SMAPは、Sports Music Assemble People の略である。それを語るメンバーはいない、いなかったようだ。メンバーとしてよりあう仕事仲間の虚像は、スターであるが故か、結成当初から運命づけられていたのだから、ファンたるものはそれを知る、だろう。アイドルがなにか、その限界を思わせた。人々の思いはどこにあるというのか、透けて見えてくるのはそこに投影する自らの姿である。グループが仕事をこれで終わりにするとすれば、また次の生き方が、仕事がそれぞれにあるのだろう。フィナーレでカメラに背を向けて嗚咽するスマップリーダーには、そのカリスマでなくなった哀れがただよっていた。 . . . 本文を読む
古い記憶を取り出して、下村湖人の次郎物語にあった言葉である。白鳥が芦をざわめかせる、その芦の花の色に鳥の姿は見えないというものだった。陰徳淑徳の語のように記憶して、青春のスタートになった。この語は作者による造語だとされる。白鳥が白馬だとか、禅語であるとの解説がある。>『碧巌録』第十三則 擧僧問巴陵。如何是提婆宗。(白馬入蘆花。道什麼。點。)巴陵云。銀碗裏盛雪。(塞斷爾咽喉。七花八裂。) 【白馬入蘆花】
『禅語字彙』には「共に白き故に、見分け難しの意にいふ」とあります。
真っ白な蘆の花と、真っ白な馬は、共に白い為に見分けはつかないが、それぞれが確かに存在している。 . . . 本文を読む
文章は文と同義で用いられる、と言えば、それは文そのものを文章と呼ぶ場合である。文法用語に、その説明をする日本文典に見えるのは、広日本文典、大槻文彦による、草野清民による文法篇である。19世紀末から、20世紀初頭のものである。それはまた、継続して、現代語の解釈にも引き継がれている。翻訳にあててみても変わるところがない。言語の文法と書き手によるものと分けているが、多くは作品としてのとらえ方である。文と文章がその用法で同じであるとのとらえ方は、日本語のとらえ方がそのようだからであるが、言語また文法として、その区別を明きらかにするものがないのはなぜか。その根底にあるのは、文章についての分析が行われてこなかったことにあると言うことができる。文章論さかのぼっての文章学という、その内容は文章の文体、作品、種類などの解説に過ぎない。文章の思想を表したるもの、文章の統一をするもの、そういった議論は、文章の論として行われてきたものである。
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