無駄 3

2010-02-27 | イラスト
みなさん今晩は、

満★乳斎です。


なんかちょっと肌寒くて

チリでは大きな地震があって

日本海沿岸では謎の深海魚が沢山発見されて

地震の前触れなんじゃないのかなんて議論されている


そんな夜には

無駄について考えてみたくなるものです。


無駄を認めると、そこに優しさが生まれる。

最適化されていなくていい。

どうでもいい。

そこまでよくなくていい。

そこまでかしこくなくていい。

そこまで便利でなくていい。


かつて、昭和時代にはがんばったって

たかがしれていた。

どんなに理想が高くてもそんなところには

とうていたどりつけなかった。

ハイテクを目指していたって

その製品には手あかがびったりついていた。

汗でぬりたくられていた。

食事づくりに1日の4割ほどの時間を費やし

洗濯にお昼の一番のどかな時間を費やし

掃除もまた残りの体力をずいぶんと費やし

だから夜なんか疲れてすぐに眠くなる。

世界はありったけの無駄の中にあった。

現在の私たちからすると

その全ての生活を営む時間は無駄となる。


やらなくて

いいんだから。

効率的でないんだと。

ストイックに昔ながらの不便な生活を
送る人がいるけど、どうだろうね。
アーミッシュとかもどうなんだろう。

映画イージー・ライダーや
マンガあしたのジョーで、その辺の答えは
出ている気がする。

よくある説話で

貧しい人間の目は活きている。

豊かな人間はそこから学ばなくてはいけない。

なんて言うが、貧しい人間から学ぼうなど

彼らへの冒涜であると思う。

あえてそんな生活を送ることも。

禁欲なんかしたくない!

恵まれた中でのカルマと戦うことに背を向け

過去にとらわれることなかれ。

我々は溢れるほどに恵まれた世界に産まれた。

その先頭に立っていることをもう一度

自覚すべきである。

そして崩れゆこうとしているこの豊かな世界で

どうすれば良いのかを考えるべきである。


エコじゃない。

中国じゃない。


未来はそんなとこにない。


人間が生きるということが

どれほど無駄なことか。

他人が生きていることなど自分にとっては

何の価値もないんだってことを分かれ。

豊かな世界ではそうなんだから、仕方ない。

貧しい世界が共存でなりたっているのと訳が違う。

意識的に行う行動全てが他者への圧迫となる。

なにもかも余計である。

それでいいじゃないか。

無駄で、いいじゃないか。

どうでもいいじゃないか。

どうでもいいけど生きていこうじゃないか。


縦一直線に加速をつづける世界

しかしここらで無駄な抵抗を入れていこうよ。

心に無駄を。

溢れる無駄を。

手つかずの無駄を。


僕は働いて、稼いで平穏な日々をつくることにする。

無駄を目指して日々働く。

その無駄の中に家庭を築く。


無意識な中に温かさはある。

体温にも似た

暖かいもの。

それを守るために、働いて恵みを得る。


さまざまなエネルギーは無駄へと流れ込み

淡く消えていく。

おぼろげな残像をのこして。


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the Outsider

2010-02-26 | イラスト
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満★乳斎

2010-02-26 | イラスト

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ディアマンテスよ

2010-02-22 | イラスト
おおディアマンテス


貴方のブログが更新されたことを


今日知りました。


その間どれだけ待ったことか。


どれだけ


感動したことか。



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無駄 2

2010-02-17 | イラスト
昨夜は途中で力つきてしまいした。

今晩は。

満★乳斎です。


無駄の続きです。


無駄は森のようである。

手つかずの自然のような存在が

我々をいやし、勇気を与えてくれる。

落語家の桂枝雀師匠が生前となえていた

笑いとは「緊張と弛緩」。


私の考えるところの「アートとルーティン」

大滝詠一師のとく分母分子論。

リーモーガンのいうヒップである意味。

価値と無駄もまさにそうで、相互関係で成り立つ陰陽。

圧倒的無駄の中のひとしずくの価値、これがなんとも

いいがたい魅力をもつ。

無駄なくして、物事が価値をもつことなどない。


そこで難しいのは、無駄を生み出すこと。

作ろうと思ってできるものではない。

意識したとたんに、無駄は無駄でなくなってしまう。

価値を生み出すために、無駄を作ることなどできないのだ。

ゆとり教育がそれにちかくて、結局政策ではゆとりなんか

生み出せなかった。

心の大切な部分のそうしたゆとりや、無駄ってのは

日々、価値を求めて生きていく中で生まれる副産物。

一生懸命に生きて、苦しくて辛くて

そういったものが作り出すかけがえのないもの。

現在のユビキタス化した世界では

価値への到達が恐ろしく速く容易になった。

その中では人は浮遊した状態で価値と無駄を

選択できるような気になっている。

しかし、実はそこで選んだものには価値などない。

喜びも感動も実はない。

あるのは単なるフィギア。生きていない。


努力は報われるっていのもどうかな。

一辺倒に張りつめられた緊張に魅力はないからね。


オリンピックの理念の中にアマチュア精神がある。

普通の人間が競技に参加するのがオリンピアの心だったはず。

職業で走る人間が参加できなかったことを考えると複雑な気持ちになる。

一般人が普段の生活においては無駄で過激な運動を競うから皆が見て面白い。

4年間メダルのことだけ考えて、全てを捧げてその価値のために。

長野五輪あたりまでは、それっぽくてもなんか人間くささがあった。

日本特有のなんかあった気がします。

だから、応援できた。

サッカーも、ドーハの悲劇なんか、自分に降り注いだ悲劇のように感じた。

そこにはその価値の奥に大きな無駄があったからだろう。

彼らがしっくりとくる普通の空間がこの国にあった。

それを僕らが何気なく許容できる空気があった。

今はそれがない。

価値しか求めない空気。

皆、無駄が許せない。

結局その流れが本質を失わせたのだ。

だから誰も五輪が見えなくなった。

液晶画面に映るは

哀れさすらない

フィギュア。

見てる側もフィギュア。

怖いですね、そう考えると・・・。

街も、フィギュア。

オエッてなっちゃうよね。


真っ黒黒すけと同じく

無駄、ゆとりもこどもの心でしか

みえなのかもしれない。


ヤッホー!


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