現在、それは死刑である。
で、あるがはたしてそれは究極の刑といえるのだろうか。
時に、死は美徳も含むもの。
まして、自殺志望者が極刑を望むような場合も多々ある。
一方で冤罪であった場合、極刑が処された後にはどうにもならない。
その場合においてのみ、究極である。消してしまう訳だから。
順位で一番重いのが極刑。であるので、被害者またはその家族が
加害者に対しそれを望むのは当然であろう。被害者が亡くなっている
場合では尚更のこと、弔いのために最も重い刑を求めることに
無理はないのである。それが一番上なのだから。
こういった議論ではよく、死刑の是か否かで討論が行われる。
しかし私は思うのである。究極の刑は死ではないと。
また、思うのである。何故、そんな囚人を税金で面倒みるのかと。
今宵の議論は究極の刑とは何か、である。
極刑
誰もが恐れる刑でなくてはならない。
まず、大前提として殺しはしない。
宗教心のない我が国民にとっては死は誉れでもあるからだ。
逃げでもあるし、主張にもなるだろう。
生きてもらう。頑張ってもらう。
塀の中でまずは自給自足。プラス、看守を養ってもらう。
看守一人の人間がいち公務員として
暮らしていける糧を捻出してもらう。農作業しかり
人力発電でエネルギーを供給。看守は担当の囚人が
なまければ自分も飢えてしまう状況故、必死になるだろう。
ここまできて、さらなるアイデア浮上。
自分だけ償うのではないという、悲惨。
極刑の場合、家族も同伴で刑に処される。
まさに生き地獄。
問答無用で家族も塀の中。
親だって、伴侶だって、子供だって例外なし。
しかも、冤罪でないかぎりほんとの終身刑。
恩赦などない。
塀のなかでまざまざと見せつけられる
親の死。伴侶の老化、子の不幸。
看守を養うための重労働。
自分たちが働かなければ暖もとれないという現実。
伴侶がいない人間は塀の中で生涯のパートナーと
出会うこともあるだろう。
おがたい終身刑だから。で子供が産まれる。
どんな状況であっても子が産まれることは祝福されること。
その子供は生涯塀のなかであるが、そのまた子供はしゃばへ
出る権利を与えてもいいのではないか。
罪人の孫は出られる。
時効などは廃止してほしい。
警察や検事といった方々はとことん操作して欲しい。
冤罪が証明された時点で罪人の一家を救える訳だから。
その場合は、冤罪の被害を被った人間に手厚い保証を
してほしい。国が保証してあげて欲しい。
死でしか刑を処せない、というのは精神を煩った
凶悪犯罪者だけになるかもしれない。
だれもが恐怖に震える極刑でなくてはならない。
それは死ではないはずだ。