浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2018-04-14 23:31:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「結構の源やん」

思い替えの方法で一番参考になるのが、この『結構の源やん』の話しです。
今の東大阪に、名前は「源やん」、
渾名は「結構」という方がおられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不足を言われなかった。
何が起きても「アア、結構やないか、結構やないか」と
おっしゃったそうです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という名前です。

で、ある年、毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一カ月ほども降ったそうです。
その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」といって、
三日間仕事ができなければ、
もう日雇いの人は食べられないような状態だったのです。
源やんの友だちの人たちが、
「さすがにあの結構の源やんもこれだけ雨が降ったら、
もう結構ってよう言わんやろなァ。

一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、源やんの家に行ったそうです。
「源やん居てるかーッ」と言って行ったら、「ハーイ」と出て
来られたそうです。
「かなわんなァ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。

「結構、結構やないか」というのは、「有難いやないか」ということです。
「ああ結構やないか」。「これだけ雨が降るのに何が結構や」と聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天で受けてくれはって、
そしていっぱいたまった三十日分をバーッと一遍にぶっちゃけてくれはったら、
家も畑も田圃もみな流れてしまう。

こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と
言って喜ばれたそうです。
世間の人は皆「かなわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な結構な、まあ大金持ちになられたそうです。
大阪で有名な話です。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2018-04-13 23:45:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「感謝する」とは

先の続き・・・

腹立つことも人間の心の苦しみですね。
いつもお話しします『心の砂袋』、私たちの心の砂袋、
その砂袋の材料です。
怒りとか、妬みとか、そしりとか、愚痴とか、あるいは恨んだり、
憎んだり、いらぬ取越し苦労したり、また不安とか恐怖。
不安・恐怖はあまり楽しくないでしょう。
あれは砂袋の材料です。

そして、そういうものを心の中へいっぱい詰めてしまいますと、
心が重くなります。
ところが感謝しておりますと、そういう砂が入ってこないのです、
自分の中へ。
感謝で心を満たしている限り、二つを同時に思えませんから、
ただ感謝だけですから、他のものが入れないのです。
ということは、自分の心が曇る量が少なくなるのです。
「有難い」「結構や」「何と幸せや」、そういう思いを常に持ち続けたら
他の想念が入れませんから、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が与えられるということですね。

そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって
結構に満たされておりますと、その人の感謝を続けた時間だけ
幸せな時間が与えられるということですね。
そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって結構に
満たされておりますと、こんどは肉体も結構になっていくのです。
肉体が結構になるということは健康になることです。
病気が消えていきます。

何故かと言いますと、「肉体の支配者は己の意識なり」と
説いていただいています。
自分の肉体を支配するのは、自分の心だということですね。
肉体の支配者は己の心。
その心が「結構や、結構や」と言っておりますと、支配者が「結構や」と
言っているから、その家来である肉体も結構になっていくのです。
また同時に、今度は環境が結構になります。
環境が結構になるということは、商売は繁盛する、家の中はうまくいく、
そして人からかわいがってもらえる等です。

感謝ということはものすごい功徳があるということですね。
この功徳を説きますと、「ア、そりゃ現世利益や」と、
言われるかも知れませんが、まあ何と言われようと構いません。
要は幸せになることです。
幸せになれない信仰、幸せになれない教えでしたらしない方がましですね。
そんな簡単なところに幸せになる「法」がちゃんと与えられていたのです。
それに気付くことができなかった。

この「法」とは、そういう真理、隠された真理が現象に現れるのです。
ですから、思いはこのように持たなくてはならない。
常に他を生かす、あるいは喜び・感謝の心を持つこと。
これを今様の言い方をしますと、プラス・マイナス、プラス思考あるいは
マイナス思考。
常に心はプラス思考、プラスの考えの方に向けておけばいいのですね。
マイナスの方に向けますと、やがてすべてがマイナスになってしまいます。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-04-12 23:57:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             「感謝する」とは

「感謝」は自分の心を一切の魔から守っていただけます。
それはどういうことかといいますと、人間の心は二つの思いを同時に思う
ことはできません。
どんなに器用な方でも心は二つを同時に思えないように
神様がお作りになったのでしょう。
心を分析しましたら、心というものは必ず一つずつしか
思えないようになっています。
瞑想又は精神統一されたらよくわかるでしょう。
「一度、心を統一しよう」と思って坐ってみて下さい。
心はたちまちコロコロと転げ回ります。
まるで山野の猿の如く飛び回るものです。

ところがよく考えてみますと、必ず一つ、一つずつを思っています。
禅定して、「今日は心を統一して禅定三昧に入ってみたい」と
思っている時、誰かが下駄の足音をカタカタと鳴らして通ったとします。
「ああうるさいなあ」「今の下駄の音は重そうだからたぶん男だろう」
「あれは大分よく肥えた人にちがいない」「どこの人かなあ」
「今頃、何をしに来たのだろう」
・・・・もう次から次へと休むことを知らず
思いが飛び回りますが、必ず一つずつだけ思っています。
「ああ悲しい、ワッ嬉しい」この思いを同時に思うことはできません。
また、怒り狂いながら心に安らぎを持つこともできません。
必ず一つずつだけを思っています。

ということは、「ああ有難いなあ」、
「有難いなあ、結構やなあ」と思っておりますと、
その思いだけしかできないはずです。
それでは、もし一日のうちの十分間「ああ有難いなあ、結構やなあ」
「ああ有難いよ」と持続できますと、
この十分間は、他の考えは入れないです。
ということは、今日という日の一日の中で十分間が心安らかだったのです。
では、一時間「ああ結構やなあ、結構やなあ」と言って感謝の念を持ち続けたら、
今日という日の一時間は幸せな時間が保つわけですね。
じゃあ、もう一日中「結構や、結構や」と言って暮らしたら、今日という日が、
幸せ以外の思いが入らないから、幸せだったはずですね。
そして、その積み重ね、今日一日「結構結構」と言って暮らし、また明日も
「結構結構」と言って暮らしますと、また明日も幸せな一日。
二つを同時に思えないのですから。
この積み重ねが幸せな人生になるはずです。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2018-04-11 23:42:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


           許しについて

先の続き・・・

許すことのできない人を許したときほど、
自らの心の喜びが大きくなります。
許せないから、私たちはよう許さなかったのですね。
しかし、許さない限り自分自身が許されないんです。
相手を許すのではない。
許させていただくんです。
心の底から許させていただいたとき、その人を見ても、
その人のことを思い出しても、縁に触れても、
もう腹は立ちませんが、許しておりませんと、
普段は忘れております。

しかし、その人のことを聞いたり、
あるいはその人のことを思い出すと、また顔を見たりしますと、
「あの人はあの時えらいめにあわせやがった」いって、
その時の苦しみがそのまま再現されるんです。
即そのままその苦しみが自分の心の中に蘇ってきます。
だから、死んでももっていかなければなりません。
人は誰でも過ちを犯します。
自分も犯したはずです。

その犯した自分が許していただいて生きさせてもらっています。
では、人の過ちも許させてもらって当然です。
それは相手を許すと思うから許せないのです。
「許すことによって自らが許していただける」ということを知った時、
恨めしい方・憎い方・腹立つ方を許すことによって、
自らがその怒り・憎しみから解放されます。
だから許すのではない。
許させていただくことです。

許さない限り、その苦しみは死んでも、もっていくことになります。
出来事は今を境としてすべて過去へ過去へと過ぎていくものですね。
今日のこのお話も明日になれば、
もう昨日という過去へ過ぎ去っていきます。
喜びとか、あるいはこういう場所で心安らいだ時間は、
自分の心の中に大切にしまっておいても結構ですけど、
怒りや憎しみや恨みのそういう苦しみはもう過去へ
過ぎ去っていったものですから、一時も早く自分の心から離すこと、
嫌なものはできるだけ早く捨てることですね。
その時、荷物が少なくなります。

たくさんの荷物を背負うておりますと、
やがて絶対私たちが避けることのできないあの世への旅ですね、
その時にその荷物の重さによって、
まず、三途の川で沈没を起こします。
荷物は軽い方が結構です。
今こうして健康に生きさせていただいている間に、
できるだけ荷物を軽くしていきたいと思います。


           ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-10 23:43:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


    許しについて

皆さんが、縁ある方はすべて幸せになってほしい。
また幸せにならなくてはならないのです。
すべての人は幸せになる権利をもっているはずです。
神から平等に与えられ、
しかも神は「幸せになれ、健やかに生きよ」と言われます。
もし自らの心を自ら苦しめますと、それは神を冒瀆し、
神に背いた行為だと思ってください。
自分の心を苦しめてはいけません。
自分の心を大事にすることです。

そして、自分を大事にするが如く、
自分がいとしいように他の方も自らをいとしいのです。
ですから、自分を大事にする如く他を大事にしなさい。
自分を大事にするといっても、
何もしないで「アア、かわいい、かわいい」と
自分のことばかり考えて人のことを思わないのであれば、
これは大事にしていないのです。
「かわいいなあ」こんなことをしていたら自分を甘やかし、
自分を本当に愛していない。

自分の心を苦しめることは、
怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・取越し苦労・不安とか
恐怖とか貪欲。
これこそ私たちの心の苦しみ、自ら苦しむ原因であることが
わかりますと、万難を排してでもこれらの想念を捨てることですね。
その時、幸せが約束されるはずです。
そしてご奉仕、隣人にたださせていただくだけの愛の実践、
そして過去の許し難い人を許すことです。


     ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-09 23:53:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   ~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


         恩師のオリジナル
               「神の御心」 


   いとしきわが子よ いとしきわが子よ
   そなた達は 幸せに生きよ 健やかに生きよ
   己れ自身を 苦しむることなかれ
   己れを愛し 己れを愛するが如く 他を愛せよ
   汝らの 喜びは 我が喜びなり
   汝らの 苦しみは 我が苦しみなり

   いとし子よ 自らを苦しむることなかれ
   汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
   自らの神我に目覚めよ
   我は愛ゆえにそなた達を 形として現せし
   厳しき現象界に旅立たせし者なり
   いとおしきが故に 旅立たせし者なり
   いとし子よ そなた達が この地上に 
   肉の身を持ち旅立ちし日より
   今日までをよく振り返り見よ

   我が心と 汝らの心と想念行為を照らし合わせよ
   もし我が心と離れし箇所に気付かば それを悔い改めよ
   その時 汝らの魂は清まれり
   我が与えし その肉の身を持ち
   我が思いを この地上に示し現せよ
   我が心を地上に具現せよ
   汝らは 我がいとし子なるが故に
   我は汝らの父なり 父は唯 子の幸せを願う
   自らを浄め 自らを高め 自らの神我に目覚め
   我が胸の中に帰るべし
   我は唯 汝らの帰りを 待ち望むものなり


          ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-04-09 00:17:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「思いの中に生きる」より


 恩師のオリジナル
           「神の御姿」

   私は形あって形なし
   形あっては天地自然に現わせし姿これなり
   形なくては汝らを生かさん力これなり
   汝らを形あるものとしてこの地上に生じせしめ
   形なき汝らの良心の囁きとなって
   我は証しせん


         ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-08 00:00:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

※ 本日より引き続きまして恩師(故)長尾弘先生のご著書
        「思いの中に生きる」を掲載させていただきます。

     ~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


              愛は光なり
              光は道なり
              道は人を歩ます

           偉大なる光の大王に導かれ
           我が身は動き 口は語らん

           日々に神の御胸に抱かれて
           光の国に住める嬉しさ


             ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-07 00:34:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


あとがき

この書の出版に至るきっかけとして、私を知る方々から、
どうしても長尾弘の生きざまを世に著わしてほしいという強い
希望がありました。
しかし、私は自分の人生を人に知られず生える野の雑草の一本として、
世に知られぬままに、人々の下僕として生き抜こうと思っておりました。
この実践を守り通して、この世を静かに去れたなら、大満足の人生であったと
思っていたからです。
何回もお断りしました。
今の世に受け容れられにくいであろう法を世に訴えても、労多くして益少なき
ことではないかと思っておりました。

しかし、たとえ一人でもいい、まことの心を求める求道者があるならば、
その方の参考としていただけるかもしれない。
こういう望みを託して、とうとう出版社との契約に踏み切ることになりました。
この書はあくまで一個人の人生における体験談です。
人に説法したり、人に聞かせるような意志はまったくありません。
自分に与えられた人生に悔いなき花を咲かせよう、人生の終末に喜びの果実を
収穫しようと、一生懸命に生きてきました。
私の生活実践は完全に自分を捨てて(不惜身命)、己を忘れて他を利する
(忘己利他)を理想としてきました。

この世の肉体の五官煩悩におおわれ、自己保存、自我我欲にとらわれ、地位、
名誉、名声、財産、金銭の追求に明け暮れる方々にとっては、まことに愚かな、
哀れな生活実践であると思います。
この生活実践を通してこそ、煩悩の炎が消え去った心の状態を
味わうことができます。
涅槃寂静の心境かもしれません。
涅槃はどれだけの知識を得ても、座しても、悟れるものではなく、
生活実践の中に悟るものだと思います。
しかし、第三者に強要はしません。
それは言うに易く、行うにあまりにも難しいからです。
また、弟子、後継者は、敢えて望みません。

それは自然にまかせます。
故高橋信次先生との出会いによって、私の人生は大きく変わりました。
もし、先生との出会いがなかったならば、今の私はありえないと思っています。
それは心に目覚めをいただいたからです。
心の目覚めがなかったならば、おそらく苦悩の中をさまよって人生を
終わっていたでしょう。
私が先生との出会いによって目覚めたように、この書との縁にふれた方々が、
結果として一人でも多く目覚めていただいたならば、幸甚であり、喜びであります。
また、このことによって、私個人の人生がはじめて存在する意義を持つことに、
心から感謝いたします。
この書の出版にあたり、ご尽力、ご協力をいただきました方々に対して、
心から感謝を申し上げます。

平成十年 十月吉日
                             長尾 弘 識す


          ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-05 23:43:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      心の教えを正しく行うと証がついて回る

            気づきと癒し

先の続き・・・

外見によって人間を判断し、こうあるべきだという固定観念に縛られ、
あらゆる権威に目を欺かれていれば、
本質を見誤るという愚を犯してしまいます。
魂を少しでも向上させて、魂のふるさとに帰り着くまでの、
この世にいる間の修業です。
そのための警鐘が病気です。
ふつうは病気になったと言っては嘆き悲しみ、
運命を呪い、ついには心を重くしていきます。
ところが、同じように病気になっても、
この方は、「肉体を救ってくださいとはいいません。
どうぞ心を救ってください」と言えたため、心が浄化されたのです。
そして、これこそが本当の癒しです。

自己の過ちへの気づきが起こり、その結果として、心の浄化が起き、
そして肺癌が消えるという快癒につながったのです。
病気が心を見直し、
自らの心の誤りに気づいてこれを改めるきっかけとなりました。
私たちが神のいとし子であり、
もともと光から来ている神の分け御霊でもあり、
たとえ病気になっても自己治癒能力を与えられているからです。
誰かに癒してもらって、病気が治ったからもういいのだというのではなく、
病気になるには、それだけの原因があり、これに気づくことによって、
本当に心身ともに癒されます。

この気づきは結局、
一人一人がその原因に心を向けて修正すべき事柄であり、
誰かに頼って行われるものではありません。
癒されてありがたくて心を入れ替えるか、
心を見つめて今までの過ちに気づいて心を変えるとともに
心身が癒されていくか。
まさに「病気は神が与え給うた反省のチャンスである」と思います。
常に自己反省を心がけ、自らを正し、
幸せな人生を送りたいと願っています。
人は、よく話せばよく喋ると言われ、
話さなければものを言わないと言われ、
中程に喋ればうるさいと言われます。

この書を読んで人は又いろいろと言ってくれると思います。
治っていても、私は治らなかったとか、
私は悪くなったとか言う人もあると思います。
しかし本書は真実のみを伝えたものです。
全ての方々よ、自らの心に目覚めましょう。
健康で幸せに生きましょう。
これが神の御心であり法であり、私の日々のお祈りであります。

                    合掌


          ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2018-04-04 23:52:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      心の教えを正しく行うと証がついて回る

      気づきと癒し

神戸のあるクリスチャンの婦人がヨーロッパからの帰り飛行機の中で、
山口での講演からテープ起こしして作っていただいた文章を読み、
ここに聖書そのものの世界が書かれていると感じられたそうです。
洗礼を受けて以来三十年も経つという方ですから、聖書については赤線が
たくさん引かれてほとんど赤くなるくらいに詳しいのです。
ひょっとしたらこれはイエス様が日本にご出現になったのではないか、
日本に戻ったらすぐに会いに行こうと思われたそうです。
ところが、このハイカラな婦人が実際に訪ねて見えられると、ステテコと
ランニングシャツ一枚でうろうろしている私の姿を見て、最初は人違いだと
思ったようです。

そのうちお目当ての人物とわかると、腰を抜かすほどにびっくりされました。
もっと威風堂々として、
立派な出で立ちの方がカーテンの奥から静々と出て来られるのかなと
思っていたと言われます。
この方にお話をさせていただきました。
宗教の法王様なら、大勢の人々にかしずかれ、壮麗な長衣をまとい、
頭にはきらびやかな冠を頂き、黄金の錫杖を手にして威厳を保たれておられる
姿を彷彿とさせるでしょう。
そういう方が立派であるとあなたは思っておられるかもしれません。
しかし、古の聖者イエスはその生涯において、いつあのように着飾られたでしょう。
そのように身を飾ることなどなさったことは一度もありませんでした。
キリスト教徒といえば、イエスの生きざまを生きなくてはいけないのです。
後の世の法王のように生きるのではないのです。

イエスは一般の者となんら変わりはない格好をされていたはずです。
しかも、イエスはこのように言われています。
「私は人々に仕えられるために来た者ではなく、仕えるために来た者である。
そして、多くの人々の贖いのために私の命を与えに来た者である」と。
教会の偉い方々は、大勢の人々に仕えられています。
イエスはそうではなく、人々に仕えています。
今の在り方が元の教えから隔たってしまったことに目覚めなさい、と言うと、
本当にそうですとおっしゃいます。
その方が、肺癌ですぐにも入院して抗癌剤で治療をしないといけないと、
医者から宣告を受けました。

すると、肉体を救ってくださいとは言いません。
このまま自分の魂が汚れたままあの世に帰ると大変です、
せめて私の心を救ってください、と頼まれました。
そこで、反省をしていただきました。
泣いて泣いて、本当に泣き叫んで、ご自分の過ちに目覚められました。
それから、まもなくお医者さんで検査を受けると、
まったく癌がなくなっていたそうです。
反省により心によって癌が消えた事例です。
もう十数年も過ぎますが、元気に生きておられます。
自分の心の誤りに気づくということが、限りある人生においていかに大切であるか。
このことをわからせてもらえる好例だと思います。


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「御垂訓」

2018-04-04 01:27:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より



       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る

         個我の力ではない癒しのパワー

先の続き・・・

なぜ、そのようなものを受けるのか。
人の病気を治させていただきたいですが、
相手の病気をもたったら大変です。
これは嫌いです。
怖いです。
これも自己保存の心です。
病気には何とも言えない恐ろしいものまでいろいろとあります。
そんな病気を自分が受けたらたいへんです。
そういうわけで、一時はとても悩みました。
そこで、その当時はまだ正法に御縁はありませんから、
どこに神様がいらっしゃるかもわかりませんが、
もし神様がいらしゃったらということで祈りました。

「今いただいた力で少しでも多くの方を救わせていただきたいです。
しかし、相手の業をもらうのは嫌でございます。
だから、治させていただいて、相手の病気を受けない方法があるなら、
是非教えてください」と、あつかましい祈りですが、
毎晩一時間、二時間、三時間と真剣に祈りました。
或る時は朝まで祈りました。
百日も過ぎた頃に、「汝の癒しを他にゆだねよ」という言葉が、
自分の心の中から湧き上がってまいりました。
この短い言葉ですべての謎が解けたのでした。

病気治しをする人で相手の病気をもらっているのは、
「自分が治してやった」という
「自分が 自分が」の「我」の中に相手の業を
受けてしまうのだということがわかったのです。
すべての謎が解けて以来、癒しの成果を自分以外の方の力に
帰しました。
その結果、あまりにも多くの方が救われてくれましたが、
そのかわりに私自身の肉体のほうはなんともないという
有難い結果が出ております。
それは、人々の業が神様のほうへ行ってしまい、
その光の中で消されるからです。

「偉大なる光の王に導かれ 我が身は動き口は語らん」当時の歌です。

私以外の力であるということは、神様の力であり、
目に見えない世界のご協力をいただいているお陰ということを
誰よりもよく理解しているつもりです。
その代わり、自慢することができません。
自分の力でないとわかっていますから、どんな奇跡を現わしていただいても、
自慢することはできません。
これは神様のお陰であって、私には関係のないことです。
神に感謝しましょう。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-04-02 23:47:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る

     個我の力ではない癒しのパワー

体中に癌が出る多様性の癌という病気に罹った方がいらっしゃいました。
七月の終わりにもう盆までは命は持たないだろうと診断され、体力がなくなり
電灯を見る気力もなかったそうです。
その方の主治医は私の縁ある方の息子さんでした。
お医者さんのお母さんは癌の方が息子の友人でしたから、かわいそうに思い、
当方に見えて、彼に飲ませるお水に光を入れてくださいと言われました。
そこで、水に対して祈りました。
「水は命の親様です。この水を通して命をお与えください」と。

その水を運んでくださり、飲ませているうちに癌がすっかり
消えてしまったということです。
その方はある新興宗教系の大学を出られ、宗教団体の幹部だったそうです。
他の信仰には耳を貸さず、私とはまったく会う機会もなかった方です。
水も飲めなかったのが、一週間もしたらコーヒーが飲めるようになり、
食事を受け付けるようになったそうです。
九月に退院し、十月から職場復帰され、年末には死にかけていたはずの方が
全快して島根の銘酒を三本下げて、そのお医者さんのお母さんのお宅に御礼に
訪れたそうです。
そのうち一本をいただきました。

こういう話をしていると、自慢話しばかりだと言われる方もあると思います。
ただ神が現わしてくださる御業を神の子として述べ伝えさせていただいてる
だけのことです。
神はこのようなお力をお持ちです、
このようなお力をお現わしです、ということをお伝えしているだけなのです。
「神が病気を癒し給い、医者がその手柄を横取りする」という言葉もあります。
お医者さんといえども、ただ自然治癒能力のお手伝いをしているだけです。
それを「わしが治してやった。わしが治してやった」と思っていると、
いつの日か必ずその業を受けます。

相手の業を自分が受けてしまいます。
すべての癒しというのは、私たち以外の力により、その御業がなされていると
いうことをしることが大切です。
今から二十五年ほど前のことです。
私の身の上にいろいろと不思議な事が起きておりました。
「人さんに助かってほしい。人さんを助けさしてほしい」と私はよく思いました。
しかし「人を助けて我が地獄」ということはよくあります。

拝み屋さんにしても、不思議な癒しをされる人でも、あるいは霊的に治す人でも、
相手の病を治すけれど、自分が人々の業を受けて苦しむ方がたくさんいます。
或る時、私より背の高い立派な紳士が現れて、「もう生きる希望もありません。
仕事する気力もありません。もう死にたいんです」と言われます。
「ああ、そんなものは心の病気です。心を学んで心を正しなさい」と言いますと、
「いやあ、実は私はその専門家です」とおっしゃいました。
よく聞く話しです。
精神病院のお医者さんが心の病になるとか、癌の専門医が癌に倒れるとか、
よく聞く話しです。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-04-02 00:12:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る

      ミラノの聾唖者の少女

先の続き・・・

サーラは私の名前をナガオと教えますと、最後の「オ」をとくに長く伸ばして
一音ずつ一生懸命に発音してくれました。
翌日は、すでに百何十キロと離れたところのレストランにおりましたが、
もうほぼ正常になったという連絡がお母さんから電話で入りました。
生まれてから十何年も声というものを聞いていなかったら、
たとえ耳が聞こえるようになっても、
それが何を言っているのかわからないのが普通です。
それが不思議なことに、その状況の中で周囲の人々の愛に支えられながら
理解できたのです。
コレットの社長が言いました。
「あなたは偉大な方だ」
日本から行った人たちが言いました。
「今ごろ気が付いたのか。遅すぎるよ」

東京にも同じケースの方がいらっしゃり、
やはりこちらが何か言うといっしょになって笑っていました。
これは医学では考えられないことです。
しかし、事実です。
それから、強度の弱視者の方ですが、手を引かれてやっと連れて来られた方が、
十分もしないうちに正常になってしまわれました。
これも考えられないことです。
ロンドンの青年は十三年もの長い間、
交通事故のために車椅子の生活をしていましたが、その場で立ち上がり、
歩行できるようになりました。
聖書にはイエス様が現わされた奇跡がたくさん書かれてあり、
その奇跡のゆえに聖書が信じられないという人がよくあります。
しかし、ああいう奇跡は実際に起こるのだということを数限りなく
体験させていただき、また周囲の方々にも見せられてまいりました。

聖書にはラザロの復活という蘇生の一場があります。
私も似たようなことがありました。
頼まれて病院にかけつけると、お医者さんが御臨終ですと言われ、
家族の人々は泣いていました。
しかし、その方のそばに行くと、まだ大丈夫だという気がしました。
そこで、「あなたはまだ肉体を去ってはいけない、
肉体の中に帰って来なさい」と言いますと、
その方は直ちに生き返ってくれました。
目をあけて、「僕はどこへ行ってましたんや」と尋ねられるので、
「あなたはあの世に行ってたんです」と答えました。
水がほしいと言われます。
氷を一つもらってきて、口を開けなさいと言うと、口を開けました。
もう何日も食事をしていないから、口を開けると茶色の糸がたくさん引きます。
その口に氷を入れてあげると、今でもありありと印象に残っていますが、
「あー、おいしい!」とおっしゃいました。
当時二十四歳の青年でした。
まだ元気に生きています。

ちなみに、ラザロの場合は、
イエスが世間に名声を博すことを心配したユダヤ教の人々が、
暗殺者を差し向け、せっかく蘇生したラザロは、その日の夜また
殺されたと言われています。
イエス様も十字架にかかって亡くなる時に、泣いてすがる、彼を愛した人々に
向かって、「泣くことはない。あの者たちを恨んでもならない。彼らは自分の
過ちを知らないからである」と言われたそうです。
人間が本来神の分け御霊であるということ、
本来は永遠の生命につながっているのだということ、
死んだらまた光輝く魂のふるさとに帰るのだということ、
そして人の命の生殺与奪の権はすべて神の御手にゆだねられていること。
これらの真理を一日も早く人類すべてが悟るべきであると思います。


            ~ 感謝・合掌 ~





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