甲子(きのえね)や子(ね)の日に、子の刻(午前0時)まで、白ネズミ(子 ね)を使者とする大黒天をまつって過ごす行事だそうです。甲子待(まち)ともいって、豊作や商売繁盛を祈った講だったようです。その積立金を使って碑を建てたのでしょう。干支の最初が甲子ですから、そういうことも、行われるようになった原因の一つなのでしょう。
碑には、甲子塔、甲子供養塔、甲子塚などと刻まれていますが、大黒の文字や大黒をあらわす梵字が刻まれていることもあるそうです。
甲子の年に建てらたのかと、碑を見てみると、多くはそうでない年に建てられています。11月が子の月なので、この月に建てられたものが多いのでしょう。
甲子塚(大森巧芸 松が丘1-2-43)
文化元年(1804)11月(霜月)とあります。この年は甲子です。
甲子塔(県道105号線鯉淵小学校隣)
文政10年(1827)ですが、丁亥(ひのとい)です。月は11月のようにに見えますがよくわかりません。この隣に聖徳太子の石碑があります。
甲子供養塔(成就院墓地 国道50号線大塚町すきや水戸IC店脇入る)
嘉永7年(1854)とあり、甲寅(きのえとら)です。
甲子塔(和光院 田島町415)
明治33年(1900)、庚子(かのえね)です。
甲子塚(国道50号線石川町信号を南に折れて150m)
拓本にすれば読めるのかも知れませんが、これ以下は年代がわかりません。明治12年のように見えるのですが。
甲子塔(楊林寺 三湯町45)
お寺の石碑には古いものが散見されますが、これもきっと古い碑なのでしょう。4月は読めます。(天保12年のように見えます)
石川の甲子塔については、堀口友一著『今昔水戸の地名』(1981年)p.84に「石川町に現存する甲子塚に寛永三年(一八五十)常葉村石川坪」との記載がありますが、いかがなものでしょうか。
メールいただいた碑ですが、改めて写真を見てみてみました。ほかに写真で読める文字は、「二月吉日」「女人講中」といったところです。「明治12年」というのは、辛うじてそうではないかと思える部分です。「今昔水戸の地名」の記載部は見ていないので、後日図書館で見てきます。少し時間をいただいて調べて見ようと思いますので、よろしくお願いいたします。
先日訪れてみましたが、ご指摘のとおり読むのは非常に困難でした。庚申塔の村名は常葉村のように見えましたが、いかがでしょうか。
石碑の文字はどのような光線状態が読みやすいのか、ご教示いただけますと幸いです。石碑初心者です。
ご指摘の通り、庚申碑に彫られているのは、「常磐村」ではなくて「常葉村」でしょうね。よく確認しないで文字をうってしまいました。
以前は、拓本をとって碑文を判読していたようですが、今はなかなかそうもいかないでしょう。私の場合、何回も行って、うまく日の光があたって読みやすい時を待つか、写真を正面、斜めなどと撮って、アプリで露出のコントラストなどを調整して判読しています。でもなかなかうまく読めないことが多いようです。フラッシュをたいて撮ってみたこともありますが、あまり効果はないようでした。強力な照明器具を持参していろいろな角度で試せば読めるのかも知れませんが。私も全くのしろうとなので、いろいろと工夫しながら繰り返してやってみようと思っています。