『朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey』の再開第2回は、
「アメリカのテロとイスラム、北朝鮮、日中関係、頻発する日本各地の地震と再び起こった四川地震、、、、」という表題で進めて行く予定でいたのですが、その前に読者の皆様へお願いがあります。
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アカウントが停止されたインターネットを回復するため、とんぼ帰りで日本に帰ってきています。地震はその間に起こりました。28日に中国に戻ります。往復チケットを持っているため中国に戻る費用関しては心配ありません。
しかし、今回のアクシデントのために、20万円以上の想定外の予算がかかってしまいました。現在、無一文です。昆明に戻れば、無一文でもモニカが食べさせてくれる(情けない!)し、5月末からは週一回の新聞連載が始まるのでその頃には少し余裕が出来るでしょうが、それまでは身動きが取れない。
四川雅江地震の震源地、宝興川流域は、僕のメインフィールドのひとつです。沢山の友人がいます。心配でなりません。ことに、随分とお世話になった、「東拉物語」の子供たちのことが、、、、。中国に戻り次第、食料などを持って、被災地を訪ねたいのです。
僕は、大規模自然災害が起こった際にボランティア活動を行う人々に対しては、懐疑的です。だから、出身地の神戸(阪神淡路)のときも、そのあとに起こった、台湾中部(プーリー)地震のときも、雲南麗江の地震のときも、前回の四川(汶川)大震災のときも、いずれも直前までフィールドにしていた、僕にとっては特別な場所ではあるのですが、暫くは赴くことをしませんでした(まあ、助けに行きたくても、予算が無くてどうしようにも無かったのですけれど、、、)。
でも、今回ばかりは、そうもいかない。何が何でも、現地に赴こうと考えています。
そこで皆さんにお願いします。どんな小額でも構いません。食料や衣料などの購入、および現地での活動費用のためのカンパを望んでいます。
28日にホンコン、一度雲南にもどり、資金が確保出来次第、すぐに四川に向かおうと思っています。
芦山から宝興に至る、断崖絶壁の道路は、地震による崩壊と、交通渋滞のより、通行が困難と思われますが、雅安から歩いて行く覚悟です。
物資は必ず、子供たちの元に届けます。そして、現場に到達するまでの経過報告や、現地の状況の報告を随時行っていきます。カンパを頂いた方々には、以前震源地周辺で撮影した、様々な植物や昆虫や風景の写真原版を贈呈致します。
(連絡の方法と、口座番号などは、写真の追加とともに明日改めてアップする予定)
☆カンパ振込先口座
口座(国際キャッシュカード)
三井住友銀行 大船支店 普通口座 6981197 青山潤三
☆振り込んでいただいた方は、
氏名
振込金額
振り込んだ日付
を記載して、下記のアドレスにメール送信してください。
お礼の写真を送らせていただきたいと思います。
メールアドレス jaoyama10☆yahoo.co.jp (☆をアットマークに)
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2010年秋に43回連載した「東拉物語」を再掲載します。
(写真は明日追加予定)
【『東拉紀行』の前のシリーズの最終回のコメント】
、、、、この塔公の辺りから、おおむね西~西北方面(理塘など)にかけて、急峻な地形の東~東南方面とは対照的に、地形がフラットになります(標高3500~4500m)。そして、その一帯が、純粋なチベット民族の居住地と重なります。
急峻な地形の東~東南方面(康定など)は、本来はチベット族居住地であった地域に、漢民族文化が押し寄せていると言うのが現状。
さらにその東の、標高5000mから500m(四川盆地)に切れ落ちる森林に覆われた“グリーンベルト”(=“龍門山断層”)周縁が、漢民族文化圏の末端(チベット的な要素が混在)です。大地震や大洪水など、しばしば大規模な災害に見舞われるのも、この地域。
次回からは、その漢民族文化圏末端の町・宝興の、さらにそのまた奥の集落の紹介を予定しています。
繰り返し言うように、僕は人間の文化や歴史には全く興味がありません。人間が住むようになる時代よりも遥かな昔から、これらの地に息づいている野生の生物たちの“成り立ち”に、興味を持って調べているのです。ところが面白いことに、たかだか数千年の人間の歴史と、数100万年に及ぶ生物の種の歴史の構造が、見事にオーバーラップする。例えばカラスアゲハの系統関係にしろ、野生アジサイの系統関係にしろ、上に記したチベット族と漢民族の相関性と、極めて似ているのです。その辺りの“秘密”を探っていきたい、と言うのが、僕の夢でもあります。
【東拉紀行2010.7.6 ①】
東拉大渓谷のある宝興県は、日本ではどのくらい報道されているか分からないけれど、8月17日から21日にかけての、豪雨災害の中心地の一角でもあります。昨8月21日に再々訪する予定で、入口の雅安まで行っていたのですが、道路が決壊していたため、訪れることが出来ませんでした。
↓写真は21日。宝興行きの雅安のバスターミナルで。
宝興県には、今夏、何度か訪れていて、その紹介(宝興の町、宝興江北端の集落Qyao-qi、四姑娘山に抜ける途中の来金山の峠周辺の、昆虫や植物や風俗など)を、「雅安・バス待ちの間に見た蝶」に続きシリーズとして紹介して行くつもりでいました(予定稿も出来上がっています)。しかし、ブログには未掲載のまま。したがって、順序が逆になりますが、後になって訪れた(8月7日-10日)、宝興の町からqyao-qi-来金山に向かう渓谷とは反対側の、龍東-東拉大渓谷入口への紀行を紹介して行きます。
↓宝興の町。
↓砕石場から次々と巨大な石が運ばれてきます。
↓川向うにカラスアゲハの探索に。
↓川向うから見た町並み。
【東拉紀行2010.7.6 ②】
↓龍東への包車。中国の男性は、いつもお腹を出しています。
↓川で何を拾っているのでしょう?
↓流木の切れ端のようですね。
↓途中、ミンミンゼミの群がり鳴くニレ?並木が(一本の木の2mの高さまでに12頭=全て♂)が。
【東拉紀行2010.7.6 ③】
↓龍東の町。
↓左の谷が、東拉山大渓谷への道です。
↓町のホテルに泊まると公安がやって来て僕の写真を撮りまくります。
↓東拉大渓谷の方向を部屋の窓越しに望む。
【東拉紀行 2010.8.7 ①】
↓ 10㎞ぐらいは歩いても平気。
↓ 村と言っても道沿いには数軒の民家しか見当たりません。
↓ 約5㎞地点。
↓数軒のうちのひとつ(右側に建物がある)、民宿も兼ねている?
【東拉紀行 2010.8.7 ②】
↓ 谷が2つに分かれていたので人気(ひとけ)のない右の谷へ。
↓ 気持ちの良い清流。ここで3日間カラスアゲハの探索を。
↓ パンとボトルウオーターで遅めの食事。
↓畑のおじさん。草帽子がカッコいい!
【東拉紀行 2010.8.7 ③】
はじめに
標高200~700mの、漢民族の手で開発され尽くしたと言っても良い沖積平原・四川盆地と、標高4000~5000m超の、荒漠たるチベット高原の境界に、例の大地震を引き起こした龍門山断層が、四川盆地の縁に沿って斜めに走っています。中国で最も豊かな植生を擁する、奇跡の“緑の回廊・グリーンベルト”です。
中国西南部の大都市・成都の西約80㎞の地点に、西嶺雪山という山があります。標高は5368m、成都の標高が約500mですから、5000m近い標高差、その氷雪の峰が、東京からならば、箱根か丹沢辺りの距離に屹立しているわけで、この辺りの地形のスケールの大きさが窺い知れるものと思います。
大規模なスキー場があり、中国では有名な観光地のひとつです。しかし外国人には(少なくとも「地球の歩き方」に紹介されている観光地以外には出向きはしない日本人には)全く無名の地と思われます。僕が最初に訪れたのは、1989年春、次いで1990年夏(まだスキー場が開発されていなかった当時は、大飛水とか大邑原始森林と呼ばれていた)、そして大きく飛んで、昨2009年夏。
成都の都心からバスで2時間、リフトに乗って標高2000m未満に広がるスキー場へ、さらに(もしかしたら世界1ではないかと思われる)長大なリフトで、標高3000m超の稜線まで一気に辿りつきます。稜線上のピークからは、谷を隔てて標高5368mの西嶺雪山に対侍し、その向こうには標高6250mの四姑娘山が聳えているのです(ここからは西嶺雪山に隠れて見えない)。
西嶺雪山を眺める稜線上のコルには、「陰陽界」という名がついています。ここまでは現世、この先は異郷。まさにその境い目なわけです(実際に、この付近で、漢民族とチベット民族の居住圏が入れ替わります、、、、詳しくは後述)。
50年近く前、屋久島をはじめて訪れた時のこと。鹿児島港を出港、錦江湾を出たところで、行く手の洋上に、異様な三つの島が現れました。噴煙を上げる赤く色鮮やかな山肌の硫黄島を中心に、左手前に緑のリュウキュウチクに覆われた真っ平らな竹島、右遥かに黒々とした原生林の中の黒島、、、、。それまで関西から遠出をしたことが無かった少年の僕に、“異境への旅立ち”を強く印象づけたのです(実際、この辺りを西へ進むと、中国大陸に、南へ進むと、琉球から台湾に向かいます)。
どうも僕は、現世から異境へと移り変わる“狭間”に、強く惹きつけられる傾向があるようです。
その三島列島から西へ2500㎞、全く同緯度上(北緯30°30′~50′)に位置する、西嶺雪山にやって来て、50年前と同様の感慨に浸ることが出来たのは、何かの縁かも知れません。
さて、四川盆地とチベット高原を隔てる“グリーンベルト”の、盆地の縁に面した側に西嶺雪山は位置するわけですが、チベット高原の東端に接しているのが、大渡河(長江の一大支流)寄りに峰々を連ねる来金山です。西嶺雪山・来金山とも、北は四姑娘山に発し、標高5000m前後の稜線が南北100㎞近くに亘り連なっています。その間に深く食い込んでいるのが、青衣河(やはり長江の一支流)上流の宝興江です。
中心都市は・県都(宝興県)の宝興(Bao-xing)。先々月(7月初旬)、宝興から来金山の峠を経て四姑娘山へ向かった際の紀行文の第一回目を「雅安でのバス待ち時に見たチョウ」として紹介したのですが、そこでストップしたまま今に至っています。そのあと宝興の町の紹介なども行う予定でいたのだけれど、順序を入れ替えて、先にこちらの紀行(東拉紀行)を紹介して行くことになった次第です。
【東拉紀行 2010.8.7 ④】
僕は、人文的な分野においては知識も興味もありません。適当に、自分が感じたことを記しているだけなので、内容には責任を持てない、ということをご了解下さい。まあ、おおむねある程度は当たっているのではないかと思うのですが。
チベットのことを、中国では「西蔵(シーザン)」と呼びます。でも、本来「蔵」自体がチベットを指すわけですから、「西蔵」は西チベット、ということになるはず。「東蔵」はあるのでしょうか?たぶん(今の中国には)無いと思うのですが、旧・東チベットは、確かに存在していたのです。チベット全域の東半分、現在は四川省に組み入れられて、北東の阿壩蔵族羌族自治州(州都は馬爾康)と、西北~南の甘孜蔵族自治州(州都は東寄りの康定、西寄りの中心都市が理塘、西北寄りの中心都市は甘孜)が、それに相当します。
四川省は、成都市をはじめとする18市と、3自治州から成っています。【かつて四川省の一部だった重慶市は、10余年前四川省から分離され、省と対等の直轄市(ほかに北京市、天津市、上海市)に格上げされました。成都と重慶は、なにかにつけて比較され、「2都物語」(本家はパリとロンドン、ちなみに「3都物語」は京都・大阪・神戸)の名の書籍(小説なのかノンフィクションなのかは不明)などもしばしば見かけます。以前は列車で10時間以上かかりましたが、今は時速200㎞の新幹線が、350㎞余の両都市間を、2時間ジャストで結んでいます。】
市の下の行政単位は、日本とは相当に異なり、非常に複雑です。例えば成都市(一応東京都に相当するとしておきましょう)で言えば、市の下に、9つの区(大都市の中心部、東京23区の様なもの)、都江堰市(位置的には八王子市に相当)など4つの市、及び6つの県から構成されています。県と(大きな市の中の)小さな市の違いは、僕にはよく解らないのですが、市のほうが、都市的様相を帯びていると考えて良いでしょう。
さて、四川省には、上記した「旧・東チベット」に相当する2つの自治州を除くと、19市(涼山イ族自治州を含む)の許に、149の区・県・市が存在します。その大半は、人口100万人前後(ほぼ全てが10万人を超します)、面積は多くが100k平方㎞前後か、それ以下です。その中で、人口10万人以下の自治体が2つあり、ひとつは、人口5万人の金口河区(楽山市)、もうひとつが、人口6万人の宝興県(雅安市)。ただし、前者の面積が50万平方㎞台なのに対して、宝興県は300万平方㎞を越えていて、人口密度からすれば、金口河区と比べても、他の全ての自治体と比べても、圧倒的に少ないのです。宝興県の人口密度は、149自治体のうち、断トツの最下位ということが出来ます。
一方、旧・東チベットの2つの自治州の下に置かれた、31の自治体(全て県)は、大半が面積400平方㎞を越え、かつその多くは、人口5万人未満です。人口10万以上(いずれも11万)の県は3県あり、汶川県、茂県、康定県で、前2つは400万平方㎞台、後者は1100万平方㎞強ですから、その三県にしても、上記の(旧・東チベットを除く)149の自治体の全てに比べれば、遥かに人口規模は小さいことになります。すなわち、面積ではほぼ半々の、四川盆地を中心とした漢民族(+イ族)居住圏と、旧・東チベット地域は、人口密度に於いて、その数値が極端なまでにかけ離れているわけです。
そして、漢民族居住圏の中で、唯一、東チベット的数値を示す(面積が広く、人口が少ない)のが、宝興県。漢民族居住圏最奥の地は、数字の上でも、そのことを示している、と言えるのです。
宝興は、一部の人々にとって“係恋の地”とも言える存在でした(今は簡単に行けますが、20年ほど前は、様々な制約があって、外国人が入るのは、非常に困難だったのです)。百数十年前、ダビット神父たちによってパンダが発見(現地の人々は古くからその存在を知っていたのですから、正確には“発見”でなく“確認”というべきなのでしょうが)された地であり、その他の植物・動物・昆虫についても、この一帯で発見・命名された種が数多く存在します。
もっとも、僕が今回ここを訪れたのは、別に珍しい動植物を探しに来たわけではなく、カラスアゲハやミンミンゼミの調査に当たって、成都から比較的近いこの地を選んだのに過ぎません。
前回(7月上旬と中旬の2回)は、宝興から真北に向かい、来金山の峠、およびその向う側の四姑娘山を訪ねました。ちなみに、峠の手前の宝興江源流に位置するQiao-Qi(漢字が書けないのでアルファベット表記にしておきます)の町は、それまでの漢民族居住圏とがらりと変わって、チベット族の居住圏となります。
ほかの山奥の町でもそうなのですが、現在の(国民総旅行ブームの)中国では、いたるところが大観光地化されつつあり、このQiao-qiも町中がカラフルな新築のチベット民家(全て宿泊施設)で埋め尽くされています。同じ作りの、豪華な新築宿舎が百軒近くも並ぶ(その割には宿泊客の姿はほとんど見かけない)“古鎮”には、ちょっとうんざりです。
そんなこともあって、宝興から西方のもうひとつの谷に位置する、龍東(「ロンドン」と発音します、こちらも漢字が出てこず、とりあえず“龍”の字を当てておきますが、あるいは“隆”なのかもしれません)に向かうことにしました。宝興の町の道路標示に、龍東の先の“東拉山大渓谷”まで17㎞、の表示があり、地図には載っていないその渓谷の近くまで行ってみようと思ったのです。
以下、“東拉山大渓谷”へ行く途中の、小さな村(と言っても、数百m置きに数件の民家しかない)での滞在記、地名が特定できないので、とりあえず「東拉紀行」としておきます。主目的の、カラスアゲハやミンミンゼミのことについては、また別の機会に紹介することにします。
コメントは前回の塔公紀行(東拉から、来金山の山嶺と大渡河の深い谷を挟んで、真西へ100㎞、共に屋久島と同じ北緯30°20′線上に位置していますが、こちらは乾燥した草原の広がる、チベット民族文化圏の真っただ中です)編に引き続き、あや子さんの想像でコメントを入れて行って貰おうと考えたのですけれど、一応僕の手で、短いコメントを入れておきます。
↓成都-雅安:高速バス2時間/45元
↓雅安-宝興:路線バス2時間/20元
↓宝興-隆東:乗り合い包車30分/6元(個人利用の場合は40元)
↓隆東-洪冲旅店:バイク15分/5元(徒歩約1時間)
↓洪冲旅店-東拉大渓谷入口:バイク15分/20元(徒歩約1時間)
旅店=民宿とモーテルの間の子のようなところ、実質的には洗車場で、宿泊客はほとんどいないものと思われます。
洪冲旅店のある場所の地名は、おそらく【雅安(ヤーアン)市/宝興(バオシン)県/隴東(ロンドン)鎮/崇興(チョンシン)村】で良いのだと思います。Qiao-Qiの漢字名は磽磧。
↓ 椅子に干した野菜?が、ちょっとしたアートに。
↓ 村は山の中にあるのかも知れませんね。
↓ 行きに通った民宿?まで戻って来ました。
↓ 汚なく態度の悪い町のホテルより、ここに泊まった方が。
【東拉紀行 2010.8.7 ⑤】
↓ 泊まれるかどうかを確認。O.K.です。
↓ 両親は日が暮れた頃に帰宅、婆ちゃんと子供たちだけです。
↓ まあ人懐っこいこと。この後3日間、ずっとこの調子です。
↓ 3人姉妹の末っ子6歳。
【東拉紀行 2010.8.7 ⑥】
↓左は近所の若いお母さんの一人娘(4歳)。
↓後ろ左は3人姉妹の真ん中(10歳)。
↓中央は3人姉妹の長女(12歳)。隣のお姉さんたちも登場。
↓真ん中は、隣の姉妹の姉(25歳)。
【東拉紀行 2010.8.7 ⑦】
↓右は隣の姉妹の妹(22歳)。姉妹とも小学校の先生だ、独身だそうです。
↓ワンちゃん。
↓この2人はいつも一緒にいます。
↓元気溌剌。
【東拉紀行 2010.8.7 ⑧】
↓ お父さんお母さんが帰って来て夕食です。
↓ 豚小屋の隅っこにトイレ(屋内にも綺麗なトイレあり)。
↓ 僕の部屋。清潔でシンプル。
↓ 子供達の乱入が無ければ、仕事部屋に最適なのだけれど。
【東拉紀行 2010.8.8 ①】
↓ 朝です。例のポーズで僕が出てくるのを待ち構えていました。
↓ 花を写せとリクエストが。
↓ これも写せと。
↓ これも。美味しい莢豆の花です。
【東拉紀行 2010.8.8 ②】
↓猫ちゃん。
↓長女は大人になったら美人になること請け合い。
↓勢揃い。でもなぜ女の子しかいないのでしょう?
↓三家族(お父さんたちが兄弟?)が一緒に暮らしているみたいですね。
【東拉紀行 2010.8.8 ③】
↓ヒヨコちゃんも写してね!
↓聡明な長女としっかりした二女。
↓わ、わ、わ、わたしも!!
↓必死の形相です。
【東拉紀行 2010.8.7 ④】
↓ 露草を採って来ました。物憂げなお姉ちゃん。
↓ 二女はいつも一歩退いていますが、実は長女にはライバル心が。
↓ 末娘は表情が豊かです。
↓ ツユクサは僕にとって特別な花なのです。
【東拉紀行 2010.8.7 ⑤】
↓天気は今一つですが、出発。
↓カラスアゲハの谷まで2㎞ほど。
↓レテノールアゲハ(Papilio alcmenor)。ナガサキアゲハの仲間で、オナガアゲハにごく近縁。
↓真っ裸で川にドブンして、ウ〇〇。
【東拉紀行 2010.8.7 ⑥】
↓お昼に帰って食事。昨夜のメニューと同じです。
↓虫を探そう。
↓イトトンボ写して!(キイトトンボ)
↓蝶もいたよ!(チョウセンコムラサキApatura iris)
【東拉紀行 2010.8.8 ⑦】
↓ (タッパンルリシジミ)
↓ 捕まえたから写して!
↓ こんなチョウも捕まえた、、、。
↓ (これは凄い!日本では絶滅の危機に瀕しているクロシジミです)
【東拉紀行 2010.8.8 ⑧】
↓ 見つけた!写して!
↓ (キマダラサカハチチョウAraschinia doris)
↓ これも写して!(超普通種のアカタテハ)
↓ これも!(世界的超普通種ヒメアカタテハ、こんな機会でもなければ写さない)
【東拉紀行 2010.8.8 ⑨】
↓もっといないかなぁ。
↓いたいた!(おいおい!)
↓捕まえた!(服が汚れる!)
↓私も写してね!
【東拉紀行 2010.8.8⑩】
↓自慢の顔!(オオモンシロチョウ)。
↓私も捕まえなくては(二女)。
↓交尾中のキイトトンボも捕まえた(くやしいなぁ、、、)
↓(ちょっと残酷な気が)
【東拉紀行 2010.8.8⑪】
↓そろそろ再出発しなくては(バイクの後ろに乗って)。
↓検問所でバイクを降りて。
↓無料で今日も少しだけ入れて貰いました。
↓あまり奥まで行かないうちに引き返します。
【東拉紀行 2010.8.8⑫】
↓ミスジチョウ属大型種。もしかしたら新種かも(拙書「中国のチョウ」に記述あり)。
↓樹上からセミが落っこちてきた(ヒグラシの仲間の♀)。
↓ヤナギイチゴに産卵に来たキマダラサカハチチョウ♀。
↓オケラの一種。
【東拉紀行 2010.8.8⑬】
↓渓谷が綺麗!秋10月が最高なのだそうです。
↓奥は、標高5000mまでトレッキングルートが伸びています。
↓外国人は、アメリカ人に次いで2人目だとか。サインを頼まれてしまいました。
↓西瓜も御馳走になって、、、。次回はゆっくりと来なくては。
【東拉紀行 2010.8.8⑭】
↓帰りは予定より遅くなってしまった。
↓途中まで来て待っていたのです。トンボ捕まえたよ!
↓お母さんも自転車で。
↓こちらはお父さん。楽しそうに大きな声で喋ります。
【東拉紀行 2010.8.8⑮】
↓長女の仲良しさんが遊びに来ていました。
↓手が余分です。
↓二人で撮りたいんだってば。
↓もう、しょうがないなあ。
【東拉紀行 2010.8.8⑯】
↓というわけで、再び全員集合。
↓なんだか楽しそうですね。
↓お得意のポーズ。
↓同じポーズを。
【東拉紀行 2010.8.8 ⑰】
↓即席のオリンピック?
↓三段跳びのようです。
↓負けず嫌いの二女は、いつも全力投球。
↓みんな元気!
【東拉紀行 2010.8.8 ⑱】
↓食事だよ~。今晩も同じメニュー。ある意味、大感動です。
↓食後のバトミントン。これが延々と続きます。
↓僕も参加したけれど、十数回に一回ぐらいしか勝てない。
↓25歳お姉さんと、若いお母さん。2強の対決です。
【東拉紀行 2010.8.8 ⑲】
↓陽が暮れて来て、やっと終了。
↓夕闇の中で、はい、パチリ!
↓やっぱり駆け込んで来ました。
【東拉紀行 2010.8.9 ①】
↓3日目の朝。
↓朝早くから野作業です。
↓男性陣は豚の解体の準備。
↓これからが本番なのだと思います。
【東拉紀行 2010.8.9 ③】
↓ただ一人の妹分なのです。
↓得意のポーズ!
↓25歳のお姉さんと、三姉妹の真ん中と一緒に、山に草刈りに。
↓50mほど離れたところの家の横から山に入ります。
【東拉紀行 2010.8.9 ②】
↓3日続けて同じメニュー。でも僕には特別に卵が2つ。
↓立ったまま朝ご飯。
↓動き回っていないと落ち着かない性分なんだろうなぁ。
↓妹分がやってきた。
【東拉紀行 2010.8.9 ④】
↓オジサンが背負っているのは、木の皮みたいですね。
↓どうやらトウモロコシ畑のようです。
↓見下ろした民家。
↓豚の解体作業をしているオジサンたちが見えます。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑤】
↓チョウがいたよ!
↓葉の裏に何かが張り付いています。
↓ストロボを発光して写すと。
↓キコモンセセリの仲間。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑥】
↓トウモロコシ。
↓ツユクサの一種。
↓ノジギクの一種。
↓これは何の花だっけ?
【東拉紀行 2010.8.9 ⑦】
↓収穫を終え、下山します。
↓たぶん豚の餌だと思うけれど。一部は人の食糧かも。
↓下の家も旅館をやっているのですね。
↓栽培している花を採っちゃダメだよ!
【東拉紀行 2010.8.9 ⑧】
↓戻って来ました。
↓豚の解体も、ほぼ終了です。
↓22歳のお姉さんのお出迎え。
↓美人だよね!
【東拉紀行 2010.8.9 ⑨】
↓僕にもおすそ分け。これがとても美味しい!
↓隣のお母さんと姉妹。
↓男の子がいたぞ!写真取らせて!!でも照れ屋なのです。
↓女の子のほうが強いようです(負けてあげている)。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑩】
↓やっぱり主役は私!
↓隣の伯父さんと。
↓いつも無表情なのが凄い。
↓3人で仲良く。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑪】
↓誰かがセミを見つけてきた。木に止まらせて撮影。
↓見たことのない変わったセミです。
↓またいたよ~(これはナメクジ!)
↓こっちも綺麗だから写して~!
【東拉紀行 2010.8.9 ⑫】
↓部屋に持ち帰ってヒグラシと2ショット。
↓帰る前にもう一回カラスアゲハの谷に出掛けます。
↓サファイアフチベニシジミ(Heliophorus sapir)がいた!
↓渓谷入口に到着。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑬】
↓クロアゲハ&カラスアゲハ。
↓花はフジウツギ属(ブッドレア)。
↓10数分置きに回り廻って来ます。
↓カラスアゲハ。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑭】
↓カラスアゲハ(だと思う)。四川省産は、ミヤマカラスアゲハとの区別が至難の業。
↓ルリモンアゲハ(Papilio paris)もカラスアゲハの仲間。
↓ルリモンアゲハ。
↓カラスアゲハ(中国西部産にはクジャクアゲハという別名が付いています)。
【東拉紀行 2010.8.9 ⑮】
↓戻って来ました。洗車中のトラックが2台。
↓足下をタイワンタイマイ(アオスジアゲハの近縁種)が舞っています。
↓トラックの間を飛び交うタイワンタイマイ。他ではなかなか写せないのに、皮肉なものです。
↓男の子もまだいました。隙を狙ってパチリ!
【東拉紀行 2010.8.9 ⑯】
↓昼ご飯を食べてから帰ることに。7食続けて同じメニューです。
↓大人は白いご飯。子供達は、残った混ぜご飯(これが実に美味しい!)。
↓最後に記念撮影。
↓また来るね!
【追記】
その後も何度か訪れ、いろいろな興味深い事実が分かって来ました。それらについては改めて紹介する予定です。
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未発表草稿「雲の彼方の白い国 ~成都-昆明“裏街道”をゆく」から
白い崖 【成都/雅安/ミニャコンカ/康定/塔公】の前半
成都から高速動ジャスト2時間で、“世界の屋根”入口の町・雅安。かなりの大都市(ここでビザの再更新も可)ですが、街中に人力自転車が走り回っていることなど、なかなかに風情のある街です(僕は成都で宿泊せずに、ここまで来て泊まることが多い、ごくまともなホテルで個室シャワー付き一泊800円ほど)。国道318号線は、ここから青衣江(長江水系)支流の二朗河を遡り、チベット高原を目指して、一気に標高3000mの二朗山の峠まで駆け上ります(現在は2700m地点にトンネルが開通)。
↓雨の雅安と夜景
雅安のすぐ先から青衣江のもう一つの支流・宝興河(宝興からは西河)を遡ると、来金山の峠(標高約4200m)を越え、四姑娘山に向かうことも出来ます。来金山の峠の手前には、チベット族の集落・碊磧があり(通常チベット族のエリアは稜線を超えた向こう側にあるのですが、深い渓谷の源頭部周辺などでは稜線の手前に見られることもあります)、右側の山嶺の続きは、成都市民のスキー場として名高い西嶺雪山5364m(大邑原始森林、僕の長年のフィールドの一つ)、途中の宝興の町から東河を遡ると、000年前、ダヴィット牧師によって最初にパンダが発見された小集落(龍東)を通り、やはり標高5000mを超える東拉山と、その懐の渓谷に至ります(途中の小さな旅籠屋での4日間の子供たちとの交流を、ブログ「青山潤三の世界・2010年東拉紀行」で50回近くに亘って掲載していますので興味ある方はご覧ください)。
なお、この宝興県は、中国全土の“漢民族文化圏”の最奥の行政地域、そのことは数字上での証明も出来ます(上記「東拉紀行」の冒頭に説明あり)。
宝興の町の広場。夜には市民挙って踊り続けます。
東拉渓谷の宿の子供たち。なぜか女の子ばかり。
撮影は全てバスの車中から窓越しに(このあと登場する写真の多くも同様です)。
雅安を出てすぐ右に宝興河が分かれます。最初の町が芦山。民家の壁が、芦山紹介の(ちょっとセクシーで色っぽい)絵で統一されています。
巨大な白い石(と言うよりも岩!)を満載したトラックが、ひっきりなしに通って行きます。
漢民族文化圏最奥の宝興渓谷は、パンダが最初に発見された地であるとともに、石灰岩の一大産地でもあるようです。道路の両側には断崖絶壁が続き、あちこちに石を切り出したと思われる採掘跡が露出しています。
宝興河(大きな滝がいくつも流れ落ちています、左)源頭の峠(来金山、写真左)を超えると、その向こうに標高6250mの四姑娘山(写真右)。峠の手前から先はチベット文化圏に入ります。峠を下った辺りから大渡江支流に沿って登山口の町・日隆に至る(反対方向に進むと後述する塔公に出る)道路沿いには、この地方独特の不思議なイラストが描かれた石壁の民家が続きます。
↓写真の約半数はオートバイ(有料)の後ろに乗って片手での撮影(でもカメラはちゃんとしたのを使っている=キャノンEOS)。
↓町が近づくと絵が青い色に。
国道318号線に戻り、西へ進みましょう。次の天全の町を過ぎると、あとは峠のトンネルまで標高差2000m強の登りです。いわゆる“亜熱帯から亜寒帯へ”の例えそのままの植生の移り変わりが見事で、チョウの種類も極めて豊富、盛夏7~8月には、野生アジサイ(Hydrangea asperaの一群の2つの種)が渓流沿いの路傍一面に咲き競い、それはもう見事なのですが、通行する車の数が余りに多いため、命がけの撮影・観察を覚悟せねばなりません。せめて、バスの窓から、移りゆく植生を眺めて貰いたいものです(大抵の人は、この区間眠りこけている)。
↓二朗山に至る318号線。
二朗山のトンネルを抜けると、眼前の光景が一変します。それまでの鬱閉した原生林の中の道とは対極の、褐色の岩礫とそこにへばりつくように生える草本からなる、チベット高原の世界。天気が良ければ、眼下に流れる大渡河の遥か上に、ミニャコンカ山系の白銀に輝く雪嶺を仰ぎ見ることも出来ます。
大渡河の畔まで、標高差1000m程の道を九十九折に下降、下りきった地点を右に向かえば康定、左に向かえばミニャコンカの入り口・海螺溝(磨西)に至ります。磨西までは路線バスで小一時間(成都からは沢山のバスが出ていますが、途中で捕まえるのは至難の業です、康定からはタクシーや包車となります)。
(以下、省略)
↓四姑娘山と巴朗山(チベット文化圏)
↓西嶺雪山(前回と今回の震源地に挟まれた地域)
↓ミニャコンカと二郎山(チベット文化圏)
↓巴朗山~二郎山(漢民族文化圏の末端地域)
(●前回の震源地は「都江堰~」の字の辺り)
(●今回の震源地は、芦山周辺)