熊野三山という三つの神社(本宮・速玉・那智各大社)に対する信仰が全国的にひろがり、その結果、各地に熊野神社が勧請されたようです。平安時代末期の院政期に、法皇・上皇等が数多く参拝し、また、御師(おし)や山伏などによる布教活動が盛んにおこなわれたことなどにより、中世には「蟻の熊野詣で」といわれたように、多くの参詣者があったようです。八咫烏(やたがらす)を図案化した牛王宝印(ごおうほういん)は、民間の誓約や魔よけに使われたり、歌比丘尼(うたびくに)による説法も広く行われたそうです。
全国に熊野神社は3,000社くらいあるようですが、水戸では少数派のようです。
熊野大権現(谷田町450)
永正年間(1504-21)に肥後の菊池氏一族の石見守景安(いわみのかみかげやす)がまつったものだそうです。
熊野大権現(袴塚2-3)
茨大付属中学校道向かいの、民家に取りかこまれた地の一角にありました。
山神・熊野神社(元石川町)
一つのやしろに合祀されています。
熊野神社(六所神社境内社 大串町)
六所神社の境内に独立した境内社として熊野神社がありました。
熊野神社(筑波神社境内社 酒門町)
境内の鞘堂内に6つ並ぶ木製境内社群の中にありました。
飯綱、熊野、多賀神社(愛宕神社境内社 愛宕町10-5)
境内の石祠に、3つの神社の一つとして合祀されていました。