川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

『泥』四号・・・ミミズの考察 E

2007年11月20日 | 川柳
 川柳をたしなむ人には、川柳を理解しようとする意識は大なり小なり働くものではあるけれど、全く興味の無い人には、ただ言葉が書いてあるくらいの感想しか持ち得ないものかも知れない。

 川柳を始めて柳歴70年を過ぎた旭川の「西村恕葉」さんと言う女流作家がいらっしゃいます。16歳から手ほどきを受けて川柳「きやり」(東京)の社人では、当時、見渡すところご本人しか女性がいらっしゃらなかったとご本人からうかがいました。

 同い年の五十嵐万依さんは容子さんのお母様ですが、このお二人の川柳の歴史はそのまま、北海道の女性史の歴史でもあります。一生活者としての女性が「言論の自由」を自らの手で、獲得し、川柳に託された知・情・理が生み出す秀句は、社会へ一石も二石も投じられ続けてきました。「人間」の弱い立場にある人の代弁者として「声なき声」を一生かけて描き続ける「川柳道」「人間道」に、まずもって大きな拍手と敬意をはらわなければなりません。

 そこに、長年旭川「原流社」で、主幹が恕葉先生、編集長がさとし氏の時代がありました。
 今も、編集会議に出かけ、ついこの間「風邪」で初めて編集会議を休まれたと電話をいただき、私は、恐縮してしまった。

 このお二人の布石・軌跡あればこそ「原流」から、優れた柳人が輩出され続けているのだと思います。北海道川柳人では別格の「細川不凍氏」が今年7月号より投句されているのも頷けます。

 こうして北海道の女性川柳家のルーツの下で、さとし氏が川柳で独自の世界を築かれ、容子氏もお母様の川柳家の後姿を見ながら独自の世界を築かれたのでありましょう。テイ子氏は小説・俳句も勉強されており、それもすべて川柳へ還元するためのものであります。テイ子氏も2代目恕葉先生になられるのではないかと楽しみにしている私です。

 さとし氏がこの『泥』を創るにあたって、私がいただいた言葉はひとことだけだったような気がします。それは「川柳は、俳句や・短歌に比べて文芸では少し低く見られているでしょう・・それを、ひとつでも押し上げたかった・・」と言うことです。

 いつの世も、時代を作り上げる先陣の風には、やさしい風など吹くことは無く、まるで屯田兵のように未開の土地を手探りで開墾する精神にも似て、しんどいものなのだと思います。
 こころない人から見れば個人芸としか見られないこともあるかも知れませんが、この『泥』の御三人は、公と私を良く考え抜かれ、この北海道川柳界の未来のために捨て石になったとも考えるのは、まだ私が未熟な思考性しかない所以なのでしょうか。

 お三人があえて、自分達の句を容赦なく「いい・悪い」とアドバイスし合い、それを掲載されておりますが、御三人を知らない読者にとっては、『泥』との距離が心象的により自分達に身近な作者像を生み出したのも事実です。

 今でも、さとし、テイ子氏は北海道の一番難しいと言われる、柳誌の鑑賞評や提言なども北海道くまなく活字に残されておられる軌跡は、北海道川柳界にいつも光を与え続けている生きる「姿勢」でもあります。

「川柳の使者のようだ」・・と、私が書いたら、さとし氏からは「・・・それは・・書きすぎ・・」と言われそうですし、テイ子氏からは「あーらあ!そんなことないのよ!・・そーんな・・ほめすぎよォ・・はずかしいわーん」と言われそうです。天上人の容子氏からは「それは・・つまり・・道義的に見て・・いかがなものか。」
などと、ありがたい言葉もいただけそうです。

 『泥』第四号のテーマは「おのれを斬らせて実を獲得する」それは、まこともって川柳人のペン先がキラリと光る醍醐味ではありませんか・・。
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現代川柳『泥』四号・・・ミミズの考察

2007年11月18日 | 川柳
 サルトルの「壁」も安部公房の「壁」も圧してしまいそうな、テイ子さんの「壁」のメッセージ。いつも思うことなのですが、彼女が文章を綴る時の渾身のエネルギーは、この抑揚のリズムは?核心と本質を捉えることばの所作は?「圧巻」としか書けない自分の脳足りんが歯痒い。記憶にまちがいが無ければサルトルの「壁」は壁にぶつかり続けるのではなく、高い壁も必ず越える高さがある、「越えるだけだ。」当たり前と言えば当たり前だが、青春の蹉跌・彷徨はそんな当たり前に気づくことさえ容易ではない。みんなが人生でぶつかる壁を「最も希求する母なる回帰かも知れない。」と結んでおられます。
 
◎ 普川氏の川柳批評の「川柳の属性」・・・詩性・社会性・批評性・ユーモア・
                       イロニー・実存性。
 (批評語による川柳批評)
 ①音律性②比喩③カタカナ、ひらがな④母音声⑤作品の俳句性⑥使用言語
 ⑦言語構成と難解性

を、提示されておられました。特に句には「ある種の感動」が不可欠ではありますが、詩性、イロニーは特に重要と感じています。

◎感性の反射・・石井先生は、さとし、テイ子、容子各氏とのお付き合いも長い
        ので、作者を良く知る上での鑑賞評はより実在性があり、各氏も
        安心して句の鑑賞を委ねられたのではないでしょうか。

◎詩(うた)語らい・・木村政子氏は2度目のご登場ですが、生活者の視点から
           社会のどこにでもある諸問題を、さりげなく風刺されている
           イリュージョンは、誰もが共感できる寸劇を見ているようなあ                 る種の「開放」を試みた作品ではなかったでしょうか。
           

◎明日は、池氏が冒頭で述べていた「メリット」3人がお互いの作品を厳しく見つめるコ ーナーへと移行します。いい加減な妥協はしない。おかしな所はおかしいと、はっきり 発言してみようという試みである。
(このような姿勢の持ち主は、双方に同じ向上心、目指すものの志の高さの高い人ほど受 容能力が高い訳でありまして、まして、活字で残して人物評まで掲載してしまう、度量 の大きさに先ずは、脱帽の私です。この御三人は私の大きな「誇り」です。)

                          続く・・・・。





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エーゲ海は日本海。

2007年11月17日 | 川柳

2000大聖年と呼ばれる10月にイギリス・フランス・イタリア・ギリシャへ足早な旅を楽しんでから早、7年目。

 昔、「兼高かおる世界の旅」に憧れて、外国航路の船員さんになれないか父に尋ねたら・・「ばか!」でオジャン。じゃーあ!スポーツでオリンピックに出れたら行けるかも?様々に無い思考を寄せ集めて、今に至る。

 おかげさまで、回りの御慈悲により、自費で渡航できる良い身分になったのはいいのですが、15歳の時に「世界一周する」と夢見た夢は、捨てられぬ、であります。

 旅をする時の心得は、旅先に余り期待をしないこと。
期待をすると、意に反して殆ど期待以下の旅行になっちゃうので、期待をしない旅先のハプニングを楽しむことを大切にしています。期待しなかったグランドキャニオンとニューヨークで観たキャッツと歌舞伎の玉三郎(ついで)がすごかったですね。

 ハプニングと言えば、バチカン市国のサン・ピエトロ寺院に入館しましたら、運良く?
ローマ法王のパブロ二世に謁見させていただける日曜日にぶつかり、(これを幸運と呼んでいいのかは今だ、疑問の私ですが・・。)ともかくマルチビジョン二台に映し出された二世の姿は当然ワイドに見られるのですが、二世から50mくらい離れて見ていた私には、パーキンス病を患って、目に輝きもなく、表情もなく、聴衆の方を見るでもない、神の代理人のオーラなどはなく、聴衆も容態を案ずる目になっていたのではないでしょうか。
「ひとりの人間に戻った老人と海の主人公のようでした。」こんな事を書けば、11億のカトリック信者の方に申し訳ないのですが、今でも淋しそうなパウロ二世の残像が浮かびます。これも予期しなかった旅の思い出です。

 そして、ギリシャ・・ああギリシャ!少女の頃に夢見たエーゲ海。コバルトブルーの海、島々の白い小さな土塀の家・・池田満寿夫の映画「エーゲ海に捧ぐ」のイメージ。 でも・でも・でもエーゲ海のクルージングの天候はくもり。海はすっかり日本海と同じ色。こんなはずじゃなかった憧れのエーゲ海。島々にはたこの串焼きアリーの!出店のおじさんの、「たこおいしいよ!」の響きあり。白い家の中は窮屈そう・・。皆お土産屋さん。そこでランチョンマット(きれいな刺繍)を買うが、あーあーこんなはずじゃなかったエーゲ海。おまけに船内のショーの最後は、美空ひばりのチター音楽でラスト。
すっかり、日本海クルーズになった、楽しいと言えば愉しい旅行でありました。

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散隔情誼

2007年11月15日 | 川柳
             現代川柳『泥』第四号

◎トライアングル、根底にバラの花を敷きつめて、互いの作品を斬るという・・・快感と恐れ、これが意外と難しい。

ポジティブとネガティブの間を往きつ戻りつしながらの苦しい作業。自分のことすら解らないのに、まして仲間を斬るなんて・・・。互いに信じあっているからこそできた企画だ。核心に触れたような触れずじまいに終わったような不完全燃焼の感が強い。美しい夢を共有するということは、案ずるより易しく、そして難しい。
『泥』四号から何かが発信できれば嬉しい。(テイ子)

◎年二回のペースの誌は創る側にとっては、丁度良いが催促の問い合わせが時々届くのだが、その度に、待たれているという実感に熱いものが込み上げてくる。有り難いと思う。そして、再読、三読、四読して下さった本音の感想などを戴くと、それを五読、六読して、益々有り難く思ってしまう。残りはあと二号。作品や文章の上手下手より、真剣に取り組んでいる姿勢を理解してくださるこころに感謝している。(容子)

◎ひとつの作品と向かい合う。その作品の良し悪しの判断を決定づける基準は、読み手のひとりひとりの感情のおもむくままに、これが現実なのだと思う。

 残念ながら、マニュアルのないままの川柳界。そんな中で独自のマニュアルを構築し、学問的見地からとでもいえるような作品評を発表されている普川素床氏に、その論を展開していただいた。
ひとりひとりの試案が見えてくるようだ。(さとし)

                 

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独断と偏見・・・池さとし

2007年11月14日 | 川柳
              現代川柳『泥』第四号

 むしろこのほうが、リズムの安定した作品になるのではなかろうか。

          桃を剥く
              指よ
                裏切りはなかったか


          桃を剥く
              指
                裏切りはなかったか


          桃を剥く
              指
                裏切りはなかったのか

 たったひとつの助詞の有る無しで、作品の立ち姿が、百八十度変わってしまうことさえある。

 十七音字という限られた枠だからこそ、一語一字にとことん拘ってという想いが、強く働く。

 賢い作者のこと、こんなことは百も承知のうえで、この表現にたどり着いているのであるとするならば、(一体そのこだわりは、何によるものなのだろう)と、教えを乞わなければなるまい。

           なにを語らんとて喃語をつかうキリン

 この作品を前にして、何度も何度も読み返してみた。

あまり見かけない言葉、喃語が気にかかる。辞書で調べると、意味は、(くどくどしゃべる。男女の語らい。)とある。 ここで、自分自身の感性の貧弱さを思い知らされるのだは、残念ながらイメージが湧いてこない。

        おそらく、読者はこんな気持ちになると思う。

 ひとり歩きをはじめた作品の、受けとめ方感じ方は、千差万別である。とは言いながらも、感じさせるもの、頷かせるものが底を流れていなければ、作品は作者ひとりだけの独善となってしまうに違いない。

 十七音字の極々限られた枠組みの中でだからこその、推敲への拘りは、当然ながらことばの置き換え、選択はもちろんのこと、ひとつひとつのことばを吟味するところから、助詞や助動詞、副詞、形容詞にいたるまで神経は行き届かせることになる。

 才気溢れるばかりの迫品を自由奔放に吐き出す作者に敢えて望むとするならば、自分の中に、もうひとりの自分(外の目)を設定して、目の前に在る作品を常に否定しながら、それに挑む姿勢を大切にしてほしい。

 感情のおもむくままに、一気に果敢に吐く作者に、知・情・意のバランス感覚が付加されたら鬼に金棒、そんな極め付の作品をとの期待は大きい。


                 
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独断と偏見・・・池さとし

2007年11月11日 | 川柳
              現代川柳『泥』第四号

 評者とは、まったく自分勝手である。作者のこころの10分の1さえも読めずにいながら、作品になんの遠慮もなしにメスを入れてくる。全く無責任である。

           立ち上がるたびに零してしまう海
           ひかりあうために逢うこと話すこと
           風になる前に花くび切り落とす

<動詞・・・に・・・動詞>、この表現法は、時として作品を緩慢にするきらいがある。
 あまり、読者に想像させる糸口を与えずに、全てを言い尽くしてしまい、余情に浸ることなく、終わってしまう。
 
 自分は、いつもこのようなことを、繰り返しているだけに、ことさらのように気にかかる部分でもある。

 視覚に訴える部分が、非常に大きいことをも考慮に入れるならば、表記へのこころくばりをも一層大切に、そう願わずにはいられない。

 ともすると説明調に陥ってしまいがちな表現からの脱出法となると、これはもう作者自身のあくなき探究心に委ねるしかないのだが。

 一例をあげるとするならば、意味を調節するための誇張、緩叙、形を調節するための省略、黙説、構成を調節するために逆説、諷論などを積極的に取り入れることによって、作品により一層深みが期待できる。

          テイ子作品・・ぽあんぽあん・・・から

 豊かな感性の持ち主は、時としてその感性に振り回されてしまうことがある。
 感性の乏しい自分から見ると、非常にうらやましい悩みに思える。
 作者の持っている感性に、従いて行けない場合に、読み手は、(この作品は、難しいとか、さっぱり解らない)などと言う。

 おそらく自分は、その最たるところに位置する。

            桃を剥く指よ裏切りはなかったか

 感情のおもむくままに、一気に吐いた作品なのだと感じられる。おそらく推敲をしなかった作品のひとつなのではなかろうか。

・・・・よ・・・か  この表現法が、作品の安定感を欠いている。

 けっして、この作品が百パーセントいけないと言うのではない。
 たとえば、(よ)という助詞を削除してみたらどうだろう。これだけで、作者の吐こうとした意図からかけ離れてしまうだろうか。

< 並び順どおり記載 >         共食いの一族ありて地は雪に  不凍

  共食いの男女を見てる断末魔
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独断と偏見・・・池さとし

2007年11月10日 | 川柳
              現代川柳『泥』第四号

             容子作品「箸の位置」から
 
 言わずに語るは、短詩文芸では特に重要視されている。

 もちろん川柳も、その例外ではない。

 しかし、逆もまた真なりである。なかなかに難しい。

 十七音字の限られた器の中に、これでは、読者に解って貰えないのではという気持ちが、強く働きすぎるがために、どうしても説明過多に陥ってしまう場合が、おうおうにしてある。

 作者の手を離れ、一人歩きを始めた作品は、読み手に出来るだけ幅広い、自由な創造の空間を提供することになるのだが、根底はあくまでも自分自身を存在させてこそのものである。

              掃除機の吸引力に負けた影

 この作品は、「掃除機」で、もう必要がないのではなかろうか。負けたということばだけで充分に機能しているように思う。掃除機=吸引力は、いかにも常套的なまとめかたで、面白味がない。

 吸引力を削ることで、その文だけ違った角度からのことばの配慮が、可能となり、多様な広がりや奥行きを持たせることが望める。

 ことばを削って、中身をふくらませることの容易でないことは、十七音字の世界においては特に大切な一面でもある。

    知に長けた作者なればこそ、収斂への眼差しを一層大切にと思う。

             身の内になに積もらせて夜の長さ


             焦点の甘さが気になる作品である。

 このような場合の欠点は、読み手のこころに立ち止まらせる力を与えることが、きわめて小さいと言うことにある。

 問題は、中七の(なに積もらせて)にある。

 おそらく作者の胸中には、ここに、読み手の自由な幅広い想像の世界を提供したものだと思われる。

 しかし、残念ながらこの思惑は、かえって読み手を混乱させてしまう。

 (なに)を使わず、思い切って具象を配置させた方が作品を鮮明にしてくれるだろう。
 イメージをはっきり打ち出すことによって、読者を立ち止まらせることが可能となる。
                            続く・・・。

                  開かずの間老婆の胸の奥の奥  不凍

ばあちゃんは咲くのが好きで春夏秋冬

               
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落とし穴・・・佐藤容子

2007年11月09日 | 川柳
          現代川柳『泥』四号・・・佐藤容子

         ミサイルに似てくる街の消火栓  さとし
         窓ガラス伝わる雨はセロテープ  さとし
         朝露のしたたり天使のコンタクト さとし

 作句に行き詰まった時には、身近なものやことを、もう一度じっくり見直すことである、とよく聞く。

 泥誌の三号で、さとし氏は「川柳は、もう生活の一部分になりきってしまっていると言えるような気がする。
 図書館で本をあさるのも、美術館へ足を運ぶのも公民館活動に参加するのも、結局すべてが川柳に還元されているような気がする。」と述べている。

 彼の作品は、そうした日常の生活へ眼差しを向け、見回すところからスタートしていることがよく解かる。そして、その眼差しに写された情景は時間の経過とともに、独自のフィルターで濾過されて出来上がってゆくのだろう。消火栓がミサイルに見えてくることも、雨の雫が筋になり流れていくようすをセロテープと見ることも、透き通った朝露から天使のコンタクトを連想することも、それらの情景を観察し、別の違った物や質(しつ)を発見している目がある。しかし、これらの作品は、ここで終わってしまってないだろうか。折角、発見した新鮮なはずのものが、読者には何故か新鮮な情景として映って来ないのである。

 視覚で捉えた作品を、視覚に訴える場合には落とし穴があるように思う。どうしても説明句の範疇で終わってしまうという落とし穴である。ミサイル、セロテープ、コンタクトは、確かに発見ではあるが、何故か物足りなさが残る。それはどこか無機質で、乾燥した感情の漂いのようなものを感じてしまうからである。作者の個性や匂いに触れられなかった欲求不満のようなものを抱いてしまうのである。新鮮な発見に、もうひとつ作者のメッセージ性や、思考といったようなもの、あるいは感情的などをプラスすることで、視覚川柳はより深い作品へと昇華されると思うのだが、どうだろうか。

 ところで今回の、さとし作品のほとんどは、不思議なほどに静寂である。感情を抑えたものが目立つ。

 底辺には、反戦、焦燥感、無常観といった叫び声があるにも拘らず、静かなのである。ドスンと読者を揺さぶることのない静かさなのである。何故、怒りを抑えているのだろう。何故、淡々としているのだろう。感情を払拭し、達観してしまった作品に苛立ちを感じてしまった。

 ニヒリズムな影を漂わせながら、もっともっと反骨精神を前面に押し出した作品を期待しているのは、わたしひとりではないだろう。


              林間も人間(じんかん)もじわりと寒気  不凍

 梟も不凍もやみの番人か
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落とし穴・・・佐藤容子

2007年11月08日 | 川柳
        現代川柳『泥』第四号・・・佐藤容子

          作品鑑賞と作品評とは、別のものである。

 今回、互いの作品を鑑賞の域を抜けた視点で作品評として書こうということになった。

 作品を斬られることは、ある意味で快感なのだが、いざ斬る立場になると・・・。

はっきり言える事は、作品を斬ることは作者を斬ることではないということだ。

       桃を剥ぐ指よ裏切りはなかったか    テイ子
       禁猟区まぎれ込んだか背が痒い     テイ子
       傷痕に沁みる水の重さと水の刑     テイ子

 テイ子作品には、彼女独特のリズムがある。掲載の三十句中で、定型句は十句ということからも、既に彼女には、あるリズムが確立されていて、それが定着しているように思える。おそらく、こうした形がもっとも心地のよい自然体であり、そうした表現は意識しているものではないだろう。

 しかし、独自のリズム感は、時として読者の呼吸を乱し、拒絶反応を引き起こしてしまう危険を孕んでしまうことがある。17音文字に固執することはないのだが、少なくとも右記の作品については、定型でも支障はなかったのではないだろうかという疑問が残ってしまった。

 例えば、一句目の「裏切り」、は二句目では「禁猟区に」のにの一字をそれぞれ削除し、三句目の「沁みる」を敢えてカットしてみたのだが、作者の思い入れまでも削っては
いないと思うのだが、どうだろうか。字余りにしなければならなかった必要性が感じられないのである。

          ひとり斬りふたり切り女の午後回る  テイ子

 この作品も句意は、充分に分かるし、その情景もしっかりと浮かんでくるのだが、どうも読みにくい。声に出してみると一層その感が強くなってしまう。読者とは身勝手なものである。作者のリズムに追従するからには、それなりの作品を要求してしまうものなのである。そうでなければ、その作品はパスされてしまうだろう。独自のリズムを維持するからには、その必然性を作品で証明するしかない。そうした意味では、この作品には、隙がある。

 リズムの乱れがそのまま作品の乱れになっているように思えてならない。
推敲を重ねるという配慮をいた作品には、良くても悪くても生々しく、作者の人間性が投影されてしまうものである。

 ひとり、ふたりと他者を切り刻んでいる女のワンシーンは単なる報告にすぎない。語呂や感性の豊かな彼女らしからぬ作品にとどまっていないだろうか。

 三十句全てを隙なく作ることはない。また、そのようなことを求めているわけでもない。むしろ所々で息継ぎをしたい欲求が、句数の多い作品集などを読んでいる時に度々感じたりする。一作句者は一読者でもある。どこまで真剣になるか。そしてどこで気を緩めるゆとりを持つかといった抑揚のバランスも読者のサービスとして必要なのかも知れない。
   ただし気を緩めた作品とは、決して推考を省いた作品をいうのではない。

                  生傷の生のまんまへ寒波来る  不凍

 凍らないすべを知ってる傷が生き

            
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耳の悲鳴・・・青葉テイ子

2007年11月07日 | 川柳
         現代川柳『泥』四号・・・青葉テイ子

        ステンレスの沖八月を照り返す  さとし
        トラウマの八月炎天セピア色   さとし
        遠い日の闇一面は蕎麦の色    さとし

  クロムとニッケルを混ぜた合金 ステンレス。

  岸から遠く離れた海や湖を指す 沖、となれば、ステンレスの沖、八月、この発想にまず度肝を抜かされる。

 干涸らびた私の前頭葉は、何かを掴まんとしてぐるぐる空回りする。この想へと至るまでの過程と精神構造をも含めて、さとしの世界を探ってみたい。
 
 体のディティールまで抉りだしかねない底光りするステンレスは、ときに得体の知れぬ脅威を呼び起こす。
 
 揚出句、三句に共通するのは八月のテーマ、八月は慟哭である。唯一の被爆国日本、人間をモルモット化した一発の爆弾は、罪なき人々を一瞬のうちに壁にした。

 魂の震えと憤怒は五十八年の歳月が経っても治まらぬ。戦争という犠牲の上になりたつ擬似平和、いまだ尾をひくトラウマの実体、強靭で妖しげなステンレスの奥を無言で見つめる黒い影、ぞっとする寂寥感が漂う。

 一貫した主義主張、徹底した人間の好き嫌いの激しさは類を見ない。知る人ぞ知る論客である。ストレートな視点、目を覆いたくなるような虚無、カオスを背負って生きんとて、有象無象の火の粉を浴びてきた匂いがする。

         花はらりはらり死体を埋めに来る  さとし
         光ってる笑ってる路傍の石たち   さとし
         波打ち際をいつも歩いている耳か  さとし

 死体埋葬人も、笑っている路傍の石たちも、生活のカルキ臭さからは生まれてこない。孤独の影を纏いながらシビアに自嘲気味に語るさとしのプロフィールに笑いはない。光っている石も、笑ってる石も自虐の域を一歩も出ていない。花はらりはらりのエモーションは心憎い。

 何を探らんとして迷える魂は波打ち際を歩くのか。斬り落とされた耳の悲鳴を聞くがいい。そこから豊穣な世界がひらけるだろう。

           神は哀しみ未来を探す手を呉れた  さとし
           疑いの目玉ぽろっと枇杷の種    さとし
           切り株にぽつんと座っている仏   さとし

 未来を探す手がかり・・・神はそんなもの解りがいいのか、無神論者の私にはわからない。しかし未来志向の作品になぜかホッとする。疑いの目玉は、シャイで緻密なさとしの透徹した目玉だ。メガネの奥暗い洞穴は、ピカリと光る。獲物を見つけた動物の嗅覚だ。にんげんを丸呑みして貪欲にも血や肉にしてきた目だ。

 ぽつんと木の根株に座って仏と対峙、仏を希求する姿に弱さも悲しさも晒した影がいた。人を容易に寄せつけず凛として、雑音などどこ吹く風。

                  封筒の中も本降りになっている  不凍

  天国へとどけ初恋Eメール
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