廃異不思議探検隊/(SEASON2)

Wast different wonder expedition.(SEASON2)

河津三郎の血塚 終

2010-03-17 11:37:00 | 一般探索
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 河津三郎祐泰之供養塔と彫られている。





 素晴らしい作りの古墳である。













 血塚前の道は、更に先へ続いている。

 この道は、江戸時代以来昭和八年まで、伊豆の東海岸筋を通る一番大切な道路だった(現在の国道135号線にあたる)。
 もっと昔からあって、いわゆる鎌倉古道であったとも思われている。
 江戸時代、伊豆の主要街道は、東海岸を通るこの東浦路と、天城峠を越える天城路の二つで、どちらも下田道(下田街道)と呼ばれていた。

 下田奉行や浦賀奉行一行が行列を作っては何度も通り、老中松平定信は、何百人もの供を連れて、駕籠に揺られこの道を通りました。
 吉田松陰は、下田を目指してここを駆け抜け、俳人や文人たちが曽我物語の跡を訪ねて足を運びました。そう言う歴史を偲びながら歩いてほしい。

 なお、この古道は昭和八年、県道(旧道)開通以来、荒れ果てたままになっていたが、この度、伊東市文化財等整備事業の助成を受け、約300mの区間を整備補修した。





 ロマンを十分感じる事が出来た。来て良かった。(あのぅ心霊はどうなったのでしょうか?w)さあそろそろ戻ろう。


 


 と、苧ムの中から「サクッ、サクッ」と言う音がする。私は「何だろう?」と思い、耳を澄ます。
 と、話声がする。
 筍掘りに来たご夫婦だった。
 奥さんの方が塚の前に来たので、挨拶をした。
 筍林でもあるらしい、もちろん私有地なので、勝手に掘ったら捕まりますよ^^





 私は、廃墟を撮る事が多いのですが、時々心霊スャbトを無性に訪問したくなります。

 人があまり居ないので、マッタリ出来る事と、意外と空気が澄んでいて風が気持良かったり、史跡旧跡だったりするので、観光気分になれるので良いのです。まあ昼間訪問する場合はですけどね、夜間は話しは別です。w ((((;゚Д゚)))ガクブル
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河津三郎の血塚

2010-03-17 00:15:00 | 一般探索
2009/04/30
fire河津三郎の血塚fire

 私が数年前、池田 武央氏のDVD「壮絶!禁断の心霊スャbト 呪われた天城越え 伊豆半島死界道」と題されたものをたまたま見鰍ッ、パッケージを見たところ、伊豆特集で、そこに「河津三郎の血塚」の写真が載っていた。その光景は、山の中に異様に不気味な塚が写っていて、完全に異世界な感じだった。私は「こんな異質な場所が伊豆にあったのか!この目で見たい、行ってみたい!」と思った。そして東伊豆だと知り、ゴールデンウィークが来るのを待った。
 DVDは、河津三郎の血塚の他に「旧天城トンネル・唐人お吉・知らぬだの池」等の写真が載っていたので、そちらの取材もしたのだろう。
 (※旧天城トンネルと知らぬだの池はup済、唐人お吉は、訪問したが、今一つインパクトに欠け、未up)
 私は、ネットや現地の知り合いに噂を確認した。
 ネット調査では、いくつか投稿が見受けられたが「ヤバいとかマジこわ等と言う事ばかり」で、具体的な噂話しは見られなかったが、唯一、霊感が強い方が「血塚は、遊び半分で絶対行ってはだめ」と言っていたので、それ相応のスャbトなのだろう。

 当該地元に住む知人のN氏は「単なる心霊スャbトの 出る出ないじゃなく、ここはふざけて行くと祟られますよ、仇討関係ですからね、討った方は満足かもしれませんが、やられた方は怨んでますよ。一度夜訪問した事がありますが、異常に浮「場所です。」と言う事だった。

 他数名
 ・「林の中の淋しい道を行くのですが、入り口から既に冷気(霊気)が感じられ、どこからか視線を感じます。昼間行っても薄気味悪い場所です。」

 ・「血塚は面白半分じゃまずいですよ。心霊写真が撮れたとか、円い光が浮かんでいたとか聞いた事があります。心霊雑誌にも紹介された事がありますよ。夜なんか負゚ぎて、肝ラーさえビビってあまり行かないです。」

 等々であった。

 当初私はビビってしまい、中止にしました(笑)
 それから数カ月、落ち着いて来たことと(笑)ネット上でレモJしている心霊系サイト等が見当たらないので「昼間なら大丈夫だろう。じゃあ行ってみようか。。」と言う事で、探検に出鰍ッた。

 ちなみに、後から知ったことだが、あの伊能忠敬氏が伊豆測量に来ていた時、休日に当血塚を探訪していた事が日誌に書かれているそうです!




 まずは最初にこちらを見て頂こう。





 この絵は、工藤祐経が暗殺を命じた大見小藤太と八幡三郎が、椎の木三本の間から、河津三郎祐泰を矢で射る様子だ。

 あの日本三大仇討で有名な、曽我兄弟物語の曽我兄弟は、河津三郎祐泰の息子なのである!





 添記
 観辛いが、読んでおいた方が後々分かり易いだろう。

 それでは、血塚へ行ってみよう。
 ちなみに血塚はここではなく、数百メートル離れたところにある住宅地へ入り、最奥から林へ入って行ったところにある。案内看板が立ててあるので、よく見ていれば分かります。





 住宅地の最奥、道が行き止まりになったところで、前方の苧ムにどうやらそれらしい出入り口がある。





 石灯篭と石碑があり、石畳が林の奥へと続いている。
 これは流石に雰囲気がある。
 石碑には何て書いてあるのかな?





 石には「河津三郎の血塚、この奥」...と彫ってある。
 石碑じゃなくて、案内か^^
 じゃあ行ってみようか





 うわぁ~、林の中を石畳がいい感じに蛇行して続いている。
 薄暗い木立に囲まれ、昼間もひんやり薄暗い苧ムの中にある血塚は、伊東市の指定文化財にされています。
 これは夜中には来れないな。霊気漂うと言う感じが分かる様な気がする。





 そしてしばらく歩くと、見覚えのある光景があった。
 河津三郎祐泰が暗殺された場所、血塚である。
 誰もいない静寂の中「サラサラ」と窒フ葉の音がし、時折、窒ニ窒ェ「カツン」とぶつかる音が響く。
 木々の間から木漏れ日がキラキラ光り、冷たい風が吹き抜けて行く。静か過ぎる、心細い。
 ついに来た、見つけた。

 DVDで見たジャケット写真と同じ位置で撮ったつもりだが、少し違う。
 あれは少し暗い感じで、雰囲気があった。角度も少し違う。同じには行かないものだな。
 この日は、快晴だったので、明る過ぎる、曇り位がちょうど良かったかな。





 景観が良いと言うか雰囲気が良いです。
 こう言う雰囲気の場所は「人穴」と「しとどの窟」とここ位ではないか?





 今まで訪問したスャbトの中では、上級レベルです。
 前にも述べた様に心スモヘ、観光スャbトと同時進行で楽しめます。そこが止められない理由の一つです。





 1176年(安元2年)河津の領主、河津三郎祐泰が、奥野での狩から帰る途中、領地争いで恨みを持つ同族の工藤祐経の放った矢で討たれたところ、この事件が17年後、富士の裾野で起こった「曽我兄弟の仇討ちの発端となった」のである。
 射られた場所には当該、積石碑と宝篋印塔が建つ。
 ここで曽我物語の曽我兄弟の父、河津三郎祐泰が射られたのは、830年位前の事。
 岩盤の上の溶岩台地の塚は、その溶岩を積み重ねた石塚だ。
 従兄弟同士である伊東祐親との領地争いによって、祐親を深く恨んでいた工藤祐経は、狩りの余興が終わって帰る道すがらを狙い、家来である許薰フ名人大見小藤太と八幡三郎に祐親親子の殺害を命じた。
 二人は、赤沢山麓の椎の木の大木に身を隠し、親子を狙って遠矢にかけ、父、祐親は射損じたが、息子の河津三郎祐泰に命中し、死んだ。
 椎の木の大木は「椎の木三本」と呼ばれて名所になっていたが、今は枯れてしまった。
 この事件の後、河津三郎祐泰の妻は、祐親の勧めによって曽我祐信と再婚しました。
 三郎祐泰の二人の遺児は、母と一緒に曽我(小田原市・梅林で名高い)に移って、元服して、曽我十郎・曽我五郎と名乗ったので、曽我兄弟と呼ばれる。この兄弟が、父の仇を討つために苦労して、富士の裾野の巻狩りの場で見事に工藤祐経を討ち果たすまでの物語が「曽我物語」です。





 右上に白い小さな表示が設置してあるが、内容を読んだら「塩を直接塚に鰍ッないで下さい、砕けてしまいます。」と書かれていた。(笑)肝試しに来た輩が自分に鰍ッるのではなく、塚にぶっ鰍ッてるw(笑)自分に鰍ッろよw!









 添記





 右に砕けてしまった石物が置いてある。
 とても古い物なので、壊れるのも当然だろう。
 続く>>