


小学校の卒業式に袴と着物姿の子どもたちと教師を見たくない

2024-03-17 21:17:11 | 社会時評

私は人の好みに干渉したくないが、小学校の卒業式に袴と着物を着ているのを見たくない。

先日、テレビで被災地能登での小学校の卒業式を見たが、女の校長が着物姿であったので、驚くとともに、とがめたくなった。

二日前、市営地下鉄で口紅を塗った着物と袴姿の女の子が3人乗り込んでくるのを目にした。私の横の老齢の婦人がちょっと驚いた顔をした。その横にいた中年の婦人が小学校の卒業式ですよと教えていた。

私は知的な女の人が好きである。男が粗暴で配慮が足りないとき、知的な女の人が暴走を抑えられる。私にとって知的というのは、勉強できることではない。周りの雰囲気にながされずに、自分の頭で考えることができることである。自分があることである。

インタネットをみると、呉服屋や写真スタジオが小学校の卒業式に着物・袴を着ることを勧めている。一生に一度の卒業式だから、記念に着物・袴でおしゃれしましょうと言う。

男女平等とか女性の社会進出だとか言う人はこの事態をどう思っているのだろうか。

この女の子たちは、この子たちの親は、世界に戦争があること、社会に貧富の格差があること、人が人を支配しようとすることを、どう考えているのだろうか。

私には、日本社会の何かが壊れ始めていると感じる。節分に恵方巻を食べるのが広がったときと同じ不愉快さを感じる。

私は商家に生まれたので、ビジネスの無節操さを知っている。商売というものは、人の欲望を煽って、売り上げを増やすのである。この欲望を煽るのは、今や広告業が手伝っている。この欲望の煽りから泰然として居られるのが知性である。


映画『オッペンハイマー』はなぜ欧米でヒットしたのか

2024-03-15 02:45:14 | 映画のなかの思想

先日の、奇しくも東日本大震災の13周年の3月11日の、第96回アカデミー賞で、作品賞を含む最多7部門で受賞を果たしたのは、クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』であった。

これは、世界初の原子爆弾を開発したロスアラモス軍事秘密研究所の所長、ロバート・オッペンハイマーの伝記映画である。すでに世界で10億ドル近くの興行成績をあげている。伝記映画で歴代1位の興行成績だという。これから、今月末、日本でも公開される。

去年はハリウッドで俳優組合のストもあって、ろくな作品がなかったと言うコメンテーターもいたが、それだけでは、映画『オッペンハイマー』の大ヒットは説明ができないと私は思う。

私はなぜ大ヒットしたかネット上で調べてみたが、納得のいく理由が見当たらなかった。ノーラン監督がすぐれた娯楽映画に仕上げたと思うしかない。とにかくこの映画は多くの人の感情を揺さぶり、口コミで観客層を広げたのだろう。昔のスターウォーズの大ヒットを思い出させる。

NHKは、アカデミー賞授賞式の翌日の12日に、『クローズアップ現代 果てしなき“問い”の先へ 映画監督クリストファー・ノーランの世界』で、ノーラン監督へのインタビューをテレビで流した。そのなかで、監督が、「映画は、自分自身を見失い、観客と一緒に物語を語り、その物語の世界に没頭できる媒体だと思います」と語っていた。この訳だと、「自分自身を見失い」「没頭できる」の主語が誰だかわからないが、監督は「映画を見る人が他の観客とともに没頭できる媒体」と言いたいのだと思う。

ノーラン監督は、「私は映画を通して特定のメッセージを伝えようとは思いません」「映画を通して、観客に彼(オッペンハイマー)の考えや、彼が見ている視点を経験してもらえるように工夫しました」と言う。多数の研究者を率いて原子爆弾を世界で最初に開発した誇りと喜びと、また、そのことで人類の新たな危機を作ってしまったことへの苦悩を、観客自身がオッペンハイマーであるかのように、感じとれる映画になっていたのだと思われる。監督が自分のメッセージを観客に押しつけるのではなく、歴史の荒波を観客に体験させる映画となっているのだと思う。

53歳のノーラン監督は、また、「10代の息子にこの作品について初めて話したとき『若者は核兵器に関心がないし、脅威だと思っていない。気候変動の方がもっと大きな懸念だと思う』と言われ、それがとても衝撃的でした」と言う。

この映画は核兵器の脅威だけでなく、アメリカでかつての「赤狩り」も扱っている。アメリカの恥ずべき歴史を扱っている。アメリカ共産党を自由社会の脅威だと称して公聴会で党員やシンパや進歩的知識人を社会から追放したのだ。ハリウッドの喜劇俳優・監督のチャプリンもアメリカから追放になっている。また、イギリス人の核物理研究者も原子爆弾関連の機密をソビエト連邦に漏らしたということで、死刑にされている。

私は「赤狩り」はアメリカ人の良心を封殺したと思っている。この映画は、娯楽映画としてだけでなく、アメリカ人の心奥深くに眠っている「良心」に揺さぶりをかけたのではと期待している。

[関連ブログ]


3月11日は東日本大震災の日、大津波と原発事故の映像を流して欲しい

2024-03-12 20:43:43 | 社会時評

きのう、3月11日は東日本大震災13周年であった。今年の元日に能登半島地震があったためか、例年になく、テレビの各局は特集を組んだ。当時の記憶が人々から薄れていくとの声を放映していた。それなのに、当時の大津波の映像や福島第1原発事故の映像が流されなかったのは、残念である。

3月11日、私は、横浜の集合住宅7階の居間で食卓が大きく揺れるのに、恐怖を感じた。私の妻は、ちょうどそのとき、外にいて、私のいる建物が大きく揺れるのに、また、恐怖していた。それから、来る日も来る日も、テレビでは大津波と原発事故の映像を流していた。たしかに、ウンザリしていたような気もする。

しかし、大津波と原発事故を忘れないため、また、新しい世代の子たちに大津波と原発事故が起きたことを知ってもらうため、見たくない映像でも、1年に1度はテレビで大津波と原発事故の映像を流すべきではないだろうか。

今回の能登半島地震で、能登半島の東側の海岸にある志賀原発は、危うく大惨事をまぬがれた。西側の海岸では2メートルから4メートルの隆起があった。使用済み核燃料を冷やすプールの電源が切れたにもかかわらず、志賀原発は停止してから13年が経過したこと、今回の震源からはずれていたことがあって、大事にいたらなかった。

いっぽう、半島に位置した原発が事故にあった場合の避難路に問題があることが明らかになった。地震によって、道に崖崩れや亀裂が走り、避難用のバスを走らせられないことが明らかになった。海からは、港湾施設が壊れ、救助船が接岸できないのである。

テレビ討論を見ていると、今後は、避難をするのではなく、屋内待機する方向で検討すると政府関係者は言っている。原発事故の最初の瞬間は、揮発性の放射性物質が放出され、拡散のスピードが遅いので、放射性の空気のかたまりが風に吹かれて流れていくだけで、屋内にいれば、放射性の空気を吸うことはない。しかし、1、2日すれば、放射性物質はあたり1面につもり、屋内にいても安全でなくなる。避難は必要なのだ。

地震や大津波は人間の力で防げない。しかし、それによって引き起こされる家屋の倒壊や原発事故は人間の力で少なくできるはずである。特に原発事故は、原発を稼働しなければ、原発を建設しなければ、防げるのである。

そのことを人々が忘れないために、また、新しい世代の子たちに大津波と原発事故が起きたことを知ってもらうために、1年に1度はテレビで大津波と原発事故の映像を流して欲しい。


なぜハンナ・アーレントはイスラエル国の暴走を止められなかったのか

2024-03-07 20:46:37 | 思想

なぜ、イスラエル国はあれほどパレスチナ人を迫害するのか。ガザにしろ、ヨルダン川西岸にしろ、パレスチナ人を高い塀で囲って狭い領域に閉じこめている。ガザでは空爆だけでなく戦車がすみずみまで家を破壊しつくしている。いま、ガザ保健所が発表しているイスラエルの侵攻による死者数は3万800人だが、餓死者数や病死を含めて、パレスチナ人の死者は いずれ10万人を超えるだろう。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読み続けると、彼女を含めたユダヤ人のもっている欠点が見えてくる。自分あるいは自分たちを優秀だと思い、東ヨーロッパやアフリカやアジアの人々を劣ったものと見くだしている。そして人々を敵か味方に分けて考えるのが政治だと思っている。

これに加え、イスラエル政府はイスラエル国民以外はすべて敵だと考えている。欧米諸国を、潜在的敵だとし、利用すべきで対象であると、イスラエル政府は考えている。

これが、現在までのイスラエル国である。ジェノサイドの罪をおかしている。

アーレントは、『全体主義の起源』の中で、全体的支配の暴力性を暴いているが、全体主義であろうが なかろうが、他の集団を劣った弱い集団と見くだし、自分の集団以外は敵だと考えるようになると、良心の痛みを感じずに他の集団の人々を計画的に殺すようになる。アーレントはこれに気づいていない。

私は、イスラエル国に怒りを感じているが、日本もイスラエルと同様な過ちを行う可能性があると考える。そもそも日本国憲法の人権に関する条文の多くは、「国民は」となっていて、「何人も」となっているのはわずかである。労働力として外国から呼び寄せた外国人の人権を無視している。政治家は良心の痛みを感じずに「国益」という言葉を使う。

アーレントは『全体主義の起源』で、国民国家と階級社会の崩壊が全体主義運動と全体的支配をまねいたとするが、ドイツ史を調べると、「国民国家」というプロイセンの実態は、絶対制君主のもとに、軍人と官僚とブルジョアとが産業・農業労働者(workers)を抑え込んでいたのだ。貴族は軍人や官僚として生き残っていたのだ。国民運動はそれを隠すために機能していた。第1次世界大戦におけるドイツの敗北で、君主は逃亡したが、軍人、官僚、ブルジョアによる支配は、ヴァイマール体制でも生き残ったのである。階級社会は維持されたのだ。アーレントの言う「全体主義運動」とは「国民運動」の後継にすぎない。

いま、阿部謹也の『物語 ドイツの歴史』、メアリー・フルブロックの『ケンブリッジ版世界史 ドイツの歴史』、フリードリヒ・マイネッケの『ドイツの悲劇』を読んで、ドイツの本当の歴史を探っている。

今後、日本人も、誰かが『日本の悲劇』を書く必要がないよう、現在の政治家、官僚、ブルジョアによる支配体制(政官財の支配体制)を覆さないといけない。