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浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

父母に大恩受けし我なるに
報いきれなき我が身悲しも

「独り言」より。

2015-10-16 00:16:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道


          ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

ここはコップを逆さにして底を上から見た時に、図2のように見えます。
想念を中心としてその周囲を囲むようにして、ちょうど穴のあいた蓮根の断面のごとく
理性、知性、本能、感情の四つの働きが分かれて集まっています。
それらは、たいてい大きさが不揃いになっています。
均等な大きさへとバランスがとれてくると、心が調和していると言います。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-15 00:14:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第三章 天上界への道


      ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

私たち一人一人の個別の霊魂の容器をコップにたとえるとします。
まず、図1を御覧ください。
これはコップの側面図です。
コップにたとえられた霊魂の容器の口をあけたほうに行けば潜在意識のほうに降りていき、
底のほうに行けば、私たちの表面にある意識に近づいていきます。
表面意識とは、見たり聞いたりしたことから悲しんだり、喜んだり、ものを考えたり、
食べ物を得たりと、感情、理性、知性、本能などの働きをする場所です。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-14 00:24:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道


        ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

以前先生と呼ばれているある方が、
「何年か先には地球が風船玉のしぼんだようにしぼんで
土星の外に飛んで出る」と、もっともらしいお話をなさいました。
しかし、もともと地球が今の位置を変えて他の惑星の所へ飛んでいきますと、
これは太陽系のみならず、大宇宙全体におけるバランスを大いに崩してしまうことになります。
時計の歯車が一個飛び出しただけで、その働きが止まってしまうのと同じです。
ところで、この大宇宙や大自然というものを動かしている目に見えない力とは、
たった一つの大いなる意識であり、巨大なエネルギーとして、私たちが神と呼んでいる存在のことです。
この神様の意識を私たち一人一人がこの胸の内にいただいているのです。
太平洋の水が神様とすると、その一滴一滴の海水が私たちの意識です。

汲む上げた水は太平洋の水となんら変わりありません。
それと同様に、大いなる神様とまったく同質同根の心が私たちの心の一番深いところに存在しています。
それが「神様」と呼ぶものです。
これに気付かせていただくには、神の子としての自覚を持ちながら、
神の子として恥ずかしくない行いと生き方をすることです。
親鸞上人の教えの中に、「心を開いてずっと奥底を覗いたら、
御本尊は鬼だった、阿弥陀様におすがりして、ただ一念念仏申さば、
鬼は鬼のままで救われる」と説かれています。
これは一念に徹して心を余計な思いに向けず、
ひたすら阿弥陀様の御心に向ければ救われるということです。
煩悩具足の罪悪深重の凡夫と自らを称した親鸞が自らの心の内を顧みて認めたのが心の鬼、
つまり煩悩です。
しかし、その鬼のもっとも奥まで入った時、神の御心がましますのです。
これが実相であり、私たちの神我です。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-13 00:17:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第三章 天上界への道


         ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


地球は大宇宙から見ますと、
太陽という原子核の周りを回っているマイナス電子のような
小さな存在ですが、私たちから見れば巨大な存在です。
時速二万数千キロの猛スピードで太陽の周囲を回っていて、自ら自転し、
三六五回と四分の一回転で一周して同じ位置に戻ってきますが、
千分の一秒ほどの狂いも生ぜずに正確に動いているそうです。

しかも、これほど猛スピードで回っていながら、
地球そのものも地球を取り巻いていてくれる大気も全部いっしょに飛んでいますから、
私たちは何も感じないでいます。
もし、地球が急にスピードを緩めれば、たちまちくだけてしまうでしょうし、
まして逆回転などした日には、木っ端微塵です。
地球が回っているその周りをお月さんが回っていてくれます。
他に火星も土星も木星も金星も全部回っています。
これは各自が勝手に回っているのとは違って、
お互いに目に見えない引力の作用によって回っています。
時計を分解すると、中にたくさんの歯車が入っています。
この歯車は他の動力によって自分が動くようになっています。
また、自分が動くことによって他を動かしています。

これと同じ原理で、
地球も火星も土星も互いのものすごく距離が離れているにも拘わらず、
目に見えない引力という歯車によって、互いに影響を及ぼしつつ調和を保ち、
太陽の周囲を回っているのです。
お互いに持ちつ持たれつの関係で生かされているのが自然の法則です。
私たち人間の社会でも自然に学ぶべきです。
また、動物は植物に二酸化炭素を与え、それをもとに植物が光合成を行い、
空気中に放出した酸素を吸って動物は生きるという相互依存の法則が自然界にはあります。
「草や木など刈っても切り倒してもかまうものか」とか、
「人間さえ快適で便利に住めればいい」という心は、自然に逆らうので、
環境破壊を起こして、自らの墓穴を掘ってしまいます。

「他人はどうなってもいい」という自己中心的な思いも滅びの原因です。
太陽系以外にも別の太陽系が同じような仕組みで回っており、
これらが銀河系だけでも何千億個もあるそうです。
銀河系は一回転するのに二百五十万年かかると、偉い学者が計算されたそうです。
その銀河系宇宙のようなものが、また何千億個も集まって島宇宙となり、
さらに島宇宙が何千億も集まって大宇宙ができているそうですから、
もう計算できるものではありません。
そういう無数の天体が千分の一秒の狂いさえなしに循環の法則に従い、
また相互に作用しながら正確に動かされているのです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-12 00:09:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第三章 天上界への道


           ◆天上界は本当にあるのか◆


どんな方の心にも仏の心と鬼の心とが同居しています。
鬼の心は、「己心の魔」であるエゴの自我我欲や自己保存などの想念がだんだん膨らみ、
恐ろしい姿に変貌したものです。
心にスキがあると、そこに「魔」(「間」)が入ります。
自己反省を怠らぬことです。
悟った方とふつうの人との違いは、ただ、心の隙間に気をつけ、
鬼の心をいかに自らの心の内に迎え入れないかということを知り、
これを行ない得たか否かという点だけです。
神様はなぜ地獄をお造りになったのでしょうと、かつて質問を受けたことがありましたが、
神様は地獄など造られてはおりません。
心の鬼とは、自分さえよければいいという思い、自己保存や自我我欲の思いから来ます。

心の鬼に支配されると、人のように恐ろしいことや残酷なこと、
恥知らずなことまでも平気でできてしまいます。
もはや本来の自己は失われています。
こうした神様の御心から離れた心を、
人間は肉体の五官に翻弄されることで生み出してきてしまったのです。
もともとは清浄で素直だった神の分け御霊そのものの心を曇らせ、
その黒雲のような想念が、あたかも地獄のような苦しい世界を現出してしまうことになったにすぎません。
神様は完全無欠な存在です。
神様は太陽の熱と光のような無償の愛、無条件、無差別の愛と慈悲と赦しを
私たちに降り注いでくださっているのですから、
もし、私たちの心にその愛の光を遮るものさえなければ、
誤りも欠乏も苦しみもない素晴らしい世界が眼前に展開してまいります。
ふだんでも、心になんの不安も恐怖も怒りも寂しさもなんらの執着も無い時、
私たちの心は静かです。

そして、心を縛り煩わせる思いがない分、心は自由です。
その状態で感謝しながら亡くなりますと、軽い心はたちまちにして天上界に行きます。
そこは、別の意味でも自由です。
というのは、自分の望むものがなんでもすぐに現れる世界だからです。
仮に今ここで綺麗な花を生けていただき、あの世に帰ってから、
「あの時、綺麗な花を生けていただいたなあ、もう一度みたいなあ」と思いますと、
この花がパッと出て来るのです。
「あの時のカレーライスはうまかったなあ。あれをもう一度味わいたいなあ」と思いますと、
パッとカレーライスが出て来ます。
これは何も私たちの夢や願望の投影というのではなく、リアルな世界として、
実在の世界としてまぎれもなく在るということです。
そこを私たちは天上界とかあの世と呼ばせてもらっています。
実際に亡くなられると浄まった魂の方はそこに行かれます。
また、生きながらにして山紫水明のお花畑の美しいあの世に行ってこられたという
臨死体験をされた方の話もよくあります。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-11 00:27:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道


             ◆天上界は本当にあるのか◆


天国はあるのか。極楽はあるのか。それは空想の世界にすぎないのか・・・
昔から死ぬとどこへ行くかについて、いろいろと関心が持たれてきましたが、
ここで改めて考えてみたいとおもいます。
「在る」ということは外なる世界をすべてと見なしてきたのが、
科学信仰の現代文明でした。
本当は内なる真実が外に現わされてくるものであり、
内と外とを分けて考える必要もないはずです。

もし、敢えて内とか外という区別をつけるなら、
内在せる意識の世界こそが真に実在sる世界に通じる入口である言ってよいと思います。
これからの文明は精神文明の時代へと転換してまいります。
物質の世界の目覚ましい進歩に比べれば、心の世界はまだまだ解明も開発もされておらず、
地球社会のレベルは幼い段階にとどまっています。
この三次元現象界の生活は肉体の五官を通してどんな思いをいだくかによって展開されてきたのです。
想念はエネルギーです。
すこぶる現実的なものです。
物質以上に現実に力を有するものだと言っても過言ではありません。
病気の心配や悪い事態ばかりを思えば、現実にそれを証明する結果が現れてきます。
逆に現代医学でも治せぬ病が、心の転換によって快癒したりします。
原因と結果の法則は、この思いと現実の関係にも当てはまります。

私たちの意識が肉体を出て、物質の波動よりももっと精妙な波動の世界に移ると、
現象界に肉体を持って生活していた時よりもずっと速いスピードで思ったことが現象化してまいります。
この世に比べれば距離も時間もないと言えます。
地球を一秒間に七回半回る光速よりも速い想念のお陰で、意識の上である場所を思った瞬間にそこへ行けます。
したがって、もし心に怒りや憎しみや恨みや貪欲などの不調和な思い、
あるいはこの世への執着の思いをたくさん詰め込んでいれば、それらの思いによって苦しい世界が展開してくます。
あたかも映画のスクリーンにフィルムどおりの映像が写し出されるように、
私たちが心にいだいている思いが周囲の環境に即反映されてくるのです。
これは、「心の重さの法則」を使った説明と合わせて理解すると、よりいっそうわかりやすいかと思います。
重い心、砂袋のように重い心は、命の糸が切れると、ドスンと下に落ちていきました。
そして、風船のように軽い心、これは命の糸が切れると、どんどん上に上昇していくのでした。
けれども、本当はこの地上界より下の世界だからそれが地獄で、上の世界だからそれは天国だというよりは、
むしろ神様の光の届かない暗い世界が苦しみの世界、
そして神様の光のもとに明るく輝く世界が天上界であると言うべきでしょう。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-10-10 00:10:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第三章 天上界への道


         ◆神を知りたければあの太陽を見なさい◆


先の続き・・・

人はその過去を反省した時、大小の差はあれ、
罪過ちを犯していない人は誰一人ありません。
太陽の熱、光(神の慈愛)からバチを当てられた人は一人もありません。
もし、太陽の熱光(神の慈愛)からバチを当てられたなら、人間存在がなりたちません。
こんな話があります。
何十年も夫の浮気を赦せずに、徹底して夫への冷酷さを貫きながら、自らの心を苦しめて
いた婦人に、「赦させていただきなさい」とアドバイスさせてもらいますと、
その方はそれを実行し、ようやく心の地獄から救われました。
人間は自分に不都合なことをされれば、相手に怒りや憎しみの思いを抱いてしまうものです。
しかし、どんな場合でも、相手を赦すことは自分のためです。

だから、「赦してやる」のではなく、「赦させていただく」という意識になれば、もっと楽に赦せます。
「してあげる」「してやる」より、「させていただく」のほうが神の御心に近づける喜びがあります。
「赦させていただく」という心も、「責め裁かない(無条件の赦し)」という神の御心を
実践させてもらうということにほかなりません。
死ぬ時になって、この世に生かされている間「私はよくやった」と、自らにねぎらいの
言葉をかけることができ、満足と感謝の心を味わえてこそ、死ぬということの意味も豊かになってくるのです。
そのためにはどうしたらよいかというと、あの太陽の心を我が心にいただき、
日々の生活の中で太陽の心を行うことであります。
他の為に尽くすといっても、まず自分の生活の基盤をしっかりさせなくてはなりません。
人の家の前に立ち、お茶碗に食べ物を恵んでくださいというのは、昔の日本でもありましたが、
現在の日本では通りません。

現在、有難い事に土曜と日曜にお休みの方もありますし、日曜だけお休みの方もあります。
その時間に、どれだけ無償の善き行いが積めるか、愛を施せるか、それによって心の中は、
「ああ、よかったなあ、あれだけの人が喜んでくださった。
これだけの方が救われた」という喜びに満たされます。
その喜びは神様からいただいたものです。
お金や物とは違う、心の安らぎです。
又、日々の生活の中でも同じことです。
私も寝るいとまもなくハードスケジュールで飛び回っている時、
「先生、無理せんといてください」と、よく言われますが、
「自分の命を精一杯燃え上がらせて、燃え尽きたい」と答えます。
自らの命を人様のために燃え尽きさせた時、満ち足りてあの世へ帰れます。
「私は自分の命を燃焼させてもらっています」と、話します。
神様は言われます。
「私の思いをあなたたちがその肉体をもって具現しなさい。
この地上に示し現わしなさい」と、神様の御心を理解させていただくのに最も身近でわかりやすい方法は、
常に太陽の心を理解させていただくことです。
神を知りなさいと言ってもお姿も見えず、声も聞こえませんから、
自らの行いとして神様の御心を現わすことです。
太陽の姿を実践しなさい。

太陽の心(神の御心)
① 自己犠牲
② 他を生かす
③ 無差別、平等の愛
④ 他の過ちを責め裁かない
⑤ 無条件の赦し
⑥ 無償の愛

この太陽の心、神の御心が私たちの心の内なる世界に燦々と輝いています。
私はこの心の内なる太陽の心を日々の生活の中に実践する努力をしています。
また、世のあらゆる宗教の在り方と太陽の姿を照らし合わせた時、
神にそむいた宗教がいかに多いかがよくわかります。


           ~ 感謝・合掌 ~






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「独り言」より。

2015-10-09 00:13:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道


        ◆神を知りたければあの太陽を見なさい◆


完全に調和している神仏の心に自分の心がどれだけ近づいたか、
その度合いに応じた光の量があり、同じレベルの者同士が住む区域が、
明暗さまざまな段階に分かれています。
それがこの世でも魂の高さや低さ、霊格の違いなどという形で現れてきます。
神仏の心と己の心との違いを知ることです。
ところが、神仏の心とはどんなものか、神とはどのようなお方かを知らないと、
自分の心がそこからどれぐらい近いか、また隔たっているかもわかりません。
神を知りたければ、あの太陽を見なさい。

太陽の心とは太陽の熱と光に象徴される無償の愛です。
太陽は、自らの身を犠牲にし、自らの身を燃え上がらせ、自らの生命を燃焼させ、
その結果として現れる熱と光を放出して生きとし生けるものにエネルギーを与えています。
この熱と光こそは神の慈悲と愛です。
地球がいただいている熱カロリーは一秒間に石炭二百万トンを燃やすほどのものだそうですが、
それでもお日様から請求書が来たこという話は聞いたことがありません。
神の御心もこれと同じで、与え放しの愛です。
私たちは、人に何かしてあげたと言ってはつい見返りを期待したり、要求したりします。
期待がはずれると相手を恩知らずと決めつけ、かっかりしたりします。
もし、与えること自体に喜びを見出すことができたなら、どんなにか心が楽になることでしょう。
これこそが神様の本当のお気持ちなのです。

そして、本当の幸せというものもここから実感できるはずです。
得ること、取ること、奪うことばかりを求めていれば、
あくなき欲望のためにいつまでたっても心に安らぎはありません。
私たちも本質は神であり、神様とまったく同質同根の生命をいただき、
内に偉大な神の分け御霊をいただいております。
私たちが結果や見返りを期待することなく、
人のため世のために一生懸命に善き行いを積み重ねていったならば、
神様の御心をこの現象界の肉体次元に具現することが出来る筈です。
太陽の心とは、完全なる無差別平等です。

いかに社会的地位、名誉の高い方であっても、また低い方であっても、いかに金持の方で
あっても、また貧乏な方であっても、健康な方にも、感謝する人にもしない人にも、
宗教を信じる方にも信じない方にも、まったく同じ量の熱光(神の慈愛)を与え給うのです。
もちろん、国境や言語や皮膚の色の違いをも超越してのことです。
太陽はどんなものにも差別なしに熱と光を与え給います。
それと同じく神も、私たちに対してまったく差別なしに慈悲と愛を与えられています。
それを私たちは自覚できないでいるだけです。
知らないということは無智です。
無智なるがゆえに、

その大いなる愛と慈悲とをもって私たちを包んでくださる神の懐の中に生かされながら、
私たちは神の子として当然行うべき愛を知ることも、慈悲を行うこともできないでいるのです。
神様の御心を私たちが行い、実践させていただくこととは、すべての人を好き嫌いなく、
すべての人に慈愛の心で接することです。
それは自分自身の幸せのためです。
太陽の心(神様の慈愛)は、人の過ちに対して絶対に責め裁きをなさいません。
どのような罪深い者でも、すべて赦してくださっています。
バチなどお当てになりません。
完全なる赦しの心が神の御心です。
ただ、天に唾する時は、その唾は太陽(神)には届きませんが、必ず自分にかかってきます。


                ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-10-08 00:49:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


     ◆肉、魚、野菜、植物。鉱物、我が身に一つの命は流れる◆


生きていく限り、肉体を保持しなくてはいけません。
そのためにあらゆる動物の命、つまり肉や魚などの生きものの命をいただいています。
また、植物の命や水、鉱物の命をいただいて、そのお陰で生きさせていただいているのです。
見えない宇宙の中心から流れどおしの神の愛が命となって動物や植物や鉱物に注がれていると同時に、
また私たちにも注がれています。
花の命も私たちの命も同じです。
生きるということは、他の命をいただき、他の命のお陰で生かしていただいています。
米も肉も野菜もすべて「生きた命」を私たちはいただいています。
それらの犠牲と奉仕に対して報いるということは、食物が私たちの肉体の中で血や肉となって、
いっしょに修行してくださいという気持ちで祈りつつ、いただくことです。

常にこのエネルギー源への感謝の心を忘れないようにしなくてはなりません。
ところが、あって当然という思いから、感謝を忘れています。
足ることを忘れて、欲望だけを太らせていったら、どうなるか。
やがて人類は滅亡してしまいます。
戦後の日本では、機械化農業で手間を省いたり、
経済合理化主義の考えにより除草剤を大量にまいたり、
また経済を発展させ消費をますます増やすために、不必要なものまで
工場で過剰に生産してきました。
そのため、環境を汚染する化学物質をまきちらし、
最近では生物界での「メス化現象が話題になるほど地球上の生命が絶滅の危機に瀕したり、
人間の健康が害毒にさらされたりしている始末です。
除草剤や農薬のかかった米や野菜、ダイオキシン類に汚染された牛乳、
環境ホルモンによって生ずる水産物の汚染や生物界の異変。生殖異常など、
挙げればきりがありません。
これでは生命や神への感謝どころの話ではありません。
おまけに、これらへの冒瀆とも言えるのは、
神聖な領域を汚してしまっている科学上の発見や技術上の発明です。

様々な生命操作、そして除草剤の毒性に対して強い抵抗力を持つ作物へと
つくり変えられた遺伝子組み替え食品などもその例です。
常に自分たちを生かしてくださっている力に意識を向けて感謝していれば、
私たちは健康で幸せに暮らさせてもらえます。
ところが、これを忘れて勝手に金儲けのためや快楽追求のために自然を破壊しながら、
自分の心の喜びや身体の健康さえも失っています。
顔からは笑みが消え、体からも心からもエネルギーが抜けてしまっています。
こういう方々が増えています。
それでも、神様はいつも太陽のごとく平等に絶え間なく、
私たちにエネルギーを注いでくださっています。

ただ、人間のほうで命を育み守ってくださる神様の愛の流れを遮断しているだけなのです。
神仏を否定したり、生かされていることへの有難みを忘れてしまうということは、
愚かにも生命の光、生命の力をお断りしているということになります。
常に「もしなかったら」と思って感謝を忘れないことです。
そうすると、自分の心が喜びに満たされます。
「私はこんな辛い環境の中で何も喜べません」とおっしゃる方がありますが、
太陽と熱と光に感謝しなさい、空気中の酸素に感謝しなさい、水に感謝してみなさい。
そうすれば喜びいっぱい与えられます。
現在の苦しい環境はだんだんと消えていきます。
金や物はたくさん持っていても火事に遭えばなくなりますが、心の喜びはどんなことがあろうと、
なくなることもなければ盗まれることもないのです。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-07 00:08:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆宇宙の中心から流れどおしの愛の光◆


先の続き・・・

死は実在界の側より見れば、単に古くなった衣を脱いで、
生命の源により近い実在の世界
に魂が帰っていくだけの話です。
宇宙の中心には泉のようにあふれ続ける命のエネルギー源があります。
それはこの物質の現れの世界から見れば、はるかに高次元の段階にあり、
私たちのところまで、その愛は注がれています。
この流れは遮られれば一日も生きてはいかれません。
死の心配や恐れを心にいだいていても、死期が遅くなるわけでもありません。
心にこういう思いを詰め込むと、重い心となり幸せになれません。
それよりも、惜しみなく、限りなく流れ来たって私たちに注がれている
神様の大いなる愛に対する感謝と報恩の心を常に忘れず、
喜びをもって日々の生活の中で、
神様へのお返しとしての善き行いをこの身を現わしていくほうが大切だと思います。
それには今を生きることです。

まだ来ぬ先の心配ばかりしている方によく言います。
「生きている限り絶対に死にません」。あるいは、
「死ぬまでは間違いなしに生きています」。
これは真理です。
大安心の中に生きてこそ神様とともに生きられ、
肉体的生死を超えた永遠の生命のもとに帰ることができます。
永遠の生命とはなんでしょう。
私たちの住まわせていただいている地球は、太陽系の中の一つです。
太陽系には太陽を中心として、
九つの惑星と三万数千個の小惑星があると言われています。
銀河系宇宙には太陽系のような星の集団が約二千億個もあるそうです。
この銀河系星雲のはるか彼方に、
また銀河系星雲のような星雲が無数に点在し、その数、
数千億個が集まって島宇宙をつくり、その島宇宙が数千億個集まり、
大宇宙がつくられていると言われています。

なんたる広大な、なんたる壮大な、なんたる荘厳な、
なんたる叡智に満ちた大宇宙であることでしょう。
この大宇宙の中心か流れ出る一つのエネルギーと数々の法則によって、
全宇宙が動かされています。
循環、生産、破壊、調和、今現在もこの大宇宙の中で数百億年の年を経て、
自ら爆発、破壊し、宇宙の中に分散している星もあり、
この分散したガスがまた集まって新しい星が生まれていることも事実です。
なんたる壮大なドラマでしょう。
小さくこの地球に目を移した時、
地球の大自然の中にもまったく同じ法則が働いています。
現れては消え、消えては現れる永遠不変の真理です。
私たちは人間も例外ではありません。

また、小さく原子の世界に入ってもまったく同じ法則によって動かされています。
この大宇宙の中心から流れ出る一つのエネルギーを大生命と呼び、
愛と呼び、神と呼んでいます。
また、大宇宙の数々の法則を正法と呼んでいます。
この書の中で神という言葉が数多く出て来ますが、
この世の宗教とはいっさい関係ありません。
大宇宙の中心から流れ出るエネルギーを神と表現し、
大宇宙の数々の法則を正法と表現させていただいています。
このことをご理解の上、読んでいただければ幸いです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-10-06 00:11:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立


       ◆宇宙の中心から流れどおしの愛の光◆


魂が自分の本質を悟って死ぬ時にうまく肉体を離脱できれば、成仏できます。
この時に不思議な現象が起きます。
それは先に述べた死後硬直が起きないということです。
なぜ、一般にこれを「不思議な」現象と言ってしまうかというと、
肉体に現れたものだけを見て、心の状態のほうを見ないからです。
この世の法則からすれば、肉体や物質を主に考えるために、
「いかにも不思議に思える」にすぎません。

命のないはずの死体が柔らかいだなんて、そんな馬鹿なことはあり得ない、と。
医学的には、体温によって私たちの細胞の間にある乳酸によって
身体は動くようになっているそうです。
血液循環で温度を保っていれば、乳酸が柔らかく働いていて、
血液が止まると体温がなくなり、乳酸が凝固してきます。
これが死後硬直の姿です。
の具合を調べます。
顎のあたりから始まり、全身へと硬直が広がっていきます。
その状態によって、これは何時間前の犯行であると判断します。
死後硬直が起きないという事態に遭遇した時、
私たちの中には非常に戸惑う方もおられるでしょう。
亡くなって三日間も身体が温かく、綺麗な顔、ということもあります。
本来、心は物質に支配されないものです。
心は物質を超えています。

肉体がこの世の法則を超えた奇蹟を現わすのも、
心の本来の働きが肉体に影響しているからです。
人間は何度も肉体という衣を着脱しながら、生まれ変わり死に変わりしています。
一方、魂は永遠に生き通しの命として持続していきます。
人間の本来は永遠の存在です。
ところが、肉体を自分と思っていれば、魂は肉体に支配され拘束されたままです。
自分の正体、魂本来の使命やふるさとを忘れ、眠ってしまっているかのようです。
あの世へも行くことができ、生き通せるはずの魂が自由になれず、
肉体がなくなるのは嫌だなとか、死ぬと燃やされるからかなわないな、
恐ろしいなという思いにがんじがらめに縛られ、委縮していると、
たちまち肉体は石のように硬直し、本当に生命の根っ子から
プツンともがれた花のように美しさを失います。


         ~ 感謝・合掌 ~




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「独り言」より。

2015-10-05 00:02:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


         ◆命のふるさとと光の量の区域◆


なぜ、この現象界が修業に適しているかというと、
ただ厳しい荒波の世界であるからというだけではなく、
別に重大な理由があります。
生まれる以前の素晴らしい世界には、
それぞれの魂の浄(きよ)まり具合に応じた光の量の区域があります。
百ワットの人は同じ百ワットの人だけが集まり住む区域に、
また五十ワットなら五十ワットの人々同士が集まり住む区域に住んでいます。
つまり、同じ心のレベルの者同士が一つの区域に集まっています。
そうすると、魂の修行にとって不都合なことが生じてきます。
魂の次元の同等なもの同士が出会っても、
他を見て己れの至らなさに気づかされたり、
お手本を見させてもらったり、
逆にあのようになってはならないと見せられたりすることがありません。
つまり、他人と自分との違いから学ぶということができません。

光の量の区域という実在界の法則から、
異なる魂のレベルが同居する現象界に心が移行することで、
いかに魂の次元の高い方も次元の低い方も、同じ肉体に宿りますから、
今度は様々な光の段階の人と出会い、
そこで起きる出来事を通して効果的に学んでいくことができます。
魂の速い進歩のためには、
この苦労の多い「苦海」とお釈迦様が言われる現象界に
生かしていただけることはとても幸せなことです。
魂の次元の高い方を見て、次元の低い方は、
「あのように生きなくては」と学ばせていただき、
また低い方の言動を見て、
「あのように生きてはいけない」と学んでいきます。

実在界と現象界との大きな違いは現象界がいかに
教育的な環境であるかということです。
姿形だけみれば、個人差はそれほどないようですが、
心は「あの世」のものです。
それが「この世」の五官を備えた肉体の中に宿ることにより、
自己保存や自我我欲などの「業」の思いを生み出し、
もともとの愛や平安の心を忘れてしまいます。
ところが、自らつくり出してしまった悩みや苦しみ、
「この世」の災難、苦労や困難などを経験することによって、
心の誤りを反省させられ、軌道修正することで成長を遂げつつ、
再び魂のふるさとにいた時の平和な安らぎの心を思い出し、
より次元の高い心へと導かれ成長させられます。


        ~ 感謝・合掌 ~









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「独り言」より。

2015-10-04 00:07:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


先の続き・・・

私たちは人間として生まれる以前は
調和と安らぎに満たされた世界におりました。
今私たちが住んでいる次元とは異なる世界です。
こちらが本当にある世界、実在界です。
私たちにはあるよう思える空間や距離や時間さえも、
実在界(あの世)には存在しません。
そこから、私たちはこの仮の世界、
地球上の一時だけの物質化された現象界に厳しい魂の
修行のために出て来ています。
実在界から現象界を見ると、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所です。
一歩踏み外せば断崖絶壁から転げ落ちる、
あるいは深い深い泥沼にはまるかもしれない。
又、あの蟻地獄そのものです。

それほどこの現象界とは危ない所です。
誰しもが幸福な人生というものを望みます。
自らの欠点を直さなくてもいいのだと言われる方でも、
自分が不幸でもいいとおっしゃる方はおられません。
それは、調和した光あふれる「魂のふるさと」において味わった幸福感、
至福の芳香というものが、記憶の底に残っているからにほかなりません。
望郷の思いであり、郷愁、ノスタルジアの思いです。
再びかつての幸福感を体験するには、
この現象界の様々な困難や危険や誘惑に負けることなく、
それらをのりこえて、自らの心の奥深くへと探求していかねばなりません。
そのための悪癖の修正とも言えます。

私たちは食べるために働き、生活のために汲々としたり、
時には間違ったことも認めなくてはならなかったり、
人の嫌な面や自分の汚らわしい部分にも直面させられたりと、
肉体を持つかぎり不自由きわまりない人生を強いられています。
しかし、人間はただ食べて寝て働いて、適当に遊んで、
肉体の終わりとともに一生を終えるだけの存在ではありません。
なんのために命をいただき、この地上に出て来ているのか。
それは少しでも魂を進化させ、向上させるためだったはずです。

もちろん、その結果としてこの世の生活が充実し、
幸せも健康も自分のものにできるものでなくてはいけません。
その上で魂のふるさとにいつの日か帰り着き、神様と、
そして魂の兄弟たちとの約束を果たしてまいりましたという
安らかな喜びをお伝えすることです。
そのためにも毎日を心豊かに過ごせるよう、
反省と善き行いの努力をすべきです
一休和尚に次のような道歌があります。
「世の中は喰うてくそして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりか」
物質だけを追い求めて生きると、どれほど地位、名誉、財産を得ても、
このような一生になります。


          ~ 感謝・合掌 ~





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「独り言」より。

2015-10-02 23:55:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


私たちはなんのために生まれてきたのでしょうか。
誰しもがこんな疑問をいだいたことがあるかと思います。
子供の頃になぜ自分はここにいるのかとふと思ったり、
青年期に自分の生きる道を模索して、
どんな生き方をしたらいいのかと思ったり、
また社会に出て障壁にぶつかり、このままでいいのか、
私の本当のなすべきことはなんなのかなどと悩んだりしたことは、
どなたにでも経験のあることと思います。

人生とは、人との出会いの中で展開してゆきます。
そして、あらゆる出来事を通して、悩み苦しむのです。
人と出会えば出来事が起きて来ます。
この出来事により、私たちは魂の修行をさせていただきます。
魂の修行とは、人間は人それぞれに素晴らしい面もあれば、
また素晴らしくない面もあります。
その素晴らしくない面を素晴らしくするためにこの世に生まれて来ています。
自分の持っている悪い癖、欠点の修正です。
なくて七癖、あって四十八癖というほど、人はそれぞれの心の癖を持っています。
その癖は遭遇する出来事によって引き出され、強く出て来ます。
わるく出る癖もよく出る癖もありますが、
特にわるい癖のほうは「業」と呼ばれています。

しかし、自分の欠点を直らないものと決め込んでいる方もおられます。
人間は不完全なのが当たり前だと信じていらっしゃいます。
赤ちゃんを見ると人間は生まれながらの天使であるとわかります。
それが成長するにつれて、心が曇ってゆき、天使失格となってしまいます。
縁ある赤ちゃんで一番早く合掌してくれた方は、
生後一か月で抱きかかえられながら
モミジのような手を合わせて綺麗に合掌してくれました。
また、生後九カ月で、
ハイハイがやっとできる赤ちゃんが綺麗に正座して合掌してくれました。
浄心庵にその写真があります。
正に小さな汚れなき仏像のようです。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-02 01:29:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第二章 必要なのは正しい生命観の確立


              ◆心の重量と行き着く先◆


先の続き・・・

これは私たちの誰もがそういう心になれば、体験できることです。
誰にでも該当するということは、
重力の法則が物理的な真実としてこの現象界を支配しているのと同じく、
「心の重さの法則」も心の世界とこの世における境遇を結ぶ法則でもあるからです。
ところがこの法則は人が死んだ瞬間に、
「この世」だけのものではないということが証明されます。
反対に砂を詰めた砂袋のような重い心でいれば、現象界の下のほうへと沈んでゆき、
最下層にぶら下がりながら生きていることになります。
「苦しみ」を心の中に一杯詰め込んでしまった場合です。
砂袋の材料は何かというと、怒り、妬み、謗り、愚痴、貪欲などです。
相手をわるく思ったり、わるく言ったり、恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労をしたり、不安や恐怖にとらわれたり、嘘をついたりすることもそうです。
もちろん、人のものを盗むとか、足ることを忘れた欲望の虜になるとか、
そういうことも心を苦しめ、心を重くします。
心が軽い場合、重い場合、そのどちらもこの世に生かされている限りは、
物質、肉体の世界に心がつなぎとめられていることに変わりありません。

一定の範囲内で上のほうに風船のごとく漂っているか、
それとも砂袋ように下のほうに重く沈んでいるかの違いです。
しかし、臨終を迎え、この肉体界、現象界に心を結びつけていた肉体の命の糸がプツンと
切れると、軽い心は自ずと上へ上へと上昇して喜びの世界へ行きます。
重い心は鉛のように垂直方向に落ちて、苦しみの世界へ行きます。
これは自然法則と同様に私たちにとっては逆らうことのできぬことです。
いかに厚い信仰をしても、どんな宗教に入っても、どんなに善い事をしても、
その結果、自分の心を苦しめますと心は必ず重くなります。
下に行きたくない、上に昇りたいと言ったところでどうしようもありません。
先に「心の重さの法則」は「この世」だけに適用されるものではないということを述べました。
それは、こうした意味においてです。

肉体にあるうちに魂の目的を知り、自らの心を綺麗にし、
自らの心を高める努力をすることによってのみ、死後は自分の望む方向に行くことができるわけです。
己れ自身を愛することを神様は私たち一人一人に望んでおられます。
死んで自分が行くことになる所が、苦しみの世界ではなく光に満たされた世界であるためにも、
日頃から自分の心を苦しめないように心がけることが大切です。
「火の車つくる大工はなけれども己がつくりて己が乗りゆく」のとおりに、
火の車を造って乗っているのは他ならぬ自分であり、地獄へ行くのも自分が行くべくして
行っているということです。
これは厳然とした法則の中における人間の選択の自由ですが、その自由も魂の度合いに
応じたものです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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