みなさん、お正月いかがお過ごしですか?
ここ最近、アウトプットしていない未消化の思考が山積しております。
服なんかもそうですが着ることもあまりなく買ったことすら忘れてしまうものが
増えてきたここ最近です。
テンションは非常に低く、脳内の整理に必要すら感じなくなってきています。
とまあ、現状を説明するのはこのくらいにして、なぜか年が明けて気分も良く
何かみなさんに伝えたいというのは昨日から継続しているんです。久しぶりだな。
表現活動が必要か、自分にとって、ないしは人にとってっていうのはよくわかりません。
が、伝えたいという気持ちが自分の中になることは確認できました。
このブログでも以前述べてきたこと、中庸のスタンス。両極の間。その答えは日常の生活
だってことに気づきました。極というのはブランディングに置き換えることができるよね。
コマーシャルに乗せやすく、消費行動に結びつけやすい。広告代理店がここまで幅を利かす
社会ってのは僕たちの生活が極論ばかりを意識してしまってることの表れなんだろう。
でも、普通の日常はそんなではなく、何気ない時間が流れているもの。
ノームコア、ライフスタイルって、いっときはやったけど、それはまず極ありきの
その上でその間、という発想ではなかったか。万人に共通の中庸ってのは本来難しいはず。
まあ、あれも今となっては流行だったんだねって扱いだよね。それかみんなもう忘れてるか。
ただ、そんな魅せるための中庸ってことじゃなくて本来の生活ど真ん中な意識をこの日本
て国が懸命に維持してるなって2022年は感じました。報道で見るウクライナの惨状や
ロシアの考え方、アメリカやヨーロッパの物価高。庶民感覚というものは時代の激流に
押し流され、過度な変化を余儀なくされている。日本はどうだろう。庶民感覚がこれほどまでに
いまだに機能しているソサイティって他にあるだろうか。アフリカ奥地の原住民くらいか。
耐え難きを耐えてでもなお、安穏とした風土を維持したいという強い意志があるとしか
思えません。コロナ感染対策然り、物価高抑制のための企業努力然り。それ故に
個人たちが払う代償も多きにも関わらず、全体性すなわち中庸を成り立たせるために
惜しまない。
特性が非常に感じやすい状況となっていますね。ユニクロ×マルニコラボ。先月9日に発売
されました。ラグジュアリーブランドと協業することによる付加価値創造が目的なはずで
以前のジルサンダー氏との成功体験を継承していくための大切な取り組みだとは思います。
しかし、発売から二週間ほどで値下げを開始し、値崩れを感じさせる勢いで叩き売っている
ところを見ると、この国の異常な消費行動を見せつけられる気がします。極としての賞味期間
も非常に短く、持て囃した後捨て去るのまでの時間がすごく早い。セカンドストリートでの
値付けも潔いほどで、43歳の私からすると唾垂の逸品がジャンク扱い。本日からの新春セール
ならジャンク品なんて250円ですよ。ジャミーソンズのシェトランドウールニットカーディガン
とかですよ。一体どうなってんだってね。イギリス人が見たらどう思うんだろう。
中庸をブランディングするって発想自体が間違いってのは先ほど申した通り。
でも、現状の世の中、経済活動は必須なわけでその停滞というのは決してよくはないと思うんです。
スタンスの位置とは別のベクトルで動と静で捉えれば動的な活動が弱まることはデミリットでしかない。
コロナ社会の数年が及ぼす最大の悪影響は社会から動的要素を奪ったことに他ならないと私は考えます。
消費活動において、良いものを欲しいというのは万人に共通なはず。その何を良いとするのかが
普遍の難しさであるわけですが、欲しいという気持ちを失うことはとても危機だと思うんです。
私ごとですが、このブログで、「何を」語るのかってのはすごく難しい。
でも、語りたいってのはとっても大切でいいことだと思うんですよね。
中庸社会ってただでさえ、外的要因でエネルギーを起こすのって難しい。心地よさをキープなら
何の問題もないですが、苦役を閉じ込めている様というのは異様です。やはり、その特殊環境
の中でも通じるムーヴメントの起爆剤って何だろう。
その答えって、考えて出せるものではないってことは分かる。ここから作るっていうよりは、
この厳しい環境下で逞しく存在し続けている店にその要素があると思います。個人が生活の一環として
経営している店。地域に根ざしその土地のニーズに長年答えてきた空気感。顧客も含めてその店を
作り上げていることが大切。こういった存在はかろうじて、まだいくらか存在してますよね。
ここからが、非常に高度な仕事だと思うんですが、ブランディングの次なる手法か、あるいは
もっと画期的な劇的変化か。ローカル、ニッチ、人物から引き出すエッセンスで
経済活動を大きく回す。ここにものすごい面白さがあると思うんです。
っぽいものはすでに沢山あります。コラボ企画であったり、観光資源としてであったり。
でもそれは結局一時的だし、限定的だし消費されて終わってしまう。コロナ禍の数年を通し
この日本が放つ不思議さにも似たもっと野生的で根源的な部分にアプローチする必要があるはずです。
アパレルで私が注目するsanse sanse、separate bath & toilet、salt & peppar
これらは40代後半の日本人男性がディレクションし、私からすると全く新しい価値観を提示
するブランドだって思ってます。これらが成功するか、(すでに成功してる?)大きなチャレンジ
だと思うんです。音楽では70年代にすでに結果を見たこと。それは欧米の克服。細野晴臣と
大瀧詠一の二人(だと私は勝手に思っています)がなし得た文化的な次元上昇。しかもそれを
シーンとともに行え、聴衆も着いて来れたことが大きい。解釈と咀嚼からの表現。今振り返っても
瑞々しい。同時代を生きた方々が羨ましい。梶雄太と加賀美健が見る地平線というものが
服飾においての欧米からの卒業を達成できるか。またそれを大衆が享受することができるか。
私は淡い期待を持って眺めている。まだどれも買ってませんが。リッキーさんもとてもいいです。
ライトオンというアウトプットが素晴らしいし、シャープなディレクションがマスをどう動かすか
楽しみです。
いやあ、何だろう
熱く語れましたねえ!俺!!
ここ最近、アウトプットしていない未消化の思考が山積しております。
服なんかもそうですが着ることもあまりなく買ったことすら忘れてしまうものが
増えてきたここ最近です。
テンションは非常に低く、脳内の整理に必要すら感じなくなってきています。
とまあ、現状を説明するのはこのくらいにして、なぜか年が明けて気分も良く
何かみなさんに伝えたいというのは昨日から継続しているんです。久しぶりだな。
表現活動が必要か、自分にとって、ないしは人にとってっていうのはよくわかりません。
が、伝えたいという気持ちが自分の中になることは確認できました。
このブログでも以前述べてきたこと、中庸のスタンス。両極の間。その答えは日常の生活
だってことに気づきました。極というのはブランディングに置き換えることができるよね。
コマーシャルに乗せやすく、消費行動に結びつけやすい。広告代理店がここまで幅を利かす
社会ってのは僕たちの生活が極論ばかりを意識してしまってることの表れなんだろう。
でも、普通の日常はそんなではなく、何気ない時間が流れているもの。
ノームコア、ライフスタイルって、いっときはやったけど、それはまず極ありきの
その上でその間、という発想ではなかったか。万人に共通の中庸ってのは本来難しいはず。
まあ、あれも今となっては流行だったんだねって扱いだよね。それかみんなもう忘れてるか。
ただ、そんな魅せるための中庸ってことじゃなくて本来の生活ど真ん中な意識をこの日本
て国が懸命に維持してるなって2022年は感じました。報道で見るウクライナの惨状や
ロシアの考え方、アメリカやヨーロッパの物価高。庶民感覚というものは時代の激流に
押し流され、過度な変化を余儀なくされている。日本はどうだろう。庶民感覚がこれほどまでに
いまだに機能しているソサイティって他にあるだろうか。アフリカ奥地の原住民くらいか。
耐え難きを耐えてでもなお、安穏とした風土を維持したいという強い意志があるとしか
思えません。コロナ感染対策然り、物価高抑制のための企業努力然り。それ故に
個人たちが払う代償も多きにも関わらず、全体性すなわち中庸を成り立たせるために
惜しまない。
特性が非常に感じやすい状況となっていますね。ユニクロ×マルニコラボ。先月9日に発売
されました。ラグジュアリーブランドと協業することによる付加価値創造が目的なはずで
以前のジルサンダー氏との成功体験を継承していくための大切な取り組みだとは思います。
しかし、発売から二週間ほどで値下げを開始し、値崩れを感じさせる勢いで叩き売っている
ところを見ると、この国の異常な消費行動を見せつけられる気がします。極としての賞味期間
も非常に短く、持て囃した後捨て去るのまでの時間がすごく早い。セカンドストリートでの
値付けも潔いほどで、43歳の私からすると唾垂の逸品がジャンク扱い。本日からの新春セール
ならジャンク品なんて250円ですよ。ジャミーソンズのシェトランドウールニットカーディガン
とかですよ。一体どうなってんだってね。イギリス人が見たらどう思うんだろう。
中庸をブランディングするって発想自体が間違いってのは先ほど申した通り。
でも、現状の世の中、経済活動は必須なわけでその停滞というのは決してよくはないと思うんです。
スタンスの位置とは別のベクトルで動と静で捉えれば動的な活動が弱まることはデミリットでしかない。
コロナ社会の数年が及ぼす最大の悪影響は社会から動的要素を奪ったことに他ならないと私は考えます。
消費活動において、良いものを欲しいというのは万人に共通なはず。その何を良いとするのかが
普遍の難しさであるわけですが、欲しいという気持ちを失うことはとても危機だと思うんです。
私ごとですが、このブログで、「何を」語るのかってのはすごく難しい。
でも、語りたいってのはとっても大切でいいことだと思うんですよね。
中庸社会ってただでさえ、外的要因でエネルギーを起こすのって難しい。心地よさをキープなら
何の問題もないですが、苦役を閉じ込めている様というのは異様です。やはり、その特殊環境
の中でも通じるムーヴメントの起爆剤って何だろう。
その答えって、考えて出せるものではないってことは分かる。ここから作るっていうよりは、
この厳しい環境下で逞しく存在し続けている店にその要素があると思います。個人が生活の一環として
経営している店。地域に根ざしその土地のニーズに長年答えてきた空気感。顧客も含めてその店を
作り上げていることが大切。こういった存在はかろうじて、まだいくらか存在してますよね。
ここからが、非常に高度な仕事だと思うんですが、ブランディングの次なる手法か、あるいは
もっと画期的な劇的変化か。ローカル、ニッチ、人物から引き出すエッセンスで
経済活動を大きく回す。ここにものすごい面白さがあると思うんです。
っぽいものはすでに沢山あります。コラボ企画であったり、観光資源としてであったり。
でもそれは結局一時的だし、限定的だし消費されて終わってしまう。コロナ禍の数年を通し
この日本が放つ不思議さにも似たもっと野生的で根源的な部分にアプローチする必要があるはずです。
アパレルで私が注目するsanse sanse、separate bath & toilet、salt & peppar
これらは40代後半の日本人男性がディレクションし、私からすると全く新しい価値観を提示
するブランドだって思ってます。これらが成功するか、(すでに成功してる?)大きなチャレンジ
だと思うんです。音楽では70年代にすでに結果を見たこと。それは欧米の克服。細野晴臣と
大瀧詠一の二人(だと私は勝手に思っています)がなし得た文化的な次元上昇。しかもそれを
シーンとともに行え、聴衆も着いて来れたことが大きい。解釈と咀嚼からの表現。今振り返っても
瑞々しい。同時代を生きた方々が羨ましい。梶雄太と加賀美健が見る地平線というものが
服飾においての欧米からの卒業を達成できるか。またそれを大衆が享受することができるか。
私は淡い期待を持って眺めている。まだどれも買ってませんが。リッキーさんもとてもいいです。
ライトオンというアウトプットが素晴らしいし、シャープなディレクションがマスをどう動かすか
楽しみです。
いやあ、何だろう
熱く語れましたねえ!俺!!