語彙論に扱う語の集まりと語のまとまりのアプローチがある。言い換えると、語の集合と語の体系である。いずれも語彙をとらえる。語彙は語のひとつひとつがあって日本語の語彙というと日本語で全体をとらえる考え方になる。英語の語彙、中国語の語彙というように、語彙は語の集合また語の体系を見ることになる。これは語の集計が計算言語学で進められて語彙論としての手法が成果を出して議論することができるようになったことによる。たとえば日本語の日常的に使用する語の数はいくつあるかというふうに、ひとつの語彙について問う。それを語の集合としてみると語の全体を見渡して語数を特定する計算処理できるようになる。語彙論は1950年代以降、統計処理が行われてさまざまに語彙としての研究が行われた。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 835 どん底のスランプ を例題にしている。スランプのどん底 になると、ことばの順序から使えるようだ。用例を検索すると、例題の表現はヒットする。コラムの解説はどん底であればそれはスランプにほかならないと言うが、必ずしもどん底がスランプ状態を意味しない。スランプの意味には、心身の調子が一時的に不振になっている状態を指すが、また、実力が発揮できず、成績などが一時的に落ち込んでいる状態をも言う。さらに、相場の急落、不景気などもある。どん底の状況が何であるか、それによるスランプである。どん底は、最も好ましくない結果またワーストにあって、そこで最低、最悪、最下にスランプが加わるということだ。。 . . . 本文を読む
世という字を眺めてその字源を知りたくなる。象形文字だと言う。そして、葉、枼の原字で、草木の枝葉の新芽の出ている形を示す、それによって新しい時期、世代をあらわすものか、白川学では説明するらしい。それに対して、又は「十」を三つ重ねた「丗」を原字とし、自分の子へ継ぐまでの約三十年が元の意で幾世代も続くことを意味したものと、藤堂説がある。その字の意義には、親から引き継ぎ、自分の子へ継ぐまでの時代、とあり、世代でもあるようだ。この語が作る、世間、世界、そして、世の中、と、わたしたちにとっては日常卑近な存在にかかわる事象をとらえる。世間は仏教用語であり、出世間と世を二分して見る言葉のようだ。
さらに、日本ではこの用語は、この世、世の中、社会のことを表す。 . . . 本文を読む
詩歌を詠む、詠う、とも言う。詩は漢詩であり近体詩また今体詩である。時代が下がって日本では近代詩ともなった。いずれも文学の影響下にあってジャンルである。歌は大和歌であり朗詠歌があった。吟詠があり、浄瑠璃がある。歌曲ともなるが、伝統的な流れにある歌謡である。現代にはさらに歌謡曲とする流行歌がある。琵琶法師の語り、門づけ、説教節なども現れ、芸能の展開がある。舞をつけるものが宮廷雅楽から民間の今様になると民衆芸は歌舞伎をうみだす。近代になって詩歌は近代短歌と俳句を作り出した。大和歌における長歌に対する反歌による古代和歌の文芸と、俳諧としての連歌における発句は短詩型文学としてふたたび結実し、近代の口語自由詩とともに、詩歌を詠むことは伝統文学そのもである。そこにあらたに、リリック、エピックのとらえかたに、歌詞と曲をとらえることが行われる。 . . . 本文を読む