青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

白花のコンロンカ(「翁源紀行」part)

2013-06-15 17:08:39 | 

注:この項目は有料です。青山潤三ネイチャークラブ会員および協力者以外の方で、このブログを継続して訪問される方は、各自自主的な判断の上、入会または協力基金をお願いしています((「野生生物」以外の記事の読者や、たまたま立ち寄られた方を除く)。

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今回の“翁源”(モニカの故郷)への旅の目的は、①に年金受領(その後病院での本格診察)までの時間稼ぎ、②にモニカの帰省に同行しての静養、に尽きるのですが、本来ならば、この季節、この地域では、野生アジサイの探索・撮影という大テーマが存在します。

と言うわけで、今回は静養に徹すべきところ、結局は、痛い足を引きずって野生アジサイの調査(はちょっとオーバーな表現だけれど)に出歩くことと相成りました。結局、目的の野生アジサイには出会えなかったのですが、その際に遭遇した、今までに見たことのない白花のコンロンカ(アカネ科)をはじめ、3(4)種のコンロンカについて記しておきます。

その前に、これまでに何度も述べて来たことの繰り返しになりますが、「野生アジサイ」の定義を、ごく簡単に説明しておきましょう。

狭義には、園芸アジサイの母種、およびそれにごく近縁(容易に交配が可能)の野生種。
広義には、アジサイ科Hydrangeaceae(旧ユキノシタ科)アジサイ属Hydrangeaの各種。

実に分かり易いですね。でも実態は複雑です。まず後者について。“アジサイ属”とは、少なくとも現時点では、生物学的な実態を充分に反映した概念ではありません。外観が“いかにもアジサイ的”な種が「アジサイ属」のメンバーであり、一方、外観が著しく異なる幾つかの種は、「アジサイ属」の各種と基本的な形態形質になんら有意差はなくとも、別属として扱われています。アジサイ属の中での各種群(節として扱われることが多い)間の遺伝的な距離よりも、別属とされている幾つかの種と、アジサイ属中の各種群との間の距離のほうが、本当は(生物学的な類縁関係は)ずっと近い場合が少なくないのです。

それらのことを、これまでに指摘し続けてきたのですが、顧みられることがありませんでした。それらの事実は、分子生物額的な手法の解析(DNA解析)が行われるようになって、やっと証明されたのです。改めてアジサイ科(アジサイ連Hydrangeeae)全体を見渡し、「属」の再編を行わねばならないのですが、最終的な判断を下すには、まだ多くの未解明の問題点が残されています。とりあえず現時点では、広義のアジサイ属のメンバー(すなわち広義の“野生アジサイ”として、アジサイ科アジサイ亜科(またはアジサイ連)に含まれる、ほぼ全ての種を想定しておきます。

さて、前者、狭義の“野生アジサイ”。今回はアジサイについて述べる予定ではないので、ごく簡単に結論だけ纏めておきます。アジサイ属のコアジサイ節Series Petalanthaに相当し、大きく3つのグループに分けることが出来ます。3グループは、基本的な形態は共通しますが、細部に於いては明確かつ安定的な相違点が見られます。しかし、グループ間に於いても相互の交配が可能であることから、血縁的にはごく近い間柄にあることが推察し得ます。

●①「園芸アジサイ」の(種の単位での)直接の母種、広義のヤマアジサイHydrangea macrophylla(野生ガクアジサイやエゾアジサイを含む)。主に日本列島に分布、中国大陸からは、ごく少数の(かつ実態未検証の)ヤマアジサイと同一グループに所属すると考えられる種が知られている。

●②本州中部以西~九州、西南諸島、台湾、ルソン島、中国大陸(長江以南)に分布する、ガクウツギHydrangea scandens ~トカラアジサイHydrangea kawagoeana ~カラコンテリギのグループ。

●③中国大陸(北部を除く)から東南アジアにかけての広い範囲に分布する、ジョウザンのグループ(通常、アジサイ属とは別属のジョウザン属Dichroa とされる)。

このほかに、ごくマイナーな存在として、日本固有種のコアジサイHydrangea hirta、沖縄本島北部の山間部に稀産するリュウキュウコンテリギHydrangea liukiuensis、ハワイ諸島固有のハワイアジサイBroussaisia arguta、これらは、中国南部産の数種と共に、“無装飾花”の種です。

今回チェックしようとしたのは、
■②の、主に広西北部(南嶺)から雲南南部山地に分布するカラコンテリギ(雲南産は通常別種ユンナンアジサイHydrangea davidiiとされる)の大陸部での分布東南限地の確認。  
■①(これまで、ごく僅かな種が、福建、広西、湖南、江西、および雲南北部などから記録されている)の、新産地の探索。一昨年、広西北部の貴州・湖南との省境山地で、そのうちのひとつ“ヤナギバハナアジサイHydrangea kwangsiensis”を確認。同種はより広い範囲に分布する可能性があり、また酷似した“ヤナギバアジサイ”が広東北部山地帯から記録されているので、両者の関係の実態を探りたい。

たまたまモニカの故郷の広東北部の村が、江西との省境付近の“南嶺”東端付近に位置し、標高1500m近い幾つかの山塊を擁することから、①②とも分布している可能性があると睨んだのです。といって、足の状態から考えても、予算(交通費・宿泊費など)的な面からも、今回は本格的な探索は難しい。とりあえず、モニカの故郷の村「貴聯」の周辺で、軽く探索してみることにしました。

結局①②とも見つけることは出来ませんでした(③のジョウザンDichroa febrifugaが多数生育)。おおよその推定標高は、400m~800m辺り。①②とも、今後この地域から見つかる可能性は充分にあると思うのですが、僅かながら標高が足らないのでは、という気がします。広西北部のカラコンテリギの生育地は、おおむね標高1500~2000mの山塊の500m以上(1000m前後に多産)の地域。広西西北部のヤナギバハナアジサイの生育地もほぼ同様です(今のところ両種の混成地は確認していない、ともにジョウザンとは混生)。この地域の山々も標高は1500m前後を有しますので、もう一歩奥に踏み込んで探索すれば、発見の可能性はあると思うのですが。

さて、ここからはアカネ科のコンロンカMussaenda parviflora(およびその近縁種)の話。

カラコンテリギの装飾花とコンロンカの萼苞は、ともに純白で、バスの中からや、やや離れた場所からは、区別を付け難いのです。カラコンテリギが豊産する広西北部の山地や、ヤナギバハナアジサイを産する広西西北部の山地では、標高の低いところではコンロンカばかりが見られ、その分布上限付近になって、カラコンテリギやヤナギバハナアジサイが出現します。アジサイ属(ことにヤマアジサイやカラコンテリギのグループ)は、どちらかと言えば温帯系の植物、コンロンカ属は、明らかに熱帯植物です(ただし日本には南西諸島産のコンロンカのほか、もう一種ヒロハコンロンカM.shikokianaを本州の東海地方、四国、 九州に断続的に産し、これがコンロンカ属の分布北限種になると思います)。

屋久島の山麓には、野生アジサイのヤクシマコンテリギHydrangea grossaserrata(上記②のグループ)を豊産し、屋久島を代表する本来ならばもっと注目されても良い野生植物なのですが、他の有名固有種たちに比べて、ずっと粗末に扱われているように思えるのは、とても残念です。

それはともかく、ヤクシマコンテリギに混じってチラホラと見られる、同じような白い清楚な“花”がコンロンカ。僕が始めて屋久島を訪れた50年近く前、熱帯生物の代表ツマベニチョウHebomoia graucippeが、渓流に咲くコンロンカに群がって吸蜜しているのを見て、感動したものです。むろんツマベニチョウに対する知識は少なからずあったのですが、コンロンカについての知識は皆無、図鑑で調べて、屋久島や種子島を分布北限とするアカネ科の熱帯性植物であることを知ったのです。アカネ科Rubiaceaeといえば、本州などではごく地味な花の咲く小さな草本を思い浮かべますが、屋久島の麓の渓流には、野生のクチナシGardenia jasminoidesをはじめ、ギョクシンカTarenna gracilipes、タニワタリノキAdina pilulifera、ミサオノキRandia cochinchinensis、コンロンカなど、花の美しい木本性の種が多数見られ、熱帯地方に繫栄するグループであることを認識しました。

また、ツマベニチョウといえばハイビスカスとの組み合わせが定番ですが、むろん園芸植物、ツマベニチョウにとっては2次的な吸蜜源であるわけです。現在ではハイビスカスを訪れる“人里の蝶”となっているのですが、本来は、(熱帯の各地では)渓流に咲くコンロンカやタニワタリノキなどの野生植物が蜜源であると、納得できた次第です。

そんなわけで、コンロンカは僕のなかで強いインパクトを持っていたのですが、最近はインパクトが薄れつつありました。というのも、中国南部や台湾、フィリッピンやベトナムやラオスなどでは、他にめぼしい花が見当たらない場所や季節でも、このコンロンカだけはいつどこにでも咲いている、熱帯地方での最普通種のひとつという印象があり、それでもって有り難味がやや薄れつつあったのです。

それらの種が屋久島や沖縄のコンロンカと同一種なのかどうか、正確な同定は僕には出来ないのですが、濃い黄色の小さな筒状の花と、純白の大きな萼苞(5裂する萼片のうちの一片が大きく発達し、一見純白の花弁のようにも、あるいは白い葉のようにも見える)の組み合わせは、どの産地のものも似たように見えて、どれも代わり映えがしないのです。

アフリカなどを原産とする種には、萼苞が真っ赤になる「ヒゴロモコンロンカ」をはじめ、様々な色彩の園芸種が存在することは知ってはいましたが、派手な色彩の野生種は、少なくとも中国には分布しないはずです。

今回も、貴聯の周辺(地域A)で、もしやカラコンテリギ?とチェックしたものは全てコンロンカで、屋久島産と同じ半蔓性の花黄の種【Mussaenda sp.Ⅱ】でした。例えば、トカラアジサイが稀産する沖縄伊平屋島でも、最初はコンロンカばかりが目に入り、「もしかしたらこの島のトカラアジサイの記録はコンロンカの誤認?」と諦めかけたのですが、めげずにより山深い地の探索を続けているうちに、トカラアジサイが発見出来ました。諦めてはならない、とは言っても、標高がやや低すぎる(目算400~500mぐらい?)ような気もします。

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.4

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.12

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.12

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.13

Mussaenda sp.Ⅱ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.13

翌日、貴聯のすぐ(10km前後)北の江西省との省境の峠(地域B)を訪れてみました。標高は少なくとも700~800mぐらいは有りそうです。天然林が結構広がっていて、野生アジサイが生育している可能性は充分。しかし、カラコンテリギもヤナギバハナアジサイ(またはヤナギバアジサイHydrangea stenophyllaなど)も見つけることが出来ませんでした。ちなみに、もうひとつの“野生アジサイ”であるジョウザンは、ABC各地域とも非常に多く見られたのですが。

前日の観察地よりも標高やや高いとはいっても、やはり見られる“白い花”はコンロンカばかりです。それでもって、コンロンカであることが分かった時点で、近寄ることもなく、あまり注目せずにいたのですが、突然気が付きました。花(本物の花)が白い!【Mussaenda sp.Ⅲ】。その後、コンロンカに出会うたびに気をつけてチェックしたところ、この辺りに生えている全てのコンロンカは白花。

Mussaenda sp.Ⅲ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅲ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅲ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅲ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅲ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

コンロンカの仲間の魅力は、結局のところ、萼苞と筒状花の色のコントラストにあります。世界の各種を見渡せば様々な組み合わせがあるわけですが、中国や北部インドシナ半島で、僕がこれまで出会った種は、 全て屋久島産と同様に黄花だったはず。「白い萼苞」と「白い筒状花」の組み合わせが存在するとは、これまで考えたことがありませんでした。興味をもってチェックしたところ、この地域のものは、すぐ近くに隣接した貴聯の集団と明らかに異なり、全てが白花の種です。実は数日後、貴聯を再訪した際、(もしかしたら白花種もあるのに見落としているのかも知れない)と改めてチェックしてみました。やはり、黄花のコンロンカばかりでした。

もう一ヶ所、貴聯から広東/江西の峠とは反対側に位置する(やはり10~20kmの距離)、隣町との境の峠の周辺(地域C)にも足を運んでみました。ここも全てが白花。(後述する木本性の種を除き)黄花の個体はひとつも見られませんでした。標高は地域Bよりはやや低く、地域Aよりはやや高いような気がします(600m前後?)。一応、より低所では「黄花」、より高所で「白花」ということも出来そうなのだけれど、標高が、それほど違うとも思えない。中間形質の個体が見当たらないこと、ガク片の形に一定の差があること、などから、「黄花種」と「白花種」は、明らかな別種であると考えています(両者の“混生地”もどこかにあると思うのですが)。

そして、興味深い現象がもうひとつ。白花の産地には、「白い萼苞」+「白い筒状花」の集団だけではなく、白い筒状花だけをつける(すなわちコンロンカがコンロンカである所以の白い萼苞を欠く)株【Mussaenda sp.Ⅳ】も少なからず(というよりも半々ぐらいの割合で)見られる、ということ。

Mussaenda sp.Ⅳ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅳ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅳ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅳ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5

Mussaenda sp.Ⅳ 広東(詔関市翁源県)/江西(赣州市大全県)省境付近2013.6.5(痕跡的な萼苞が生じています)

これは“個体変異”とか“たまたま”というレベルではなく、萼苞を欠く花序をつける株は全ての花序の萼苞を欠き、萼苞を有す花序をつける株は全ての花序に萼苞を有す、という、極めて安定した現象を示します。ちなみに貴聯の黄花種の集団中には、萼苞を欠く花序の株は、全く存在しません。したがって、この両者も、それぞれ独立種である可能性が考えられますが、萼苞の有無以外の形質に有意差が見られないこと、花序を良く確かめると、極めて僅かではあるのですが、未発達の白い萼苞の痕跡がときに出現することなどから、一応、同一種の個別の表現形、と暫定的に解釈しておきます。

黄花の種にも、もうひとつ別の種があります。半蔓性でコンパクトな葉をもつ他の各種と異なり、葉が大型で、柔らかいといえ直立木本になる【Mussaenda sp.Ⅰ】です。花の形も他の各種と明らかに異なり、ことに萼片が楕円型で被針状にならないことが大きな違いです。おそらく、他の2(3)種とは、グループが異なるものと思われます。この種は、産地1では黄花の半蔓性種に、産地3では白花の半蔓性種に混じって同じ場所に見られますが、今のところ産地2では確認していません。

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県/河源市達平県の中間地点境付近2013.6.11

Mussaenda sp.Ⅰ 広東省詔関市翁源県貴聯 2013.6.12

以上の観察結果は、半径50kmほどの非常に狭い範囲に於けるものです。この一帯だけでなく中国の他の地域でも同様の状況にあるのかどうか、資料を持ち合わせていないため全く把握し得ていません。

はじめに記した野生アジサイ(カラコンテリギやヤナギバハナアジサイのグループ)では、装飾花を有するか欠くかで、種の帰属の判断が成されているようです。それが実態を反映しているのか否かは不明です。【Ⅲ】と【Ⅳ】の関係に於いても似たことがいえそうです(個体変異の範疇に入るのか、何らかの安定的な表現形なのか、種が異なるのか、等々)。それらのことと併せて、今後の検討課題としたいと思います。


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「痛み」の程度と、その数値化について

2013-06-15 16:45:38 | 

もう30年も経ちます。日浦勇氏(1932~1983)が亡くなる、少し前のことです。大阪長居の「大阪府立自然史博物館」の一室で、日浦さんや若い学生たちと共に雑談をしていました。ちょうど屋久島へ通いつめ、植物の撮影をしていた頃です。すでにツクツクボウシの鳴き声に興味を持っていて、その録音のため屋久島の近くのトカラ列島や三島列島にもしばしば渡っていました。三島列島の黒島では、ついでに雑昆虫もいろいろと採集し、日浦さんへのお土産に博物館を訪れたのです。「おい、駄目じゃないか!ゴキブリが入っていないぞ。」と日浦先生。そう、南の樹林の昆虫にゴキブリは欠かせません。痛いところを突かれてしまいました。

何人かの若い学生の中で、一際声高に喋っていたのが、京都大学学生の某君(断じて小路君でも北脇君でもありませんよ)。曰く、これからの生物分類は、分岐学的な手法による、数値化された客観性を基に成されるべき。新しい系統分類で、これまでは知る術もなかった、すべての実態が判明する。以前の古いスタイルの分類学とは決別しなければならない。我々の時代がやってきた。云々。

日浦先生、うんざりとした顔で、話には加わらずにぽつねんと座っていました。その話題は無視をして、ウラナミジャノメの話に。「天竜川下流の個体群には、しばしば余剰紋が出るでしょう?これは大変な問題を反映していると思いますよ」と僕。

Ypthima属の大多数の種は、♂交尾器の形状から、2つの群に大別することが出来ます。ヒメウラナミジャノメを含む一群と、ウラナミジャノメを含む一群です。交尾期の形状と、ある位置(後翅裏面第〇室)に眼状紋があるかどうかとが、例外なく見事に一致するのです。ただひとつの例外が、天竜川下流一帯のウラナミジャノメ。同じ種群の個体には絶対に表れることのない、かつもうひとつの種群の個体には例外なく現れる形質が、この地域の集団のみしばしば出現する。これは単なる「個体変異」で済まされる現象ではありません。

この場所は、ちょうどフォッサマグナの南の端(*)に相当します。非常に古い時代の、かつ複雑に入り混じった地層から成っている地です。種としての分布の東限は、静岡県の大部分を跳び越して、伊豆半島の付け根付近に存在しますが、その個体群と天竜川下流域の個体群とは、成立の過程が異なると僕は見ています。天竜川下流域の個体群は、非常に遺存的な集団なのではないか?と。この集団を中心に、対馬や台湾や大陸の集団(それぞれを独立種とする見解もあります)あるいは八重山諸島のマサキウラナミジャノメなどの近縁種を併せて比較検討することにより、日本列島や東アジアの、それぞれの成立過程や相互関係を窺い知ることが出来ると思うのです。

日浦先生は、「君、凄いことを言うじゃないか、よし、やろう! 我々でその謎を解き明かしてみよう!」と多大な興味を示してくだされました。しかし付け加えて、「でも青山君、これからは彼のように能率的な方法論で勝負しないと、出世できないぞ、こんな厄介な、壮大なテーマに興味を持って、手作業で取組んでいたら、永遠に貧乏を覚悟しておかなければ」と。

その後暫くして、日浦先生は突然に亡くなられたのです。次に屋久島から帰阪した際、自然史博物館を訪ねました。宮武頼夫氏から「今、形見分けをしているところなんだ、日浦先生の奥さんから、“これを青山君に”と託されているので、貰ってくれるかな?」と手渡されたのが、W. H. Evansのセセリチョウ科の系統分類書「A catalogue of the Hesperiidae from Europe, Asia and Australia in the British Museum」の4冊セットです。当時知られていた全ての種のゲニタリアが図示されていて、ごく簡単な略図ではあるのですが、それだけにポイントがよく抑えられています。今でも充分に通用するのです。ゲニタリアによる系統分類の考察に際しては、細部を詳細に描けば良い、あるいは明瞭な写真を撮ればいい、ということではありません。いかに有意な指標形質を見つけ、その比較に基づいた検討が成されるか、と言うことなのです。

去年(2012年)の夏、長い間東京の自宅を留守にしていたら、大量のゴキブリが発生、外国製の本の表紙の多くは、糊で繊維を貼り付けているものですから、表紙を綺麗さっぱりゴキブリに舐め尽くされ、厚紙の地が現れて真っ白になってしまっていました。でも中身には影響ない。僕は、標本を「研究の為の材料」と考えるのと同様に、本も「読む為のもの」と割り切っていますので、外観はどうでも良いのです。とはいえ、日浦さんに申し訳ない想いでいることも確か(ゴキブリを疎かにしたバチでしょうね)。いずれにしろ、早くお金を稼ぎ、新しい顕微鏡を手に入れて、この“指南書”を充分に活用せねばなりません。

今の時代、全ての現象が機械的に数値化され、アナログ的な手法に基づく(私的な)概念を排除した“科学的”な考察が成されていきます。DNA解析に基づく系統分類など、その最たるものでしょう。確かに、以前の(顕微鏡を覗いての形質比較などの)手作業による手法に比べれば、大変な進歩だと想います。しかし、それだけで全てが分かるわけではない。(信頼度は従来のアナログ作業による解析よりも格段に高いとはいえ)剥き出しの材料が提供されているに過ぎません。答えとは別物です。生命とか進化とかの実態は、紙の表に文字や数字を羅列して示せるような、そんな生易しいものではないはず(そのことについては、ここでは深入りしません)。

数値化による物事の解析は、果たして万能なのでしょうか?

今、僕が言いたいのは、“痛み”について、です。

以前から、自問自答を重ねて来ました。僕は、人並み外れて痛みに弱い(我慢できない)のだろうか?
あるいは、人並み外れて痛みに強い(我慢しすぎ)のだろうか?

この10数年来、体のあちこちが激痛に襲われ、その場所がある一定の期間を置いて、移り変わって行くのです。たまに医者に行ってそのことを訴えても「気のせいでしょう」と取り合ってくれない。「体の中に巨大な虫か何かが棲んでいて、あちこち動き回っているみたい」とか冗談を言って済ますしかなかったのです。医者が「気のせい」というのですから、僕自身が「激痛」と感じている痛みは、他の人にとってはほとんど感じないような、ごく軽微な痛みなのかも知れません。それとも、医者が疾患を「気が付かない」だけで、普通の人なら我慢の仕様もない、大変な痛みを我慢しているようにも思えるのです?

なかなか結論が出ません。他人との比較の仕方、程度の計り様がないのです。人一倍痛みに弱いのかも知れない、という気もしてきます。でも考えてみれば、骨の一本や二本(肋骨とか足の指とか)が折れていても、平気で(もちろん激痛を我慢してですが)何10kgのリュックを担いで、何10kmと山の中を歩き回っている、真冬でもTシャツ一枚でO.K.だし、真夏にも冷房は使わない。人一倍、我慢に強いのかも知れません(単に鈍感なだけ?)。

*ここからは2週間ほど前、ベトナム滞在中に記した「差別と人種について、そのほか」からの抜粋です(未アップ・加筆部分あり)。

「痛風」について調べてみました。あや子さんが送信してくださった「公益財団法人・痛風財団」による「痛風とはどんな病気?」から一部を引用します。

【ある日突然、足の親ゆびの付け根の関節が赤く腫れて痛みだします。痛みは万力で締めつけられたように激烈で、大の大人が2、3日は全く歩けなくなるほどの痛みです。発作的な症状なので痛風発作と呼びますが、これはたいていの場合、1週間から10日たつとしだいに治まって、しばらくすると全く症状がなくなります。ただし油断は禁物で、半年から1年たつとまた同じような発作がおこります。そして繰り返しているうちに、足首や膝の関節まで腫れはじめ、発作の間隔が次第に短くなってきます。このころになると、関節の症状だけでなく、腎臓などの内臓が侵されるようになってきます。華々しい関節の症状と深く静かに進行する内臓障害。陽と陰のある病気ですが、陰の方が目立たないのが重要です。】

まさに、今回の状況に、ピタリと当て嵌まります。もっとも、ひと月が経つのに、同じ場所の激痛が全く治まらない、というのは、上記の説明とはかなり異なりますが。そのほかにも、上記の症例に当てはまらない、非常にイレギュラーな問題があるように思われます。すなわち「最初は」という部分。今に始まったわけではなく、(上記したように)かなり以前(10年、あるいはそれ以上前)から、似たような症状に苦しんで来たのです。

まず、ごく直近の(今回の)症状について。激痛が始まる4~5日前、梅里雪山や白馬雪山の周辺を歩き回ったとき、相当にハードな行程だったものですから、その結果、足の多くの部分(おおむね指)を痛めてしまいました。その時点で複数の骨折(ヒビ?)や裂傷に基づく、重大な疾患が生じていたものと思われます。今回の「痛風」とは、おそらく無関係(偶然なのか必然なのかは不明)に、この数週間、足の痛みに苦しみ続けてきたのです。

遡って、この一年の期間で思い起こして見ます。昨春に一度ブログと閉じる直前の頃ですが、一昨年の暮れから昨年早春にかけ、原因不明の激痛に襲われ続けました。具体的には鼻を中心とした顔面から各部位に激痛が移行して行く。それと並行して、やはり10数年前から不定期的に苦しみ続けている、気管支炎モドキ(「モドキ」としたのは、医者からは正式に“気管支炎”とは診断されていないことに因ります)の再発。いやもう苦しいの何の。実際“もう駄目”と覚悟していました。でも簡単に死んでしまうわけには行きません。といって、医者に行くにも、経済事情が許さない。そこで“救済要請”をブログに綴ったのですが、結局誰一人として助けてはくれませんでした(その期間、読者数・閲覧数は飛躍的に増えていましたが、、、、、無関係の人間が苦しんでいるのを、きっとバラエティ番組のような感覚で見ているのでしょうね)。

助けてくれたのは、モニカをはじめとする中国人やベトナム人や欧米人、日本人では沖縄の某行政のトップの方。あや子さんとはこの時に決別し、ブログは閉じることにしました。

結局、深センとベトナム・サパ(3食つき1泊10ドル後払い可)にひと月間滞在(終日部屋に閉じこもったままウンウン唸っていた)した後、昆明に移ってさらにひと月近く、その昆明滞在中に劇的に回復、日本に帰ってからの診察(ことに顔面の激痛を探るための)では、いつも通り「どこにも疾患は見られません、気のせいではないですか?」という次第です。

昨夏の間は、体調が特に悪くはなかったため、ベストシーズンの6月末から7月にかけて、雲南北部の山間部を探索していました(その後、仕事の成果の資料や写真を日本に送ろうとしたときに思わぬアクシデントが起こり、そうこうしているうちに例の尖閣問題が勃発して、決まりかけていた仕事も全て白紙に戻ってしまったのですが、そのことについてはまた別の機会に)。

秋、再び日本に帰国。年末近くに中国に再渡来したのだけれど、また全く別の原因不明の激痛に襲われ  続けました。改めて日本に帰ることにし、帰国前日になってモニカを伴って病院に行ったら「尿酸値が余りに高く危険な状態である、すぐに入院が必要」と1日入院を余儀なくされてしまいました。点滴7本で1万5千円ほどの支払い(モニカに立て替えてもらった)。

このときも、モニカや他の外国人たちが親身になって面倒を見てくれたのだけれど、助けを求めた日本のメデイアや知人は、(ごく少数の方々を除き)まるっきり無反応。

医師からモニカには、相当に深刻な状態にあると告げられていたようで、それがあってか、その後は厳しい健康管理をされているのです。

年末、再度日本に帰り、どのような形でも資金を作らねばと、今年一月いっぱい、某昆虫コレクターの
経営する会社の後始末(?)を打診され、引き受けることにしました(その顛末はまたの機会に)。

一ヶ月間倉庫に寝泊りして、日夜ぶっ通しで数10万枚にも上る書類のシュレッターがけや、数百箱のダンボール運びなどを、一人で行うことになったのです。その結果、(重いダンボールを運び続けたため)肩を痛めてしまった。リアルタイムでは、なんら異常がなかったのです。それが中国に戻る2月中旬になって、左肩に激痛が走り出しました。ひと月あまり、我慢の限度を越えるほどの痛みが続いたのですが、しかし物理的な原因(重い段ポール運び)が分かっていた(つもりだった)ので、仕方がないと、ついこの間まで、痛みを堪え続けていたのです。

考えて見れば、肩の痛みは、必ずしも重労働が原因ではなかったのではないか、という気がします。なぜなら、足の指の激痛が突如始まる、その少し前に、肩の痛みのほうは治まっていたからです。入れ替わるようにしての足の激痛。肩の痛みも、イレギュラーな形での痛風だったのかも知れません。

さらに、数年から10数年前に遡って思い出してみます。痛みの程度や我慢の程度は、本人にしか分からない。自分が我慢強いのか、いくじないのか、客観的に図りようがないと思うのです。

30年近く前、高山植物のフィールドガイドブック作成のため、日本の山を歩き回っていた頃のことです。
高山植物は、それぞれの種ごとに開花季節が限定されていますから、一年の間に撮影を終えようとすれば、それはもう、とんでもないハードな行程となります。

例えばある年の6月下旬、それぞれの山で必要とされている“ただ1種の”固有種や希少種の撮影のため、まず北アルプス白馬岳から北海道北端の礼文島・利尻島に移動、利尻岳に日帰りで登って、稚内→網走→知床、翌日は、羅臼~硫黄岳を縦走、真夜中に宿舎に戻り、翌朝旭川から大雪山黒岳、そこから走って旭岳、ロープウェイで下山、旭川から盛岡まで航空便、翌日、早池峰の麓までタクシー、山頂を往復して、仙台空港→東京、そのまま夜行列車で甲府、朝一番のバスで広河原、北岳山頂まで走って往復、再び夜行で帰京し、世田谷区のアパートに(その後も、同じ山々の再トライを含めて7月いっぱいフル活動が続きました)。山に造詣の深い人ならば、超人的なスケジュールだと分かって貰えると思います。

その頃の僕の「持病」とも言えたのが、あまりに疲れた日が続くと、眠れなくなると言う不思議な現象。寝ない日が続けば続くほど、眠れなくなってしまうのです。そして眠れないままハードなスケジュールを繰り返していると、発作に教われます。東京に戻った翌日、近くの病院(初診)に診察に向かいました。対面した医師は、僕の風貌(日焼けはしていても痩せて小柄で、いかにも弱々しく見えるのだと思う)を見て開口一番「あなたは、今、自宅からゆっくりと歩いて来たのでは」「走ってくるぐらいの元気がないと」「眠れないのは単なる運動不足」「精神的なものだから、部屋に閉じこもっていず散歩にでも出かけるように」。

バカらしくなって、「いや、診て貰わなくて結構です」と診察を打ち切りました。「眠れないのは、眠ろうと気にするから眠れなくなってしまう、精神的なもの」と大抵の医師は説明します。でも、「眠ろうと気にする」も何も、疲れ切って、気にする余裕など微塵もない、「バタンキュー」なのです。問題は、就寝して間もなく目が覚めてしまう、あるいは発作に襲われる。結局、睡眠不足で意識朦朧とした状態のままでのハードな行程を、何日も繰り返し続けることになります。

やはり20年近くもの間悩まされ続けてきた“気管支炎モドキ”の場合も、同様のことが言えそうです。その苦しさは、筆舌には尽くし難いほど、と本人は思っています。激しい空咳のため、軟骨を何本も折ってしまい、それと共に各関節や体のあちこちに激痛が走ります。そして夜は眠れない。また、しばしば夜中に発作(「過呼吸症候群」というのだそうです)が起こります。それでも重いリュックを担いで山の中を歩き続けているのですが、ある日突然、全く予測が出来ないタイミングで、それまでの苦しさが嘘のように、ピタリと治ってしまう。

しばらく(“気管支炎モドキ”は翌年まで、、、毎年春から秋頃に発現)は平穏な期間が続きますが、またある日突然、どこかの部位が激痛に襲われるのです。

医者に行っても診断は常に同じで、「精神的なもの」。実際、検査の結果は大抵悪いところは発見出来ないものですから、「我慢が足りない」といったような結論になっても仕方がありません。まあ、症状がよく分からない診断結果の場合は、患者の側の精神的なもの、とされてしまうのが、落ちなのだと思います。

今考えれば、すでに10年20年以上前から、「痛風」の傾向があったのではないかと思うのです。痛みを訴え続けても、(日本の医者も知人も)誰もが無関心、なんらのアドバイスも貰えません。僕の体調に気を使って、食事についてのアドバイスをし続けてくれたのは、スーリンだけ。その後、具体的に健康管理のコントロールを続けてくれているのはMonica。病状の実態が判明し、詳しく説明してくれたのが、外国語での会話にコミュニケーションのハンデがある、昆明やハノイの、中国人や欧米人の医師。

日本人の医師からは唯一人、数年前に(相当に変わり者の)老年医師から、「生きているのが不思議なほど体中が酷い状況、、、検査の結果には現れないので、普通の医者には診断が付かない、、、このままだと一年も持たない」と言われたことがあります。高額の診察費が払えないので、そのままになってしまっているのですが。

酒とタバコはやりません。甘いものも嫌い。それらの点に於いてはヘルシー極まりないのですが、それ以外の食生活を考えると、滅茶苦茶な不摂生をしてきたことは間違いありません。一日3食を毎日一度に纏めて食べるとか、一ヶ月間ぶっ通しで朝昼晩マクドナルドのハンバーガーで過ごすとか、コーヒーをブラック(おおむねエスプレッソ)で日に7杯も8杯も飲むとか、、、、。

その結果、体は壊滅的な状況にあると自覚しています(先程の医師の言では、実質80歳代、とても60歳代の体ではない、と)。普段は部屋の中のトイレに行くのにも、這って行く状態。頭は常に意識朦朧としていて、目は、ほとんど見えないと言っても良いほど(顕微鏡とカメラのファインダーを通してなら良く見えるのですが、笑)。

それでいて、ひとたびフィールドに出れば、標高4000~5000mの氷河の周辺、道のない林内や渓流、一日に何10kmの道を一人で歩き続け、町に戻ればノー天気に20代の若者たちとつるんで(?)いるわけです。自分ではそうは思わないのだけれど、外観上は60代半ばにはとても見えないのだとのこと(40代、あるいは50歳前後と思われていることが多いみたい、、、、ここのところ、イミグレーション等で65歳以上の老人用ブースを利用するのですが、大抵注意をされてしまう)。いかに体調が悪いかを説明しても(いかに貧乏であるかの説明とともに、笑)誰も信じてくれない。

むろん冗談なのですが(半分本気?)もう何十年も前から、末期の病状にあって、しかしながら、気が付かずに放って置いたら、いつの間にか治っている、ということを何度も繰り返しているのではないかと。(経済的に余裕のある)一般の人ならば、診察、治療、手術、入院、、、ということで、その結果、とっくの昔にお陀仏になっている。気が付かずに(我慢をしつつ)放って置いたことが功を奏しているのではないかと。

今回も、このまま我慢をして“突然の回復”に期待すれば良いのかも知れませんが、ただ今回ばかりは我慢にも限度が、という状況です。

一体、どうなるのでしょうか?
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