浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

我れ食べず人に施す母の愛
幼き我に布施教えらる

「独り言」より。

2015-10-02 23:55:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


私たちはなんのために生まれてきたのでしょうか。
誰しもがこんな疑問をいだいたことがあるかと思います。
子供の頃になぜ自分はここにいるのかとふと思ったり、
青年期に自分の生きる道を模索して、
どんな生き方をしたらいいのかと思ったり、
また社会に出て障壁にぶつかり、このままでいいのか、
私の本当のなすべきことはなんなのかなどと悩んだりしたことは、
どなたにでも経験のあることと思います。

人生とは、人との出会いの中で展開してゆきます。
そして、あらゆる出来事を通して、悩み苦しむのです。
人と出会えば出来事が起きて来ます。
この出来事により、私たちは魂の修行をさせていただきます。
魂の修行とは、人間は人それぞれに素晴らしい面もあれば、
また素晴らしくない面もあります。
その素晴らしくない面を素晴らしくするためにこの世に生まれて来ています。
自分の持っている悪い癖、欠点の修正です。
なくて七癖、あって四十八癖というほど、人はそれぞれの心の癖を持っています。
その癖は遭遇する出来事によって引き出され、強く出て来ます。
わるく出る癖もよく出る癖もありますが、
特にわるい癖のほうは「業」と呼ばれています。

しかし、自分の欠点を直らないものと決め込んでいる方もおられます。
人間は不完全なのが当たり前だと信じていらっしゃいます。
赤ちゃんを見ると人間は生まれながらの天使であるとわかります。
それが成長するにつれて、心が曇ってゆき、天使失格となってしまいます。
縁ある赤ちゃんで一番早く合掌してくれた方は、
生後一か月で抱きかかえられながら
モミジのような手を合わせて綺麗に合掌してくれました。
また、生後九カ月で、
ハイハイがやっとできる赤ちゃんが綺麗に正座して合掌してくれました。
浄心庵にその写真があります。
正に小さな汚れなき仏像のようです。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「独り言」より。

2015-10-02 01:29:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第二章 必要なのは正しい生命観の確立


              ◆心の重量と行き着く先◆


先の続き・・・

これは私たちの誰もがそういう心になれば、体験できることです。
誰にでも該当するということは、
重力の法則が物理的な真実としてこの現象界を支配しているのと同じく、
「心の重さの法則」も心の世界とこの世における境遇を結ぶ法則でもあるからです。
ところがこの法則は人が死んだ瞬間に、
「この世」だけのものではないということが証明されます。
反対に砂を詰めた砂袋のような重い心でいれば、現象界の下のほうへと沈んでゆき、
最下層にぶら下がりながら生きていることになります。
「苦しみ」を心の中に一杯詰め込んでしまった場合です。
砂袋の材料は何かというと、怒り、妬み、謗り、愚痴、貪欲などです。
相手をわるく思ったり、わるく言ったり、恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労をしたり、不安や恐怖にとらわれたり、嘘をついたりすることもそうです。
もちろん、人のものを盗むとか、足ることを忘れた欲望の虜になるとか、
そういうことも心を苦しめ、心を重くします。
心が軽い場合、重い場合、そのどちらもこの世に生かされている限りは、
物質、肉体の世界に心がつなぎとめられていることに変わりありません。

一定の範囲内で上のほうに風船のごとく漂っているか、
それとも砂袋ように下のほうに重く沈んでいるかの違いです。
しかし、臨終を迎え、この肉体界、現象界に心を結びつけていた肉体の命の糸がプツンと
切れると、軽い心は自ずと上へ上へと上昇して喜びの世界へ行きます。
重い心は鉛のように垂直方向に落ちて、苦しみの世界へ行きます。
これは自然法則と同様に私たちにとっては逆らうことのできぬことです。
いかに厚い信仰をしても、どんな宗教に入っても、どんなに善い事をしても、
その結果、自分の心を苦しめますと心は必ず重くなります。
下に行きたくない、上に昇りたいと言ったところでどうしようもありません。
先に「心の重さの法則」は「この世」だけに適用されるものではないということを述べました。
それは、こうした意味においてです。

肉体にあるうちに魂の目的を知り、自らの心を綺麗にし、
自らの心を高める努力をすることによってのみ、死後は自分の望む方向に行くことができるわけです。
己れ自身を愛することを神様は私たち一人一人に望んでおられます。
死んで自分が行くことになる所が、苦しみの世界ではなく光に満たされた世界であるためにも、
日頃から自分の心を苦しめないように心がけることが大切です。
「火の車つくる大工はなけれども己がつくりて己が乗りゆく」のとおりに、
火の車を造って乗っているのは他ならぬ自分であり、地獄へ行くのも自分が行くべくして
行っているということです。
これは厳然とした法則の中における人間の選択の自由ですが、その自由も魂の度合いに
応じたものです。


             ~ 感謝・合掌 ~



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