村街・論

2005-06-28 | 思想
PROLOGUE

本稿は前に書いた「人種分け」の
延長であり、それをより現実的に表した
ものである。

思えば松本隆の「風街論」や
大滝詠一の「分母分子論」。
'70s、日本の人間は本気で考えていた。
それは当時すでにゴミ化が進んだ
クソ・エリート大学なんかでは扱えない
まさに「生」で「新しい」理論だった。

分かるか?
30年前の段階でヒップ・スターは
アンダー・グラウンドへ向かったということを。
国家や企業ではない。彼等はそこに無常を
感じ、日本人とは何か。この無常感はどこから
くるのか。を考えていた。

よしりんのゴーマニズム宣言、特に「戦争論」。
現体制への攻撃を必死で行なっている。が。
私にゴーマンが許されるならいいたい。
「そんなこたどうでもいいんだよ・・・」
ゴミがなにをやらかそうが関係なんだよ。

新しいセンスが打ち上げられ、賛同を受け
大きな流れとなった時、過去なんか、いや
膿んでグチョグチョの歴史なんか忘れさられ
るんだから。

村街・論

世界を二つに分けると「村」と「街」になる。

前者は自然と直接結びつき恵みをとる。
共同体の規模は小さいが、密接な人間関係の
上に成り立つ社会。
ルーティンの美で日々単調な生活が営まれる。
ダウン・トゥ・ジ・アース。スロー・ライフ。
若者の多くを引き付ける魅惑のスローガンは
「村」に帰ろうという呼びかけでもある。

後者は村の富を吸い上げる。権力。
だが、一番大切なのはそこに文化が形成される
ということだ。その土地のオリジナルのセンス
が構築される。様式美とは本来土地の風土の上に
あるべきものである。
街の究極は「都」である。中枢。
センスのまさにもっとも尖った部分。

さて、私が突如この村、街について悩みはじめた
のは今から7年程前、村を欲するティーン・エイ
ジャーの思考がセンスとどう結びつくのかが分か
らなくなったからである。
「街」に適応するのが先端だった時代は
日本では'60s中盤で終わっている。七三くろぶち。
ダサイ象徴だが当時はモダン全盛期、髭面ボサ髪
等論外だったろう。

いちいち悩まずマリファナを吸って、楽しく暮らそう。
これは村的思考。実際村を仕切っているのは村長であり
生身の人間。現在の意味不明な憲法で縛られるよりは
よっぽど分かりやすい。街に絞られる訳だが。
圧倒的に貧しかったから生きることに
精いっぱいという時代もあったが、江戸時代などを
考えるとかなり活気のある村の姿を想像できる。
堅いことは抜きにして、といえる社会。

みうら・じゅんの掘り起こしたかつての村は
グルーヴに満ちあふれる共同体だった。
巨大なペニスを担ぐ祭りは実際盛り上がったのだろう。
レゲエの熱狂をみるとつくづく思う。
彼等は村を目指しているのだと。

私の中学時代、まさに「特攻の拓」の時代。
一生懸命汚い言葉を使った。街の標準語を
わざと崩し、ローカル色をだす。村嗜好。
それがかっこいいと思ったからだ。

これはビートルズがロンドンでも
リウ゛ァプールなまり全開で通したのもそうだし
とりあえず黒人に憧れる白人達の行動全般が村
を意識している。

考えた結果、これは街へのカウンターとして存在する
のだと気付いた。反撃の手段である。
ヒップ・スターたちは街を発展させる方へは進まず
村化に情熱を傾けた。破壊行動としての村化。
ウッド・ストックなどその典型。
おぼっちゃまが突然ヒッピーに。

街に住む富んだ人間の村好み。
こう考えられる。だが実際には18世紀のフランス革命
で国民国家が生まれた時から人間はすべて街の人間
にさせられた。

日本も明治時代、近代国家となるべく
憲法の下に全ての人間を街の人とした。
ヨーロッパ、アメリカの植民地にはなるまいと
富国・強兵をめざした。当時としては絶対の
センスである。それだけアジアは危機的状況
であったから宗教やこれまでの歴史など
すっとばして近代化を目指した。

日本という一つの街ができた。
実際の住んでいる場所の話をしているのではない。
「~村」は普通に今でもある。だがそれらは単なる名称
に過ぎない。もっといえば日本の中の
単なるへんぴな場所に過ぎない。自然から直接恵みを
とっていた時代と異なり、その景観を利用した
観光産業で食っている。不健康な存在に成り下がった。

ニュースで伝えられる惨殺事件。発生現場は静かな村。
所詮そんなもので思い描くようなのどかな村などもうない。
かつての村の名残を伝える優しい老人はいるが
若い人間が続いているようには見えない。

昭和40年代につげ・義晴が歩き回った段階で日本の
村の心は消滅しているのだろう。心穏やかな凡人の
コミュニティーは思春期の若者には退屈な場所であり
またメディアからの情報が「そこから出ろ」とせかす。
ルーティンの美、慎ましいし幸せを資本主義は許さない。
もっと買え!
もっとよくばれ!
私はこういった流れに鉄柱を食らわせたい。

さらに視野を拡げ手みると、世界が一つの
街になっている。資本主義の世界。
で、どうなるかというと街の中心はアメリカ。
かつての利権を固持するオイボレ・ヨーロッパ。
アジアでは日本。で、それ以外は辺境の地。
もしくは、中心地から流れ出る巨大資本によって
翻弄される弱者。

私は中国にいいたい。「リメンバー・アヘン」
以前のように堂々とむさぼられはしないけど
結局おいしいところは白人にもってかれるんだよ。
かつての三国志時代のスーパー・ヒップスター
たちが登場して今の流れをぶっ壊すのなら話は違う
けど、今のところどう見てもそんなハイ・センスな
人がいるようには見えないんですけど。

かつては世界には様々な街があった。そしてその中に
村があった。アジアには繁栄する「みやこ」があった。
だが19世紀になり欧米が作り出した街に世界は無理矢理
入れられた。アジアの都は滅ぼされ、富は搾取された。
アフリカはもっと前から奴隷だったし。

明治の日本人は自分の国が辺境の地にならないよう
死ぬ気でがんばった。結果、街の中心をアジアにも
おくことに成功した。

そして、今。私たちはぼーっとしている。
先行きは不安だけど、ま・いっか、みたいな。
恐らく、「資本主義の街」の崩壊をどこかで
感じているのだろう。そこに圧倒的センスを感じない。
無気力が支配する時代。

凡人が村を形成することも素晴らしいと思うが
ヒップスターが新たな街を作ることの方が重要である。
ニュー・センス。村を装うカウンター・カルチャー
ではなく、新しいものを生み出す。
レゲエ祭でタオルふって喜んでいる人たちは
そういう楽しい村を作って下さい。

だが、現時点で日本が村化だけを進めていくと
街の中心の座を失いかねない。富んだ人間の村好み
ならいいが、このままでは搾取される弱者になって
しまう。資本主義の世界においての弱者は恐ろしい。
あくまで、先へ進まなくてはいけないのだ。
で今の日本を動かしているゴミにはそれができないのだ。

できないだけなら、がんばって現状維持してろと思うが
血迷ったゴミどもは変革しようとしている。
変えよう!変えよう!といって10年程たつが
おかしくなるばかり。
私たち世代のやる気も消えていくばかり。

アンダー・グラウンドでがんばっていたヒップスター
たちも巨大資本によりその作品たちがビジネスとなり
その成功目指してゴミが集まりはじめる。
キラッと新しいものが少なすぎる。

街が崩れようとしている今、
必要なことは次を考えることでないか。
人種の住み分けを自分の内面でおこない
甘い誘惑を断ち切る、そしてその人種の個性を
爆発させる。

私はアホになりたい、実生活からズレた思想
を叫び続ける。とことんズレていきたい。
凡人は早く心の穏やかさを取り戻すべきだ。
クラフトマンは今でも楽しそうだから
特にここでいうことなし。
ゴミは黙っとけ。

そしてどこにもはまらない鋭い人がヒップスター。
色々過激にやって欲しい。でも魂は忘れずに。
先祖の魂からは逃げられないからね。
鋭いセンスを貫くことは善である。今の社会では
悪とされることでも。
今のモラルなんて捨ててみようよ。

静かな革命を!

おわり



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怪物くん

2005-06-20 | ギャグ
か~い・かい・かい

ゆかい・つ~かい

か~いぶつ・くんは

か~いぶつ・ランドの

スタッフ・だい!
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マイケル・ジャクソン

2005-06-15 | 人物
PROLOGUE

今日、石川町のタワーレ・コードでふらふらする。
まず入り口のエイメリのスタイル・キャンペーン
ポスター。あのヒット・チューンのイントロが
頭で鳴り響く。

30分経過し、結果購入したのはダディー・ヤンキー
の「バリオ・フィノ」(読み方不明)。
これからの季節レゲトンもいいだろう。
そして くるり のDVD「くるり鮨」。ついでに
シンガー・ソンガーの「初夏凛々」DVD付き。
無気味な岸田さんを映像で堪能してみようと思う。

ビーチ・ボーイズのコーナーでオリジナル・アルバム
をかなり推しているのが気にかかる。初期作品はよし
として最初に「サーフ’ズ・アップ」なんか買ったら
大変だ。「スマイリー・スマイル」はもっときつい。
ふと想像が頭に漂う。「海だ!」という気分の人に
精神異常をきたしたブライアンのあの叫び声を聞かせ
るのはどうだろうか。いきなりカー・ステレオで
「英雄と悪漢」を聞いたら死にたくなるのではないか。

そして私の愛読雑誌、レコード・コレクターをチェック。
特集はブルース・スプリングスティーン。ボブ・デュラン
よりもヒロイックという文がズバリで心地いい。

そして用を済ました私はJR石川町駅へ。
電車が来る、と急ぎ足に歩きながらキオスクの
夕刊をちらっと見た時、そこに光り輝く文字があった。
「マイケル 無罪」
一瞬全ての雑音が消えた思いがした。
本当によかった。それだけである。

本来、このプロローグ内容は私の意に反している。
まだ消化していないコンテンツの羅列。単なる私の
目の流れを書き出しただけ。だが、マイケル無罪を
知る前に私がなにをしていたのかを書きたかったの
である。それだけである。

マイケル・ジャクソン

マイケルを取り上げるに当たって、私はもう一人
一緒に論じたい人物が入る。マイケル同様'90s初頭に
燃え尽きてまっさらになっている天才。
鳥山・明。この二人を同時に扱ってみよう。

1958年マイケル誕生。そして'69年、兄とともに
ジャクソン5としてモータウン・レーベルから
デビュー。モータウン史、最後の栄光を飾る。
グループとしても十分魅力的だったがなんいっても
マイケルのリード・シンガーとしての存在が圧倒的
であった。キラー・チューンのオンパレード「ABC」
「アイ・ヲンチュー・バック」'01年に売り出された
「ソール・ソース、ジャクソン5・リミキシーズ」
を聞いてはっきりと分かったがマイケルはポップ
シンガーである。万人を引き付ける圧倒的な魅力。

ソウル・ミュージックの定義自体、R&Bのポップ版
ということになる。白人による音楽業界での稼ぎ方
を黒人自ら行なったのが、モータウンの社長ベリー
ゴーディー。そもそも、ブルース、ロック’ン’
ロールといった売れ筋音楽のルーツは黒人のもので
ある。「じゃオレたちも稼ごうよ」これは単純な結論。

時代が後押しした。ニュー・オリーンズからAFO
(オール・フォー・ワン)の残党も加わり強力な
ソングライティング・チームを結成し、これまた
最強のアーティストへ提供。'60年代中盤には
「ヒット曲の方程式」が完成していた。
ブラック・ミュージックの最盛期を迎える。
世の中は白人が支配している。白人の好みは
そのまま普遍的なポップスという価値を持つ。
現に世界に届けられるのは白人が造った商品。
そのアイテムとして黒人もいたが、黒人が売り手に
回ることは画期的であった。その点においてポップスと
ソウルは大きな隔たりを持っている。

だが、である。そんな中、マイケルは人種、性別
年代の枠を取っ払った点で、やはりソウルではなく
ポップ・シンガーであるといえる。
キング・オブ・ポップ。
その後のモータウンと決別や紆余曲折を経て'79年に
「今夜はドント・ストップ」でソロ活動を本格開始。
クインシー・ジョーンズとのスーパー・コンビの
誕生である。

'78年、日本の一大文化産業「マンガ」における
モータウン・レーベル「少年週刊ジャンプ」で
鳥山・明デビュー。起工デザイン科で学んだ鳥山は
既に完璧な画を描いていた。デビュー作品
「ワンダー・アイランド」では後の完成度からみれば
ナチュラルで行き当たりばったりの感もあるが、なにより
描く喜びに満ちている点で非常に魅力的である。

'80年から続く「ドクター・スランプ」では集英社からの
担当者、鳥嶋氏(マシリト)との絶妙のコラボレーション
はマイケルとクインシーのコンビに負けるとも劣らない。
時代を反映させ、ナンセンス・ギャグ・マンガである。
しかし、絵、キャラクター、架空都市ペンギン村の
強烈な魅力により奇跡的な傑作となる。テレビ・アニメ
は国民番組と迄いわれた。水曜7時、その後7:30からの
「うす星やつら」と比べるとやはり、鳥山の作品は
万人受けするまさにポップ・マンガといえる。

せんべいさんはエロい。巻きグソもしょっちゅう出てくる
にもかかわらず、みんなが微笑んでみれる不思議な作品。
また、この作品連載中の4年間はジャンプが少年誌の
トップとしての座を確実にした時代で他にも傑作が並ん
でいた。北斗の拳、キン肉マン。
スティーウ゛ィー・ワンダー、マーウ゛ィン・ゲイ
のいた頃のモータウンは絶頂のジャンプを思い描けば
よい。

マイケルのデビュー・アルバム「オフ・ザ・ヲール」
はスマッシュ・ヒット。だがこれは始まりに過ぎなか
った。'82年のモンスター・アルバム「スリラー」から
くり出される核弾頭級のシングルの数々。
「ビリー・ジーン」「ビート・イット」「スリラー」
今こうして打っているだけで胸が熱くなってしまう。

もう凄すぎるの一言。天才的シンガーであり
圧倒的ダンサーであり、ルックスのいいパフォーマー。
それに加えて独創的なソング・ライターの才能と
それらをひっくるめてプロデュースする力。
マイケルは全て持っていたのである。
あり得ない存在。だが、スリラーの爆発がマイケル
を孤高の存在にしてしまったことは事実である。

黒人社会からはすでに抜けていたが、家族とも
亀裂が入ってしまったためまさにひとりで戦う
ことになってしまった。

'81年に放送開始したMTVの最初の
PVはポール・マッカートニーとマイケルの共作
「セイ・セイ・セイ」であった。当時、黒人の
プロモーション・ビデオが流れることは非常に
珍しいことだった。その伝統を破壊したのが
マイケルの'80年代の作品達であった。勢い
は増していく一方である。

'84年、「ドクター・スランプ」を終了させた
鳥山はカンパツ入れず「ドラゴン・ボール」
を始める。今迄のほんわかムードは若干残しつつも
同時代のセンスをよりリアルに表現している。
初期のブルマの服装は非常にオシャレである。
また、私はここに細野晴臣が起こしたYMOの影響を
感じている。本人の自画像や、ウーロンの来ている
人民服。そして、「気」の力を前面にだしている
ところに「YM(イエロー・マジック)」をみる。

'80年代後半はニッポン!の時代。鳥山もあたり
に充満する自信をキャッチしていたのだろう。
かつてのペンギン村にあった'70sのなつかしさ
やローカルさは消え、時代、国の枠も取っ払わ
れている。テーマはとことん強さを目指すこと。

感情のヒダなど関係ない。実際、悟空の性格は
正義と強さを求めるという二つしか無いといえる。
まさにマイケル!アメリカン・ドリーム上に
のった有色人種たち。

前半は冒険活劇であったが、テレビ版「Z」
から内容は格闘メインに変化する。これが'89年。
諸説あるが、鳥山が「もう辞めよう」との意を
込めてアルファベット最終文字"Z"とつけたとい
われる程、本人は疲弊していたのだろう。
'86年から始まる「ドラゴン・クウェスト」の
仕事によりゆったりと仕事をする快感を味わう。
連載マンガの非人間的生活に嫌気が差すのも
当然である。

だが人気はさらに拍車がかかる。実際、アメリカ
での売れ行きを見ると「Z」以降の方が人気がある。
最強、普遍のポップ・マンガとなった。

マイケルの'87年の作品「バッド」。この映像は
私の知る限り最も凄い。「気」を感じる。
地下鉄構内を風を切って歩く姿。右てを高く
あげて「ハーッ」と叫ぶシーン。「気」だ。
ギロッとカメラを見る所などは後のスーパー
サイヤ人だ。見ているだけで「ドンッ!」とくる。
監督はマーティン・スコセッシ。いい。

実際、回りには敵もいなければ身内もいない。
あるのはただ、自分の可能性を追求することだけ。
悟空、鳥山だ!マイケルの顔が壊れはじめるのは
このアルバム以後。もうどうでもよくなったのだろう。

マイケルは'91年のアルバム「デンジャラス」で
行き着く所までいってしまった。行き過ぎて自分
でもどれくらい来たのか分からない、計れない程
のレベルになってしまった。これほど悲しいことが
あるだろうか。唯一の生きる目標すら無くしてしまった。

鳥山は'95年に「ドラゴン・ボール」を終了させている。
だが実際にはフリーザの話が終わる'91年には
キャラクターの戦闘能力は認識できるレベルを超えている。
私はマイケルと同時期に鳥山もいってしまったと考える。

マイケルのその後の作品'97年
「ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア」
恐い作品。マイケルのパフォーマンスで
つま先立ちをよくするがそのつま先と地面
が接していない感じ。アルバム中に
「ゴースト」という曲があるがそのまんまだ。
表紙も恐いし、マイケルの顔も恐い。
「スリラー」より恐い。
だが、それらが光り輝いてしかもフェード
がかっているのできれいにも思える。うすくして
あるのだ。あれでこかったら本当のホラーだ。
「ユー・アー・ノット・アローン」を観れば分かる。
何がしたいのか分からない。

鳥山の'97年作品「コワ!」これもよく分からない
作品だった。しかも彼の作品であるからより
不思議な存在となる。バックにある大きな存在
として"空虚"があるのだろう。これもやはりフェード
が効いているように感じる。

現在「ネコマジン」が連載されているが、不思議な
静けさを感じる。細野さんのティン・パン再結成時
の音のような、内に向かう無邪気さに繋がる。

プライベートがどうの、そんなことは
どうでもいい。彼等は私の知る限り最も近い所で
センスを爆発させた人たちだということは事実である。
白人中心社会にカウンターを食らわせたのだ。
超ど級の。

そして気付けば今、再び私たちは白人中心の世界
に引き戻されている。色々な活動はある。
マンガも世界的な商品となったし、黒人はヒップ
ホップを舞台にいいたいことを訴えている。
しかし、それは単なる商品となっている。
もう無害な金儲けの道具にすぎない。
何かが起きる予感はそこには無い。

沸き立つアジアの勢いも、自由な黒人社会
も幻想だったのだよとでもいうのか。
ブランド品身につけて「人類皆同じ」か?
鋭い刃がこんにゃくに入れ替えられたのも
気付かないのか?

アメリカン・ドリームが明確に示され
成功者がそれを手にする。
ヒップ・スターの後そこにはゴミが増える。
音楽界も、マンガの世界も夢の島となる日
は近いんじゃないか。そして本当の鋭い刃
は思春期前にこんにゃくにさせられる。
そう、今の成功自体白人がみせる夢でしか
ない。マイケル、鳥山につづく強いセンス
でそこをぶっ壊さなければ。ベッドから
起きなければ。

「マイケル 無罪」の文字をみて私は現在
の空虚感を改めて感じた。ちなみに本文
を書きはじめたのは14日である。


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マイ・アイテム 2

2005-06-11 | マイ・アイテム
PROLOGUE

前々回、私が最近仕入れた作品を紹介したところ
複数の方々から反応を頂いた。
非常に嬉しかった。ということで、今回は
私のフェイバリットを並べてみる。
何度も聞いた、読んだ、観たものばかり。
そしてまた聞きたい、読みたい、観たいものを
厳選してた。

いわば私の思考のルーツである。

マイ・アイテム 2 2

1、CD:アビー・ロード

CDP7 46446 2(米盤)、1969年製作、イギリス
いわずも知れたビートルズ最後のアルバム。
そして私が初めて買ったビートルズのオリジナル・アルバム。
これ以前はダイナミック!ダイクマで買ったお得用CDセット
で満足していた私。
中学一年の時、友人からアップル・レコードじゃなきゃダメ
だよと指摘され急いで購入。
それまでの編集版と違い、アルバムを貫くムードを感じる。
「ポリシーン・パム」から「シー・ケイム・イン・スルー・ザ
バスルーム・ウィンドウ」のつながる部分では毎回鳥肌の嵐。
「ジ・エンド」は絶対に飽きない。アンソロジー3に
収録のバージョンではイントロがよりかッこいい。
短い曲ではあるが、ポール→ジョージ→ジョンが4秒の
フレーズごとのギターバトルは圧巻。そしてビートルズ史上
唯一のリンゴ、ドラムソロ。しかも長い!このアルバム中での
リンゴのドラムはヤバ過ぎだ。特に「カム・トゥゲザー」の
ハイ・ハットなしのリズム・パターンは斬新。ある意味で
クリームのジンジャー・ベイカーのよりも使える音である。
アビー・ロードでのリンゴのスタイルがT-REXらグラム・ロック
へと受け継がれ、その後のニュー・ウェーブ、パンクにも通用
するのだから凄い。
'70sを通してもベスト・ドラマーはリンゴという説もある。
彼はヘタだったとは間違った伝説。
そして20秒未満の部分の音にに30人編成のオーケストラのさらに
オーバーダビングを使う。何とも贅沢。キレている。
ビートルズのアルバムはその日によってお気に入りが変わるが
通算して最も聞いているのがこれだろう。
ちなみに、ハッピー・エンドの鈴木・茂の無人島レコード
がこれだった。ジョージのエフェクター使いは凄いと力説
しておられた。

2、CD、泰安洋行

CRCP-28136、1976年製作、日本
細野・晴臣のソロ、サード・アルバム。
のっけの「蝶々さん」のリズムから凄い。歩きながら
聞いていると歩くテンポを崩される。林・立夫マジック。
山下・達郎のホーン・アレンジ、細野's亜熱帯ボイス。
大滝・詠一もコーラスに加わり濃厚な空気が漂う。
同時期の「ナイアガラ・ムーン」もいいが、アルバムでは
私はこちらを取る。また、ジャケット・イメージと
音のイメージが丁度重なる。あの淡いエメラルド・グリーン
のイメージが内容とマッチしているのだ。かなり際どい
リズムや楽器が演奏のグルーヴに溶けていく。
最高の心地よさ。「サヨナラ」は感動の一曲。気持ち悪いのに
とことんきれい。時代を無視し、あくまでトロピカルな旅を
続ける細野さんの後ろ姿を見ているような気にさせる。
つづく「リューチュー・ガンボ」はまさにグルーヴの塊。
イントロが最強な曲は数多いが、通してここまで凄いものは
少ない。エンディングもびっくり。
とにかくアルバムを通してノリが凄いのだ。クスリの効果
ではない。細野さん流、みぞおち狙いのキラー・チューン
とでもいおうか。ミュージシャン全員が無我の境地に
立ってしてしまっている感じ。イッてしまっている感じ。
日本・音楽シーンにおいて'76年は重要な年である。
その中でも突出した傑作であることは間違いあるまい。

3、書籍:めぞん一刻

小学館文庫 CO179 初版1997年、日本
高橋留実子作。オリジナルは80年にビッグコミック
スピリッツで連載スタート。途中の中だるみ感は
あるがそれを差し引いて余りある面白さ。バブル
以前の日本の空気が生々しく真空パックされているか
のよう。夏目漱石の「こころ」を彷佛とさせる
文学的な側面もあり、どたばた喜劇でテンポ良く
進んでいくようにみえて実は心にストーリーが
へばりついているのに後で気付くような作品。
終盤になるにつれ、よりリアルな感覚になっていくのが
面白くもあり恐くもあった。また、非常に四季を感じ
させられるのもよかった。

4、書籍:あしたのジョー

講談社漫画文庫 CO179 初版2000年、日本
連載開始は1968年。ちば・てつやの温かく
無骨な画が凶暴な梶原・一騎を原作を表現する。
このコラボレーションが素晴らしかった。
淡々としたリズムが非常に良かった。
中盤を超した辺りからはノン・ストップ。
おそらく皆そうなるのではないか。止まらないのである。
私も力石に憧れ一時絶食した。

5、書籍:特攻の拓

講談社 CO279 初版1991年、日本
中学一年時、初めて読んだ時にはドキドキした。
まさに憧れの対象。実際の学校にも武丸似の先輩がいたこと
もあり、私の家からすぐに鳥浜ロードがあることもあり
しごく日常的な感覚で捉えていた。横浜だし。
また、使われている言葉がかっこ良かった。
まだ横浜が生きていた時代を今に伝えてくれる。
この漫画が始まったのは'90s初頭であるが、注目すべきは
これが編集的魅力ではないこと。各々のキャラクターが
まるで神々のように描かれている。これは神話といえる。
魂の復活を予感させ、ニュー・センスが起こりかけたが
時代はそれを捨ててしまった。私自身も中学一年迄は
ボンタンだったが、中2ではストレート。中3ではやや
ルーズといった具合になっていた。日本の魂がなぜ消えた
のか未だに分からない。

以上がまさにコアの部分である。
今後も引き続き掲載していく予定である。
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人種分け

2005-06-11 | 思想
PROLOGUE

新しいムーブメント、それは内面から起こる。
私たちの内面を変えていき流れを生み出す。

'50年代スタートのビート文化。
ビートの嵐が吹き荒れたおかげで、既存を壊す
動きは非常に力強い。今の政治体制、文化は
すでに破壊されている。

それを加齢臭ただようポンコツ達がなんとか
カモフラージュしている。
無い未来を信じて。猿達ががんばっている。

只、そろそろ壊すだけではダメなんじゃないかと
私は同世代に言いたい。
壊すのに皆が目を輝かせていたのは'60年代後半
がピークであろう。日本でも。

長髪でミリタリー・ルックのグループ・サウンズ
がどれほど過激だったか。それは当時の激怒する
大人の存在なしにはあり得ない。戦中派。
殺人経験のある人間にニュー・センスで挑む。
だからかっこいい。

今の子供は攻撃できるような大人がいないことが
不幸である。いるのはヘタレ・ビジネス・マン。
あぶく銭を撫でて遊ぶ変態野郎ども。いや野郎とも
呼べない。ただのゴミだ。あとはそこに行けない
しがないピープル。

これまでセンスの発信源はアメリカだった。
それはアメリカの時代だったから。
しかし、現在はもう文化面で引っ張っていけて
ないのだからもう忘れよう。
そこにはノスタルジアしかない。

今私たちを覆っているのは壊し尽くした空虚感だ。
もう壊すものは無いのに未だに激しくやっている
人たちは基本的にオッサンと変わらない。

今私たちは非常にまっさらな所にいる。
フリー。でも無気力、みたいな。
残念ながら喜びの開放感ではない。

だから流れを生み出さなくてはいけない。

人種分け

福沢諭吉いわく
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

正しい。
人間を人種に区切り、その上下で差別等
していては優秀な人間を埋没させることになる。

ただ、上下の差別がいけないのであって
人間を特色によって分けるのは必要なことである。
新しい世の中にはこれが必要である。
そこで、勝手ではあるが人種を5段階で造ってみた。

1、ヒップ・スター

2、クラフト・マン

3、凡人

4、アホ

5、ゴミ

では、解説していこう。
まずはヒップ・スター。
彼等こそセンスの担手である。
破壊者であり創造者でもある。
人を率いることができる。

だが、弱点としてはかなりひらめきで
動いている感がありもろい。
タイミングが合わなければ不発で終わる
危険性大。現代、ほぼ全てと行っていい
ヒップ・スター達がその芽をつまれ
腐ってしまっている。

2番目。クラフト・マン、日本男児に比較的
多い人種。大きなセンス等は関係なく
自分の技術を高めることに全てを捧げる。
職人や秋葉原の住人達はここにくる。

時代の波にも飲まれにくく、強い。
只、最近もの造りの現場から情報を発信
しようという動きがあるが、これは意味
が無い。彼等は基本的に内を向いており
人間関係というよりは情報交換で集まっている
だけである。センスを生み出すことはできない。

インター・ネットの出現はヒップ・スターと
クラフト・マンが組んで生まれた奇跡だった。
生み出された後の加工やアレンジは彼等の
得意技である。

3番目の凡人。
彼等が社会を構成している。割合も一番多い。
多少、他人種によっている部分の人間もいるが
その追求度が甘ければ凡人。

最近の風潮としてここに収まっては行けないと
凡人はダサイとせかすようになっている。
が、そのアドバイスは危険である。それは
言葉を変えれば満足するな、と言っているのだ。
人を焦らせ、不安にし、そこにつけこんで商売
しようとしているだけである。

凡人の美学、ルーティンの美学を打ち出さなく
てはいけない。友人から聞いた話であるが
明治の日本に来たヨーロッパ人に
「何が一番美しかったですか」と聞いた所
「船を漕ぐ船頭さんです」との答えだった。

なにも考えず、無心で船を漕ぐ人。
無駄の無い筋肉と動きは自然と同化し
まさに感動的であったらしい。
慎ましい幸せ。それは普遍の価値がある。

4、アホ。ずれている人。
只、一歩違えばヒップスターになり得る存在。
ろくでなしや、ならず者といったところ。
だが、こういった人たちはかっこいい。

ライフ・スタイルに筋が通っている。
自分の楽しみ方を会得しており人生を
楽しんでいる。

そして、5のゴミ。
既存の体制で優位なところを目指す輩。
もしくは既に着いているゲスども。

ゴミ発生のプロセスを見てみよう。
幼少期、教育ママのサクセス・ライフ
プログラムをいい子にこなす。
それは何も考えていないからできること。
塾に通い脳みそをほぐされ効率の良い
思考を手に入れる。

洗脳されており楽観主義者となっている。
やがて思春期、性欲がもたげてくる。
「うっせー、ばばー」
とならずに無難に通過。影でキチンと
欲望は満たしている。サクセス・ライフ
プログラムを守ることが最重要だからだ。

あとはポン、ポンとゴミの出来上がり。
追求するものも特に無く、スイスイと
世渡り。金はいつでも身近にあるので
偽りのセンスで人々を誘惑。

以上が5つの人種の内容である。
ノーマルな考えで、世の中の流れは
まずヒップ・スターが造る。それは
革命とも言う。そしてその世界が徐々に
完成へと向かう中で、支配者層が確率。
やがてその中身にゴミが増えてくる。

ヒップ・スターの子でもゴミになる。
世襲を繰り返せばやがてゴミが増えるのは
当然。完全支配体制の元では次世代の
ヒップ・スターは迫害され
アホと同等の社会の底辺に
落とされる。そこでセンスが練り上げられ
再び革命となって爆発する。

この例は主にヨーロッパの社会の話であるが
近代国家となった今の日本にも通用するはずだ。
これ以上ゴミが動かす世界を続けてはいけない。

現在の教育では皆同じ人間として扱う。
これは間違っている。それぞれ自分にフィットする
ライフ・スタイルがあるべき。
こうすれば成功するというのは大人の幻想。
ゴミと化した人間を社会に放出するのは罪である。

義務教育過程では何かと協調性を説く。
ヒップ・スターの鋭いセンスはここで傷つけられる。
「なんとか生き延びてくれ」と願う。

人々の頭の中で5つの人種分けが行なわれ、自分の
ポジションが明確になれば気持ちは安定する。
全部イッショコタのカオスを抜ける人種分け。

私は自分をアホと設定している。
私の意見はズレている。しかし、その後の
ヒップ・スター達に繋がるかもしれない。

そう思いたい。

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