メタエンジニアの眼(194)
TITLE:ロスト近代論、または近代行動論
近代は資本主義により大いに栄えた。しかし、それも多くの解決困難な問題が発生して、ポスト資本主義などが取りざたされるに至ってしまった。そこで、近代の大きな流れをメタ的に捉えることが有意義になる。
橋本 努著「ロスト近代」弘文堂(2012)は、そのことを語っている。
副題は「資本主義の新たな駆動因」で、多くの欲望に満ちた現代(ポスト近代)からの新たな駆動力は何かを探っている。つまり、人々の欲求充足を駆動源とした「近代」、贅沢な消費に彩どられた「ポスト近代」に続く、宴が終わり下り坂を迎えた「ロスト近代」では、何が駆動源になり得るかといった設問を解いている。
「はじめに」は、『平均的な可処分所得はすでに、1997年を境にして下降傾向に転じている。』(p.ⅰ)から始まる。日本の経済レベルは、新興国に追いつかれるであろう、というわけである。
事実、この書の発行から8年後の今日、日本の給与所得者の平均所得は、欧米諸国の半分以下で、アジアの新興国にも追い抜かれそうな状態にある。可処分所得の指標となっているマックのハンバーガーの価格では、既に抜かれてしまった。
そこで、北欧の「潜在能力促進型の福祉国家」を実現した「北欧型の新自由主義」を検討して、ロスト近代のあり方を考えるとしている。著者は、「ローマ・クラブ型恐慌への不安と希望」から、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」を求めようとして、「ロスト近代の原理」を追求する。
「ロスト」とは、二つの喪失を意味する。「近代的な勤勉精神」と「ポスト近代的な欲望」の喪失である。そこで、新自由主義下の競争での「負け組」が「自分のしたいこと」を求めて動き出した。例えば、ネット上での「自己の快楽」である。『しだいに欲望消費に巻き込まれず、自然で本来的な経験を求めるようになってきた。』(p.25)というわけである。
そこで、駆動因を大きく二つに分ける。「したいこと(欲望の原理)」と「できること(可能の原理)」である。ポスト近代では。前者が大きく膨らみ拡張した。その結果は、「できること」の領域を大きく包含し、さらに「できること」の反対方向の「できないと思われていたこと」(例えば宇宙旅行)へも向かった。しかし、ロスト近代では、「できること」の拡張を眼ざすことになる。それは、「したいこと」への拡張もあるのだが、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」では、様々な環境改善活動や、SDGsへ向かうことになる。
これは、かつてはSDGsを目的とした諸行動が、けっして「したいこと」ではなかったのが、風向きが変わって「したいこと」の領域に入ってきたことを意味する。
『「可能の原理」は、それが創造的な活動へと向かうなら、資本主義社会において新たな富を生み出すための、文化資本を形成する。そしてその場合、創造性(クリエイティビティー)は、エコロジーの取り組みへと結合する。』(p.29)というわけである。
人々には『教育の機会や、図書館、美術館、コンサート・ホール、公園、市民センターなどの文化的な環境を利用しながら、自身の潜在能力を高めてゆくことが期待される。』(p.31)としている。
『自然の本来的価値は、それを理解し、解明し、また工学的に応用することによって、私たちの生活に豊暁な作用をもたらしてくれる。』(p.33)そこには、「商品開発能力を持った人々」の存在と「環境に敏感な消費者」の存在が必要になる。
・アリストテレス主義の拡張
『アリストテレスの徳(美徳=卓越)論を拡張して、「自然の超越的価値」を中核に置くような生活を実践することである。』(p.362)として、『アリストテレスによれば、人間には、それぞれ、固有の「ピュシス(自然)」があるという。ピュシスとは、魂(ピュシケー)』の元となる素材である。そのピュシスに従って、私たちが「魂のもっともすぐれた機能(卓越性=アレテー)」を満たすならば、それがすなわち「幸福」であり、また「善」といわれる。』(p.362)とする。
つまり、「拡張」とは、このことを「われわれ」から「対象としての自然」にまで拡張してゆくということのようだ。
そこから、「手つかずの自然(第1の自然)」から「社会の中で自生的に発展してきた第2の自然」を、ともに人間の手で豊饒化しようとする活動は、それ自体が「善き善」に連なると云えないだろうか。(p.364)で結んでいる。
この続編として、同著者により「ロスト欲望社会」勁草書房が発刊されている。読売新聞に載せられた書評(小川さやか;立命館大学教授)に拠れば、内容は大きくは変わっていない。
・ヒトの一生に例えると
この「できること」と「したいこと」を、メタ的に拡張してヒトの一生に当て嵌めてみる。すると、意外なことが分かってきた。
生まれたての赤子は、本能のままに生きようとしている。ここまでは、他の動物と同じだ。しかし、保育園世代になると、脳に経験が蓄積されて、「できること」を積極的にやるようになる。
教育を通じて色々な知識が蓄えられると、「したいこと」が分かるようになり、次第に動作がその方へ移り、青年期から成年期では、その人の生活環境にもよるが、「できること」は後回しにして、「したいこと」が優位になる。しかし、その期間でも、例えば子育て中の主婦は「できること」だけで、精いっぱいな状態に置かれるケースが多い。
老年期になると、「したいこと」がだんだん少なくなり、終に後期高齢者になると(これは筆者が実際に感じ始めていることなのだが)、「できること」がいつまで続けられるかが心配になってくる。例えば車の運転で、あと5年もすると「できなくなる」ことになる。すると、「できること」を今のうちにやっておきたいという、「できること」が「今のうちに、やっておきたいこと」になる。つまり、駆動因がふたたび「できること」に戻る。
このように考えると、近代はもはや後期高齢者になっていることになる。SDGsなどが、真に定着をすれば、「できること」が「やりたいこと」に変換されて、近代から、新たな「新代」に移行するのであろうか。
TITLE:ロスト近代論、または近代行動論
近代は資本主義により大いに栄えた。しかし、それも多くの解決困難な問題が発生して、ポスト資本主義などが取りざたされるに至ってしまった。そこで、近代の大きな流れをメタ的に捉えることが有意義になる。
橋本 努著「ロスト近代」弘文堂(2012)は、そのことを語っている。
副題は「資本主義の新たな駆動因」で、多くの欲望に満ちた現代(ポスト近代)からの新たな駆動力は何かを探っている。つまり、人々の欲求充足を駆動源とした「近代」、贅沢な消費に彩どられた「ポスト近代」に続く、宴が終わり下り坂を迎えた「ロスト近代」では、何が駆動源になり得るかといった設問を解いている。
「はじめに」は、『平均的な可処分所得はすでに、1997年を境にして下降傾向に転じている。』(p.ⅰ)から始まる。日本の経済レベルは、新興国に追いつかれるであろう、というわけである。
事実、この書の発行から8年後の今日、日本の給与所得者の平均所得は、欧米諸国の半分以下で、アジアの新興国にも追い抜かれそうな状態にある。可処分所得の指標となっているマックのハンバーガーの価格では、既に抜かれてしまった。
そこで、北欧の「潜在能力促進型の福祉国家」を実現した「北欧型の新自由主義」を検討して、ロスト近代のあり方を考えるとしている。著者は、「ローマ・クラブ型恐慌への不安と希望」から、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」を求めようとして、「ロスト近代の原理」を追求する。
「ロスト」とは、二つの喪失を意味する。「近代的な勤勉精神」と「ポスト近代的な欲望」の喪失である。そこで、新自由主義下の競争での「負け組」が「自分のしたいこと」を求めて動き出した。例えば、ネット上での「自己の快楽」である。『しだいに欲望消費に巻き込まれず、自然で本来的な経験を求めるようになってきた。』(p.25)というわけである。
そこで、駆動因を大きく二つに分ける。「したいこと(欲望の原理)」と「できること(可能の原理)」である。ポスト近代では。前者が大きく膨らみ拡張した。その結果は、「できること」の領域を大きく包含し、さらに「できること」の反対方向の「できないと思われていたこと」(例えば宇宙旅行)へも向かった。しかし、ロスト近代では、「できること」の拡張を眼ざすことになる。それは、「したいこと」への拡張もあるのだが、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」では、様々な環境改善活動や、SDGsへ向かうことになる。
これは、かつてはSDGsを目的とした諸行動が、けっして「したいこと」ではなかったのが、風向きが変わって「したいこと」の領域に入ってきたことを意味する。
『「可能の原理」は、それが創造的な活動へと向かうなら、資本主義社会において新たな富を生み出すための、文化資本を形成する。そしてその場合、創造性(クリエイティビティー)は、エコロジーの取り組みへと結合する。』(p.29)というわけである。
人々には『教育の機会や、図書館、美術館、コンサート・ホール、公園、市民センターなどの文化的な環境を利用しながら、自身の潜在能力を高めてゆくことが期待される。』(p.31)としている。
『自然の本来的価値は、それを理解し、解明し、また工学的に応用することによって、私たちの生活に豊暁な作用をもたらしてくれる。』(p.33)そこには、「商品開発能力を持った人々」の存在と「環境に敏感な消費者」の存在が必要になる。
・アリストテレス主義の拡張
『アリストテレスの徳(美徳=卓越)論を拡張して、「自然の超越的価値」を中核に置くような生活を実践することである。』(p.362)として、『アリストテレスによれば、人間には、それぞれ、固有の「ピュシス(自然)」があるという。ピュシスとは、魂(ピュシケー)』の元となる素材である。そのピュシスに従って、私たちが「魂のもっともすぐれた機能(卓越性=アレテー)」を満たすならば、それがすなわち「幸福」であり、また「善」といわれる。』(p.362)とする。
つまり、「拡張」とは、このことを「われわれ」から「対象としての自然」にまで拡張してゆくということのようだ。
そこから、「手つかずの自然(第1の自然)」から「社会の中で自生的に発展してきた第2の自然」を、ともに人間の手で豊饒化しようとする活動は、それ自体が「善き善」に連なると云えないだろうか。(p.364)で結んでいる。
この続編として、同著者により「ロスト欲望社会」勁草書房が発刊されている。読売新聞に載せられた書評(小川さやか;立命館大学教授)に拠れば、内容は大きくは変わっていない。
・ヒトの一生に例えると
この「できること」と「したいこと」を、メタ的に拡張してヒトの一生に当て嵌めてみる。すると、意外なことが分かってきた。
生まれたての赤子は、本能のままに生きようとしている。ここまでは、他の動物と同じだ。しかし、保育園世代になると、脳に経験が蓄積されて、「できること」を積極的にやるようになる。
教育を通じて色々な知識が蓄えられると、「したいこと」が分かるようになり、次第に動作がその方へ移り、青年期から成年期では、その人の生活環境にもよるが、「できること」は後回しにして、「したいこと」が優位になる。しかし、その期間でも、例えば子育て中の主婦は「できること」だけで、精いっぱいな状態に置かれるケースが多い。
老年期になると、「したいこと」がだんだん少なくなり、終に後期高齢者になると(これは筆者が実際に感じ始めていることなのだが)、「できること」がいつまで続けられるかが心配になってくる。例えば車の運転で、あと5年もすると「できなくなる」ことになる。すると、「できること」を今のうちにやっておきたいという、「できること」が「今のうちに、やっておきたいこと」になる。つまり、駆動因がふたたび「できること」に戻る。
このように考えると、近代はもはや後期高齢者になっていることになる。SDGsなどが、真に定着をすれば、「できること」が「やりたいこと」に変換されて、近代から、新たな「新代」に移行するのであろうか。
これは、ゴーダ綱領の「各人は 能力に応じて働き、必要に応じて受け取る 」に通じます。
川崎さんのご意見では「欲望」の制御が一番難しいとのことでした。
私が纏めた「ハピネス・カーブ」にも、同じ考えが述べられていました。筆者は、Jonathan Rouchで、ブルッキングス研究所シニア・フェローです。
ハピネス・カーブとは、「人間がHappyと感ずる度合い」を年齢でプロットしたものです。
つまり、「達成率=出来たこと/欲望」という式で、幼少時には大、青年期には小、老年期には中と下に凸のカーブとなります。
幼少期には、略100%希望が叶えられました(親が世話をしました)。青年期は、欲望が大きすぎて実力が伴わず、実現できません(一般論であり、例外はあります)。
老年期は諦め・コツを学んだ事もあり、欲望を抑止し、知恵もつき実現出来るようになります。
その実践上の骨子は以下の3点です。
「①正常化②他人と比較しない③時期を待つ」
纏めると、「欲望の抑制(他人・他国と比較しないで、自分の指標をたて、実現に努力する)」、「行きすぎた資本主義を是正(必要なものを必要なだけ作る)」、
「足が地に着いた発想に基づく行動(地産地消)」+[思いやり」を実践すること。