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水戸出身・藤田東湖の話(2)

2022-06-16 20:10:11 | 水戸

徳川斉昭筆・要石

 

 藤田東湖の父・幽谷は、文武一致のたてまえから、その両者を強く東湖に要求したそうです。文は親譲りだったでしょうが、武は、剣を神道無念流の岡田十松に、槍を宝蔵院流鎌槍(十文字槍)の伊能一雲斉に学んだそうです。また、側用人となり、政治家として活動し、さらに父の作った家塾・青蘭舎を継いだそうですから、治教一致も実践していたようです。

 

 要石の歌を批評して欲しいという、藩主・斉昭からの手紙の返信に、東湖は自分の歌を見てもらっているそうです。「堅磐(かきわ)に」のあとを「といはふ(と、祝う)」か、「そいのる(ぞ、祈る)」か。そしてそのあと、「のみかは すめらぎの 道の要」のあとを、「を」か「と」か。さらに「人の」に次いで、「しる(知る)」か「とふ(問う)」か。そして、「へき(べき)」といったふうに書いているそうです。皇道の要(かなめ)を人は知らなければいけないといった内容の歌なのでしょう。

 

 儒学者・安井息軒を訪ねて懇談したものの、帰途に一楼にのぼり、また佳興を堪能したようですが、共に酒が過ぎて話足りなかったようです。翌日また行くが、午前中は話のみ、午後は微酌をという手紙を出しているそうです。とうてい微酌ですむとは思われませんが。

 

 土佐藩主・山内容堂の江戸下屋敷に招かれたとき、書を所望された東湖は、欄間に「忍道」の額がかかっているのを見て、「容衆人君徳」と書いたそうです。「忍ぶより大衆の言葉を受けいれるのが君子の徳である」ということだそうです。それを見た容堂も側近の吉田東洋も感心したそうです。

 

 水戸の酒の話(9)で、「あまりよく分からない話を書いています」としましたが、これは補足が必要です。東湖の母親は酒が好きで、自分の姉妹や、東湖の妹などが家に来ると一緒によく飲んでいたそうです。しかし、東湖が吉成又右衛門に禁酒させるために、東湖が禁酒したので、親として自分も禁酒したようです。それを聞いた親孝行な東湖は、あまり気を使わせないようにと少しだけ酒を飲んだと言うことのようです。酒豪にはかえってつらいことだったでしょう。どうも、東湖の話は酒が多くなってしまうようです。ちなみに、山内容堂も大酒飲みです。

水戸出身・藤田東湖の話(1)

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