生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(56)「文明のこころを問う」

2017年12月28日 08時30分46秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 文明のこころを問う KMB3407

書籍名;「文明のこころを問う」[2003] 
著者;小林道憲、安田喜憲  発行所;麗澤大学出版部
発行日;2003.10.16
初引用先;文化の文明化のプロセス Converging 文明の攻防



安田喜憲氏は、この書の発刊当時は環境考古学の創始者として有名であったが、現在では日本の文明論の最高権威といっても過言でないと思う。多数の著書に加えて、紫綬褒章を受章。小林道憲氏は福井大学教授で、哲学者。

安田、『科学革命で誕生したサイエンスというのは、やはり一神教的だという感じがするんです。ですから、多神教の世界では、なかなか本当の科学者は育たないという感じがします。古代のギリシャ哲学、中世の神学、そして近代の科学というふうに、長い目で見れば、現代の科学万能の時代にも終わりがくるのではないでしょうか。科学革命の時代は終わり、時代は推移しているのではないでしょうか。』

『それは、神がいて、その神の下に人間がいて、人間が生きるために自然が存在する。その自然は、人間の幸せのためならどれだけ分析してもいいという世界観や自然観に立脚した、人類文明史における思想潮流であって、それが万能で、永遠につづくというようなことは、ないと私は思います。キリスト教は、そういう世界観・自然観を醸成する上で大きな役割を果たした。そこには、神―人間―自然という縦系列の世界観があるわけです。ですから、人間は自然を支配する権利も与えられているし、もちろん保護しなければならないけれども、同時に分析して、徹底して法則を研究するという権利を、神が人間に与えるわけです。科学をすることは、神の世界に 一歩ずつ近づくことでもあるのです。

一方、多神教の世界では逆で、入問の上に自然があるわけです。とくに巨本は入間以上の崇高な存在ですから、分析の鉈を振るうなどということは恐れ多いことで、注連縄を巻いてお祈りし なければならない。切って張って、木の中の構造がどうなっているかを見ようという発想は、な かなか多神教の世界では出てこないんじゃないでしょうか。
私が思うに、若者の理科離れが起こるのは、科学に感動する予どもが減少したことを物語っていると思います。皆、分析的でデータ主義になった。だから、子どもたちが科学に感動できないの です。科学というのは感動があってはじめて、「僕も科学昔になろう」と思うものです。』

小林、『すべては連関していて、それぞれに価値がある。それぞれが、多様な価値を持って、成り立っている。宇宙、物質世界、生命世界、そして、人問が営む社会や文明のすべてが、そういう構造で成り立っていると考えなくてはいけないと思います。多様な価値を認めつつ、共存するという パソダイムが必要になってくる。これはいかにも東洋的な考え方であるわけですが、たとえば空海も、その曼荼羅的世界観の中で、まさに、そういう「多様性の中の共在」という考え方をしていたと言えます。私は、本来は、21世紀の地球文明も、この「多様性の中の共存」という考え方に基づくべき だと考えています。』

 文明論の世界では、20世紀の前半までは、例えばアフリカは「暗黒大陸」と呼ばれて、文明の外と見られていた。しかし、二度の世界大戦を経て、多面的な文明論が起こり、もはやそれは常識になった。同じことが、20世紀終盤からの情報化社会では起こると思われる。
 それは、一神教における「神―人間―自然」という考え方が、情報革命によって多くの神が公然となり、「自然(神)-人間」という図式に移ることが自然の流れになると思われる。その変化は、現代の情報化社会の多様性の中では、意外に急速に起こるのではないだろうか。
 多神教文化が文明の主流になる時期は、意外に早く起こり、そこから西欧文明から東洋文明への大転換が起こるように思う。