川柳を始めて柳歴70年を過ぎた旭川の「西村恕葉」さんと言う女流作家がいらっしゃいます。16歳から手ほどきを受けて川柳「きやり」(東京)の社人では、当時、見渡すところご本人しか女性がいらっしゃらなかったとご本人からうかがいました。
同い年の五十嵐万依さんは容子さんのお母様ですが、このお二人の川柳の歴史はそのまま、北海道の女性史の歴史でもあります。一生活者としての女性が「言論の自由」を自らの手で、獲得し、川柳に託された知・情・理が生み出す秀句は、社会へ一石も二石も投じられ続けてきました。「人間」の弱い立場にある人の代弁者として「声なき声」を一生かけて描き続ける「川柳道」「人間道」に、まずもって大きな拍手と敬意をはらわなければなりません。
そこに、長年旭川「原流社」で、主幹が恕葉先生、編集長がさとし氏の時代がありました。
今も、編集会議に出かけ、ついこの間「風邪」で初めて編集会議を休まれたと電話をいただき、私は、恐縮してしまった。
このお二人の布石・軌跡あればこそ「原流」から、優れた柳人が輩出され続けているのだと思います。北海道川柳人では別格の「細川不凍氏」が今年7月号より投句されているのも頷けます。
こうして北海道の女性川柳家のルーツの下で、さとし氏が川柳で独自の世界を築かれ、容子氏もお母様の川柳家の後姿を見ながら独自の世界を築かれたのでありましょう。テイ子氏は小説・俳句も勉強されており、それもすべて川柳へ還元するためのものであります。テイ子氏も2代目恕葉先生になられるのではないかと楽しみにしている私です。
さとし氏がこの『泥』を創るにあたって、私がいただいた言葉はひとことだけだったような気がします。それは「川柳は、俳句や・短歌に比べて文芸では少し低く見られているでしょう・・それを、ひとつでも押し上げたかった・・」と言うことです。
いつの世も、時代を作り上げる先陣の風には、やさしい風など吹くことは無く、まるで屯田兵のように未開の土地を手探りで開墾する精神にも似て、しんどいものなのだと思います。
こころない人から見れば個人芸としか見られないこともあるかも知れませんが、この『泥』の御三人は、公と私を良く考え抜かれ、この北海道川柳界の未来のために捨て石になったとも考えるのは、まだ私が未熟な思考性しかない所以なのでしょうか。
お三人があえて、自分達の句を容赦なく「いい・悪い」とアドバイスし合い、それを掲載されておりますが、御三人を知らない読者にとっては、『泥』との距離が心象的により自分達に身近な作者像を生み出したのも事実です。
今でも、さとし、テイ子氏は北海道の一番難しいと言われる、柳誌の鑑賞評や提言なども北海道くまなく活字に残されておられる軌跡は、北海道川柳界にいつも光を与え続けている生きる「姿勢」でもあります。
「川柳の使者のようだ」・・と、私が書いたら、さとし氏からは「・・・それは・・書きすぎ・・」と言われそうですし、テイ子氏からは「あーらあ!そんなことないのよ!・・そーんな・・ほめすぎよォ・・はずかしいわーん」と言われそうです。天上人の容子氏からは「それは・・つまり・・道義的に見て・・いかがなものか。」
などと、ありがたい言葉もいただけそうです。
『泥』第四号のテーマは「おのれを斬らせて実を獲得する」それは、まこともって川柳人のペン先がキラリと光る醍醐味ではありませんか・・。