第14話 Encyclopediaの訳語は、百学連環から百科事典になってしまった
Design on Liberal Arts Engineeringは、あまりにも専門分野化してしまった昨今の「様々な分野の設計」の不完全さを指摘して、本来の正しい設計(広い意味で計画や企画も含む、工学の根本だと思います)のあるべき姿を追求するための試行です。
要約;
西周(にし あまね)が、Encyclopediaの訳語とした「百学連環」は、総ての学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われている。古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。
詳細;
「科学と技術」日本近代思想体系(14)、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつであろう。
その中の第1は、西周(にし あまね)の「百学連環」である。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862から3年間オランダに留学して、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことであろう。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。Wikipediaには、次のような記述がある。
西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創った[5]ほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。
なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。
石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。(Wikipediaより)
(附録;津和野にある西周の生家)
「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの正確を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。
彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。Wikipediaには、次のような記述があるので、彼の解釈は正しい。
(この津和野町郷土館蔵の絵画は、「百学連環」より)
百科事典を意味する英語 encyclopediaは、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから一般的な知識の意味で使われていた
「百学連環」は、学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われているので、メタエンジニアリング的には、大いにそそわれる。つまり、百の学は連関していると云う訳なのだろう。
古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたのだと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。
いずれにせよ、英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまったと考えられる。(註1)
総論の次の第2節は「学術技芸 Science and Art」であり、次の記述がある。
学の字の性質は元来動詞にして、道を学ぶ、あるいは・・・、名詞に用ゆること少なし。実名詞には多く道の字を用ゆるなり。
現在では、XX学ばやりで、もっぱら名詞に使われているが、改めて新鮮な学に対する態度が伺える。術については、次の記述がある。
術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生ずるものにして、即ち術の形なり。都合良くあてはめるというの義なり。芸の字我朝にては業となすべし。芸の字元と藝の字より生ずるものにして、植え生ぜしむるの意なるべし。学術の二字即ち英語にてはScience and Art、ラテン語には、・・・。
術に亦二つの区別あり。Mechanical Art(器械技) and Liberal Art(上品芸)原語に従ふときは則ち器械の術、又上品の術と云う意なれど、今此の如く訳するのも適当ならざるべし。故に技術、芸術と訳して可なるべし。技は支体を労するの字義なれば、総て身体を働かす大工の如きもの是なり。芸は心思を労する義にして、総て心思を働かし詩文を作る等のもの是なり。
つまり、技と芸の関係は、身体の動きか思考の働きかの関係と云っている。
文字の意味を突き詰めるとそのようになる。
この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。
明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。
この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。
(註1)「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。
「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。
西周の人生三宝説(明六雑誌より)
「明六雑誌」が発行されたのは、明治7年から8年までのたった20ヶ月間であった。明六社は森有礼により提唱され、投稿者は福沢諭吉、西周、津田真道などの当時のそうそうたるメンバーであった。
掲載された論文は114編で、文明開化論、言語政策、婦人問題、哲学、思想、政治、経済、法律、教育に及んでいたと、次の書籍の序文で述べられている。
「明六雑誌」とその周辺、西洋文化の受容・思想と言語、神奈川大学人文学研究所編、お茶の水書房(2004)
神奈川大学で、この書の研究会が持たれたのは、その原本が同大学の図書館に所蔵されている為であろう。巻頭に写真等が示されている。この雑誌に掲載された論文の価値は、副題にある、西洋文化の受容にあるのだが、もっとも有名なのは、文中に翻訳されている西洋の文献の和訳に用いられた「和製漢語」であろう。代表的なものは科学、哲学、法学などであるが、その数は有に1000語を超している。
P181に掲げられて表3に依れば、合計1566語で、多くは消滅したが、現有語として528語が存在する。
中でも、西周の人生三宝説で用いられた語は多く現在の科学・政治・文化の中で使われている。彼が、その文章の中で、西洋文献や著者名などを逐語訳していたためであろう。
西周の人生三宝説は、掲載途中で雑誌が廃刊となったので,未完の説と云われている。また、彼の育った儒教の環境と、西洋哲学のいいとこどりの色彩が強く、「失敗した真理」などとも云われている。
人生三宝説の三宝とは、健康・知識・富有である。彼は、その執筆の意図を「今茲に論する趣旨は
此一般福祉を人間最大の眼目と立て、此れに達する方略を論せむとす」記されている。ここで、福祉という言葉は、happinessであり、現在では幸福とすべきであろう。そして、彼は一般人の最上極処のhappinessを達成するための方略として、人生の三宝を挙げている。そして、中でも知識=教育が最も大切な基礎であるとしている、即ち、健康は人生の大前提ではあるが、知識の増進(=教育)が、健康の維持と富有の確保に決定的であるからである。また富有については、「金と富の差別は経済学に譲るべし」としか述べずに、別途の著書「百学連環」の制産学(現在の経済学)の中で論じている。
附録;津和野にある西周の生家
先日、津和野にある西周の生家を尋ねることができた。親戚筋にあたる森鴎外の生家と、小さな川を挟んでかやぶき屋根の小宅と土蔵があった。
森鴎外の方は、生家の隣に立派な記念館があり、多くの文物が所蔵されているが、こちらは尋ねる人も少ないようだ。
Design on Liberal Arts Engineeringは、あまりにも専門分野化してしまった昨今の「様々な分野の設計」の不完全さを指摘して、本来の正しい設計(広い意味で計画や企画も含む、工学の根本だと思います)のあるべき姿を追求するための試行です。
要約;
西周(にし あまね)が、Encyclopediaの訳語とした「百学連環」は、総ての学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われている。古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。
詳細;
「科学と技術」日本近代思想体系(14)、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつであろう。
その中の第1は、西周(にし あまね)の「百学連環」である。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862から3年間オランダに留学して、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことであろう。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。Wikipediaには、次のような記述がある。
西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創った[5]ほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。
なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。
石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。(Wikipediaより)
(附録;津和野にある西周の生家)
「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの正確を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。
彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。Wikipediaには、次のような記述があるので、彼の解釈は正しい。
(この津和野町郷土館蔵の絵画は、「百学連環」より)
百科事典を意味する英語 encyclopediaは、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから一般的な知識の意味で使われていた
「百学連環」は、学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われているので、メタエンジニアリング的には、大いにそそわれる。つまり、百の学は連関していると云う訳なのだろう。
古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたのだと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。
いずれにせよ、英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまったと考えられる。(註1)
総論の次の第2節は「学術技芸 Science and Art」であり、次の記述がある。
学の字の性質は元来動詞にして、道を学ぶ、あるいは・・・、名詞に用ゆること少なし。実名詞には多く道の字を用ゆるなり。
現在では、XX学ばやりで、もっぱら名詞に使われているが、改めて新鮮な学に対する態度が伺える。術については、次の記述がある。
術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生ずるものにして、即ち術の形なり。都合良くあてはめるというの義なり。芸の字我朝にては業となすべし。芸の字元と藝の字より生ずるものにして、植え生ぜしむるの意なるべし。学術の二字即ち英語にてはScience and Art、ラテン語には、・・・。
術に亦二つの区別あり。Mechanical Art(器械技) and Liberal Art(上品芸)原語に従ふときは則ち器械の術、又上品の術と云う意なれど、今此の如く訳するのも適当ならざるべし。故に技術、芸術と訳して可なるべし。技は支体を労するの字義なれば、総て身体を働かす大工の如きもの是なり。芸は心思を労する義にして、総て心思を働かし詩文を作る等のもの是なり。
つまり、技と芸の関係は、身体の動きか思考の働きかの関係と云っている。
文字の意味を突き詰めるとそのようになる。
この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。
明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。
この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。
(註1)「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。
「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。
西周の人生三宝説(明六雑誌より)
「明六雑誌」が発行されたのは、明治7年から8年までのたった20ヶ月間であった。明六社は森有礼により提唱され、投稿者は福沢諭吉、西周、津田真道などの当時のそうそうたるメンバーであった。
掲載された論文は114編で、文明開化論、言語政策、婦人問題、哲学、思想、政治、経済、法律、教育に及んでいたと、次の書籍の序文で述べられている。
「明六雑誌」とその周辺、西洋文化の受容・思想と言語、神奈川大学人文学研究所編、お茶の水書房(2004)
神奈川大学で、この書の研究会が持たれたのは、その原本が同大学の図書館に所蔵されている為であろう。巻頭に写真等が示されている。この雑誌に掲載された論文の価値は、副題にある、西洋文化の受容にあるのだが、もっとも有名なのは、文中に翻訳されている西洋の文献の和訳に用いられた「和製漢語」であろう。代表的なものは科学、哲学、法学などであるが、その数は有に1000語を超している。
P181に掲げられて表3に依れば、合計1566語で、多くは消滅したが、現有語として528語が存在する。
中でも、西周の人生三宝説で用いられた語は多く現在の科学・政治・文化の中で使われている。彼が、その文章の中で、西洋文献や著者名などを逐語訳していたためであろう。
西周の人生三宝説は、掲載途中で雑誌が廃刊となったので,未完の説と云われている。また、彼の育った儒教の環境と、西洋哲学のいいとこどりの色彩が強く、「失敗した真理」などとも云われている。
人生三宝説の三宝とは、健康・知識・富有である。彼は、その執筆の意図を「今茲に論する趣旨は
此一般福祉を人間最大の眼目と立て、此れに達する方略を論せむとす」記されている。ここで、福祉という言葉は、happinessであり、現在では幸福とすべきであろう。そして、彼は一般人の最上極処のhappinessを達成するための方略として、人生の三宝を挙げている。そして、中でも知識=教育が最も大切な基礎であるとしている、即ち、健康は人生の大前提ではあるが、知識の増進(=教育)が、健康の維持と富有の確保に決定的であるからである。また富有については、「金と富の差別は経済学に譲るべし」としか述べずに、別途の著書「百学連環」の制産学(現在の経済学)の中で論じている。
附録;津和野にある西周の生家
先日、津和野にある西周の生家を尋ねることができた。親戚筋にあたる森鴎外の生家と、小さな川を挟んでかやぶき屋根の小宅と土蔵があった。
森鴎外の方は、生家の隣に立派な記念館があり、多くの文物が所蔵されているが、こちらは尋ねる人も少ないようだ。