浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2018-04-23 23:46:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            見えないものの存在

先の続き・・・

人間の私たちは、この世に今生きさせていただいて、
この肉体あるいはこういう物質の中で、
ただこの世だけがすべてだと思って暮らしてきました。
けれども、この世だけではないということです。
目に見えない世界。
目には見えないから、
「ここに何かあるんですよ」と言いますと、
「この空間には何もない」と普通は言います。

しかし、目に見えないこの空間の中にも、ラジオの電波、
テレビの電波、いろんな電波が飛び交っています。
私たちの目には見えないだけで、現実にあるのですね。
もっとわかりやすいのは、部屋を閉めまして、
夏クーラーをかけますと、どんどん水が出てきます。
何もないと思っているこの空間には、水がいっぱいあるのです。
水といえば語弊があります。

水の原子である水素と酸素がいっぱい充満しているのです。
熱作用によって水が分散して軽くなってこの空中に
いっぱいあるのです。
ところが見ることはできません。
だから、それと同じように見えない世界に、
私たちのこの肉体がなくなった後の意識、
その人がもっている心があるのです。
本当なら「成仏」と言いまして、
生まれてくる前に住んでいた世界に帰らなければならないのです。
そこは極楽あるいは天上の世界と言います。

ところが、そこへ帰れないでこの世に残しているその思いが、
見ることはできないけれども霊として
現実にいっぱいおられるのです。
病院なんか行きますと、霊視
もし自分の心ができていないのにそういう世界が見えますと、
もう恐ろしくていられない世界です。
死んで迷っている人はいっぱいおられます。
病院は自分を助けてくれる所、ここにいれば病気を治してくれる、
そう思ってその場所で死んだ人の思いが、
「ここにおったら助かるんや、治してくれるんや」

と思ってウロウロしているのです。
ところが普通は見えません。
触れることもできません。
だから、どこの病院へ行きましても必ず怪奇現象の起きる部屋が
二つ三つあるはずです。
部屋へ入ったら誰か枕元に立っちにくるとか、
ドアを開けに来るとか、そういうことはどこにでもあるのです。
それは皆、なくなった人の意識が残っているのです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-04-23 00:02:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


         見えないものの存在

死んでから、蛇の姿になりあるいは狐の姿になって、
迷っている方がいっぱいあります。
本当は、蛇とか狐とかあるいは狸とか、
そういうものは人を化かしたり祟ったりしないのです。
そういう意識になり下がった人の意識が禍を起こします。
そういうことがわからないものですから、「これはえらいことだ。祀れ。
供養せなあかん」ということになるのです。
地神さんというのは大体蛇の姿を見せます。
それは「人の執念」です。

これをゴミにたとえてみますと、
拝み屋さんが来て「ここ祀んなはれ」と言って
地祀りあるいは棚祀りをすることは
ゴミを掃除してゴミ箱に入れて屋敷の側へ置いているのと同じことです。
うまいこと管理しないとまた出てきます。
神主さんが来て「祓い給え、浄め給え」とやったら、
チリ叩きでゴミを払っているようなものです。
その時はなるほどきれいになるけれど、またそのゴミはそこへ落ちます。
一番いいのは掃除機を持って来てバーッとゴミを皆吸ってしまって
然るべく処置をしてしまうことです。
もう出てきません。
私の場合は掃除機でそういうゴミを全部吸い上げてしまいますから、
後がうまくいきます。


          ~ 感謝・合掌 ~



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