ビッグ・スルー

2005-07-22 | 人物
PROLOGUE

今回は私の親友を紹介したい。
最近は音信不通の状態だが
彼は私の親友である。
急に少年時代を懐かしく思い本ブログで
書きたいという衝動に駆られた。

ビッグ・スルー

出会いはお互いが10歳の時であった。
学習塾で同じクラスになったのである。
第一印象はセンスがいいヤツがいるな。
であった。

当時彼のはいていたリーバイス501の左足
のひざ裏部分には穴が開いていた。
指摘したところ「ほじってたら開いた」
ということだった。

彼と私は塾の授業を壊すことに生き甲斐を
感じていた。教師をいい気分にさせ
話を脱線させる。うまくいけば授業まるまる
おちゃらけ話で終わった。
他の塾生にしたらかなりの迷惑行為だったろう。
私達にとってはスリリングな遊びだった。
大人を莫迦にしていた。

ある時二人で職員室に呼び出され
教師に「辞めてくれ」真面目にと言われた。
「君らなら吉本でやっていける」とも言われた。
私は「うるせーよメガネ」と心で呟いた。
彼は黙っていたが瞳は笑っていた。

彼は私の知る限りかなりのプレイ・ボーイであった。
女子は彼を放っておかなかった。自然と心をつかむ
才能があるのだろう。その辺りを私は尊敬の念を
もって眺めていた。

彼のお姉さんは3つ年上で、同じ塾に通っていた。
その女性はまさに小学5年の私にすれば大人であった。
カリフォルニア・ガールのようだった。
今でこそ3歳差はたいしたことはないが当時としては
遠い大人の世界と言う感じ。最近でも会えば緊張して
しまう。

とりあえずの進学塾。私は一切勉強をしていなかった。
莫迦なことばかり考えていた。受験が間近に迫って
いても興味が湧かなかった。だが彼は違った。
小六、彼は勉学に目覚めていた。
「お前も勉強しとけよ」と最初に言われた時は
ジョークかと思っていたが、冗談は私だけであった。
メキメキ勉強する彼を見てビックリした。

最初、私達は下から2番目のクラスにいた。
が後半彼は追い上げ上位のクラスに上がっていった。
私はノートにマンガを書き続けていた。

中学受験。私達は同じ中学を受けた。
彼は他にも受けていたようだが詳しくは知らない。
雪の日だった。
終了後、どうだったかと聞かれ
「当て感ばっか」と報告する私。
「だめだよ、お前」といった彼は真剣だった。

結局、私達は私立校はダメで公立中学へ進んだ。
彼はよほど悔しかったのだろう。
中学に入ると、より本格的な進学塾へ通った。
私もとりあえず塾へ通ったが覚えたことと
いえば授業中の居眠りくらいであった。
それまでは、がんばっても眠れなかったのである。
そして1年間でリタイア。どうしようもない。

中学はお互い学区が違うので別々の学校。
塾も違う。当然会う機会は減る。
が、時たま連絡をとりあって決して途絶えることは
なかった。私が内面とは裏腹に生徒会などを
やって捻くれていく中、彼はアーチェリー部で
さわやかなスクール・ライフを送っていた。

そして高校。彼は女性のあふれる学校がいい
と言うことで短大付属のまさに花園へ進学した。
超名門校である。「いいね」と私。
私はそれとは真逆の熱血男子校へ進む。
横浜・名門校の花園と蒲田・不良高校のど根性。

彼は中免をとれる年似なるとすぐにとった。
そしてクールなバイクを乗り回すようになった。
長髪になったりモヒカンになったりした。
私は坊主で男子校の生徒会長となっていた。
私の行動を彼はギャグと捉えてくれていたのだろう。
その間も気がむくと連絡を取り合っていた。
私がいなくても私の家で彼は両親とお茶をしていたり
した。

高校生活を通して彼は悟ったのだろう。
「日本にいてもしょうがない」と。
大学進学はせずにフランス行きを決めたのだった。
色々な遊びにも満足したのだ、きっと。
フランス行きを聞いて「いいね」と私。

自己推薦でお気楽な大学受験を果たした私は
学生時代、よく放浪の旅に出た。
内の活動は「マイ・ルーム」で掘り下げているが
それとは別に旅行にもよくいった。
そしてフランスで彼似お世話になった。
築百数十年と言うパリのアパートメントは
かっこ良かった。

彼の祖父は大工である。
そのため彼は少年時代からニッカ・ポッカ
をはきこなしていた。そんな腕が
海外生活で光ったようだ。便利屋のような
仕事をパリで始め稼いでいたのだ。
昼は学校へ通っていた。
シャンゼリゼ通りのプール・バーで
チャイニーズ・マフィアとも行動していた。

時折、帰国した時にはよく会った。
彼の愛車、プレジデントにのせてもらい
葉山のバーを教えてもらったりした。
活動全快の彼と引きこもりがちの私だった。

現在、彼は5年間のフランス生活を終了し
日本に帰って来た。
それから3度程しかまだ連絡していない。

今宵私は思いでに浸りながら歌う。
「♪か~か きんきん
 か~ きんきん」

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大滝・詠一

2005-07-04 | 人物
PROLOGUE

ついにこの人を書く日が来てしまった。
まだまだとっておきたかったが・・・。

大滝・詠一

私は彼の大ファンである。
ビートルズのメンバーに対する憧れとは違った
ものを感じる。自分でいうのもなんだが
私の顔は彼に似ている。ニヤケ顔が。

大滝・詠一作品との出会いはやはりハッピー・エンド。
だが、その中では細野・晴臣の楽曲の方が好きなもの
が多かった(フェイバリットも細野の泰安洋行である)
だが、何かを大滝から感じた。そしてソロのファースト
「大滝詠一」。これでぐっと引き寄せられた。
「恋の汽車ポッポ」のイントロの格好良さ。

おそらく、ハッピーエンド時代の作品からも私は
彼の思想を感じていたのかもしれない。
かなり綿密に練られた考えが分厚い音から
垣間見える。そんな感じ。ファーストでは細野の
「HOSONO HOUSE]と音像がかなりだぶる。
淡い夕焼けを見ているような感じ。演奏屋・細野は
そこに独特のグルーヴを込めるが、大滝のはアイデア
というか、ウ゛ィジョンというか、そういうものが
自然と伝わってくるのだ。「こういうのを作ろう」
これが明確なのだろう。

セカンドといっても実際ナイアガラ・レーベルとしての
ソロは「ナイアガラ・ムーン」から始まる。
今年3月に30thアニバーサリー盤が発売されたが
やはりすごい。コンセプトを貫いている。
大滝のアイデアを細野率いるキャラメル・ママが
サポートしてるので当然といえるか。

ムーンは凄い。だが私は次の「ゴー・ゴー・ナイアガラ」
の方が好きである。当時大滝は深夜にラジオ番組を放送
していた。DJイーチ・オータキ。聞き逃した人は葉書を
送るとテープを送ってくれたらしい。そこの番組では
音楽を縦横無尽に語り尽くしていたらしい。なんとも贅沢。
サエキ・ケンゾウ、萩原・健太はまさにナイアガラ・チルドレン
である。私は思うが、それは音楽のフィルターを通した
思想の伝播だったのだろう。

規制の知識似とらわれず自由に論ずる姿勢に憧れる。
しかも、キワモノにならずシーンの根底にポジションを
固めている。彼が活発に動いていた時代は日本が
エネルギッシュだった頃。
そんな開放感がビシビシ伝わってくる。

で「CMスペシャル」と「ナイアガラ・カレンダー」
後者が大滝本人のベストらしい。彼のアイデアが
具現化した究極形なのだろう。だが、いまいち
のめり込めなかった。でも「名月赤坂マンション」
は大好きである。早く30th盤で聴き直したい。

レッツ・オンド・アゲイン聴いて損は無い。
恐ろしい程に過激だ。
ピーター・バラカンの邦楽ベストがこれだ。
ナイアガラ・レーベルの事情を知るものとして
タイトル曲を聴いた時は涙が出てしまった。
第一期ナイアガラはここで終わっている。

そして、いよいよ'80s。
'81年の「ア・ロング・ウ゛ァケーション」
これは売れた。未だにあちこちでここからの
曲を耳にする。最近では生茶で「天然色」
ソニーのヴィデオカメラで「スピーチ・バルーン」
レゲエ・シンガーのムーミンが歌った
「雨のウェンズデイ」も良かった。ムーンなみに
評価の高い作品だが、本人いわく構造はカレンダー
と同じらしい。

前作も確かに凄いが、私はその次の「イーチ・タイム」
が好きである。大滝のソロではこれが一番好きだ。
音が分厚い。大滝曰く「ナイアガラの滝が色々な
要素を巻き込んでどーっと流れるように」
まさにこのイメージ。静香に、そして甘いメロディー
なのに過激。私の理想。夏のある日、気になる女の子に
メールし、返事を待つ間に聴いた
「ペパー・ミント・ブルー」
は劇的だった。プール・サイドで放心状態になってしまった。

私の憧れの人。大滝・詠一。
30thシリーズを集めるのが今から楽しみだ。
アナログも含めて同じアルバムが増えていくのは
不思議な感覚。



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マイケル・ジャクソン

2005-06-15 | 人物
PROLOGUE

今日、石川町のタワーレ・コードでふらふらする。
まず入り口のエイメリのスタイル・キャンペーン
ポスター。あのヒット・チューンのイントロが
頭で鳴り響く。

30分経過し、結果購入したのはダディー・ヤンキー
の「バリオ・フィノ」(読み方不明)。
これからの季節レゲトンもいいだろう。
そして くるり のDVD「くるり鮨」。ついでに
シンガー・ソンガーの「初夏凛々」DVD付き。
無気味な岸田さんを映像で堪能してみようと思う。

ビーチ・ボーイズのコーナーでオリジナル・アルバム
をかなり推しているのが気にかかる。初期作品はよし
として最初に「サーフ’ズ・アップ」なんか買ったら
大変だ。「スマイリー・スマイル」はもっときつい。
ふと想像が頭に漂う。「海だ!」という気分の人に
精神異常をきたしたブライアンのあの叫び声を聞かせ
るのはどうだろうか。いきなりカー・ステレオで
「英雄と悪漢」を聞いたら死にたくなるのではないか。

そして私の愛読雑誌、レコード・コレクターをチェック。
特集はブルース・スプリングスティーン。ボブ・デュラン
よりもヒロイックという文がズバリで心地いい。

そして用を済ました私はJR石川町駅へ。
電車が来る、と急ぎ足に歩きながらキオスクの
夕刊をちらっと見た時、そこに光り輝く文字があった。
「マイケル 無罪」
一瞬全ての雑音が消えた思いがした。
本当によかった。それだけである。

本来、このプロローグ内容は私の意に反している。
まだ消化していないコンテンツの羅列。単なる私の
目の流れを書き出しただけ。だが、マイケル無罪を
知る前に私がなにをしていたのかを書きたかったの
である。それだけである。

マイケル・ジャクソン

マイケルを取り上げるに当たって、私はもう一人
一緒に論じたい人物が入る。マイケル同様'90s初頭に
燃え尽きてまっさらになっている天才。
鳥山・明。この二人を同時に扱ってみよう。

1958年マイケル誕生。そして'69年、兄とともに
ジャクソン5としてモータウン・レーベルから
デビュー。モータウン史、最後の栄光を飾る。
グループとしても十分魅力的だったがなんいっても
マイケルのリード・シンガーとしての存在が圧倒的
であった。キラー・チューンのオンパレード「ABC」
「アイ・ヲンチュー・バック」'01年に売り出された
「ソール・ソース、ジャクソン5・リミキシーズ」
を聞いてはっきりと分かったがマイケルはポップ
シンガーである。万人を引き付ける圧倒的な魅力。

ソウル・ミュージックの定義自体、R&Bのポップ版
ということになる。白人による音楽業界での稼ぎ方
を黒人自ら行なったのが、モータウンの社長ベリー
ゴーディー。そもそも、ブルース、ロック’ン’
ロールといった売れ筋音楽のルーツは黒人のもので
ある。「じゃオレたちも稼ごうよ」これは単純な結論。

時代が後押しした。ニュー・オリーンズからAFO
(オール・フォー・ワン)の残党も加わり強力な
ソングライティング・チームを結成し、これまた
最強のアーティストへ提供。'60年代中盤には
「ヒット曲の方程式」が完成していた。
ブラック・ミュージックの最盛期を迎える。
世の中は白人が支配している。白人の好みは
そのまま普遍的なポップスという価値を持つ。
現に世界に届けられるのは白人が造った商品。
そのアイテムとして黒人もいたが、黒人が売り手に
回ることは画期的であった。その点においてポップスと
ソウルは大きな隔たりを持っている。

だが、である。そんな中、マイケルは人種、性別
年代の枠を取っ払った点で、やはりソウルではなく
ポップ・シンガーであるといえる。
キング・オブ・ポップ。
その後のモータウンと決別や紆余曲折を経て'79年に
「今夜はドント・ストップ」でソロ活動を本格開始。
クインシー・ジョーンズとのスーパー・コンビの
誕生である。

'78年、日本の一大文化産業「マンガ」における
モータウン・レーベル「少年週刊ジャンプ」で
鳥山・明デビュー。起工デザイン科で学んだ鳥山は
既に完璧な画を描いていた。デビュー作品
「ワンダー・アイランド」では後の完成度からみれば
ナチュラルで行き当たりばったりの感もあるが、なにより
描く喜びに満ちている点で非常に魅力的である。

'80年から続く「ドクター・スランプ」では集英社からの
担当者、鳥嶋氏(マシリト)との絶妙のコラボレーション
はマイケルとクインシーのコンビに負けるとも劣らない。
時代を反映させ、ナンセンス・ギャグ・マンガである。
しかし、絵、キャラクター、架空都市ペンギン村の
強烈な魅力により奇跡的な傑作となる。テレビ・アニメ
は国民番組と迄いわれた。水曜7時、その後7:30からの
「うす星やつら」と比べるとやはり、鳥山の作品は
万人受けするまさにポップ・マンガといえる。

せんべいさんはエロい。巻きグソもしょっちゅう出てくる
にもかかわらず、みんなが微笑んでみれる不思議な作品。
また、この作品連載中の4年間はジャンプが少年誌の
トップとしての座を確実にした時代で他にも傑作が並ん
でいた。北斗の拳、キン肉マン。
スティーウ゛ィー・ワンダー、マーウ゛ィン・ゲイ
のいた頃のモータウンは絶頂のジャンプを思い描けば
よい。

マイケルのデビュー・アルバム「オフ・ザ・ヲール」
はスマッシュ・ヒット。だがこれは始まりに過ぎなか
った。'82年のモンスター・アルバム「スリラー」から
くり出される核弾頭級のシングルの数々。
「ビリー・ジーン」「ビート・イット」「スリラー」
今こうして打っているだけで胸が熱くなってしまう。

もう凄すぎるの一言。天才的シンガーであり
圧倒的ダンサーであり、ルックスのいいパフォーマー。
それに加えて独創的なソング・ライターの才能と
それらをひっくるめてプロデュースする力。
マイケルは全て持っていたのである。
あり得ない存在。だが、スリラーの爆発がマイケル
を孤高の存在にしてしまったことは事実である。

黒人社会からはすでに抜けていたが、家族とも
亀裂が入ってしまったためまさにひとりで戦う
ことになってしまった。

'81年に放送開始したMTVの最初の
PVはポール・マッカートニーとマイケルの共作
「セイ・セイ・セイ」であった。当時、黒人の
プロモーション・ビデオが流れることは非常に
珍しいことだった。その伝統を破壊したのが
マイケルの'80年代の作品達であった。勢い
は増していく一方である。

'84年、「ドクター・スランプ」を終了させた
鳥山はカンパツ入れず「ドラゴン・ボール」
を始める。今迄のほんわかムードは若干残しつつも
同時代のセンスをよりリアルに表現している。
初期のブルマの服装は非常にオシャレである。
また、私はここに細野晴臣が起こしたYMOの影響を
感じている。本人の自画像や、ウーロンの来ている
人民服。そして、「気」の力を前面にだしている
ところに「YM(イエロー・マジック)」をみる。

'80年代後半はニッポン!の時代。鳥山もあたり
に充満する自信をキャッチしていたのだろう。
かつてのペンギン村にあった'70sのなつかしさ
やローカルさは消え、時代、国の枠も取っ払わ
れている。テーマはとことん強さを目指すこと。

感情のヒダなど関係ない。実際、悟空の性格は
正義と強さを求めるという二つしか無いといえる。
まさにマイケル!アメリカン・ドリーム上に
のった有色人種たち。

前半は冒険活劇であったが、テレビ版「Z」
から内容は格闘メインに変化する。これが'89年。
諸説あるが、鳥山が「もう辞めよう」との意を
込めてアルファベット最終文字"Z"とつけたとい
われる程、本人は疲弊していたのだろう。
'86年から始まる「ドラゴン・クウェスト」の
仕事によりゆったりと仕事をする快感を味わう。
連載マンガの非人間的生活に嫌気が差すのも
当然である。

だが人気はさらに拍車がかかる。実際、アメリカ
での売れ行きを見ると「Z」以降の方が人気がある。
最強、普遍のポップ・マンガとなった。

マイケルの'87年の作品「バッド」。この映像は
私の知る限り最も凄い。「気」を感じる。
地下鉄構内を風を切って歩く姿。右てを高く
あげて「ハーッ」と叫ぶシーン。「気」だ。
ギロッとカメラを見る所などは後のスーパー
サイヤ人だ。見ているだけで「ドンッ!」とくる。
監督はマーティン・スコセッシ。いい。

実際、回りには敵もいなければ身内もいない。
あるのはただ、自分の可能性を追求することだけ。
悟空、鳥山だ!マイケルの顔が壊れはじめるのは
このアルバム以後。もうどうでもよくなったのだろう。

マイケルは'91年のアルバム「デンジャラス」で
行き着く所までいってしまった。行き過ぎて自分
でもどれくらい来たのか分からない、計れない程
のレベルになってしまった。これほど悲しいことが
あるだろうか。唯一の生きる目標すら無くしてしまった。

鳥山は'95年に「ドラゴン・ボール」を終了させている。
だが実際にはフリーザの話が終わる'91年には
キャラクターの戦闘能力は認識できるレベルを超えている。
私はマイケルと同時期に鳥山もいってしまったと考える。

マイケルのその後の作品'97年
「ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア」
恐い作品。マイケルのパフォーマンスで
つま先立ちをよくするがそのつま先と地面
が接していない感じ。アルバム中に
「ゴースト」という曲があるがそのまんまだ。
表紙も恐いし、マイケルの顔も恐い。
「スリラー」より恐い。
だが、それらが光り輝いてしかもフェード
がかっているのできれいにも思える。うすくして
あるのだ。あれでこかったら本当のホラーだ。
「ユー・アー・ノット・アローン」を観れば分かる。
何がしたいのか分からない。

鳥山の'97年作品「コワ!」これもよく分からない
作品だった。しかも彼の作品であるからより
不思議な存在となる。バックにある大きな存在
として"空虚"があるのだろう。これもやはりフェード
が効いているように感じる。

現在「ネコマジン」が連載されているが、不思議な
静けさを感じる。細野さんのティン・パン再結成時
の音のような、内に向かう無邪気さに繋がる。

プライベートがどうの、そんなことは
どうでもいい。彼等は私の知る限り最も近い所で
センスを爆発させた人たちだということは事実である。
白人中心社会にカウンターを食らわせたのだ。
超ど級の。

そして気付けば今、再び私たちは白人中心の世界
に引き戻されている。色々な活動はある。
マンガも世界的な商品となったし、黒人はヒップ
ホップを舞台にいいたいことを訴えている。
しかし、それは単なる商品となっている。
もう無害な金儲けの道具にすぎない。
何かが起きる予感はそこには無い。

沸き立つアジアの勢いも、自由な黒人社会
も幻想だったのだよとでもいうのか。
ブランド品身につけて「人類皆同じ」か?
鋭い刃がこんにゃくに入れ替えられたのも
気付かないのか?

アメリカン・ドリームが明確に示され
成功者がそれを手にする。
ヒップ・スターの後そこにはゴミが増える。
音楽界も、マンガの世界も夢の島となる日
は近いんじゃないか。そして本当の鋭い刃
は思春期前にこんにゃくにさせられる。
そう、今の成功自体白人がみせる夢でしか
ない。マイケル、鳥山につづく強いセンス
でそこをぶっ壊さなければ。ベッドから
起きなければ。

「マイケル 無罪」の文字をみて私は現在
の空虚感を改めて感じた。ちなみに本文
を書きはじめたのは14日である。


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三沢・厚彦

2005-05-10 | 人物
PROLOGUE

本物とはとは何たるかを教えてくれた師。
ルート・ドクター。
この人に会っていなければ、私の人生は
薄いままだったろう。

彫刻界のビッグ・アーティスト

三沢・厚彦

私の通っていた高校の非常勤講師として彼は美術の授業を
受け持っていた。
今にして思えば素晴らしく贅沢な授業である。

噂として、美術の教師が只者ではないことは知っていた。
だが、詳しくは全く知らなかった。
そして期待の授業を迎える。
ガラッ。
戸が開いてその人は入ってきた。
服装は忘れてしまったが、おそらくスウェット・パーカー
にブラック・ジーンズ。ニュー・バランス・黒の996だった
と思う。
「かっこいいな」
これが素直な感想だった。
そして始まる授業。
「教室を汚せないから使う道具は鉛筆とが用紙だけだ」

一般教養程度の存在だったので
この授業スタイルは至極当然だったのだろう。
だが私にとっては非常に過激に感じられた。
毎回先生が出すお題を何時間かかけて描く。
むさ苦しい男子校の教室、約50人の男達の前に
50枚の画用紙。
この企画自体がポップ・アートだった。

彼は何も言わない。
教壇にいるが何をしているのか分からなかった。
生徒たちも無言で描いていた。
いとおかしい風景である。

たしか、最初の題材は「手」だったと思う。
提出日、私の絵を見て一言
「マニアックだね」
凄く嬉しかった。
次の授業から、なんとか話題を用意し
教壇へ向かった。「マニアな話をしよう」と。

15歳当時の私の頭の中身と言えば
30%以上がビートルズでしめられていた。
やはり、話題は ビートルズ。

アンソロジー・シリーズがスタートしてい
たこともあり、巷でもビートルズの話題は
そこそこあった。展示会も良く目にしたものだ。
その中のクイズ・コーナーで「博士号」を
取った話題などを話にいった。
そこで彼から教わる知識は大きかった。

ビートルズ関連ではあるが、ジャケットや
インナー・スリーブ等を手掛けた気鋭の
現代アーティストの存在を知った。
特にホワイト・アルバムでのリチャード・ハミルトン。
サージェントでのピート・ブレイク。
写真家のリチャード・アベドン。
なんとなくかっこいいから好きになり
がむしゃらに知識を暗記していた私は
そこにアートがあったことを教えられた。

一番記憶にの凝る題材は「丸、四角で埋めろ」だ。
最初私はバランスを重視しようとし、ヘンに凝った
配置で完成させた。そして提出した。
「つまらんね」
彼の一言で私は作品を戻してもらい造り直した。
あさはかなレベルでカッコつけても駄目なのだ。
可能な限り小さい丸と四角で埋め尽くした。
そしてその中に四角の大きさをやや変えて
「電子音楽の世界」といれた。
翌週の提出日、彼は笑ってくれた。

講師室に訪ねにいくといつも鋭い目で
作品をチェックしていた。
彼自身の作品製作の姿を想像させる
オーラがあった。
まれに「ぷっ」と笑う時がある。
ウケる絵があるのだ。こういう時は
教師というより素で笑っていたのだろう。
彼を良く笑わせたのが河邊という奴だ。
私の一級下の生徒で、父親がペンキ職人の
タフガイだった。
奴の絵は尋常でなかった。
音でいうならフィル・スペクターのウォール・サウンド。
分厚いのである。まさにウォール・ペイント。
しかも鉛筆で。鬼気迫る絵だった。
私は今でも河邊に会い、絵を描いてもらったりする。

三沢氏との関わりは今でも鮮明に覚えている。
面白い、かっこいい。
しかも奥深く。
このスタンスは私のベースだ。
いつでも私は彼に何の話をしようか緊張する。
もうじき26歳となる現在、色々と知識は増えた。
だがそのどれくらいが本物か。
今日、2年ぶりに再会する予定だが何を話そう。
「先生、おひさしぶりです」

INFORMATION

三沢厚彦

ANIMALS 05
10 MAY - 4 JUNE 2005
10:30am ~ 6:30pm 日曜、月曜、祝日休廊

APS西村画廊
銀座4-3-13西銀座ビルB1
tel 03-3567-3906
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ジョン・レノン & ポール・マッカートニー

2005-05-07 | 人物
PROLOGUE

意識的な部分はとことん鋭い。
無意識的な部分ではとにかくおかしい。
ジョン・レノンその人。

意識的な部分がブッ飛んでいる。
無意識的な部分は常識人。
ポール・マッカートニー。

この二人の両面が絡み合い、爆発し、全世界を
巻き込む革命が生まれたのは事実である。
それはビートルズというバンドの形をとっていたが
やはり全てはこの二人の関係に起因している。
ジョージ、リンゴ。不可欠なメンダーだ。
だが今回はコアの部分、レノン/マッカートニー
を掘り下げてみる。

ジョン・レノン & ポール・マッカートニー

二人が出会ったのは1957年7月6日土曜日。

午後4時28分。イギリス、リウ゛ァプール
ウールトン地区、セント・ピーターズ教会横の広場。
当日そこではバザーが行われており、ジョンは
クオリーメンなるバンドのギター、ボーカルとして
ステージに立っていた。
のどかな広場のステージで酔っぱらいながらの
演奏。革新的であった。
曲はデル・バイキングスの『カム・ゴー・ウィズ・ミー』。
ポールは傍観者としてそのステージを見ていた。
ポール、「これはガーデン・バーティー。でもあいつは
ガーデン・バラエティーじゃない。ロックン・ローラーだ」
「演奏に関しては50点以下」
とかなり冷静に分析している。
ジョン、16歳。ポール、14歳。

実際ジョンのギターテクニックは母親から習ったバンジョー
の弾き方そのままだった。そして歌詞も暗記している訳ではなく
その場のアドリブで押し切っていた。
だがバンドを率いロックする魂は
音楽マニア、ポールをしびれさせた。

午後6時47分。同教会ホール、バンドメンバーが
くつろいでいる中、共通の友人につれられポールが
入ってくる。
ジョン、「あのガキ、エルビスに似てなくもねぇな」
無言のままポールはジョンのギターを手にする。
そしてチューニングを合わせエディ・コクランの
『トゥエンティー・フライト・ロック』をルーズな
タッチで弾きはじめた。
演奏、歌どれも完璧だった。
ジョンの目はポールの指使いと動きに釘付けにされる。
一曲目が終わって間髪入れずジーン・ヴィンセントの
『ビー・バップ・ア・ルーラ』そしてリトル・リチャード
のメドレーへとなだれ込む。まさに核弾頭3本一斉投下。
ジョンはまともにくらわされた。
そして数分後にポールはホールを後にしている。

その夜ジョンは激しい葛藤に襲われた。
「あのガキをバンドに入れるかどうか」
ポールが入れば格段にレベルが上がる。
「完璧なロックロールバンドになれる」
が、「オレが2番になってしまう」
そして結論。
「あいつを入れよう。年下だから
バンドを仕切るなんて言わないだろう」

二人はここから始まった。
その後、バンド名をシルバー・ビートルズと改め
徐々に本格的な活動へと進む。
職人的ギタープレーヤー、ジョージ・ハリスン
はポールが連れてきた。当初、ジョンからすると
3歳下ということで全く眼中にない存在。
一方、美大仲間のスチュアート・サトクリフ
が一番大事な存在だった。ジョンが無理矢理
バンドに入れ、ベースを弾かせていたともとれる
不思議なメンバーだった。演奏も下手だった。
ポールとしては意味が分からない。
このあたりは映画『バック・ビート』を観れば良く分かるが
かなりジョン美化に傾いている。
ポールの訴えは至極当然であり、シンプルだ。
「最高のバンドを造ろうぜ」と。

結局、スチュアートはバンドを去りその後不幸にも
死んでしまう。精神的な支えを無くしたジョンは
相当に悲しむ。バンドとしても先がはっきりとしない
混沌とした時期であった。
そんな中、カリスマ・ジョンに夢中になった男
ブライアン・エプスタインがマネージャーとなる。
レコード店を経営するそこそこの資産家で
なにより経営感覚を持った人間だった。
只、あまりのジョンびいきに度々ポールは
キレている。

やがてEMI傘下のパーロフォン・レーベルと
契約が成立する
そこのプロデューサー、ジョージ・マーティン
は彼等のサウンドの持つ独特の魅力に可能性
を感じていた。

つづく


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