チカネットお便り、今回は保存しましょう!!加園さんという人物、男性です。
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ずいぶん久しぶりの「ええ加減に哲学しいや」だす。
わいも今は教室をやっとるもんで、生徒数が一握りにもかかわらず、7月20日からはしばらく目の回るような忙しさでしたがな。何しろ朝9時に行って、帰ってくるのは夜11時みたいな日がしばらく続きましたんで、これで生徒が増えたらどうなるんやと自分でも首を傾げましたわ。現在のところ、くもんはんで言う5 0人(教科)くらいのところですけどな、夏休みの40日は普段の月の250%くらいの授業数をこなさなならんうえに、講師料をケチって自分でも教えてるんで、貧乏暇なしに忙しゅうなるんですわ。
んでもって、お盆に入り、ちょっと一息ついとるわけですわ。そして、人間少し余裕ができると批判力が生まれ、久々にええ加減に哲学してみたくなったんですな。
今日のお題は「国語の入試問題の悪影響」、特に大学入試の選択式問題の批判だす。
十何年振りかで現場での受験指導に復帰し、この1年間現代文や国語の入試問題もそれなりの数を指導してきたんですけどな、こんな入試方式を続けていたら、日本の若者たちから「創造的思考」を奪ってしまうんやないかと危機感を覚えるようになりました。
15年ほど前、明光義塾の教務部長をしていた頃は、実は選択式の問題を解くのが嫌いではなかったんですわ。まあ、難問・奇問があるにしても、出題者の思考に合わせてやれば、どこの問題をやっても9割がたの正解が可能で、その答えを導き出す過程を周囲の仲間と話し合って楽しんどりました。まあ、言うなれば、「 出題者が正解だと思っている答えを探し出すゲーム」に嵌っとったんですな。
ところが、あれから15年経って、わいも少し大人になり、あらためてこうした答え探しゲームに戻ってみて気づいたんは、次のようなことでした。
論説文にしても、文学的文章にしても、本来文章とは読む側の各自が、主体的・積極的な姿勢で対決しながら読み、各自の判断なり感想を持たなければならんはずのものなのに、どうもあまり頭がいいとは思われない、あるいは文学的感性が優れているとは思えない問題制作者(大学教授・予備校関係者)が、彼らの限定的 な思考の中でかなり恣意的に作った解釈に従って答えを選ばなければならんようになってるんですな。
おそらくは出題者が正解と考えているらしい選択肢を読むと、その人のかなり偏った、あるいは底の浅い解釈が見えていて、こんなもんを正解として受験生に刷り込むなよと言いたくなります。
わいらの時代の大学入試は、記述式が中心でした。今でも東大なんかは記述式が中心ですけど、ここの問題を見ると、「答えを3行で書け」とかいう要求になっていて、特に字数制限なんかもされとりません。こうした問題に自分で答えてみるとわかるけど、頭のいい人は頭のいいなりに、頭の悪い人は頭の悪いなりに、「 それぞれに、自分の思考を言語化して、つまりは客観的に他人に伝わるように論理化して」書くことができるんですな。
たぶん、東大の採点者は、正解とされる答え以外の答案が出てきても、解答者の論理が十分に通ったものであるのならマルをつけるし、解答が3行を超えて4、5行書いてあっても、それがどうしても必要となる言葉によって構成されたものであるのなら、これまたマルをつけるはずだす。
選択式での論理化と記述式での論理化の決定的な違いは、
1)選択式では他人の思考に沿って答えなければならないが、記述式では自分の思考に沿って答えることができる。(本来思考とは自律的なものでなければならない。)
2)選択式では出題者の貧困な脳味噌に限界づけられた答えしか出てこないが、記述式なら出題者よりもクレバーな答えの可能性を排除しない。
3)子供の頃から選択式の訓練ばかり受けていると、文の行間を読むことよりも、ゲーム感覚で、「うまく切り抜ける」とか、「情報のピックアップ」的な読み方が刷り込まれてしまい、心の広がりに制限がかかってしまう可能性がある。(最近純文学が売れず、ゲーム感覚的な本が受けているのも、もしかしたらこれと関係 があるかもしれない。)
4)選択式では、「何となく」という感覚レベルでの解答が可能だが、記述式だと自分の思考や感じたことを客観的に言語化しなければならないので、厳密な思考力と言語能力を必要とする。(ちゃんと物事を論理だてて話すことのできない若者、いや、大人が増えているような気がする。)
といったところにあるように思いますがな。
選択式の現代文の中では、センター入試はそれでもまだマシなほうかもしれまへん。センター試験の制作メンバーだった友人(但しドイツ語の問題)に聞くところによると、国立大学の教授・準教授が10人くらい(以上だったか?)で作るので、いろいろな人の目が入ることにより、比較的客観的な問題ができるんやない でしょうか。
しかし、ある年の小説文で、「こんなんは単に個人の感性・好みの問題で、ほとんど論理的には選べんなあ」という設問が多いのがあるんやけど、選んでいる小説といい、設問の内容といい、どうやら女性教授一人で作った問題で、たぶん他の男性メンバーは批判することが許されなかったんやろなあ、ちゅうのがありまし た。
結局、複数の能力のある人の目が入らなかったらしい問題にひどいのが多いわけですけど、けっこう有名な私立大学の問題で、きっとずっと一人でやってるんやろなあ、とか、この教授が偉くて、他のセンセは批判できんのやろなあ、なんてのがかなりたくさんあります。
まあ、いずれにせよ、選択式は部分活用に留めて、主要なところは記述式に改めんと、国民的な能力の損失は免れんような気がしますなあ。
ええ加減な哲学者
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ずいぶん久しぶりの「ええ加減に哲学しいや」だす。
わいも今は教室をやっとるもんで、生徒数が一握りにもかかわらず、7月20日からはしばらく目の回るような忙しさでしたがな。何しろ朝9時に行って、帰ってくるのは夜11時みたいな日がしばらく続きましたんで、これで生徒が増えたらどうなるんやと自分でも首を傾げましたわ。現在のところ、くもんはんで言う5 0人(教科)くらいのところですけどな、夏休みの40日は普段の月の250%くらいの授業数をこなさなならんうえに、講師料をケチって自分でも教えてるんで、貧乏暇なしに忙しゅうなるんですわ。
んでもって、お盆に入り、ちょっと一息ついとるわけですわ。そして、人間少し余裕ができると批判力が生まれ、久々にええ加減に哲学してみたくなったんですな。
今日のお題は「国語の入試問題の悪影響」、特に大学入試の選択式問題の批判だす。
十何年振りかで現場での受験指導に復帰し、この1年間現代文や国語の入試問題もそれなりの数を指導してきたんですけどな、こんな入試方式を続けていたら、日本の若者たちから「創造的思考」を奪ってしまうんやないかと危機感を覚えるようになりました。
15年ほど前、明光義塾の教務部長をしていた頃は、実は選択式の問題を解くのが嫌いではなかったんですわ。まあ、難問・奇問があるにしても、出題者の思考に合わせてやれば、どこの問題をやっても9割がたの正解が可能で、その答えを導き出す過程を周囲の仲間と話し合って楽しんどりました。まあ、言うなれば、「 出題者が正解だと思っている答えを探し出すゲーム」に嵌っとったんですな。
ところが、あれから15年経って、わいも少し大人になり、あらためてこうした答え探しゲームに戻ってみて気づいたんは、次のようなことでした。
論説文にしても、文学的文章にしても、本来文章とは読む側の各自が、主体的・積極的な姿勢で対決しながら読み、各自の判断なり感想を持たなければならんはずのものなのに、どうもあまり頭がいいとは思われない、あるいは文学的感性が優れているとは思えない問題制作者(大学教授・予備校関係者)が、彼らの限定的 な思考の中でかなり恣意的に作った解釈に従って答えを選ばなければならんようになってるんですな。
おそらくは出題者が正解と考えているらしい選択肢を読むと、その人のかなり偏った、あるいは底の浅い解釈が見えていて、こんなもんを正解として受験生に刷り込むなよと言いたくなります。
わいらの時代の大学入試は、記述式が中心でした。今でも東大なんかは記述式が中心ですけど、ここの問題を見ると、「答えを3行で書け」とかいう要求になっていて、特に字数制限なんかもされとりません。こうした問題に自分で答えてみるとわかるけど、頭のいい人は頭のいいなりに、頭の悪い人は頭の悪いなりに、「 それぞれに、自分の思考を言語化して、つまりは客観的に他人に伝わるように論理化して」書くことができるんですな。
たぶん、東大の採点者は、正解とされる答え以外の答案が出てきても、解答者の論理が十分に通ったものであるのならマルをつけるし、解答が3行を超えて4、5行書いてあっても、それがどうしても必要となる言葉によって構成されたものであるのなら、これまたマルをつけるはずだす。
選択式での論理化と記述式での論理化の決定的な違いは、
1)選択式では他人の思考に沿って答えなければならないが、記述式では自分の思考に沿って答えることができる。(本来思考とは自律的なものでなければならない。)
2)選択式では出題者の貧困な脳味噌に限界づけられた答えしか出てこないが、記述式なら出題者よりもクレバーな答えの可能性を排除しない。
3)子供の頃から選択式の訓練ばかり受けていると、文の行間を読むことよりも、ゲーム感覚で、「うまく切り抜ける」とか、「情報のピックアップ」的な読み方が刷り込まれてしまい、心の広がりに制限がかかってしまう可能性がある。(最近純文学が売れず、ゲーム感覚的な本が受けているのも、もしかしたらこれと関係 があるかもしれない。)
4)選択式では、「何となく」という感覚レベルでの解答が可能だが、記述式だと自分の思考や感じたことを客観的に言語化しなければならないので、厳密な思考力と言語能力を必要とする。(ちゃんと物事を論理だてて話すことのできない若者、いや、大人が増えているような気がする。)
といったところにあるように思いますがな。
選択式の現代文の中では、センター入試はそれでもまだマシなほうかもしれまへん。センター試験の制作メンバーだった友人(但しドイツ語の問題)に聞くところによると、国立大学の教授・準教授が10人くらい(以上だったか?)で作るので、いろいろな人の目が入ることにより、比較的客観的な問題ができるんやない でしょうか。
しかし、ある年の小説文で、「こんなんは単に個人の感性・好みの問題で、ほとんど論理的には選べんなあ」という設問が多いのがあるんやけど、選んでいる小説といい、設問の内容といい、どうやら女性教授一人で作った問題で、たぶん他の男性メンバーは批判することが許されなかったんやろなあ、ちゅうのがありまし た。
結局、複数の能力のある人の目が入らなかったらしい問題にひどいのが多いわけですけど、けっこう有名な私立大学の問題で、きっとずっと一人でやってるんやろなあ、とか、この教授が偉くて、他のセンセは批判できんのやろなあ、なんてのがかなりたくさんあります。
まあ、いずれにせよ、選択式は部分活用に留めて、主要なところは記述式に改めんと、国民的な能力の損失は免れんような気がしますなあ。
ええ加減な哲学者