善と悪

2005-05-29 | 思想
PROLOGUE

善い・悪い。
前者はプラスのエネルギー、後者はマイナス・エネルギー。

この定義が今薄れ過ぎている。
少し前の時代、B-BOYイズムが浸透する以前の'90s前半。
「特攻の拓」が素直に受け入れられていた頃は、善・悪
はハッキリと別れていた。

親の教育からはかけ離れている為、どこかで良心の呵責を
引きずりながらも仲間うちのルールは絶対に守る。
それは彼等にとっての善である。
社会のルールは関係ないのだ。
善を貫き通せない根性の無さこそが軽蔑すべき悪である。

そしてロック・ン・ロール。
悪魔の音楽といわれた。そういったのは白人で
いわれたのは黒人ミュージシャン達である。
フランク・シナトラによれば「あれは一時のブーム。
すぐ終わるさ。その次って?それは私の後継者
パット・ブーンだよ」

実際どうであったか。
時代はブーンのアマアマ・ポップスではなく
プレスリーのロック・ン・ロールを求めていた。
紳士、淑女のくつろぎの間「ティー・ルーム」
をロック・ン・ロールは破壊した。

それをいくら「悪」と教育しようとしても
不可能だった。子供達はセンスを感じ取っていたのだ。
起爆剤はビート思想である。黒人との絡みが多かった
白人作家たちが強烈な文章で体制を攻撃し始めた。
今迄の抑圧された黒人文化が怒濤のように噴き出した。
ビート、それは精神でもありリズムそのものでもある。

平穏な社会を崩すビートの流れは悪か?
だとすればそれまで黒人達を虐げてきた白人主導の
社会は善なのか?
私は言おう。全てはセンスの問題なのだと。
求心力に従う方を善。
反発する方は悪。
時代ごとに求心力は違った所から発せられるものだ。

善と悪

'50sアメリカ文化が清々しいのは、まさにセンスによって
体制が揺らいだからだ。
当時は冷戦状態であり「敵は共産主義だ」等とほざいていたが
結局、若者の心は別次元へと運ばれていたのだ。
導くものは宗教や政治ではもうなかった。

やがて大衆文化は強烈なエネルギーを得る。
ハリウッドとティン・パン・アレー。
映画の町と音楽の町。
そして個々で造られた作品達は世界に届けられ
その思想は広がっていった。
だが、これで完成ではなかった。

全てを動かすのはやはり「金」である。
普遍のセンスとも言うべき富。
資本主義の世の中では儲かるものは
商品となる。組織的なマーケティング
が行なわれ瞬く間にビジネスとなる。

プロジェクトとして大きい映画は
完全にビジネスに飲み込まれる。
その背後に存在する政治にも影響を受ける。
センスある人間が「共産主義」という
理由で追放される馬鹿げた時代に突入。
音楽も魂を抜かれていた。

そこを突破したのがビートルズを始めとする
イギリスのロック・バンド勢だった。
もともと文化のレベルにおいてアメリカの比
ではない深さを誇るイギリスでビート文化
は研ぎすまされていた。

アメリカの音楽業界がぬるま湯となった1964年
満を持してビートルズが渡米。
その後続く「ならず者」ローリング・ストーンズ
「切れ者集団」クリーム、「職人軍団」レッド・ツェッペリン
'60s中盤以降イギリスの攻勢もすごかった。
完全にビート以前の文化を過去のものとした。
本国でビートルズは勲章を授かり平民ではなくなる。
人々はドラッグを覚え、フラワー・ムーウ゛メントで自由を
訴える。未だに政治家は戦争を続け、実際に若者をベトナム
に送り続けていた。この戦争が終わるのは1975年だった。

'67年、オール・ユー・ニード・イズ・ラブ「愛こそは全て」
この言葉は時代背景をうけてセンスある言葉となる。
'69年ジョン・レノンはさらに過激に
ヲー・イズ・オーウ゛ァー「戦争は終わった」と叫んだ。
あの時代の発言だからこそ過激だったのだ。
センスを全うする彼の行動は善そのものだ。

つづく


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マイ・ルーム 2

2005-05-29 | マイ・ルーム
PROLOGUE

'98年の夏に私の部屋はひとまず満足のいく空間となっていた。
北に面して左端が机。机自体は小学生時代より使い続けてきた
ものだが、付属物を全て取り払いなかなかシンプルないい机となった。
机上にはPower Mac。

その横にはアナログ、CD等のソフトが前者は「バナナ・レコード」の
ロゴ入り段ボール。後者は「無印良品」のスチール・フレームの棚に
入れられていた。

その横に「Technics」製、ショッキング・ピンクのミニ・コンポ。
そこで壁に突き当たり、そこから西向きに洋服ダンスと本棚が置かれた。
西枕の形でベッドが横たわり、これで部屋一巡。

立付けのタンスも中を整理し、機能的なストッカーにあらためた。
私は椅子に腰掛け、正面の幼稚園のエメラルド・グリーンの壁を
望みつつ満足感を噛み締めた。

マイ・ルーム 2

満足感マックスの状態は、実に短かった。
次に私を襲ったのは、アイテム個々の質の低さに対する不満だった。
まずはレコード・プレーヤー。
そもそもがミニ・コンポの付属であったため
音トビが気になる。
すぐさまヨドバシカメラへ。
そこで私を待っていたのは、めくるめくオーディオ・ワンダランドであった。
レコード・プレーヤーではなく、ターン・テーブル。
SL-1200MK3Dに一目惚れだった。

一旦そのモードにはいってしまうともう駄目である。
「あれが来る迄、この部屋は完成しない」
当然、金銭的にもすぐ買えるような代物ではない。
1ヶ月そこいら悶々とした日々が続く。
こうして手に入れた時の感動は凄かった。
しばらくの間はアナログばかり買っていた。
ビードルズのアルバムが多かったように思う。
音トビを気にせず中古レコードを買い漁るのは
心地よかった。

だが、この平安もすぐに終わる。
先のヨドバシに毎週のように通うことになった私は
もう次の、更に次のアイテムまでターゲットにしていた。
ミキサー。CDJ。アンプ。そしてCD、アナログのソフトの数々。
Bianchiのシティ・サイクルを見つけたのもこの時期だった。
部屋をデザインすることから始まった改革は
それを形成するアイテムのクオリティーを求めるようになっていた。
物欲は拡大し、また手に入れる迄の時間は空虚になった。

まさに私にとっての'99年は物欲に溺れる日々であった。
もともと世紀末思想に犯されていたために
貯蓄など考えたことはなかった。大学生活のゆとりのなかで
収入の限界でものを買う。スリリングな時代だった。

服装面では、'97年夏以降ハリウッド・ランチ・マーケット
寄りであったのから、'98年後半にはバーニーズ・ニューヨークの
扱うブランド群に魅せられるようになっていた。といっても
買える範囲のジーンズ程度であるが。ただ、奥行きは一気に
広がっていた。こういった所も、洋服棚を飾る大切な部屋の
構成要素だったのだ。

バーニーズ横浜店の6階はちょうど私が出入りしだした頃
から、私が欲しいような商品が激増した。それまで
ハイ・ブランドのスポーツ・ラインがフロアの中心だったが
ヘルムート・ラングのデニムを皮切りにストリート感覚に
目覚めはじめる。その後につづくリーバイス・レッド、
グリフィン、フェイク・ロンドン、マハリシ等々の台頭は
刺激的だった。

当時を振り返ってみて、やはりあの感動は忘れられない。
次のものが待ちどうしくてたまらない感覚を。
こうして徐々にハイ・レベルなモノが溢れ出したとき
部屋はすでに限界を迎えていた。抜本的な改革が必要
となったのである。
私は屋根裏も部屋として使う構想をたてるようになった。
父も挫折した危険な空間に挑もうと考えたのだ。

つづく



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マイ・ルーム

2005-05-16 | マイ・ルーム
PROLOGUE

一人部屋を与えられた時、私は12歳であった。

前には駐車場が広がっており
正面には幼稚園が建っている。
幼稚園の壁はエメラルド・グリーンがかった
オフ・ホワイトで、光は反射し私の部屋を
照らした。北向きとは思えぬ明るさだ。

私は一つの概念として
「部屋から外は戦いの場」
と思っている。
自営業を営む実家であるために
居間はビジネスの場であったし
そこに隣接するキッチン、トイレ
全てが安住の地ではなかった。
風呂をも含めて。

部屋で机に向かっている時
私は自由を得ることができた。
絵を描いている時が幸せだった。

マイ・ルーム

1997年12月、突如私は部屋で圧迫感に襲われる。
安らぎの場が、焼け野原のように見えた。
「なんだこのダサさは」

服に関してこだわりはあった。
絵はどこまでもこだわった。
だが、部屋自体はただの空間だった。
部屋をデザインすることなど考えなかったのだ。
おそらくジャズを聴きはじめ
脳が変化したのだろう。

元来コレクター体質の私は細かいもの迄とっていた。
そして整理下手であるため押し入れ、机の中は
カオスの世界であった。
洋服ダンス、机どれも両親が買いそろえた
オールディーズだった。

まず全て捨てようと考えた。
こんなタンスだったら段ボールに入れて山積みに
した方がかっこいい。
だが運ぶ途中で家族の反対にあい挫折する。
そこで、家全体をコントロールし私の部屋を
改造する計画を立てた。

私の家には屋根裏部屋がある。
父が事務所を造ろうと、屋根と部屋との
間にもう一室無理矢理生み出したのだった。
空調設備、机、棚は完備された。
ところが窓も無く、立つこともできない
その部屋で事務仕事等できる訳なはく
父は挫折した。
それ以降そこは開かずの間として
これまたカオスの世界となっていた。
私はまずこの空間に目を付けた。

屋根裏部屋を開拓し、私のストック・ヤードにする。
私の部屋にある家具は空にして、家のどこかに
配置する。私の部屋はシンプルになり
そこからデザインするという明確な目標ができた。
ウォーホールのファクトリーが最初の理想だった。

計画は順調に進み、私は空間を手に入れた。
ベッドはダサい。ライフスタイルにもメスをいれた。
蛍光灯はダサい。
レースのカーテンはダサい。
あらゆるものをデザインする、それに夢中だった。

'98年の夏頃、私の部屋はとりあえずの完成形にいたる。
窓に面した机の横にコンポが続いた。
ちょうどその頃Power Machintosh G3を手に入れた。
椅子に座り「んー。かっこいい」
と思えるようになった。

だが、当時の私は重大な問題に気づいていなかった。
部屋を作品として捉えることの危険を。
その後私は幾多の模様替えを繰り替えることとなる。
「んー。いい」といえるのはせいぜい1週間。
それいこう徐々に気になるものが増えて行く。
一瞬の安堵の後には圧迫感が待っていたのだ。
私はたった一つの安住の地を失っていた。

つづく
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三沢・厚彦

2005-05-10 | 人物
PROLOGUE

本物とはとは何たるかを教えてくれた師。
ルート・ドクター。
この人に会っていなければ、私の人生は
薄いままだったろう。

彫刻界のビッグ・アーティスト

三沢・厚彦

私の通っていた高校の非常勤講師として彼は美術の授業を
受け持っていた。
今にして思えば素晴らしく贅沢な授業である。

噂として、美術の教師が只者ではないことは知っていた。
だが、詳しくは全く知らなかった。
そして期待の授業を迎える。
ガラッ。
戸が開いてその人は入ってきた。
服装は忘れてしまったが、おそらくスウェット・パーカー
にブラック・ジーンズ。ニュー・バランス・黒の996だった
と思う。
「かっこいいな」
これが素直な感想だった。
そして始まる授業。
「教室を汚せないから使う道具は鉛筆とが用紙だけだ」

一般教養程度の存在だったので
この授業スタイルは至極当然だったのだろう。
だが私にとっては非常に過激に感じられた。
毎回先生が出すお題を何時間かかけて描く。
むさ苦しい男子校の教室、約50人の男達の前に
50枚の画用紙。
この企画自体がポップ・アートだった。

彼は何も言わない。
教壇にいるが何をしているのか分からなかった。
生徒たちも無言で描いていた。
いとおかしい風景である。

たしか、最初の題材は「手」だったと思う。
提出日、私の絵を見て一言
「マニアックだね」
凄く嬉しかった。
次の授業から、なんとか話題を用意し
教壇へ向かった。「マニアな話をしよう」と。

15歳当時の私の頭の中身と言えば
30%以上がビートルズでしめられていた。
やはり、話題は ビートルズ。

アンソロジー・シリーズがスタートしてい
たこともあり、巷でもビートルズの話題は
そこそこあった。展示会も良く目にしたものだ。
その中のクイズ・コーナーで「博士号」を
取った話題などを話にいった。
そこで彼から教わる知識は大きかった。

ビートルズ関連ではあるが、ジャケットや
インナー・スリーブ等を手掛けた気鋭の
現代アーティストの存在を知った。
特にホワイト・アルバムでのリチャード・ハミルトン。
サージェントでのピート・ブレイク。
写真家のリチャード・アベドン。
なんとなくかっこいいから好きになり
がむしゃらに知識を暗記していた私は
そこにアートがあったことを教えられた。

一番記憶にの凝る題材は「丸、四角で埋めろ」だ。
最初私はバランスを重視しようとし、ヘンに凝った
配置で完成させた。そして提出した。
「つまらんね」
彼の一言で私は作品を戻してもらい造り直した。
あさはかなレベルでカッコつけても駄目なのだ。
可能な限り小さい丸と四角で埋め尽くした。
そしてその中に四角の大きさをやや変えて
「電子音楽の世界」といれた。
翌週の提出日、彼は笑ってくれた。

講師室に訪ねにいくといつも鋭い目で
作品をチェックしていた。
彼自身の作品製作の姿を想像させる
オーラがあった。
まれに「ぷっ」と笑う時がある。
ウケる絵があるのだ。こういう時は
教師というより素で笑っていたのだろう。
彼を良く笑わせたのが河邊という奴だ。
私の一級下の生徒で、父親がペンキ職人の
タフガイだった。
奴の絵は尋常でなかった。
音でいうならフィル・スペクターのウォール・サウンド。
分厚いのである。まさにウォール・ペイント。
しかも鉛筆で。鬼気迫る絵だった。
私は今でも河邊に会い、絵を描いてもらったりする。

三沢氏との関わりは今でも鮮明に覚えている。
面白い、かっこいい。
しかも奥深く。
このスタンスは私のベースだ。
いつでも私は彼に何の話をしようか緊張する。
もうじき26歳となる現在、色々と知識は増えた。
だがそのどれくらいが本物か。
今日、2年ぶりに再会する予定だが何を話そう。
「先生、おひさしぶりです」

INFORMATION

三沢厚彦

ANIMALS 05
10 MAY - 4 JUNE 2005
10:30am ~ 6:30pm 日曜、月曜、祝日休廊

APS西村画廊
銀座4-3-13西銀座ビルB1
tel 03-3567-3906
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ジョン・レノン & ポール・マッカートニー

2005-05-07 | 人物
PROLOGUE

意識的な部分はとことん鋭い。
無意識的な部分ではとにかくおかしい。
ジョン・レノンその人。

意識的な部分がブッ飛んでいる。
無意識的な部分は常識人。
ポール・マッカートニー。

この二人の両面が絡み合い、爆発し、全世界を
巻き込む革命が生まれたのは事実である。
それはビートルズというバンドの形をとっていたが
やはり全てはこの二人の関係に起因している。
ジョージ、リンゴ。不可欠なメンダーだ。
だが今回はコアの部分、レノン/マッカートニー
を掘り下げてみる。

ジョン・レノン & ポール・マッカートニー

二人が出会ったのは1957年7月6日土曜日。

午後4時28分。イギリス、リウ゛ァプール
ウールトン地区、セント・ピーターズ教会横の広場。
当日そこではバザーが行われており、ジョンは
クオリーメンなるバンドのギター、ボーカルとして
ステージに立っていた。
のどかな広場のステージで酔っぱらいながらの
演奏。革新的であった。
曲はデル・バイキングスの『カム・ゴー・ウィズ・ミー』。
ポールは傍観者としてそのステージを見ていた。
ポール、「これはガーデン・バーティー。でもあいつは
ガーデン・バラエティーじゃない。ロックン・ローラーだ」
「演奏に関しては50点以下」
とかなり冷静に分析している。
ジョン、16歳。ポール、14歳。

実際ジョンのギターテクニックは母親から習ったバンジョー
の弾き方そのままだった。そして歌詞も暗記している訳ではなく
その場のアドリブで押し切っていた。
だがバンドを率いロックする魂は
音楽マニア、ポールをしびれさせた。

午後6時47分。同教会ホール、バンドメンバーが
くつろいでいる中、共通の友人につれられポールが
入ってくる。
ジョン、「あのガキ、エルビスに似てなくもねぇな」
無言のままポールはジョンのギターを手にする。
そしてチューニングを合わせエディ・コクランの
『トゥエンティー・フライト・ロック』をルーズな
タッチで弾きはじめた。
演奏、歌どれも完璧だった。
ジョンの目はポールの指使いと動きに釘付けにされる。
一曲目が終わって間髪入れずジーン・ヴィンセントの
『ビー・バップ・ア・ルーラ』そしてリトル・リチャード
のメドレーへとなだれ込む。まさに核弾頭3本一斉投下。
ジョンはまともにくらわされた。
そして数分後にポールはホールを後にしている。

その夜ジョンは激しい葛藤に襲われた。
「あのガキをバンドに入れるかどうか」
ポールが入れば格段にレベルが上がる。
「完璧なロックロールバンドになれる」
が、「オレが2番になってしまう」
そして結論。
「あいつを入れよう。年下だから
バンドを仕切るなんて言わないだろう」

二人はここから始まった。
その後、バンド名をシルバー・ビートルズと改め
徐々に本格的な活動へと進む。
職人的ギタープレーヤー、ジョージ・ハリスン
はポールが連れてきた。当初、ジョンからすると
3歳下ということで全く眼中にない存在。
一方、美大仲間のスチュアート・サトクリフ
が一番大事な存在だった。ジョンが無理矢理
バンドに入れ、ベースを弾かせていたともとれる
不思議なメンバーだった。演奏も下手だった。
ポールとしては意味が分からない。
このあたりは映画『バック・ビート』を観れば良く分かるが
かなりジョン美化に傾いている。
ポールの訴えは至極当然であり、シンプルだ。
「最高のバンドを造ろうぜ」と。

結局、スチュアートはバンドを去りその後不幸にも
死んでしまう。精神的な支えを無くしたジョンは
相当に悲しむ。バンドとしても先がはっきりとしない
混沌とした時期であった。
そんな中、カリスマ・ジョンに夢中になった男
ブライアン・エプスタインがマネージャーとなる。
レコード店を経営するそこそこの資産家で
なにより経営感覚を持った人間だった。
只、あまりのジョンびいきに度々ポールは
キレている。

やがてEMI傘下のパーロフォン・レーベルと
契約が成立する
そこのプロデューサー、ジョージ・マーティン
は彼等のサウンドの持つ独特の魅力に可能性
を感じていた。

つづく


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