ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸にある北条時雨書の碑(1)

2020-05-23 21:55:08 | 水戸

 祖父、父ともに水戸藩士で、それぞれ藤田幽谷、豊田天功の門人となり、書の道を歩んだそうです。時雨(しぐれ)も唐時代の書家・欧陽詢(おうようじゅん)の楷書にひいでて、その書体で大日本史の版下を書いたそうです。水戸では当時、書の第一人者だったようで、多くの碑文などを書いているようです。そのいくつかをご紹介します。安政4年(1857)~大正11年(1922)。

 

遺徳之碑(偕楽園  常盤町1-3-3)
 明治30年とあります。茨城の県令(参事)となった関新平が、明治初期の党派対立による混乱に、いろいろな政策をほどこして尽力したことを讃えた碑だそうです。

 

唯円坊之碑(河和田町榎本3670のロ 36°21'42.5"N 140°24'41.6"Eあたり トイザラス南の田畑の中)
 明治44年とあります。報仏寺の前身である、歎異抄を書いた唯円が開いたという念仏道場があった跡といわれる地に立てられた碑です。その後、寺は徳川光圀によって、現在地(河和田町887)へ遷されたそうです。

 

記念碑(笠原子安神社 笠原町991-2)
  大正3年とあります。安産守護の神、水戸七社の一つで、明治43年に火災にあい、復旧したことを記念して建てられた碑のようです。

 



帆平海保君之墓(酒門共有墓地 酒門町330)
 海保帆平は、安中藩の武士で、徳川斉昭の水戸藩に弘道館師範として仕え、会沢正志斎の娘を妻としたそうです。幕末の混乱期の中で、蟄居などの後、41歳で没したそうです。

 

東部先生之碑(常磐共有墓地 松本町13-34)
 東部先生とは弘道館剣術方教授で、明治維新後に東武館を創設した小沢寅吉のことだそうです。内藤耻叟の文、青山延寿の額という墓碑です。西南の役で功のあった者は小沢の門下だったとか、常磐神社に徳川斉昭鋳造の大砲を寄贈したなどとあります。


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