哲学
2013-07-08 | 日記
この難しい語はその内容をもたない。あるのはその行為である。その行為とは何を指すか、哲という字が表すところのものである。哲学が翻訳語でありどのような語であるかはその概念を哲学の原語である愛知、愛哲にして考えてみるとわかる。いずれにしてもこの語の起源については日本語では近代の時期からさかのぼることはないしほかの語を求めて概念を当てようとしてそれはない。哲学が日本にないと言うのは歴史的に哲学の伝統をもたなかったかと言うと哲学の行為はあったに相違ないので哲学と言う語が日本になかったと言うべきであろうか。哲学の歴史を眺めて日本哲学とするものは近世までに見当たらないとするか、ほかのなにかをもって置き換えようとするか、哲学の行為をそれで表現するとどうなるであろう、それで、とは、たとえば儒学であり国学であるし、宗教の生き方を求めれば仏教哲学とでもいう諸々である。哲学が言葉としてないというとき、それは日本語のことばが何であるかを哲学することになるが、その哲学は日本語を言葉の行為とすることになる。 . . . 本文を読む