生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジン技術(20)

2024年12月15日 07時03分37秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジン技術(20)
第23章 第6世代(2010年代)の民間航空機用エンジン

 この世代のエンジンの特徴は、ファンとLPタービンを直結せずに間に減速歯車を介して、それぞれの要素の効率を高め、かつ燃費向上に最も有効なバイパス比を高めたことであった。この技術は、1980年代のV2500の初期の設計時代にも、派生型としてSuper Fanの名称で図面が描かれていた。このような将来の派生型の図面まで作成することは、新型エンジンの売込みには必須のことで、どのエアラインでも一旦エンジンを決めてしまえば、諸経費の節約のために、その派生型も採用することが通常であるために、売込み中の新型が、将来どのような発展の余地が考えられているかということが、選定の際の主要な判断材料になっていたためである。
 従って、この形態は古くから考えられており、何度か試作まで行われていたが、歯車の耐久性を含む信頼性に疑問が残るために、実用機には採用されなかった。しかし、オイル価格の高騰に伴う燃費向上での競争力を一層高めるために、中型エンジンへの採用が図られることになった。その代表例がPW1100エンジンであった。
 
 2010年12月、エアバスA320neoのエンジンとしてPW1100G-JMが選定された。P&Wは共同開発したV2500の後継エンジンという位置付けもあり、JAECとMTUエアロ・エンジンズに開発事業への参画を要請し、参画が決定し、2011年9月に共同事業調書が調印された。シェアーは米国が59%、日本が23%、ドイツが18%である。2014年12月にFAAの型式証明を取得した。このエンジンには、ファンケースをはじめとする主要部品に複合材が用いられ、大口径エンジンの軽量化設計を可能にした。しかし、シェアー59%はP&Wがすべての決定を単独で行えることを意味している。
 
 新型エンジンを搭載した単通路の近・中距離向け商業旅客機としては、エアバスA320neoが登場した。このシリーズは基本型のA320neo、短胴型のA319neo、長胴型のA321neoがあり、A321neoには航続距離を増やしたLR(Long Range)型もあり、従来型と比べて、燃費面で15%の低減、騒音面で50%の低減が達成された。
2011年にはインド最大の格安航空会社(LCC)IndiGoより150機、2011年のパリ航空ショーでは、エアアジアグループから航空機生産業として史上最大規模の大型取引合意である合計200機の発注を受け、LCC熱が一気に高まった。また、MHIが開発を始めたドリームジェットにも採用が決まった。


図23.1  PW1100G-JM とV2500の主要諸元比較(13)


図23.2  PW1100G-JMの日本の担当部位(19)

23.1 競争の激化による問題の発生

 この時期、開発競争が激化したことにより、製造に起因するような不適合事案も頻発するようになってしまった。2018年2月には、A320neo飛行中のエンジン停止と離陸中止の事案が報告され,その後およそ3分の1のエンジンに欠陥が見つかり、EASAは緊急耐 
空性改善通報(2018-0041-E)を出し、洋上ETOPS運航の中止を指示した。

 同様なことが、2019年にBoeingにも発生した。2度の墜落事故を起こしたBoeing737MAXは、飛行停止の期間が予想以上に延びて、ついに2020年当初からは生産中止に追い込まれてしまった。機体の生産ラインが停止する影響は、エンジンをはじめとして、数百万点の部品の数千社のサプライチエーンに莫大な影響を与える。特に、エンジンを始めとする安全飛行に係わる重要部品については、有資格者が規定に従った手順で製造しなければならない。このことをはじめとして、生産の一時停止は他の産業と比べて膨大な影響が多方面に及ぶことになる。

 一方で、広胴型の大型機にも大きな問題が発生した。Boeing787の火災事故である。2000年代に開発された機体は、ようやく2011年9月に、ローンチ・カスタマーの全日本空輸が引渡しを受けた。開発用初号機がロールアウトしてから4年越しであった。
 新型のエンジンにより、新たな発電機により充電された大容量のリチウムイオン電池が採用された機体は、順調な滑り出しだったが、たった2年間の飛行で重大な危機を迎えてしまった。原因不明の電池の発火である。
 アメリカ連邦航空局 (FAA) は、ANA機のインシデントを受けて耐空性改善命令を発行してアメリカ国籍の同型機に対し、運航の一時停止を命じ、世界各国の航空当局に対し同様の措置をとるように求めた。このため、世界各国で使用中の機体すべてが運航停止となった。
 
 このように、電子化が進むことにより、機体とエンジンの関係は従来よりもかなり複雑になり、開発期間と運行後の一定期間に、従来にはなかった不具合が多数発覚する事態が世界的に続くことになってしまった。このことの底流には、グローバル化の浸透による技術力の低下があると筆者は考えている。そのために1980年代に始まったETOPS制度が崩壊してはならず、エンジンの設計と製造プロセスには一層の信頼性が求められることは明白で、その信頼性の確保のための有力な手段として採用した「EQAD」(Early Quality Assured Design)については後報(私の博士論文)で説明する。

石原慎太郎の法華経を生きる(1998)

2024年11月24日 08時27分48秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 法華経を生きる                                                             その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(212)
          
書籍名;法華経を生きる(1998)
著者;石原慎太郎、発行年、月;1998.12
発行所;幻冬舎

 法華経について、Wikipediaには次のようにある。 
『法華経は、大乗仏教(密教も含まれる)の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれており、法華経が開発した観世音菩薩や地蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩は密教に引き継がれている。また、壮大なフィクションや、法華経の無限連鎖などの、独自性は他に類を見ない。法華経は、在家仏教徒が創作した独自経典であるため、土着信仰や呪文、神通力やフィクションが混在している。また、カルト的という特色を持つ一方で、誰もが平等に成仏できるという、新しい仏教思想が説かれている。般若経典や華厳経などの経典群と呼ばれるものは、追加・増広される事によって発達した膨大なお経である。しかし法華経は在家を対象とした聖典であり、一本のお経である。法華経は哲学的思想においては単純であり、布教こそが最大の菩薩行となっている。』

 ここでも、「在家仏教」という言葉が強調されているのだが、この著者は、そのことが実感として納得できるように書かれている。それは、石原慎太郎が、法華経を徹底的に学び、碩学から教えを受け、議論をした結果だった。文中で、彼は何度も自分の経験を引き出して、法華経の第何章(法華経は全部でx章)に思い当たると書いている。これは、僧侶が法事の際に唱えるお経とは全く異なる、自己啓発の者であり、それ故に「在家仏教」とされているように思われる。



 石原慎太郎は、これとは別に「法華経現代語訳」を出版しているので、これとの対比で読んでゆくと、なおわかりやすい。
以降は、正確を期すために、原文から引用してゆく。

『人間だけが哲学をする』(p.15)
『彼(釈迦)はただの思想家などではなしに、あくまで哲学を行動にした無類の行為者、探検家だった。』(p.29)
『従属矛盾の解決改良のためには、あくまで主要矛盾への認識とその解決を目指さなくては物事は決して本当によくなりはしないと説いている。』(p.32)
『十如是とは何か』(p.37)

十如是は、このことを実践するプロセスで、10段階の「如是何々」がある。それらは、
相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末。法華経の根幹の言葉。

『気になるものごとがなんでこうなったのかという正しい分析と理解のための方法論』(p.40)

メタエンジニアリング的に考えると、この十如是は、MECIプロセスを更に完全なモノにしたように思われてくる。一つひとつの中身は、このように書かれている。

如是;何々のような
如是相:何であれそこにあるものごと
如是性:相を現わす性質
如是体:性質を表す本体
如是力:その背後で働く力
如是作;その力がもたらす作用
如是因;それがそうなる原因
如是縁;色々な条件が重なったり偶然も含めて訪れた機会 
如是果;事の結果
如是報;その結果は、それにとどまらずに、必ず何かを残す
如是本末究竟;宇宙や人間社会の諸事は、これら9つが絡み合っている

 私の理解では、これは釈迦が入滅するに際して、様々な菩薩等を集め、話をした後での質問に答える形で、いわばプラトンの対話編を思わせる。釈迦は、それぞれの菩薩に対して、このままの修行を続ければ、将来必ず如来になれるといっている。その際の何々如来の名前が面白い。一貫しているのは、他力本願ではなく、あくまでも自力、自律を貫くこと。
 
『弥陀の本願というのは、宝蔵菩薩が、自分がもし正覚(正しい悟り)を得たら、西方極楽に在って阿弥陀仏となり、自分の名前を称えたる者がいたら必ずみんあ救ってやる、と誓った』(p.130)

 釈迦の言葉には、何億千万のガンジス川の砂の数倍などというとてつもない数(時間、人数など)が、やたらと出てくる、このことにも根本的な意味がある。つまり、永遠と輪廻転生のことだった。ハッブル望遠鏡の話の後で、
『人間の存在との対比において、その数や広がりにおいての宇宙の巨きさを感覚的にだが実に正確に捉えていました。』(p.148)

 以下は、「存在」と「時間」、「実相、「空」について、彼の解釈を述べているのだが、私には、いずれも素直に理解できるように書かれている。

十如是をMECIプロセスに当てはめてみよう。

Mining.
如是;何々のような
如是相:何であれそこにあるものごと
如是性:相を現わす性質
如是体:性質を表す本体
Exploring.
如是力:その背後で働く力
如是作;その力がもたらす作用
Converging.
如是因;それがそうなる原因
如是縁;色々な条件が重なったり偶然も含めて訪れた機会 
Implementing.
如是果;事の結果
如是報;その結果は、それにとどまらずに、必ず何かを残す



エンジニアリングとは、通常What & Howで始まる。つまり、何をどうするかである。しかし、現代の技術は、資金と時間さえあれば、望むことは何でもできてしまう。そこに、現代の根本的な問題がある。つまり、人類を滅亡に向かわせるかもしれない技術の存在である。

メタエンジニアリングは、What & Howの前にWhyを置く。つまり、何故その技術を現代社会に実現しなければならないかを、先ず考える。

思考の先は、人文科学なのだが、主に、自然人類学と社会人類学、そしてそれを統合する哲学になる。
現代人類は、生物としての諸機能を、様々な発明により代替えすることで、地球上のいかなる生物よりも、格段に優れた能力を獲得した。例えば、優れた目は、眼鏡だけではなく、顕微鏡や望遠鏡で達成されている。しかし、そのことは自然人類学的には、恐ろしい退化を招いている。現代人の目は、古代人に比べて視力が劣るが、TVゲームやスマホなどの影響で、更に悪化している。チャットGPTは、深く考える思考能力を劣化させる危険性が大きい。

 イノベーション指向の現代では、これらの危険性がますます高まるであろう。メタエンジニアリングは、それらのことを防ぎ、人類文明の安全な継続を目的としている。


その場考学的アルバム作成法(その場考学47)

2024年10月28日 06時39分55秒 | その場考学のすすめ
その場考学の実践(SBK47)
                                                       
その場考学的アルバム作成法

 私は、年に数回の宿泊旅行に出かける。今年は、淡路島、壱岐/対馬、京都に続いて、3泊4日の奈良旅行を楽しんで、3日前に帰宅した。その間に写した写真の数は、約250枚だった。
 もう一つの趣味は、写真のアルバム作りで、これは高校生のときから始めて現在までに676冊になっている。そこで、この250枚の写真を、どのように素早くアルバムにするかが問題になる。

 「その場考学的アルバム作成法」では、2日間の午前と午後の2時間、合計8時間で3冊のアルバムを完成した。ちなみに、私のアルバムは、100円ショップの40ファイルのホルダーになっている。

ステップ0

 旅行前に、一日ごとの詳細な予定を記述した資料をつくり、A4に印刷をする。
当日は、その日の予定表に実績を随時記入してゆく。そのための空欄は、予め開けておく。

ステップ1

 旅行前に作成して、持ち歩きながら追記をした日程表を、パソコンに取り込む。
 A改定として追記するだけなので、楽にできる。予定との違いもその場で分かる。

 <旅行前の日程表の例>
  
奈良4日間の旅 2024.10 (KZN49201)
10月20日
6:17 家を出発
6:27 千歳烏山発 特急(新宿行)
6:40 新宿着、由美子と待ち合わせ
6:47 新宿発 14番線発
7:13 品川発 京急本線エアポート急行(羽田空港第1・第2タ
7:35 羽田空港第1・第2ターミナル着
8:30 羽田空港発 JL107 17Kなど3席


9:40 伊丹空港着
大阪[伊丹]空港〔高速バス〕→奈良
発着時間:10:40発 → 11:57着 (1時間に1本)
ホテルに荷物預けの後
奈良国立博物館
興福寺金堂
興福寺博物館
(後略)

<旅行後の日程表の例>
  奈良4日間の旅 2024.10 (KZN49201A)アルバム用
10月20日  17,859歩
(前略)
6:41 新宿発 14番線発
7:01 品川発 京急本線エアポート急行(羽田空港第1・第2タ
7:35 羽田空港第1・第2ターミナル着
     ラウンジで休憩
8:30 羽田空港発 JL107 17Kなど3席
予報は晴れだったが、雲で下は全く見ず。
 ようやく名古屋から、時々地上が見えるように。
 しかし、相変わらずに、奈良のどこを横切ったのか分からなかった。
9:40 伊丹空港着
大阪[伊丹]空港〔高速バス〕→奈良
発着時間:10:40発 → 11:57着 (1時間に1本)
時間:1時間15分  総額:2050円
出発してすぐに、「渋滞で経路変更します」とのアナウンス。太陽の塔は今回は見られない
10:51 JR塚本駅横通過 ⇒天満警察署横通過 ⇒11:48 奈良駅着
以前より、走り方が合理的に。近鉄奈良にも行かず。
ホテルに荷物預けの後、駅ビル内で昼食。
以前食べた食堂は満席で外人が並んでいる。となりのうどん屋へ。
12:15-40 昼食、少しうるさかったが、天ぷらの内容は満足。
バス案内所で、明日の二人の法隆寺行きのバスの確認と、一日券購入
駅前から公園まで乗車、SUIKAが使えて良かった。
13:00-13:50 興福寺博物館
(後略)


ステップ2

① 日程表を印刷して、一日分を5~7の時間帯に分けて、切る。
② それぞれの時間帯に表題を付けて、ファイルに入れる。



ステップ3

 写真印刷を行い、それぞれのファイルに入れる。
既に、書き込む内容は分かっているので、それに符合する写真を選ぶ。



ステップ4

 そのファイルを日程順に並べる。できるだけ一日を一列に並べる。



畳の上のボックスには、旅行中に集めた資料が乱雑に入っている。この中身をそれぞれのファイルの上に置いてゆく。

ステップ5

 それぞれのファイルに旅行中に集めた入場券やパンフレットを入れる。



ステップ6

 アルバムの表紙を作り、予定のアルバム数のCOPYをとる



ステップ7

① アルバムの作成は、ファイルを順番に一つずつ取り出し、中身を机上に広げる
② 写真と資料を適当に配置して、アルバムの紙に貼る。

これでめでたく完成。

その場考学研究所レポート  No.392

2024年10月27日 07時11分04秒 | メタエンジニアリングのすすめ
その場考学研究所レポート  No.392 2024.10.28 その場考学研究所  

 定年退職後の11年間は、どっぷりとメタエンジニアリングに嵌まってしまった。その結果、最近のその場考学では、「その場でメタエンジニアリング思考」が習慣となってしまった。そのいくつかを紹介してゆこうと思う。

TITLT メタエンジニアリングが日本に根付かない理由(その2)


 前回のレポートでは、次のように書いた。『私は、メタエンジニアリングおよびメタ思考が、現代世界、特に日本にとって重要だと考え、多くの人にその考え方を説明してきたが、10年余り経っての結論は、「日本人、とくに日本の知識人層(特に専門を得意とする大学教授)にはそぐわない」との結論だった。理由は、次の三つに集約される。

① 日本人が論理を語るときの特徴、
②広辞苑にみる「メタ」という語の後進性、
③島国の農耕民族としての国民性』

 これについては、何人かの方からご意見が返信された。しかし、残念ながら「よく分からないが・・・。」と言う返信が多かった。そのことは充分に予想をしていたことで、それこそが「日本に根付かない」証拠でもある様に思われる。
 私が、メタエンジニアリングに固執し始めたのは、いくつかのジェットエンジンの設計を終えた後でのことで、その環境問題への影響を考えはじめた時からだった。その後約10年間、渋谷の某大学院で授業を行っている。
演題は「メタエンジニアリングで考えるエネルギービジネスと環境」として、概要は以下のようになっている。

第1日 エネルギービジネスとは何か         
第2日 エネルギービジネスの諸問題        
第3日 エネルギービジネスとメタエンジニアリング                     
第4日 エネルギービジネスと内部経済化問題    
第5日 エネルギービジネスの正と負の価値     
第6日 「価値」を考える             
第7日 ドーナッツ経済と社会環境         
第8日 省エネとビジネスの関係          
第9日 自然とエネルギー             
第10日 企業の進化    

これらを纏めて3日間の授業で行うのだが、冒頭は次の言葉で始めている。

 『環境エネルギービジネスという言葉は、聊か分かりにくい。そこで私は、次のことをテーマに話しを進めることにした。現代の最大の問題は、現代文明による地球環境の破壊が止められないことにある。様々な国際機関や国際会議が対策を考え続けているが、地球全体としての目立った改善は進んでいない。この問題を掘り下げると、次のようなテーマが浮かび上がる。

① 根本原因は、人類が過剰なエネルギーを消費していること  
② 環境に悪影響を与えるのは、様々なビジネスによって作られ、使用されるエネルギーだということ  
③ それらは、すべてエンジニアによって開発された技術によって製造されたものであること。つまり具体的な技術の問題である
④ 現代の企業人とエンジニアは、どこまでそのことを認識して職務を遂行しているのかということ  
⑤ この問題に、古くから国際機関で具体的に取り組んできたのは、民間航空機ビジネスだということ
⑥ さらに広く取り組むには、企業の在り方がどのように進化してゆくことが考えられるかということ 
⑦ これらのことを、メタエンジニアリング視点で考える  

 人間のすべての活動はエネルギーの消費によって行われています。呼吸することは炭酸ガスを排出します。考えることは、脳でエネルギーを消費することです。それらのエネルギーは食物によって補われますが、現代ではすべての食物は何らかのビジネスによって生産されているのです。つまり、私たちの日常生活の100%がエネルギービジネスによって支えられているということができます。
このようなことを考えながら授業をすすめてゆきます。』

 現代は、イノベーション指向時代になっているのだが、最近の多くのイノベーションが、正の効果よりも負の影響が大きく、社会が不安定な方向に向かっているのは、誰もが認識していることと思う。根本原因は、メタエンジニアリングが理解され、実行されていないからではないでしょうか。
 少なくとも、工学部の専門課程の中での展開を期待しています。      

 エンジニアリングとは、通常What & Howで始まる。つまり、何をどうするかである。しかし、現代の技術は、資金と時間さえあれば、望むことは何でもできてしまう。そこに、現代の根本的な問題がある。つまり、人類を滅亡に向かわせるかもしれない技術の存在である。

 メタエンジニアリングは、What & Howの前にWhyを置く。つまり、何故、今、その技術を現代社会に実現しなければならないかを、先ず考える。

 思考の先は、人文科学なのだが、主に、自然人類学と社会人類学、そしてそれを統合する哲学になる。
現代人類は、生物としての諸機能を、様々な発明により代替えすることで、地球上のいかなる生物よりも、格段に優れた能力を獲得した。例えば、優れた目は、眼鏡だけではなく、顕微鏡や望遠鏡で達成されている。しかし、そのことは自然人類学的には、恐ろしい退化を招いている。現代人の目は、古代人に比べて視力が劣るが、TVゲームやスマホなどの影響で、更に悪化している。チャットGPTは、深く考える思考能力を劣化させる危険性が大きい。

 イノベーション指向の現代では、これらの危険性がますます高まるであろう。メタエンジニアリングは、それらのことを防ぎ、人類文明の安全な継続を目的としている。

 問題は、「何故、今、」なのだが、現代の競争社会では、すべてが早い者勝ちになっており、その傾向は、ますます顕著になっている。それを防ぐにはどうすれば良いのか、「その場考学」の最大のテーマになっている。

ジェットエンジン技術(19)

2024年09月15日 07時03分01秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第22章 第5世代(2000年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の開発機種の代表例はBoeing787 Dreamlinerで、Boeing767と777の一部を後継するための次世代中型ジェット旅客機として開発がすすめられた。特徴は、機体が有する多くの機器の電動化で、大容量のリチウムイオン電池の採用により、その充電のためにエンジンからの抽出動力の割合を大幅に増したことであった。しかし、この開発は当初から難航し、商業飛行の時期が大幅に遅れるとともに、使用開始から数年後の2013年には、電池からの発火事故が複数回起こり、世界中で一時期全便飛行停止処分を受けることになってしまった。

 Boeing787は長い航続距離が可能な中型機として登場し、従来は大型機では収支の採算が厳しいとして特定空路にしか採用されなかった国際間長距離航空路線の多くが開設可能となった。2004年にローンチ・カスタマーとして全日本空輸が50機を発注して開発が始められた。開発当初のスケジュールでは2008年5月に連邦航空局(FAA)の型式証明取得を予定し、全日本空輸(ANA)に引き渡す予定であった。ANAは8月の北京オリンピック開催時に東京- 北京間のチャーター便に使用すると発表していた。
 しかし、新素材を用いた胴体や多くのシステムの電子化を採用したエンジンなどの新設計と、国際共同開発での足並みが揃わなかったことで、開発が大きく後れ、初飛行が行われたのは当初の予定から2年以上遅れた2009年12月であった。

 エンジンは、RRのトレント1000と、GEのGEnxが採用されたが、この2種類のエンジンの交換が可能で、将来も異なるメーカーのエンジンと取り替えることが可能となる設計を初めて採用した。
 GEnxは、当初からBoeing787と747-8用に開発され、1970年代から多用されていた既存のCF6を置き換えることを予定し、2008年2月に最初の運転試験が行われた。
 第1の特徴は、スタータジェネレータがエンジン始動と発電の両方を行うことで、従来スタータタービンにより行われていたエンジン始動の電動化、空調用のエアコンやアンチアイシング装置などもエンジンからのブリードエアを使わず電気化することとした。このために、エンジン圧縮機からの抽気のほとんどを廃止することが可能になり、燃費が向上した。さらに、ファンケースやファンブレードなどに複合材を使用し、大口径エンジン(787-8用ファン直径は2.82m)での軽量化に成功した。


図22.1 GEnxエンジンの先端技術要素(11)


図22.2 GEnxエンジンの各社担当部位(11)
 
 一方で、中型機用に1990年代に開発されたV2500エンジンは、派生型が次々と発表され、中型中距離機のAirbusA320の驚異的な伸びにより生産台数が大幅に予想を超えて、日本のエンジン3社の売上高に大いに貢献した。また、LCCやリース会社所有のエンジン台数が増加して、オーバーホウルのビジネス形態もめまぐるしく代わった。すなわち、エンジンメーカーが、運行時間数に対するオーバーホウル費用を受け持つことであり、このことは、運行中のエンジンデータが十分に蓄積されたことと、設計の進歩により、部品寿命が正確に見積もれるようになったことに起因すると云える。        

22.1 日本国内の状況の変化

 この時期の国内のエンジン3社の動向は、それ以前とは様変わりになってゆくことになる。それは、各社にとって赤字続きのお荷物だったエンジンビジネスが、一気に稼ぎ頭になったことである。原因は3社共通で、2000年前後からV2500エンジンのオーバーホウル台数が急激に増加し、採算性の良い交換部分の販売数が急激に伸びたことと、同エンジンの月間の新製台数の飛躍的な増加で、量産効果により製造単価が大幅に低減したためであった。
 このために、3社それぞれの将来に対する思惑から、それまでは歩調を合わせていた動きが俄かに別々の動きを始めることになっていった。新生エンジンの開発に巨額の費用が掛かり、かつその回収に少なくとも15年間がかかることには変わりはなく、国家補助を継続的に受けることのできるJAECのもとでの参加に変わりはないのだが、GEのGEnxにはIHIとMHIが参加し,RRのTrent1000にはKHIとMHIという棲み分けになった。IHIの思惑はGEとの繋がりを一層強固にすること、KHIの思惑は部品ではなく、常に特定な部位をモジュールとして基本設計から受け持つこと、MHIは燃焼器分野での最新技術を習得して、発電用ガスタービンへの応用を図ることと推察される。しかし、日本としての総合力が分散されることにより、担当するワークシェアーの割合は、V2500の23%から、それぞれ14%と15.5%に減少した。

 1970年に国の大型プロジェクトとして、巨費と10年以上の歳月をかけて、3社一致協力のもとに目指していた、世界市場に通用する新型のエンジンを日本主導で開発をするという夢は、このような分裂とシェアーの減少とともに、エンジン全体の基本設計にまで立ち入るチャンスはほぼなくなってしまった。

 この時期の世界の航空機用エンジンの国別の売上高のシェアーを図22.3に示す。


図22.3 世界の航空機用エンジンの国別の売上高のシェアー(12)
 
 この中にあって、次世代のエンジンとして更なる高バイパス比の実現に向けて、従来研究がすすめられてきた多くのコンフィギュレーションに対して、実現に向かった絞り込みが行われた。その中から、民間航空機用エンジンとしては、もっとも堅実なギアード・ターボファンが選ばれるようになった。


図22.4 高バイパス化に向けた各種のコンセプトと課題(12)

ジェットエンジンの技術(18)

2024年08月30日 08時55分10秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第21章 第4世代(1990年代)の民間航空機用エンジン

 この時期は、大型航空機用エンジンにとって画期的な発展時期であった。すなわち、従来は3発ないし4発であった大洋横断の大型機が、1980年代後半から2発のエンジンで可能(ETOPS)になったことである。さらに、この間に設計と製造技術の進化により十分な安全性が証明されたために、従来は長距離無着陸飛行の安全性を商業運航の実績で示さなければならなかった認可を、商業飛行の当初から得られることになり(Early-ETOPS)、エアラインの収益性向上に大いに貢献することになった。
 このことは、エンジンの信頼性の向上と、大口径での軽量化構造を実現した強度設計の進歩により達成された。エアラインの直接運航費が軽減し、旅客数が一気に増加した。第4世代は、このような条件に適合するエンジンを指す。

 ETOPS(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)とは、エンジン2基の旅客機で、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替の空港へ到達することが可能な航空路でのみで飛行が許されるとして、国際民間航空機関 (ICAO) が取り決めたものであり,緊急時にエンジン1基のみで飛行する場合の飛行可能な時間を定めたものである。
 エンジンの信頼性が低かった時代には、双発旅客機は空港から100マイルまで、1953年からは空港より60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかった。このため、大西洋や太平洋を最短距離で横断するような航空路に双発旅客機を就航させることは事実上できなかった。東京からニューヨークまでの飛行ルートは、アリューシャン列島沿いに飛べば、中型機ならば可能であったが、緊急着陸の許可が可能ではなく実用性はなかった。各ETOPSにおける実際の飛行可能範囲を図21.1に示す。ETOPS180では、世界中のほぼすべての2都市間を最短空路で運行することが可能になった。

 その条件が、1985年に120分までと大幅に緩和された。1980年代のETOPSの認定は、機体とエンジンの組み合わせにより旅客機1機ごとに個別で認可を受ける必要があり、同じ機種でもETOPS認定と未認定の機体が混在することになった。この時代、例えばロンドンのヒースロー空港では、同じ航空会社の同型機でも、コックピットの下に「ETOPS」の文字が記されている機体と、そうでない機体が混在していた。






図21.1 ETOPS 60 ,120,180での飛行可能範囲(10)

 そして、大西洋線へBoeing767の航続距離延長型を導入する航空会社や路線が増加することになり、767の受注数は次第に増加し、1989年の受注機数は96機となった。その後胴体延長型の767-300ER型の開発も行われ、1989年には、Boeing767による洋上飛行制限は180分までに緩和された。

 その後、エンジンの信頼性がさらに向上すると、ETOPS-207という規定が設けられ、航続距離の長い双発旅客機は、南極大陸など一部を除き地球上すべての地点間を最短距離で飛行できるまでになった。

 この間、機体については767型の胴体の径を広げて、横に2通路で9~10席を配置できる、より太い真円断面を用いた大きな胴体の採用が望まれ、767-Xに対してユナイテッド航空が1990年に34機発注し、その新たな機体名がBoeing777と決定された。続いて全日本空輸、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空も発注した。このシリーズ最初のモデルは、最大航続距離は5,210海里(9,649 km)という長距離型であった。

 B777機用のエンジンはP&WのPW4000シリーズ、GEのGE90シリーズ、RRのTrent900シリーズから選択でき、ローンチ・カスタマーでもあるユナイテッド航空はPW4000を選択し、1994年PW4077エンジンを搭載したボーイングの試験第1号機が初飛行に成功した。IHI他が共同開発に参加したGE90はブリティッシュ・エアウェイズに採用された。
 この期間に就航を始めたBoeing777の機体とエンジンによる航続距離は以下のようになっている。

B777-200   1995年就航 5235nm PW4077エンジン
B777-200ER 1997年就航 7700nm PW4090エンジン
B777-200LR 2006年就航 9450nm GE90-110Bエンジン
B777-300   1998年就航 5940nm PW4098エンジン
B777-300ER 2004年就航 7930nm GE90-115Bエンジン


 これらのことによって、長距離の洋上飛行の経済性は、著しく向上することになった。
また、この期間には次世代のエンジンの研究が盛んに進められた。V2500の母体であるIAEは、1994年に、ADP(Advanced Ducted Prop)エンジン構想を発表した。このエンジンは、その前に設計されていたSuper Fanエンジン(ファンを大口径にするためにLPタービンとの間に減速ギアーを設置する)の派生型で、次世代のターボプロップ機のエンジンとして有望視されていた。

21.1 日本の産業育成政策
 V2500開発の成功を確認して、日本が参入すべき次の目標は、100席以下の小型機であるとの見解が纏められ、1996年4月に、JAECはIHI,KHIと共にGEとCF34-8Cの国際共同開発の基本契約書に調印した。日本のシェアーは30%で、部品製造とモジュール組立てまでであり、全体組立ては全てGEで行われた。このエンジンは、ボンバルディアCRJ700等に搭載された。


図21.2 小型輸送機用エンジン(CF34-8)担当部位(9)

 また、将来の超音速旅客機に備えて、「超音速輸送機用推進システム研究開発」(HYPRプロジェクト)が通産省工業技術院の産業科学技術研究開発制度により1989年から10年計画で開始された。飛行速度マッハ5までをカバー可能な推進機関で、亜音速からマッハ3までは通常のターボファンエンジンだが、超音速では空気吸入口に設けられたモードバルブの切り替えによりラムジェットエンジンになるという画期的なアイデアによるエンジンの試作と試験運転を行うものであった。
 さらに、超音速飛行時の騒音対策を研究するための「環境適合型超音速推進システムの研究開発」(ESPRプロジェクト)が1999~2004年にかけて継続された。低騒音、低NOXの要素技術に関する研究計画は順調に推移したが、実機適用のプロジェクトは、その後20年たった現在でも、まだ立ち上がっていない。

 一方で、Post-V2500の民間エンジン開発として小型エンジンやIAEの新エンジン開発への参加を踏まえて、「環境適応型航空機用エンジン研究開発プジェクト(通称エコエンジンプロジェクト)」が2003年から環境適応技術開発を中核に経済産業省の支援を受けてNEDOプロジェクトとして立上げられた。しかし、これらの研究開発事業はすべて完了し、超音速輸送機用推進システム技術研究組合は2012年に解散された。
 このような、各界の一連の努力により、エンジン全体設計の技術面については、かろうじて系統化を保つ努力が続けられた。

国際エンジン開発から得られた教訓(その2)競合他社とのヒトの異動

 V2500エンジンの開発が佳境に入った199X年に、突然GEからGE90エンジンの共同開発の話が持ち込まれた。当時、欧米のビック3社はそれぞれ日本のエンジン3社(IHI,KHI,MHI)と個別にアライアンスを組む戦略を進行中で、P&WがドイツのMTUと日本のMHIの3社連合を設立してしまった。
 当時のMTUはGE90のLPタービン担当で、GEはMTUのシェアー分を丸ごとIHIへ移管することを試みたのであった。その時点で、基本設計は終了しており、詳細設計が始まったばかりのタイミングであったが、MTUの技術は一切継承されなかった。

 GEとのアライアンスは、IHIにとって好都合で早速に合意が成立したが、問題は設計のスピードだった。既に、試験用の初号機の部品製造にかかっていた他社に追い付かなくてはならない。しかし、設計技術者の総数は、当時佳境を迎えていたV2500と、このプロジェクトの二つを同時進行は全く無理な状態だった。 
 私は、当時V2500エンジンの日本チームのチーフデザイナーだったのだが、突然にGE90のチーフエンジニアを兼ねることになった。V2500の設計拠点は英国中部のRR工場と、米国コネチカット州のP&W工場であった。GE90の拠点はオハイオ州のシンシナティーにあり、この3か所を巡る旅を続けることになった。
 このGEの工場を始めて訪問した時に驚くことがあった。事務所の入り口で鉢合わせしたのは、なんとRRでV2500の設計を担当していたかつての仲間だった。彼らは、GEに引き抜かれたのだが、「一時GEで勉強をするが、やがてRRに帰るつもりだ」と話してくれた。民間航空機用エンジンの設計技術者の世界は狭く、このような偶然の出会いは、その後も何回かあった。やはり、エンジン技術の系統化は、ヒトから人へと云うことができる。


ジェットエンジンの技術(17)技術の伝承について

2024年08月28日 08時01分34秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(17)
第20章 ヒトから人への伝承

 技術の系統化すなわち伝承の方法は、大きく二つに分けられる。それらは、人から人への直接伝承と、書籍や実物などのモノを介する伝承になる。人類が文明を築き始めてから延々と続くこの現象の歴史について、P.F.ドラッカーは、大きく3段階に分けている。(1)
 人類の文明は、農耕と灌漑技術の伝承から始まり、そこから都市化、政治、軍事などの社会イノベーションが始まった。この時代は1400年間も続き、その間は徒弟制度などによる人から人への直接伝承だった。そして、次の社会イノベーションは印刷機の発明による大量の印刷物による技術の伝承で、この時から技術が社会と経済の中心に据えられて、近代技術革命の時代になった。現代は3回目の社会イノベーションがSNSにより始まっている。つまり、再び人から人への伝承の時代に戻ったことになる。現代の様々な科学技術の系統化を見ると、多くの場合にはモノ(印刷物もモノの一つ)を介する伝承が多い。

 ジェットエンジンの場合にはどうであろうか。私の経験では、それは圧倒的に人から人への伝承だった。それは、設計、製造、調達、保守の全技術領域にわたって共通しているように思われる。スマホなどの電子製品は、初期の製品の市場投入後に、その機能もハードも大きく進化する。それは、世界中の多くの人がモノを介して得た知識と知恵の進歩によって成されている。それは、ジェットエンジンとは大きく異なる。
 戦後の日本には「空白の7年間」という期間があったが、人から人への技術の伝承は、確実に行われた。それは、大学教育の場と、社内外におけるman to manの会話からであった。ここでは、当時海軍航空技術廠に在籍したIHIの永野副社長と、中島飛行機で誉のエンジン設計の一部を担当した今井専務取締役との思い出の一端を記す。

20.1 永野副社長との思い出

・空技廠でネ20の開発に携わった永野少佐から25年後の私へ、

 私は1970年に石川島播磨重工に入社し、当初から民間エンジンの研究と開発に従事した。FJR710の設計システム班長となった私は、1971年に永野副社長と岡崎教授(東大航空学科)から月例の指導を受けることになった。エンジン設計の進捗を説明して、過去の経験と現代航空工学からの指摘を受けるためであった。そこでは、当時の開発作業のスピードの話を何度も聞かされた。「なぜ、お前たちは初号機の設計と開発に3年間もかかるのだ、やれば半年でできるはずだ」というわけである。「やればできるはずだ」の言葉は、その後の開発プロジェクトで何度も役に立った。

・昼食時の会話

 毎回の指導会の後は、ゲストハウスでの昼食だった。個々の話は忘れてしまったが、仏教関係の話が多かった。唯一覚えているのは、通勤の途中でいくら長距離を歩いても運動にはならない。心臓がドキドキする早さでなければ疲れるだけだ、でした。
 飲食を伴う際の会話は特別の意味がある。私は、この時以来そのことを実行し続けていた。最近は、Zoomなどによる遠隔会議が多いようだが、それでは、ヒトから人への伝承は、半分も充たされないと推察する。

20.2 今井専務取締役との思い出

・入社を決めたひとこと

 私が今井さんに最初にお会いしたのは、修士2年生のリクルートで当時の石川島播磨の田無工場に見学に行った時だった。私に入社の意志は全くなく、友人に誘われてのことだった。しかし、その時話をしてくださった当時の今井副事業部長の、「ジェットエンジンの研究と開発は技術者にとって、これほど面白いものはない」が、気持ちを一転させ、友人を押しのけて入社を決めてしまった。ロシア語のジェットエンジンに関する本を翻訳された工学博士が身近に感じられたからであった。

・さんざん政府の補助金にお世話になったのだから、

 私が陸海空のミサイルに用いられる個体ロケットを得意とする新会社(当時、C.ゴーンがCEOになった日産自動車の独占生産だったが、IHIが営業譲渡を受けて、私は新会社設立の準備室長から続けて、初代の代表取締役を担った)に移ってからは、今井さんから頻繁にメールが来るようになり、年に数回のペースでお宅へ伺うことになった。最初の言葉は,「ミサイルとジェットエンジンは防衛庁にとって全く違う製品になる。一旦国際間の緊張が高まった時に、どうするかを常に考えておきなさい」だった。
 そして、十数年後の定年間近になった時には、「さんざん政府のお世話になったのだから、これからは社会に還元することを考えなさい」との再三の会話から、デザイン・コミュニティー・シリーズという名の小冊子の作成(前月には、第24巻を発行)と、博士号の取得を目指すことになった。「博士の資格は、会社では全く役に立たないが、退社後には、JRのグリーン切符のように、使い勝手が良いので、絶対に取っておきなさい」だった。

「やればできるはずだ」、「これほど面白いものは無い」、「これからは社会に還元することを考えなさい」の三つの言葉は、何年経っても忘れることはない。

参考文献
(1)P.F. ドラッカー「テクノロジストの条件―ものづ くりが文明をつくる」ダイヤモンド社(2005)

八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(38)標高1130mでのブルーベリーの収穫(その2)

2024年08月01日 09時29分22秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(38)         その場考学レポート番号 #XX

場所;一紀荘 2024.7.31                                                
TITLE: 標高1130mでのブルーベリーの収穫(その2)

 標高1130mの我が家(一紀荘)では、建築当初の2000年に外房の千倉から、ブルーベリーの苗を二本移植した。多分レッドアイ系と思い、地元の植木屋でハイブッシュ系の苗を2本買って、一緒に植えることにした。結果的には、これが大成功で、先ずは収穫時期が7月から10月まで続くことになる。

 その時から25年が経った。収穫は毎年続けているが、年によって収穫量はかなりの増減がある。現在までの最高値は、H28の23.3kgで、最小値はH30年の1.1kgだった。



 何故、これほどの差が出るのだろうか。私の推定では、花が満開の時期の気候だ。低温で雨が続くと受粉がうまくいかないのではないだろうか。一時は、受粉してくれる蜂や小さな虫が減った為と思ったのだが、蜂の数は過去に比べて大幅に減ったのだが、昨年などは結構な収穫量だった。

 今年は、とにかく猛暑で、標高1130mでも昼間は結構暑い。しかし、朝晩は20℃以下にさがるので、このログハウスにはエアコンはない。しかし、そろそろそれも考えなくてはならないようだ。



 ちなみに、この写真は前回の7月後半のもので、まだ一本だけが数粒のブルーなになったばかりで、他の木の実は、緑のままで小さい。夕方の水まき時で、毎回小さな虹ができる。

八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(37) 標高1130mでのブルーベリーの収穫(その1) 

2024年07月31日 12時28分20秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
標高1130mでのブルーベリーの収穫(その1)

 標高1130mの我が家(一紀荘)では、建築当初の2000年に外房の千倉から、ブルーベリーの苗を二本移植した。千倉の畑に生えていた木から、隣の畑に芽生えが出てしまったので、それを移すことにしたのだった。
 千倉のブルーベリーは、当時20年近く経った老木で、実の付きは余り良くなかったと記憶している。若木を育てたいのだが、場所がない。当時は、狭い畑で色々な野菜を作る方が面白かった。野菜の他にも、妹は、綿花を栽培して、織物用の糸をつくっていた。草木染めにするためだった。
 
 移植に当たっては、実用書に従って、きっちりと土壌の酸性化をおこなった。また、多分レッドアイ系と思い、地元の植木屋でハイブッシュ系の苗を2本買って、一緒に植えることにした。結果的には、これが大成功で、先ずは収穫時期が7月から10月まで続くことになる。とにかく、木が大きくなると、半日では収穫できないので、実る時期がずれるのは有り難い。

 既に25年が経った今でも、最初の木は最大の収穫量を誇っている。周りには、子供と孫の木が育っている。主だった木でも10本ほどになるが、小さな孫の木の数は数えていない。最近は、芽生えを抜いてしまう方が多い。残した孫の木の収穫量は、まだ100グラムに満たない。
しかし、過去に毎年周囲に生える新しい木を根分けして、ご近所にあげた木の収穫量は、これにも及ばない。覚えているだけでも5件なのだが、成功例は東京の烏山まで持ってきた1本だけのようだ。やはり、土壌の改良が不完全だったのではないかと思っている。

 去年の収穫量は、全部で12.5kg。最近は生食に飽きて、もっぱらジャム造りになっている。昨年は45瓶つくったが、これでは少し少ない。毎年、配るお宅が増えるし、一紀荘への訪問者には、お土産に渡すことにしているので、自家消費分が、翌年の収穫期まで持たない結果になっている。



 ところで、実際に実った数は、この1.5倍位あるのではないだろうか。第一は、不在中に実りすぎて落果する分だ。最盛期には2週間も留守にすると、地面にびっしりと落ちてしまっている。何度か、知り合いに収穫を頼んだこともあったが、やはり毎回では気が引ける。
 第2は、鳥の餌だ。しかし、これは意外に少ない。一時期網をかけた時期があったが、それは数年で止めた。小海線の下には、多くの農家でブルーベリーが栽培されているのだが、どこも立派な網で囲っている。何故なのだろうか。
年によっては、スズメバチの活動が活発で、朝から夕刻の暗くなるまで、数匹のスズメバチがうろついていることがある。そうすると、収穫はおぼつかない。しかし、網を張っていても、その中にスズメバチが入ってしまったら、これでは、その日の収穫は諦めなくてはならない。
 第3は、10月以降も実はなるのだが、小さくて味も落ちるので、そのままにしておく。



 先日あることに気づいた。野鳥には、木の実を好む種類と、虫を好む種類があるようで、ブルーベリーを突っつく野鳥は極端に少ない。見ていると、近くのジュンベリーの木には、朝晩必ず数匹が訪れる。勝手に想像をすると、実の中に種がある実を好んで食べるように思えてくる。つまり、ダ―ウインの進化論の拡張解釈をすれば、種は小鳥に運ばれなくてはならないので、小鳥が好む味の実の子孫だけが、他所での繁殖が期待される。
 一方で、ブルーベリーのように、種なしで、根を伸ばして、その先で子孫を増やすタイプは、実を小鳥に食べられない方が良い。むしろ、近くで食べて、糞尿という肥料を残してくれる小動物に食べてもらうと好都合だ。烏山の我が家の庭でも、金柑と枇杷は鳥が突っつくのだが、ブラックベリーやラズベリーを突っつく小鳥はいない。

ジェットエンジンの技術(16)第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジ

2024年05月19日 06時51分25秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第19章 第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の特徴は、高効率の高バイパス・ファンエンジンの設計手法が確立し、多くの改良型と新型が国際共同開発の資金をもとに盛んに行われたことと言えよう。また、主要都市間を頻繁に運行するために、超大型航空機と比べて中小型機の市場の開拓が進み、そのためのエンジンの開発競争も盛んに行われた。
 大型エンジンとしては、GEのCF6-80シリーズ、P&WのPW4000シリーズ、RRのRB211-524シリーズが挙げられる。また、中型としては、V2500シリーズとCFM56シリーズが世界市場を二分して激しい競争を展開した。このように新規開発機種が目白押しとなったために、エンジン各社は、資金と市場の確保のために、国際共同開発を行うことが常態化した。その代表例が、日米英独伊の5か国が参加したV2500で、この事業と技術については第32章で詳述する。

19.1 航空自由化と国際共同開発

 このような傾向は、この時期に始まった航空自由化の政策によるところが大きい。この動きは米国で始まり、すぐにヨーロッパに広がっていった。例えば、サウスウエスト航空は設立後十年間以上もテキサス州内だけの弱小エアラインだったが、カーター政権が航空自由化政策を行ったことで、全米に路線網を持つ大手航空会社にまで成長した。それまでは、アメリカ国内では、CAB(民間航空委員会)が設立以来40年もの間各種の規制を行ってきたが、1978年に「航空企業規制廃止法」(Airline Deregulation Act) が成立。これにより、CABの規制は廃止され、さらに1985年にはCAB自体が廃止された。その結果、サウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」が大成功をおさめ、1988年には米国運輸省が発表する定時運航率の高さ・手荷物の紛失件数の少なさ・利用者からの苦情の少なさの3部門について米国の全航空会社中でトップとなった。その後、1989年11月からは3か月連続して3部門とも首位となったことから、サウスウエスト航空では1990年に “Triple Triple Crown”(3か月連続の三冠王)と呼ばれるまでに成長した。一方で、大手航空会社はこれに対抗するために、「ハブ&スポークス戦略」を展開した。これらの動向により、130~150席クラスの中小型機用のエンジンの市場が米国及び中近東を含む
 欧州で急激に伸びることが予測された。(Wikipediaの記事を参照して編集)
このことから、航空事業にとって、いかに自由化政策が重要であるかが分かる。これ以降、国際間でも様々な規制(これは主に環境関係)と自由化が揃って行われ続けられたことが、技術の系統化に大いに役立った。

19.2 国内の状況


 この期間に、日本の航空機用エンジン技術は、研究から実用機種の開発へと大きく変遷した。英国での高空性能試験を大成功裏に終了したFJR710エンジンは、試験機(航空自衛隊の輸送機C-1を改造し飛鳥「あすか」と命名)に搭載するための設計変更を行い、1985年10月に初飛行に成功した。独特の高揚力型のエンジンの配置で、機体側面の空気の流れを可視化するための装置を付けた飛行時の写真を図19.1に示す。


図8.1 スイープ試験中の実験機「飛鳥」

 このようなエンジンの特殊な搭載の方法は、国土の狭い日本での地方と離島の短い滑走路での離着陸を可能とするためのもので、STOL (Short Takeoff & Landing)機と呼ばれる。実際に、試験飛行では通常の滑走距離の半分にあたる800mで十分であることを実証した。

 しかし、高度成長時代にあった日本では、地方でも大型の空港が続々と誕生し、「飛鳥に明日はない」との迷言と共に、姿を消すことになった。この挫折は、純国産技術に対するエンジンビジネスはもとより、民間航空機産業全体に、大きな影響を与えることとなり、以降国際共同開発一本に絞ることになってしまった。この流れは現在まで続いており、今後も大きく変化する見込みはない。それは、独自の新規エンジンに関する国内での技術の系統化が途切れたためである。国際共同開発では、マーケティングから始まる全体の構想設計と、基本設計中に行われる大手エアラインとの綿密な交渉に関する技術を維持することができない。

 しかし、この成功の実証は無駄ではなかった。イギリスの国立ガスタービン研究所 (National Gas Turbine Establishment : NGTE)でのエンジン試験成功の事実を高く評価したRRは、1978年初頭、推力 10トン・ クラスのターボファンエンジンの共同開発を呼びかけ、直ちにこれに応じた日本との共同作業で1982年には日英両国で各1機の試験用エンジンRJ500を完成し、試験運転が行われた。
 
 エンジンの技術の系統化と伝承は、モノではなくヒトが主であると述べた。第2次世界大戦中に始まったジェットエンジン技術のそれは、イギリスではサー・スタンレイ、日本では永野治によって行われたといっても過言ではない。両国における系統化は、1980年代まで続いた。サー・スタンレイ・フッカー(彼については、第34章で詳細を述べる)は、1977年に日本への共同開発の提案を旧知の永野治に伝えた。私が、共同開発の先遣隊としてブリストルにあるホイットルハウスと名付けられたメインオフィスに一室を構えたとき、彼のオフィスは正面玄関に最も近い位置にあった。
 
 永野治(当時はIHIの副社長)は、直ちにサー・スタンレイの話を社内と関係官庁に熱心に伝えて、国内合意の成立に奔走した。私は、FJR710プロジェクト初期の設計システム班長時代に、毎月の個人指導会で多くの知見を頂いたことは、前章で述べた。


図19.2 ホイットルの業績を示すWhittle House の正面 (RR提供) 

 RJ500エンジンでのワークシェアーは、日本が低圧系のすべて、RR社が高圧系のすべてを担当し、外装やその他の部分で、50対50の関係を保つこととなった。部位によって、開発時の必要投資額と量産時の回収額が異なるので、量産時には相手側に移すことが比較的容易な部分で、50対50の関係を保つことになる。
 契約に関する主な進捗は次のとおり。(15)

 1979年1月 RRと日本側3社(IHI,KHI,MHI)でMOU(了解覚書)の締結、需要予測、エンジン仕様書の策定、事業性の検討、契約書草案の作成
 1979年12月 共同事業計画の調印、Boeing737-300,FokkerF29への搭載を目的として、推力9トン(21,000ポンド)のエンジンを1985年春の型式承認取得を目標に費用負担50:50で行う。協定期間は30年間とし、その間は同クラスのエンジンの開発は、双方とも単独では行わずに、この協定の下で行う。
 1980年4月 RR-JAEL社の設立。日英同数の役員、会長は日英で1年交代、運営委員会の下に6つの作業部会(設計・技術、営業・販売、業務、経理・財務、生産、プロダクト・サポート)
 1983年3月 5か国共同開発の発足により、実質的に失効(以降も技術提供等については継続)


図19.3 RJ500エンジンの担当部位(9)

 しかし、この RJ500 エンジンは、ボーイング社がBoeing737-300のエンジンとしてCFM56-3を選定してしまったため、それ以上の開発は進められない事態になった。また、同時期にすすめられていたP&WのPW2000エンジンも、このGEとフランスのスネクマ社の共同開発エンジンに負け、日英連合に共同開発を提案した。僅かに先行したCFMエンジンに対抗するためには、推力を130席用から150席用に増す必要があり、日英はそれに同意した。
この合意により、P&WグループのMTU(当時の西ドイツ)およびFIAT(イタリア)が加わり、1983年スイスにIAE(International Aero Engines AG) という名称のエンジン製造会社が5か国間で設立され、V2500エンジンの開発を開始した。名称は、五か国を表すVと、PW2000とRJ500の足し算をも意味する。V2500のワークシェアーは、当初は次の通りであった。
P&W ; 燃焼器と高圧タービン、RR; 高圧圧縮機
JAEC(日本航空機エンジン協会);ファンと低圧圧縮機
MTU;低圧タービン、 FIAT;ギアーボックス


図19.4 V2500断面図(担当部位色分け)(9)

 この国際共同開発エンジンはエアバス A320 やマクドネル・ダグラス MD-90 等に採用され、2019年度末までに7,737台を納入する大成功を収めることになる。
しかし、この間に詳細設計と製造技術に関しては、国際競争に伍するだけの技術を取得したが、シェアーが50%から19.9 %に減ったために、エンジン全体の構想設計と基本設計に参加するチャンスを失った。さらに、もっとも重要であるマーケティングについても機会を失い、以降は民間航空機産業の分野では、エンジン製造会社からエンジン部品製造会社への道を辿ることになる。(最終的には、シェアーが23%、FIATとRRが撤退した)

 RJ500からV2500への乗り換えは、当時の資金と人員などの事情からはやむを得ないことであった。しかし、歴史上唯一無二の対等な関係を捨てることの重大さが正しく認識されていたとは言い難い。RJ500は、RR-JAEL(Rolls Royce & Japanese Aeroengines Ltd.)という名前の会社の下で行われ、将来もこのクラスのエンジン開発は共同で行うとの合意ができていた。V2500に参加する際に、JAEC単独ではなくもしこの組織として参加をしていれば、全体の50%のシェアーを保つことができたはずである。しかし、自国の利益を優先するためのシェアー争いの中では、将来にわたってエンジン全体の計画や基本設計に留まるいう戦略はむなしく消えてしまった。 

参考・引用文献
(1)Wikipedia「ジョン・ストリングフェロー」https://ja.wikipedia.org/wiki/ (2020.4.5)
(2)黒田光彦「プロペラ飛行機の興亡」NTT出版(1998)
(3)吉中 司「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」日本ガスタービン学会誌(2008)p.169-175
(4)Wikipedia「航空に関する年表」https://ja.wikipedia.org/wiki/A8(2020.4.5) (2020.4.5)
(5)Wikipedia「スピリットオブセントルイス号」https://ja.wikipedia.org/wiki/(2020.4.5)
(6)Wikipedia「Boeing247」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pratt_and_Whitney_Wasp.jpg (2020.4.5)
(7)Wikipedia「J57エンジン」https://ja.wikipedia.org/wiki/BC_J57 (2020.4.10)
(8)T.J.ピーターズ、R.H.ウオ-タマン「エクセレント・カンパニー」講談社(1983)
(9)「航空機エンジン国際共同開発20年の歩み」日本航空機エンジン協会(2001)