ボビー・ギレスピー

2006-06-15 | 人物

今になって分かった

僕はボビーに憧れてたんだ

彼みたいになりたかったんだ


ボビー・ギレスピー



プライマル・スクリームのボーカル

僕が中学生の頃MTVでスクリーマデリカの
ビデオが流れていた

カム・トゥゲザー、ローデット

14歳の僕は
思春期の僕はその色、音
に反応していた

同時代の音楽で唯一反応したバンドかもしれない

とにかくスクリーマデリカは聞いたアルバムだった

CDウォークマンで何回も繰り返し聞いてた

音量マックスもその時からだと思う


眠気でうとうとしながら

ハイアー・ザン・ザ・サン
を聞いて酩酊での覚醒というのを

そういうのが好きだったんだと思う
あの頃からずっと

今も



僕が絵にたいしてのインスパイア湧き出るのも
そういうドロドロした中に身を置いてる時なんだと思う


ぶっ殺してやるっていう

そういう気分で絵を描いてたのを思い出した

今日。


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満★乳斎

2006-02-07 | 人物
PROLOGUE

このブログも今月を持ちまして
おかげさまで0歳と10ヶ月
を迎えました。

これも読んでくれている皆様
のおかげです。

そんな感謝の気持ちを込めて
今晩送ります。

アバウト

満★乳斎


なんでこの名前か。

これをお伝えしたい。

そう思っとるんじゃ。


何を隠そう、この名前には意味がある!

まず、「満★」これは漫画家の
漫★画太郎先生のパクリ。

あの人の姿勢を受け継ぎたいなって
思ってる。

漢字はいろんな気持ちを込めて
満の字を当てました。
推測してね。

次、「乳」
ここがポイントです。
日本古来のイメージは割と透明というか
味で言うなら醤油というか。
色で言うならダイヤブロックのやや薄い
発色というような独特の風合いが
あると思うんですが僕はそれが嫌いなんです。

透明じゃなくまず分厚い白地の上から色を
置きたい。透けたくない。
醤油ツンっではなくミルクたっぷりで
トロ~っとしたい。その中で色々な味が
埋まっているという味の壁。

そんな想いがこの漢字には含まれているんです。
まあ、フィル・スペクターへの敬意とでも
いいましょうか。ブライアンへのでもある。

で、もう一つ重要なファクター。
ザッツ・オール・アイ・ウォント。
ニュー(新しい。)やはりこれです。


お分かりになりましたでしょうか。
いかに私の熱意がこの「乳」に
込められているかと言うことを。
「私の全て」と言っても過言ではない。

それ以外の意味も勿論色々あります。
推測してね!

で、最後。
「斎」
これはですね。
葛飾・北斎先生から頂きました。
勝手に。

僕が思う絵の世界のジーニアス。
センス立ち上るヒップ・スター。
それにあやかりたいなと。

ホクサイ、ニューサイ。
後世、並べて厚かって欲しい。
夢です。


で、最後に。
この名前を遠くから感じて下さい。

マンニューサイ

これを英語的に意識すると

マン’ズ・ニュー・サイト

に見えませんか?

「新しい場所」となる。


外国人にはそう説明してるんだ。

そんなこんなでこの名にしました。


これからもよろしくお願いします。

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ザ・ビートルズ

2005-12-08 | 人物
PLOROGUE

ジョン・レノンの命日。
色々と思う。

そしてやはりここに立ち返る。

ザ・ビートルズ

1963年発売の彼等の1stアルバムを前に
人は言う。

「”あのビートルズ”のデビュー・アルバムで
・・・・・うんたらかんたら・・・・」

私は言いたい。

'60s初頭、誰もが彼等を無視したのだ。

彼等がパーロフォン・レーベルからデビュー
する迄ことごとくオーディションで落とされていた
ことを忘れるなと。

今、ビートルズを語る多くの人間は
時代がズレていれば無視する側にいたであろう。
40年以上も前であり、あたかもそこから現在の
ミュージック・シーンが生まれたなどと
考えがちだが、当時から巨大な市場がキチンと
存在していた。

そしてそこでは綿密な販売計画で
「明日のヒット」をつくるためビジネスマン達が
躍起になっていたのだ。

既にロンドンではモッズが台頭し、
今風のクラブのノリでクールにモダン・ジャズを
聴いていた。
そんななかでのゴリ・ゴリ・ロックンロールを
かき鳴らすビートルズは相当な際物だったのである。

マネージャーのエプスタイン氏はリヴァプールの
人気レコード店の経営者であった。
かなりのハイ・センスな人でキャバーンで
ビートルズを観た瞬間に「売れる」と確信した。

だが、である。売り込んだ先でことごとく
冷たい仕打ちを受けた。
「今さらギターのR&Rですかぁ」みたいな。

その後、当時ビートルズを落とした担当者達は
一生後悔することになったが、当時はそれが
普通のリアクションだったのである。
現在のビートルズ賛美が当たり前なように。

エプスタインが最後にヤケクソになってEMIに
「ビートルズと契約しないとお宅から
レコード買いませんよ!」と脅して
なんとかその傘下のパーロフォンに
突っ込めたのである。

そこでのプロデューサー、マーティン氏だって
コメディー・レコード担当ののいわば「変わり種」。
売れ筋本命ではなかった訳だ。
で、デビュー・アルバムはマーティンによる
コンセプト・アルバムなのである。
無名のジョン、ポールに采配を握る権限は無かった。

だが、マーティンのセンスとビートルズのセンス
とが化学反応を起こし爆弾が出来上がる。

演奏や歌は言ってみれば「いつも通り」
だが、それをギンギンに臨場感溢れる音のまま
レコード盤に乗っけたことが画期的だった。

売れ筋ではないから何でもできたのだ。
で、市場に出て大爆発。
生のキッズ達はビジネスマンがこねくりまわした
音よりもジョン、ポールの生の叫びに反応したのだ。
あの勢いに浸透したのだ。

そこから世界を切り崩す革命が始まることになる。
彼等の共通の目標「売れてやる」という
意気込みがひしひしと伝わってくる。

デビュー・アルバムの超ド級大ヒット。
ジョン「ほら見ろよ。」

「じゃ、セカンドはオレ達にも意見言わせろ」
と言うことで、彼等のアイデアが大胆に
取り上げれらている。

まずはジャケット。
当時、既にカラーが当たり前。というか、それ以外
はあり得なかった。
「見劣りするから」等など
オヤジの考えが取り仕切っていた時代だったのだ。

「センス第一」というのは新しかった。
このハーフ・シャドウのジャケット写真を提案したのは
「ジョンが愛した男」スチュアート・サトクリフ
の恋人アストリッド・キルヒャーであったりする。

ビートルズのセンスを前面に出すことが許されたため
カヴァー曲のチョイスもかなりマニアックな
ライン・アップになった。
まるでファンを挑発するかのように。

前作が自分達のベストではないことを証明しようと
意気込んでいる。この当時なんといってもジョンがすごい。
念願の成功を手中におさめ、自信を持って渾身のヴォーカル
を響かせている。
だがまだまだ、ビートル・マニアも局地的な盛り上がりだった
頃を忍ばずにはいられない。
しかし、彼等はこんなレベルでは満足するはずが無かった。

「アイ・ヲント・ホールド・ユア・ハンド」
でビートルズという爆弾はアメリカでも炸裂した。
'64年1月、ビートルズはまさに世界規模となる。

最近発売されたDVD、エド・サリヴァン・ショウを
観ればその熱狂が伝わるだろう。
ロック’ン’ロールの発祥の地、アメリカ。

だが当時既に音楽業界がナマヌル~イ状況を呈していた。
ロックを生み出した英雄達は死に
(バディ・ホリー、エディ・コクラン・・・)

ロックがポップスに取り込まれてしまっていた。
そんな中にビートルズが殴り込みをかけたのだった。
ジョージ・ルーカス曰く「'64年以降世界は変わった」

基本的に「古き良き時代」とは
ビートルズ渡米前ってことになる。

そして、3thアルバム「ア・ハード・デイズ・ナイト」
同名映画も公開されている。勿論彼等の初主演映画。
監督はリチャード・レスター。
ビートルズを取り巻く気違いじみた熱狂を
非常にシュールに撮っている。

そのバランスがかっこいい。
この監督のその後の作品「ナック」も合わせて観るべき。
正統派なんかじゃない。
ビートルズによってアンダーグラウンドな文化が
メインにとって変わった。
まさにパラダイム・シフト。

とにもかくにもジョンがノッテいるのだ。
ミュージシャンとしてのジョン・レノンの絶頂期。
ポールもビビる程に。
アルバム内でジョンが10曲、ポール3曲。
このバランスは異例である。そしてリンゴの曲は0。

のっけ、タイトル・チューン「ジャーン」からして革命的。
スケジュールも多忙だったはずなのにどこで練ったんだろう
と思ってしまうほどにセンスの嵐。

ビートルズはセンスの塊である。
今でこそジョンは「聖人」となってしまったし
ポールは伯爵だし、ビートルズも素晴らしく
キレイな存在になっているが'64年当時の彼等は
古いセンスを蹴散らすチンピラ集団だったのだ。

だが今は。
ビートルズは教科書に載ってしまう存在。
これがどうにももどかしいのである。

今の音楽業界、だけに留まらずあらゆるものが
停滞してナマヌルい。

ビートルズから学ぶべきは新しいセンスで
過去をぶっ壊すこと。
大事、大事に拝んでるようなものでもないし
また傍からの印象だけで素通りしてはいけない。


ビートルズとジョンが世界へ飛び出した頃
を思い描いてみた。

やはり、ニュー・センスを!

これ以外ない。
現在の体制を壊したい。
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バーニーズ・ニューヨーク

2005-11-18 | 人物
PROLOGUE

行ったことありますか?

そこは最高の服に出会える場所。

服キチガイの店員と語らえる場所。

ずっと私の一番だった。


バーニーズ・ニューヨーク


音楽と、服。
この二つはセンスを養う上で
必要不可欠だった。

偏り気味の私は一度決めると
とことんのめりこむ。
初期の中学時代はリーバイス。
もう、デニム類は当たり前。
靴下、トランクス。これも当たり前。
靴までリーバイス。
財布もリーバイス。
家に帰って読むのはリーバイスのカタログ。

高校時代。次ぎにきたのが
ハリウッド・ランチ・マーケット。
脳天気なリーバイス・デザインから
鋭い代官山センスへ。

実際に私が通っていたのは
ブルー・ブルー・ヨコハマという
港をコンセプトとした店であった。
実際、波止場に面したところにあり
明治時代の倉庫を改築した建物
にはなんとも、趣があった。

リーバイスづくしの私には
新たな刺激が満載だった。

高校2年に初めて入って
購入したのはデニムの雪駄と
デニムのスウェット・ハーフ・パンツ。
「これで2万弱かよ!」
それ以前との価格設定の差に驚いた。
が、そこにある違いは明確であった。

もう毎週通った。
あの港町の空気に溶け込みたかった。
ノルウェイ旅行したときはその港町から
ブルー・ブルー宛に手紙を出したりした。
実家の山下公園の店から歩いて5分程度
だったし、いつも私がたむろしていた
エリアだったし、通い易かった。

大学に入ると更に頻繁に通った。
毎日通った。その頃にはすでに
頭から靴までブルー・ブルーだった。


港町の雰囲気の行き着いたところ。
それはコンセプトの限界であった。
作り上げられた架空の世界には
やはり限界があったのだ。

コンセプトという夢から覚めると
ブルー・ブルーで買った
服や、モノから魅力が禿げ始めた。

ぼろっ ぼろっ

そして。

1998年。
私は当時の自分で考えつく最高峰
バーニーズ・ニューヨークへ
足を踏み入れる。
リアルを求めて。

そこはなんとも威圧的であった。
実は高校時代にも入ったことがあった。
だが、制服でウロ・チョロしていた
私は黙殺された。

全身「港町男」だった私は
ぎこちなく店内を歩き回った。
探していたのは、ジーンズ。
やはり、まず買うのはこれしかない。

だが!売ってない!

あるのはキレイなジャケットや、ニットや・・・
私の許容量を遥かに越えるアイテムであった。
ハイパー・紳士服といったところか。

私はボスらしき店員さんに聞いた。

「ジーンズありますか?」

するとその人の目は光り

「いいのあるよ!」


胸が高鳴った。
この店の雰囲気、あの凄いひとが
「いい」というのはどんなんだ!?
この時点で私は
「リアルな服はここにある」
と確信した。

出されたのはヘルムート・ラング・ジーンズ
であった。

イヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオール。
ハイ・ブランドは当時いっせいにジーンズへ
情熱を傾け始めていた。

バーニーズでも、ラング・ジーンズが皮切り
となってその後のカジュアル路線の展開が大きく
変わっていく。

試着室も今迄入ったどれよりも凄かった。
とにもかくにも威圧的、いい意味で。
そのジーンズに足を通した瞬間、

「これ欲し~!」

と心の底から物欲が溢れ出した。
まさに、欲しいもの。ドンピシャだった。
次の瞬間、フと恐くなる。

「いくらだ、これ?」

そういえばフロアをチョロ・チョロ見た
時点で、パンツはどれも3万はしていた。
それ以上の方が多かったし。
おそるおそる値札を見る。

「2万してない!」

嬉しくて顔がこわばった。
財布の中身はちょうど2万くらい。
その場で購入決定。

その人はビッグ・セレブ氏。
いまだに私はその人を尊敬している。
同じ美容院に通い、飲みに連れていってもらい・・・
教えを乞うた。

セレブリティズム。

19歳の私はその華やかな扉を開けた。
日常から離れ浮遊できる人たち。
その業界を支えるセンス・ギンギンの人達。
とりまくキレイな女性達。
隅っこからその世界を覗きたかったのだ。

ビッグ・セレブ氏はパーティー好きで
よく開いていた。幸運にも度々誘ってもらい
何度かまぜてもらった。大人の遊び方を
かいま見た。

バーニーズ・ヨコハマの6Fのフロアは
徐々にアグレシッブな動きを見せる様になる。
スーパー・紳士服からストリート・ファッションへ。

ラベンハムのジャケットを買ったのは'98年の
冬であった。あれがもしかすると一番嬉しかった
買い物かもしれない。思わず駆け足で店を目指した
のを今でも覚えている。そこでビッグ・セレブ氏の
弟子であるリトル・ベアー氏に出会う。それ以降の
実際のアドバイスはベアー氏からもらった。
ファッションの師である。

ベアー師とは私的にも仲良くして頂いた。
オシャレな家で奥さんの手料理をご馳走になり
パジャマ姿でゴロゴロしたりさせてもらったり。
私の家では、マイ・ルームで書いたが
錯乱状態を見破られたりした。

ベアー師は鋭い感性の持ち主で私にはどの色がいいか
良く知っていた。私が侠気を意識しハードなモノへ
手を出そうとすると決まってとめられた。

「君はこっち」と。

マルジェラをよく薦めてもらった。
また、これにあうのはどこどこのあれと
外部の情報もくれた。

そしてやがてポップの波が押し寄せる。

リーバイス・レッド
フェイク・ロンドン
マハリシ
グリフィン
スローガン
アタッチメント
ディーゼル

まさに熱狂した。
'60sでいえば、フラワー・ムーヴメント
のようだった。ビートルズの
リボルバーからサーンジェント。
あの勢いを思い出してもらえばいい。
とにかく新しさに満ちていたのだ。

それら新作は半年前の内覧会で
すでに紹介をうけ、めぼしいものは
予約を入れた。夏の服を冬選ぶ。
当時の私にとってはしごくかっこよく
思えた。

その内覧会というのも
ビッグ・セレブ氏の演出により
普段のフロアはパーティー会場と
化す。照明は落とされ、音楽は
上げれられ。その中シャンパンを
飲みながら服を選ぶ。

ワン・ワールド。
あの時はそう信じていた。
センスは国境を越える。
いいモノは世界共通であると。
自分の延長線上に世界は開けていた。
マイ・ルームでいえば2から3
までの時代である。

バーニーズ・ヨコハマ6F。
ここの激変はまさに革命的であった。
ビッグ・セレブ氏はフロア・チーフ
から役職が上がり、横浜店全体を見る
ポジションとなる。

次世代を築いたヨシノリ氏は
クールでマッドなナイス・ガイであった。
服に全てを捧げるあの人の姿勢は
さながらロックしていた。

狂乱の波が治まりを見せ始めると
次ぎには無骨なブランド達が台頭してくる。

カルペ・ディウム

まさに鬼。
全てをそぎ落としたかのような革の塊。
色は深く落ちた色。
「ルーシー・イン・ザ・・」を歌った
ジョンが次のアルバムでは「ヤー・ブルース」。
そんな感じだった。

金額的にもちょこちょこつまみ買いできる
ものではない。そのシーズンは一着かって
ジ・エンドみたいな存在。

ライダース・ジャケット。
私はそれをフロアー内のトップと見定めた。

「あれを手に入れてやる」

様々の紆余曲折をへて
でも確実に購入した。

当時すでに着るためというよりは
手に入れるためだけに金を使っていた
ように思う。それだけのハイ・センス
に袖を通し、動く。鋭敏なセンスに
身を任せるとでも言おうか。

それを着た自分がどう見えるかなど
どうでもいい話だった。
買わずにはいられない。友人達から
は病人と言われた。

セレブリティズムへの旅はこの
ライダースを買った時点で終わりを告げた。
何がそうさせたのか当時は気付かなかったが
あの熱気は2度と戻ってはこなかった。

その後も勢いあまって服は買い続けたが
マイ・ルーム4、5を読んだ方はご存じの様に
その後の私は本当に病気にかかっていた。
その間の買い物は服にすがっていただけである。
そしてサラリーマン時代は
日々のうっぷんを服ではらしていただけ。

「本当の自分はこんなじゃない」

怠惰な現実から逃避するために服を
買い続けたのだ。

あのライダースまでがセンスを磨く
健全な旅だったと今は知っている。
高揚感や感動は純粋だった。

言い訳ではあるが、ダメだった当時の
私は服買いに変わる楽しみを探す気力
が無かったとも言える。
現に、脱サラした後は急速にバーニーズ
から足が遠ざかる。行ってもそれは買い物
ではなくベアー師との語らいのためであった。

山下埠頭でのクレイジー・ライフ
マイ・ルーム6当時、服などはどうでも
よかった。訳ではないが、ギャグで服を
楽しむのに夢中だった。全身メイド・イン
・ユー.エス.エーはその頃から始まる。

そしていよいよ。
マイ・ルーム7。

それまでずっと、服の置き場と着替える
スペースというのは重要な場所であった。
まさに、キモだったのである。
だが、7に入った私は全て消し去る
勇気があった。ライダースを含め
若干は未だに聖域を維持しているが。

先輩にお願いし、フリー・マーケットへ
出店。そこで今迄のこころを売り払った。

10万、手に入れた。

その金で伊勢神宮へ。

身もこころも浄めたとでも言おうか。
なんだか妙に軽くなった。

そして一部の思い出以外は何も
無くなり、空虚な部屋で
思うがままのブログ更新の毎日となる。

そろそろ結論に入るぞ。

バーニーズで私が求めたリアル。
あれは幻だったのか。

大きな声で言おう。

「全てリアルだ」と。

人が生きていればその回りで起きる
ことは現実に決まっている。

現時点での自分を無視し、リアルを
求めてさまよう姿がかっこいいはずない。
25歳を過ぎても自分探し、ふざけんじゃねえ。

そんなことができるのは裕福だから。
親が、もしくは国が。
ゆとりに埋没し何が現実なのかも分からない。
どこが実際の腹のラインかも分からぬぜい肉と同じ。
鋭いセンスを求めフ~ラ・フラ。

私は言おう。
リアルは自分で作るものだと。
ある程度の年齢を過ぎれば全て自己責任。
存在が薄いこと程悲しいことはないのだ。

自分とかけ離れた場所で浮遊する
セレブリティ達は悲しい。
ネットを彷徨うクラフト・マン達
も悲しい。

目の前のリアルはメディアの虚像である。
銭湯いって大きな鏡で見てみな。
自分を。その他群衆の中にいる姿を。

センス。
世界共通の最も尖ったものを求めていた。
だが、実際はセンスだけじゃないんだ。
その流れの中で人が生きて初めて意味がある。
存在する意味がある。

センスを選ぶ自分がいて成り立つ。
その自分なしで無謀に憧れへ突っ走るのは
若気の至り。その時代には必要だけどな。

最近の流れは自分を無視し過ぎる。
ニュー・リッチなセレブ層はここ5年
で確実に増えている。だが薄いのだ。

前のバブル期の名残を感じさせてくれた
ビッグ・セレブ氏にはもっと存在感
があった。また、彼の顧客の富裕層
はやはり重い存在だった。
雰囲気が染み付いているとでも言おうか。
只、只、憧れていた。

お金の流れが今迄とは違ってきたのか。
組織的な運用で回していたのが今では
個人レベルで巨額の資金を運用できる。
白人は20世紀初頭からそうしてきたが
彼等はやはり石。明確なアイデンティティ
を持っている。バーニーズはそんな
彼等のご用達先として誕生した。

その点日本は現在急速なアメーバ化の
真ッタダ中。でも表層はセレブリティ面。
その薄さの拡大が許せないのだ。

目標がそこになってしまっている。
金もうけりゃ全て手に入るのか?
センスは金で買えるのか?
絶対そうじゃない。

ロシアでは日本より一足お先に
ニュー・リッチの台頭があった。
で、その姿をみて私は怒った。
そこに文化は無く利権をむさぼる
リアルじゃない奴らがウヨついていた。

おいおい。あのディープ・アンド・クレイジー
なロシア人はどこいっちまったんだよ・・・

それと同じようなことが日本でも起きている。
今の潮流をニュー・センスと勘違いして
正当化もしくは新時代の幕開けと期待してる
ゴミ達。そう信じ込まされてる凡人。
今の社会がいかさまなこと
くらいオレでも分かるわ!

私の心底憧れたのハイパー・紳士服時代の
バーニーズ。旧来のセレブリティは大人だった。

センス万能主義のポップ爆発時代。
熱狂とともにかつての秩序は崩壊、新時代の予感。
バーニーズはカラフルだった。

熱狂後に訪れた静寂。ホンモノ。
もうこれ以外いらない、くらいの強烈なアイテム。
バーニーズはハード・ボイルドだった。

あとはころがしの時代。
客はニュー・リッチが増えたので自然と賑わう。
新鮮身にかけたとしても構いはしない。
だって売れるもん。

仕舞いには伊勢丹メンズまでその路線。
気がつきゃ百貨店みんなそろってクール・ビズ。
アホか。

今の日本はそんな明るいのか?
そんだったら以前の売れない紳士服の方が
まだ面白かった。駄目ならつぶれろ。
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ゴールデン・スリー

2005-08-08 | 人物
PROLOGUE

私の高校生活の舞台は、東京の蒲田だった。
汗と、油と、排気ガスが入り混じった
私の人生で特異な3年間、熱血男子校での生活。

皆、目がギラギラしていたように思う。

そんな中で得たかけがえのない友人達を
今日は紹介したい。

ゴールデン・スリー

ここでのスリーとは3人いるからである。

ではまずはこの人からいこう。

その名も

ゴールド

残念なことに彼とは高校卒業以来音信不通である。
だが、私は彼を一生忘れない。
彼ほどまでに強力な「素」を持つ人を他に知らない。

私の高校はブラス・バンドが非常に強い学校だった。
彼はそこでパーカッションを担当していた。
授業中もゴム・パットの上で練習していた。
いつもコトコト音がしていたがそれが普通になっていた。

彼の溢れるエネルギーの大半はブラス・バンドで
消費されていたが、それでも有り余る時は飛び跳ねていた。
金網があればよじ上っていた。女子がいない訳で
それらは何のアピールでもない。純粋に「動きたい」
というだけなのである。私にはそれをする気力も筋肉
もなかったため遠くで笑ってみていたが
正直うらやましかった。

彼は下ネタが大好きで、発言の大半に織りまぜられて
いたがそれは清々しく聞いていられた。
やはり、強烈な「素」の魅力は強い。私の「センス論」
もそういった人種には届かないであろう。

彼の歌声
「♪ゲッカ~ スイモク・・・」はいつまでも
私の記憶に留まることだろう。

さあ、つづいて

ゴールデン・チャイルド

おそらく、色々な友人の中で
私が語り合った時間が圧倒的に多いのが彼である。
よく私の家で夜通し討論しあった。「無限の会話」と
当時読んでいたが、まさにそんな感じだった。

ある授業の最中、ペチ、ペチ、と無気味な音が
聞こえてきた。フッと見るとゴールデン・チャイルドが
体育教師、アンダー・ザ・マウンテンのビンタを
喰らっていた。私は恐怖で助けに行けなかった。
後に聞いたところダメージは無かったようだが
突然の暴力を見た瞬間というのは何故か自分迄
恐怖を感じてしまう。

ヴィンテイジ・ジーンズを求め、二人で遠く迄
出かけたこともあった。「バッファロウ」という
名のジーンズ屋でキャントンの504-0009を買った。
履き込みを互いに競い、彼の皮パッチが
クッシャッとかっこ良く縮れたのが羨ましかった。

大学に入ってもよく遊んでいた。
クラークス談義で盛り上がった。
確か彼はレッドランド?という靴で
私はワラビーとデザート・ブーツを
履いていた。手入れの仕方をお互い
研究し報告しあっていた。

彼からエディフィスを教えてもらい
銀座までシャツを買いに行ったこともあった。
初めての敷居の高さにおののいた。
ゴム製のカフスや、シャツの柄。
大人の世界だった。

その後、良く議論するようになる。
私が「村街・論」を考えはじめた頃だ。
彼は建築学科へ進学していた。
'50sのモダン全盛期の知識は新鮮だった。
文系の私が徐々に実態から離れていくのに対し
理系の彼は実態の捉え方を学んでいた。

お互いの一致点は
「かっこ良くなければ意味がない」
この「かっこ」を「ヒップ」に
置き換えればまんまリー・モーガン
のフレーズである。

私は彼の行動の過激さに憧れている。
「静」の私が内面を過激にしていったが
「動」の彼は過激に色々活動していた。
なんでもとことんまでやる男。
只、ビッグ・スルーと違って表面は
非常にソフト。そこが私との共通点。
空手、バイトなんでもそうだがどの話も
凄い。ここでは具体的には触れないが
私はいつも驚かされていた。

以前触れた「スパイス・パーティー」
は彼の協力で開催できた。実際に使って
くれ、色々と提案もくれた。私の個人的な
挫折で、あの企画もポシャり悪いことを
してしまったと反省している。

現在彼は建築事務所で働いている。
彼による設計で「刈谷ハイウェイ・オアシス」
の足湯の屋根が完成した。

ゴールデン・チャイルドの紹介で
安田先生と知り合った。そして先生からの
影響でブログを開設したと言う流れ。

さぁ、最後になりました。

ゴールデン・フィールド

私は彼の描く絵が非常に好きだ。
彼からの丑年の年賀状で
「モーチャンズ」というのがあったが
非常にかっこ良かった。
吉田戦車が崩れた感じとでも言おうか。
彼の家に行くと、本棚には
「オボッチャマ君」が並んでいた。

彼の弟への態度はまさにリアル日本男児
だった。ラオウとケンシロウ。
ゴールデン・フィールドが弟に色々命令
して、部屋をでようとした時
ふと振り返ると
中指を立てた弟が立っていたそうである。

とにかく、私が思う「男」を地でいく
ゴールデン・フィールド。
デビュー・シングル内の「かっとび
ヘンリー」は彼との共著である。
絵から私の彼への信頼が伝わるだろう。

私達はパンの注文票でよく遊んだ。
昼食べるパンを注文票に書いて提出する
と、それをパートのおばさん達が
茶色の袋に書き写してパンを入れて
届けてくれる。普通それは自分の
名前である。

私達はそこに色々なモノを書いた。
おばさんの絵心を楽しんだ。
初期は棒人間。
後期になると複雑になり
ケンシロウの顔などを書かせていた。

おばさん達の抵抗にあい終了させられた。
そんな中でもゴールデン・フィールドは
ずば抜けたセンスを光らせた。
彼が書かせた言葉、絵に私は爆笑した。
授業中に思い出してまた爆笑するほどの
威力を持っといた。

大学時代にもチョコ、チョコと会っていた。
携帯電話のセールスで驚異的な成果を
上げたり、そこで儲けた金でタイで
豪遊したり。男らしい生活を送っていた。

そんな彼は現在、証券会社の人事部で
働いている。かなり忙しいらしく
ここ1年半ほど会っていない。
先日一緒にバンドをやらないかと
誘ったところ断られた。

青い10代の頃の記憶を彩る
彼等は私にとって貴重な存在である。
もし、もう会うことができなかったとしても
思い出は鮮明にいつまでも残ることだろう。

そして私は思う。
'90s中盤の日本。
あの頃の空気。夕暮れが迫るような
焦燥感。
今は決して夜明けではない。
勘違いして楽しもうとしてる人達
違いますよ。今はまだ真夜中ですよ。
あなた達が見てるのは電灯、もしくわ
テブコ・光。
本当の日の光はまだですよ。

かつての本当の昼間を知らない
今の10代はまだ寝てなさい。
コメント (4)
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