メタエンジニアの眼シリーズ(108) TITLE: 「5000年前の日常」
書籍名;「5000年前の日常」 [2007]
著者;小林登志子 発行所;新潮社(新潮選書)
発行日;2007.2.22
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
この書の副題は、「シュメル人たちの物語」とあり、人類の近代文明の始まりの書として選んだ。裏表紙に書かれた内容は、『人類史上最古の文明人は、なにを考えて生きていたのか? 古代メソポタミアにも教育パパや非行少年がいた! 初めて文字を発明し、最初の都市社会に生きた人々の生活は、どのようなものだったのか? 大な粘土板に刻まれた楔形文字を読み解き、自意識過剰の王様、赤ん坊の子守歌を作ったお妃、手強い敵を前にして王に泣きつく将軍、夫の家庭内暴力から逃れた妻など、人間くさい古代人の喜怒哀楽を浮き彫りにする』とある。
紀元前5000年頃のシュメル(彼女は、敢えて「シュメル」としている。理由は後述)は、このように書かれている。もう、近代と大きな変わりはない。
『前五〇〇〇年頃に人々はバビロニアに定住を始めた。ウバイド文化期(前五〇〇〇ー前三五〇〇年頃)の始まりである。これに先立つこと三〇〇〇年前、前八〇〇〇年頃ころにはザグロス山脈の山麓地帯で天水に頼る原始農耕がすでに始まっていたが、ようやくこの頃にバビロニアの乾燥地帯でも、濯慨農耕によって大麦が栽培されて安定した収穫を得ることが可能になった。
ウバイド文化期の後期には大きな町が成立し、交易も活発におこなわれるようになった。
次のウルク文化期(前三五〇〇―前三一〇〇年頃)が本格的な都市文明成立の時代である。ことに後期になると、支配階級や専門職人などが現れ、巨大な神殿が造られ、古拙文字(=絵文字)が発明された。最古の古拙文字は前三二〇〇年ぐらいに書かれ、それ以前のブッラ(中空の直径一〇センチメートルぐらいの粘土の球)とトークン(ニ~三センチメートルぐらいの粘土製品)を使った記録方法から大きく転換した。
都市の生活はほとんどの人間が農業に従事した単調な村落社会とちがっていた。 数万人が集まり住んだ都市には余剰生産物が増えた結果として、食糧生産に従事しない者が数多く生まれた。王や支配者層がいて複雑な支配組織が整えられた。都市に住む入々の日常生活では、たとえば技術や工芸などが複雑になり、同時に洗練されもした。』(pp.5)
シュメル語についての記述も面白い。彼女は、原日本人がこの地域(例えばインダスなど)から海伝いにやってきたことを否定しているが、日本語との関係についての説明は、冒頭から詳しく書かれている。
『シュメル人とはどこからやって来たのかわからない民族系統不詳の人々である。シュメル語は日本語と同じように膠着語で、日本語の格助詞、つまり「てにをは」のような接辞を持つ言語であった。 シュメル語を表記するために考案された古拙文字はしばらくして楔形文字に転換した。これは一本でさまざまな形を作り出せる葦のペンを工夫した結果、粘土板への書き始めが三角の襖形になったので、こう呼ばれる。シユメル語の楔形文字は表語文字から始まり表音文字も工夫され、シュメル語を自在に表現できるようになった。やがて、セム語族のアッカド人も自らの言語を表記するためにシュメルの襖形文字を借用した。
アッカド語の表記には日本の仮名文字と同じ音節文字が必要で、アッカド語の文章の中にシュメル語そのままの用語も多数取りいれた。これは本来中国語を表すための漢字を我が国で借用して、日本語を表した万葉仮名の用法と似ている。当然アッカド語の中に多数のシュメル語が含まれているのと同様に日本語の中には多数の漢語がはいっている。日本ではやがて漢字を崩して平仮名、漢字の偏を取って片仮名を発明した。楔形文字にはこうした展開はなかったが、文字が簡略化され、ウガリト語、ペルシァ語などのさまざまな言語に借用され、広く長くオリエント世界で使われた。』(pp.7)
日本の文字も、ひらがなは明らかに毛筆で書きやすく、かつ美しいと感じたからだろう。使い慣れた筆記用具によって、独特の文字も作られてゆくということ。
「シュメル」との表記については、このような説明がされている。日本の歴史学会の権威主義を象徴するようなことだと感じる。
『話変わって「超古代史」という不思議な分野がある。こうした分野ではともに膠着語を言語とすることからシュメル人と日本人を結びつける論がもてはやされている。その多くは荒唐無稽で学問とはいいがたい。たとえば、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあったとか、 天皇のことを「すめらみこと」というがそれは「シュメルのみこと」であるといった俗説が流布した。
そこでシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れ「シュメール」と表記された。 三笠宮崇仁様はこの話を中原先生から直接うかがったという。 戦後も、「シュメール」は「シュメル」にもどることなく、我が国では「シュメール」が市民権を得てしまった。こうした事情を踏まえて、本書ではアッカド語の原音に近いシュメルを採用した。』(pp.10)
ここまでわかっていても、日本語の教科書は、「シュメール」の、ままなのだろうか。
その後、『現在の文明社会のしくみの多くは、シュメル人の社会に見られるものである。』(pp.12)として、多くの例を挙げている。その一つは、反対討論でこのように書かれている。
『「銀と銅」と題した「討論詩」が残っている。「討論詩」はシュメル文学の一分野で、動物、植物、季節そして鉱物などの擬人化された一組が自分の方が優れていると主張しあう。たとえば、「魚と鳥」「タマリスク(御柳)となつめやし」そして「夏と冬」などの組み合わせがある。
はじめに討論者たちの創造された過程や属性などを紹介し、争いの原因が語られる。続いてそれぞれが自己の長所を並立てる一方で、他者を貶める主張が展開される。だが最後には神による判定の後で、討論者たちはめでたく和解にいたる。』(pp.178)
「紀元前5000年頃のシュメルは、このように書かれている。もう、近代と大きな変わりはない」ということは、この頃に、現代人類文明の色々な基盤がすべて同時にこの地のみで起こったことになる。これは、偶然と言えるであろうか、大きな疑問が残ってしまう。
この書を読むと、いわゆる古代4大文明の中でも、ここだけが近代の文明に酷似しているように思えてくる。エジプトや黄河流域と何が違っていたのであろうか。その答えは、最近発行された本の中にあった。勿論、それが真実かどうかは分からないが、メタエンジニアリング思考だと、こんな楽しみ方もできるようになる。
書籍名;「5000年前の日常」 [2007]
著者;小林登志子 発行所;新潮社(新潮選書)
発行日;2007.2.22
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
この書の副題は、「シュメル人たちの物語」とあり、人類の近代文明の始まりの書として選んだ。裏表紙に書かれた内容は、『人類史上最古の文明人は、なにを考えて生きていたのか? 古代メソポタミアにも教育パパや非行少年がいた! 初めて文字を発明し、最初の都市社会に生きた人々の生活は、どのようなものだったのか? 大な粘土板に刻まれた楔形文字を読み解き、自意識過剰の王様、赤ん坊の子守歌を作ったお妃、手強い敵を前にして王に泣きつく将軍、夫の家庭内暴力から逃れた妻など、人間くさい古代人の喜怒哀楽を浮き彫りにする』とある。
紀元前5000年頃のシュメル(彼女は、敢えて「シュメル」としている。理由は後述)は、このように書かれている。もう、近代と大きな変わりはない。
『前五〇〇〇年頃に人々はバビロニアに定住を始めた。ウバイド文化期(前五〇〇〇ー前三五〇〇年頃)の始まりである。これに先立つこと三〇〇〇年前、前八〇〇〇年頃ころにはザグロス山脈の山麓地帯で天水に頼る原始農耕がすでに始まっていたが、ようやくこの頃にバビロニアの乾燥地帯でも、濯慨農耕によって大麦が栽培されて安定した収穫を得ることが可能になった。
ウバイド文化期の後期には大きな町が成立し、交易も活発におこなわれるようになった。
次のウルク文化期(前三五〇〇―前三一〇〇年頃)が本格的な都市文明成立の時代である。ことに後期になると、支配階級や専門職人などが現れ、巨大な神殿が造られ、古拙文字(=絵文字)が発明された。最古の古拙文字は前三二〇〇年ぐらいに書かれ、それ以前のブッラ(中空の直径一〇センチメートルぐらいの粘土の球)とトークン(ニ~三センチメートルぐらいの粘土製品)を使った記録方法から大きく転換した。
都市の生活はほとんどの人間が農業に従事した単調な村落社会とちがっていた。 数万人が集まり住んだ都市には余剰生産物が増えた結果として、食糧生産に従事しない者が数多く生まれた。王や支配者層がいて複雑な支配組織が整えられた。都市に住む入々の日常生活では、たとえば技術や工芸などが複雑になり、同時に洗練されもした。』(pp.5)
シュメル語についての記述も面白い。彼女は、原日本人がこの地域(例えばインダスなど)から海伝いにやってきたことを否定しているが、日本語との関係についての説明は、冒頭から詳しく書かれている。
『シュメル人とはどこからやって来たのかわからない民族系統不詳の人々である。シュメル語は日本語と同じように膠着語で、日本語の格助詞、つまり「てにをは」のような接辞を持つ言語であった。 シュメル語を表記するために考案された古拙文字はしばらくして楔形文字に転換した。これは一本でさまざまな形を作り出せる葦のペンを工夫した結果、粘土板への書き始めが三角の襖形になったので、こう呼ばれる。シユメル語の楔形文字は表語文字から始まり表音文字も工夫され、シュメル語を自在に表現できるようになった。やがて、セム語族のアッカド人も自らの言語を表記するためにシュメルの襖形文字を借用した。
アッカド語の表記には日本の仮名文字と同じ音節文字が必要で、アッカド語の文章の中にシュメル語そのままの用語も多数取りいれた。これは本来中国語を表すための漢字を我が国で借用して、日本語を表した万葉仮名の用法と似ている。当然アッカド語の中に多数のシュメル語が含まれているのと同様に日本語の中には多数の漢語がはいっている。日本ではやがて漢字を崩して平仮名、漢字の偏を取って片仮名を発明した。楔形文字にはこうした展開はなかったが、文字が簡略化され、ウガリト語、ペルシァ語などのさまざまな言語に借用され、広く長くオリエント世界で使われた。』(pp.7)
日本の文字も、ひらがなは明らかに毛筆で書きやすく、かつ美しいと感じたからだろう。使い慣れた筆記用具によって、独特の文字も作られてゆくということ。
「シュメル」との表記については、このような説明がされている。日本の歴史学会の権威主義を象徴するようなことだと感じる。
『話変わって「超古代史」という不思議な分野がある。こうした分野ではともに膠着語を言語とすることからシュメル人と日本人を結びつける論がもてはやされている。その多くは荒唐無稽で学問とはいいがたい。たとえば、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあったとか、 天皇のことを「すめらみこと」というがそれは「シュメルのみこと」であるといった俗説が流布した。
そこでシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れ「シュメール」と表記された。 三笠宮崇仁様はこの話を中原先生から直接うかがったという。 戦後も、「シュメール」は「シュメル」にもどることなく、我が国では「シュメール」が市民権を得てしまった。こうした事情を踏まえて、本書ではアッカド語の原音に近いシュメルを採用した。』(pp.10)
ここまでわかっていても、日本語の教科書は、「シュメール」の、ままなのだろうか。
その後、『現在の文明社会のしくみの多くは、シュメル人の社会に見られるものである。』(pp.12)として、多くの例を挙げている。その一つは、反対討論でこのように書かれている。
『「銀と銅」と題した「討論詩」が残っている。「討論詩」はシュメル文学の一分野で、動物、植物、季節そして鉱物などの擬人化された一組が自分の方が優れていると主張しあう。たとえば、「魚と鳥」「タマリスク(御柳)となつめやし」そして「夏と冬」などの組み合わせがある。
はじめに討論者たちの創造された過程や属性などを紹介し、争いの原因が語られる。続いてそれぞれが自己の長所を並立てる一方で、他者を貶める主張が展開される。だが最後には神による判定の後で、討論者たちはめでたく和解にいたる。』(pp.178)
「紀元前5000年頃のシュメルは、このように書かれている。もう、近代と大きな変わりはない」ということは、この頃に、現代人類文明の色々な基盤がすべて同時にこの地のみで起こったことになる。これは、偶然と言えるであろうか、大きな疑問が残ってしまう。
この書を読むと、いわゆる古代4大文明の中でも、ここだけが近代の文明に酷似しているように思えてくる。エジプトや黄河流域と何が違っていたのであろうか。その答えは、最近発行された本の中にあった。勿論、それが真実かどうかは分からないが、メタエンジニアリング思考だと、こんな楽しみ方もできるようになる。