庚申塔の標示には何種類もあるようです。気のついた名称の石碑をご紹介します。
庚申のみ(藤井川にかかる工兵橋の藤井町側約100m先)
下坪講中で建てた碑のようです。
庚申の文章(石川共同墓地 ニコニコレンタカー水戸石川店(石川2-4065-5)道向かい)
「奉拝庚申供養為二世安楽(ほうはいこうしんくようにせいあんらくのために)」と刻まれた、正徳3年(1713)に建てられた碑のようです。一番下に人名が並んでいます。
庚申塔(国道50号線石川町信号を南に折れて約150m)
塔と供養塔と刻まれた碑がいちばん多いようです。右下がよく読めませんが、嘉永3年(1850)に石川坪の講中が建てたようです。この年の干支は庚戌です。
庚申供養塔(杉崎町地蔵尊 杉崎町306)
地蔵尊脇にある石仏群に中にありました。元文5年(1740)とあります。この年の干支は庚申です。上の梵字はウンと読んで、青面金剛をあらわしているそうです。
庚申塚(一里塚 元吉田町1504-1)
寛政12年(1800)に建てられたようです。一里塚に建てられたので庚申塚というのでしょうか。背後に見える木は、樹齢100年というエノキだそうですので、江戸時代の水戸街道の名残りではなさそうです。
庚申供養塚(宝蔵寺 谷田町633)
万延元年(1860)3月とあります。この年の干支は庚申で、8月には徳川斉昭が死去しています。山門をくぐって左手奥にあります。
庚申壇(県道2号線平戸信号を西に折れて約200m)
寛政12年(1800)とあります。この年の干支は庚申です。庚申檀という書き方はここだけで見ました。
探すといろいろ出てくるものですね。こうしたことが、しらべることの醍醐味なのでしょう。
ちなみに、ガイドブックですが、「水戸わがまち発見⑦」に、常葉のことが少しありました。「常磐とは水戸の町にとってゆかり深い地名だが,その起源は律令時代に制定された郷の名から来ている。ただし、古代の郷の名としては常石と書かれた。常石郷は那珂郡に属し、その場所は,那珂川と千波湖のあいだの台地上だったと思われる。したがって、常石郷の先端部に,水戸という地名がついたことになる。現在では、ほとんど常磐と書きあらわされるのが普通だが、近世までは常石・常磐・常葉などと書かれ、明治時代以降に常磐という表記が定着した。」
>水戸の庚申塔(4)... への返信
6/23、水戸市立博物館学芸員の方から、合併後割と早い嘉永元年(1848)の文書が同館に所蔵されていることを教えていただきました。その文書(常葉村原分田畑反別絵図)は村役人連名で作成したもので、「常葉村」とある、ということでした。
私は水戸へ来て10年くらい、ブログを始めたのは平成28年、それまで全く水戸を知りませんでした。水戸に関しては、全く底の浅い、シロウトに毛が生えた程度の知識量の者です。ですから、水戸に関する専門的なことはほとんど分かりません。ブログで断定的な言い方を避けているのはそのためです。
常葉、常磐の表記は、私も知りたいとは思ってはいましたが、それ以上に進んでいません。県史や市史の資料がネット上で見られるようになれば、調べるのがもっと楽になると思うのですが…。
天保十三年の常葉村と袴塚村の合併後の村名について、お考えをお示しいただけますと幸いです。
水戸市役所、昭和60年発行『水戸の町名 地理と歴史改訂』p.31以降では、「合併して常葉村となり」とあるのですが、当該部分の図説では「常磐村」と記載されています。市役所に照会しましたところ、「はっきりしない」との中間回答でした。
それで、天保期以降の「常葉村」「常磐村」表記を探しています。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。