日本語学と意味論 日本語学はいつからか、意味論はいつからか、いずれもその時期を明確にするのは困難である。その分野の専攻があるとすればその人の日本語学であり意味論であるので、いま日本語学に意味論が行われていることになる。日本語学を国語学としていた時代と言っても、なお国語学は国語学であり、日本語学は以前にも日本言語学であるので語弊があるが、その国語学における意味の学問は語彙論であった。
語彙論から意味論へと展開したかどうか、それは立場によって異なる見方になるし、意味論は現代言語学とともにあるので、言語学にある語彙論とは峻別されるところがある。その内実を取れば議論の視点があり立場がありすることであるから、日本語学の語彙論であり意味論であってよい。国語で語彙そのものを捉えだしたのは1950年代と考えていいだろう。計量言語学による計量国語の議論による。
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江戸時代の洋学は次のように、南蛮学と蘭学を指す。端的に、江戸時代から明治初期のころまでの日本に移入されたヨーロッパの学問の総称としては、ポルトガルの蛮学、オランダの蘭学、蘭、英、仏、独の西洋学問、と言うことができる。西洋という語に東洋という語が迎えられて、洋学はそのすべてとされてもおかしくはないが、西洋の洋学があって、東洋を意識したものであろうから、洋学といえばヨーロッパとなる。南蛮学があるが、南蛮と称される、この蛮字は、よろしくない。古代漢語で漢民族を取り巻く異民族の蔑称である、東夷、西戎、北狄、南蛮の一つ、蛮族夷狄のイメージである。蘭学からはじまった西洋の捉え方にあるのだろう。南蛮をどれほどに見たか。1543年、種子島に漂着して鉄砲を伝えたポルトガル人のことは、鉄砲記に見える。
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西洋人の日本語発見 の記述を読む。 ロシアで1734年に、日本誌 が刊行。
1745年、南部佐井村多賀丸が魯西亞、オンネコタン島に漂着、18名の内8名死亡、10名はペテルブルグに送られた。その一部の者、イルクーツクで日本語学校の教師となる、1754年のこと、魯西亞語を学んだ。
1753年、日本語学校をイルクーツク航海学校の付属校として創設、日本人講師がペテルブルグから3名、ヤクーツクから4名がやってきた。以後60年続く。
1771年、伊勢白子の神昌丸が魯西亞、アリュ―シャン列島のアムチートカ島に漂着、船長の大黒屋光太夫、新蔵らは助けられた。光太夫は1788年まで魯西亞に居た。光太夫の仲間、ショウゾウ、シンゾウは魯西亞に永住した。ともに日本語学校講師となり、それぞれ、F.シトニコフ、N.P.コロチギンと名乗った。ショウゾウは約5年、シンゾウは約20年、死去するまで、教科書や辞典を作成し日本語教育に力を注いだ。シンゾウは魯西亞夫人とのあいだで3人の子をもうけた。ドイツの言語学者、クラブロートの日本語研究に助力した。三国通覧図説、ドイツ語訳の作業をした。なお、光太夫は帰国時に同行の魯西亞語通訳がいたが、通訳は日本人に日本語を習ったと証言しているうようだ。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 823 行っては絶対にならない を、例題にしている。してはならない について、ひとつの単語と同じ働きで使う用法だから、行っては と、ならない とを、わけてはいけないというふうにコラムは解説する。~してはならない 禁止、~なければならない 義務、~かもしれない 可能性、などと同じだとする。それぞれ語構成に違いがあるので同じだということはできないが、とくに してならない と、してはならない とでは、してはけっしてならない というように、表現できる。は の働きである。していけない と、してはいけない と、この場合もそうだ。副詞の呼応をかける言い方で禁止を強調することになる。ただネットで検索すると、この使い方は流行ったフレーズのようでもあるので、例題のままにはヒットしないようだ。 . . . 本文を読む