メタエンジニアの眼シリーズ(98)TITLE: 「文明の構図」 (その1)
書籍名;「文明の構図」 [1997]
著者;山崎正和 発行所;文藝春秋
発行日;1997.3.20初回作成日;H30.12.29 最終改定日;H30.12.30
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
著者は、劇作家だが、サントリー文化財団副理事長、複数大学(東亜、LCA大学院)の学長、文化功労者。1990年に福沢諭吉の「脱亜入欧」をもじって、「脱亜入洋」(洋はオセアニア)を提唱。
この著書は、3つの構図(空間の構図、知の構図、感情の構図)を纏めているが、過去の著作をそれぞれに当て嵌めただけで、「空間の構図」を除いては、構図というよりは各論になっている。その中から、2つの文章を(その1)と(その2)に纏める。
1.東アジア文明の誕生
この文章は、次の言葉で始まっている。
『「一匹の妖怪が世界を徘徊している―東アジアという妖怪が」。もしもカール・マルクスが生きていたら、いささかの困惑をこめてこう述懐したかもしれない。 マルクスが「ヨーロッパに徘徊している」と信じた妖怪、共産主義は死んでしまったし、それと時期を同じくして 、彼が「アジア的停滞」の一語で片づけた東アジアが、急速な経済成長を遂げているからである。
しかし、世界を徘徊しているのが一匹の妖怪であることはまちがいない。それは漠然と東アジアと名づけられ、巨大なエネルギーの存在を感じさせるが、いざ正体を見届けようとすると、はっきりした顔も輪郭も持たない怪物である。それはーつの地域なのか、一つの人種の集まりなのか、それともーつの文明の名前なのか。』(pp.9)
これは、世界情勢は一世紀を待たずして、構図が大きく変化することを示している。以下は、「文明の構図」としては、西欧文化と東洋文化を常に対照的に見ている。冷戦後の現代社会における状況については、次のようにある
『冷戦後のアジアが二極体制の抑制を失い、民族主義的な不満を爆発させて、地域紛争の渦に巻き込まれるだろうと予言する。またエーロン・フリードハーグ氏のように、アジアアジア諸国が成長して大国化すれば、かつてヨーロッパがたどった歴史を再現して、国家間の戦争をすら繰り返すだろうと予言する。しかしマブバニ氏は、そういう観測は西洋人の一元的歴史観のもたらす妄想にほかならず、現実を見れば、アジア地域はむしろ現在のヨーロッパ以上に安定の条件に恵まれているという。』(pp.13)
この、「西洋人の一元的歴史観のもたらす妄想」という言葉は、文化や文明論では、しばしば用いられている。
一匹の妖怪が世界の文明の構図を変えてゆくということで、それは価値観の持ち方がまるっきり異なっているところで起こり得る。そのことについては、次のように明言している。
『いったい、西洋人は世界観のうえで独善的であって、民主主義や資本主義といった、西洋起源の特定の概念が普遍的だと信じこんでいる。それにとらわれて、彼らは同質の社会だけで団結しようとするのであるが、アジア人は互いの文化のみならず、価値観すら多様であることを認めることができる。そのために、この地域では政治体制と倫理観の違いをも超えて、ただひとつ、経済発展のダイナミズムが全域を統合しうるのだという。 』(pp.14)
そして、究極的には、「太平洋を舞台に、東西の文明が融合する」可能性を指摘する。日本は、アジア的な価値観を次第に失ってゆくのか、あるいは再び目覚めるのかは、どちらもあり得るように思われる。
文明は、大きく分けて二つに分類される。世界文明と民族文明であり、過去の文明は「民族文明」であったとしている。そして現代の西洋文明のみが「世界文明」としている。(pp.17)
西洋文明だけが世界文明に育った道筋については、次のような説明に拠っている。
『私の見るとこ、この統治と言語の二重支配の構造こそ、まさに「西洋世界文明」の誕生の始まりであった。 このときから、西洋はローマ帝国の伝統を傘とし、キリスト教文明を大枠として持ちながら、そのなかで内部の他者として民族文明を生かしうる 、世界文明の道へ踏み出 したのである。 』(pp.18)
それに対してアジアでは、「仏教文明」が世界文明になる可能性があったのだが、「民族文明」どうしが化学変化を起こすためには、そこに触媒として、普遍的な「世界文明」の傘が必要なのある。であるが、アジアにはこの文明の二重構造が成立しなかったからである。』(pp.21)
つまり、「キリスト教文明を大枠として持つ」ということが、アジアでは成り立たないということなのだが、現代の「世界的な諸問題を解決する新たなテクノロジー」は、大枠にはならないのだろうか。
文化と文明の違いについては、次のようにある。
『ひとことでいえば、文化とは半ば意識下にまで根をおろした生活様式であり、身体的に習熟されて慣習化した秩序を意味している。 これにたいして、文明は完全に意識化された生活様式であり、 観念的に理解される秩序のことであって 、両者は連続的なグレーゾーンをはさみながら、しかしはっきりと分極している。例をあげれば、イギリスの議会制度や機械工業は文明であるが、議員の演説の文体や、機械を操る微妙な身体的ノウハウは文化である。 西洋の音階とリズムの体系は文明であるが、個々の演奏者の身についたスタイル、作曲家の体臭にも似た個性は文化にほかならない。当然ながら、文化は頑固に変わりがたいが支配の範囲は狭く、文明は広く伝播しうるが意識的に捨てることもやさしい。.』(pp.29)
この分類に従うと、ハンチントンの云うところの「文明の衝突」は、東洋では起こりえないよ云う。彼は文化と文明を混同しており、文化の衝突は起こりえず、文明は民族固有の文化ほどの頑固な属性はない(つまり、「意識的に捨てることもやさしい」)からというわけである。
諸文化を残したままでの世界文明へのプロセスは、大枠の存在いかんに係るとのことなのだが、一神教と多神教の様々な宗教が交錯する現代では、思想的な大枠は成立しがたい。むしろ、気候変動、地球温暖化、格差の拡大といった、世界共通の問題を解決するためのテクノロジーが大枠になる可能性があり、メタエンジニアリングが、それを支えるためのバイブルになればと思ってしまう。
書籍名;「文明の構図」 [1997]
著者;山崎正和 発行所;文藝春秋
発行日;1997.3.20初回作成日;H30.12.29 最終改定日;H30.12.30
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
著者は、劇作家だが、サントリー文化財団副理事長、複数大学(東亜、LCA大学院)の学長、文化功労者。1990年に福沢諭吉の「脱亜入欧」をもじって、「脱亜入洋」(洋はオセアニア)を提唱。
この著書は、3つの構図(空間の構図、知の構図、感情の構図)を纏めているが、過去の著作をそれぞれに当て嵌めただけで、「空間の構図」を除いては、構図というよりは各論になっている。その中から、2つの文章を(その1)と(その2)に纏める。
1.東アジア文明の誕生
この文章は、次の言葉で始まっている。
『「一匹の妖怪が世界を徘徊している―東アジアという妖怪が」。もしもカール・マルクスが生きていたら、いささかの困惑をこめてこう述懐したかもしれない。 マルクスが「ヨーロッパに徘徊している」と信じた妖怪、共産主義は死んでしまったし、それと時期を同じくして 、彼が「アジア的停滞」の一語で片づけた東アジアが、急速な経済成長を遂げているからである。
しかし、世界を徘徊しているのが一匹の妖怪であることはまちがいない。それは漠然と東アジアと名づけられ、巨大なエネルギーの存在を感じさせるが、いざ正体を見届けようとすると、はっきりした顔も輪郭も持たない怪物である。それはーつの地域なのか、一つの人種の集まりなのか、それともーつの文明の名前なのか。』(pp.9)
これは、世界情勢は一世紀を待たずして、構図が大きく変化することを示している。以下は、「文明の構図」としては、西欧文化と東洋文化を常に対照的に見ている。冷戦後の現代社会における状況については、次のようにある
『冷戦後のアジアが二極体制の抑制を失い、民族主義的な不満を爆発させて、地域紛争の渦に巻き込まれるだろうと予言する。またエーロン・フリードハーグ氏のように、アジアアジア諸国が成長して大国化すれば、かつてヨーロッパがたどった歴史を再現して、国家間の戦争をすら繰り返すだろうと予言する。しかしマブバニ氏は、そういう観測は西洋人の一元的歴史観のもたらす妄想にほかならず、現実を見れば、アジア地域はむしろ現在のヨーロッパ以上に安定の条件に恵まれているという。』(pp.13)
この、「西洋人の一元的歴史観のもたらす妄想」という言葉は、文化や文明論では、しばしば用いられている。
一匹の妖怪が世界の文明の構図を変えてゆくということで、それは価値観の持ち方がまるっきり異なっているところで起こり得る。そのことについては、次のように明言している。
『いったい、西洋人は世界観のうえで独善的であって、民主主義や資本主義といった、西洋起源の特定の概念が普遍的だと信じこんでいる。それにとらわれて、彼らは同質の社会だけで団結しようとするのであるが、アジア人は互いの文化のみならず、価値観すら多様であることを認めることができる。そのために、この地域では政治体制と倫理観の違いをも超えて、ただひとつ、経済発展のダイナミズムが全域を統合しうるのだという。 』(pp.14)
そして、究極的には、「太平洋を舞台に、東西の文明が融合する」可能性を指摘する。日本は、アジア的な価値観を次第に失ってゆくのか、あるいは再び目覚めるのかは、どちらもあり得るように思われる。
文明は、大きく分けて二つに分類される。世界文明と民族文明であり、過去の文明は「民族文明」であったとしている。そして現代の西洋文明のみが「世界文明」としている。(pp.17)
西洋文明だけが世界文明に育った道筋については、次のような説明に拠っている。
『私の見るとこ、この統治と言語の二重支配の構造こそ、まさに「西洋世界文明」の誕生の始まりであった。 このときから、西洋はローマ帝国の伝統を傘とし、キリスト教文明を大枠として持ちながら、そのなかで内部の他者として民族文明を生かしうる 、世界文明の道へ踏み出 したのである。 』(pp.18)
それに対してアジアでは、「仏教文明」が世界文明になる可能性があったのだが、「民族文明」どうしが化学変化を起こすためには、そこに触媒として、普遍的な「世界文明」の傘が必要なのある。であるが、アジアにはこの文明の二重構造が成立しなかったからである。』(pp.21)
つまり、「キリスト教文明を大枠として持つ」ということが、アジアでは成り立たないということなのだが、現代の「世界的な諸問題を解決する新たなテクノロジー」は、大枠にはならないのだろうか。
文化と文明の違いについては、次のようにある。
『ひとことでいえば、文化とは半ば意識下にまで根をおろした生活様式であり、身体的に習熟されて慣習化した秩序を意味している。 これにたいして、文明は完全に意識化された生活様式であり、 観念的に理解される秩序のことであって 、両者は連続的なグレーゾーンをはさみながら、しかしはっきりと分極している。例をあげれば、イギリスの議会制度や機械工業は文明であるが、議員の演説の文体や、機械を操る微妙な身体的ノウハウは文化である。 西洋の音階とリズムの体系は文明であるが、個々の演奏者の身についたスタイル、作曲家の体臭にも似た個性は文化にほかならない。当然ながら、文化は頑固に変わりがたいが支配の範囲は狭く、文明は広く伝播しうるが意識的に捨てることもやさしい。.』(pp.29)
この分類に従うと、ハンチントンの云うところの「文明の衝突」は、東洋では起こりえないよ云う。彼は文化と文明を混同しており、文化の衝突は起こりえず、文明は民族固有の文化ほどの頑固な属性はない(つまり、「意識的に捨てることもやさしい」)からというわけである。
諸文化を残したままでの世界文明へのプロセスは、大枠の存在いかんに係るとのことなのだが、一神教と多神教の様々な宗教が交錯する現代では、思想的な大枠は成立しがたい。むしろ、気候変動、地球温暖化、格差の拡大といった、世界共通の問題を解決するためのテクノロジーが大枠になる可能性があり、メタエンジニアリングが、それを支えるためのバイブルになればと思ってしまう。