父が亡くなりました。私が父に会いに大分に帰り、二日後のことでした。まるで、私の帰りを待って安心して逝ったようだと親戚に言われます。まさか、こんなに早く逝くとは。徐々に衰えていくとは言え、来年の春か夏には、また会えると思っていました。無理に帰り、生きているうちに会えて本当によかったです。
父が骨になったのを見ても、父が逝って二週間が経っても、実感がわきません。非情かもしれませんが、お葬式でも涙が出ずに、ぼんやりとしていた感じでした。涙が出そうになるけど、自分で抑制しているのか涙が引っ込む感じだと妹と言っています。
父がお骨になるのを待っている間、従妹が父から木琴を買ってもらった話をしてくれました。従妹が欲しがっていた木琴、それも思っているのより上等の木琴で、うれしくて誇らしげに木琴を叩いたと。
私も父の思い出をしようと思います。父は、無口でマイペースでした。母にとっては、自分勝手で何もしない夫だと思いますが、私には、穏やかでお茶目な父でした。
小学生の時、夕食後父と妹と三人でトランプをして遊んだことは楽しい思い出です。今、考えると、よく毎日のようにトランプで遊んでくれたなと思います。
子どもが赤ちゃんの時に、大分に帰った時のことです。父が孫たちを上手に抱っこすることに驚きました。人見知りの時期だった子どもが泣くのかと思いきや、安心して抱っこされていました。それを見て、私や妹もこうして父に抱っこされていたのかなと思いました。
従妹に「おじちゃんは、孫を可愛がるの?」と聞かれたことがあります。「可愛がるよ」と答えると従妹はビックリしていました。父は、無口であまり感情を表さなかったので、意外に感じたのでしょう。不器用だったかもしれませんが、父は確かに孫を可愛がっていました。
父がモーターボートの免許を取ろうとしていた時です。私が不遜にも「問題を出してやるわ」と言って、モーターボートの教本から問題を出しました。正解を答えます。どんな問題を出しても正解を答えます。私も意地になって重箱をつつくような問題を出しても、正解を答えました。その時に父はすごいと思いました。
思えば、私が小学生の時、父は通信教育で何かを勉強していました。「えっ、大人になっても勉強せなあかんの!?」と驚いたことを覚えています。
その後も部署が変わると本を何冊も買って、その部署の勉強をしていました。
父の姿から、いくつになっても学ぶことは出来ると教えてもらったような気がします。
ほとんど怒られたことがないのですが、一度、こっぴどく怒られたことがありました。大学生の時、初めてアルバイトをしました。デパートでずっと立ちっぱなしでネクタイを売りました。帰って、バイト代の入った袋を破ると、そこには思ったよりうんと少ない額のお金が入っていました。「えっ、あんなに働いたのに、これだけ?」と思わず愚痴ると父が烈火の如く怒って言ったのです。「働くとは、そういうことだ!」
私は一念発起して、大学の後期の学費を自分で払ってやると思いました。地方の国立大学だったので、半期の学費なら なんとかできそうでした。いつもの家庭教師に加え、学校へ行く前にパン屋で早朝のバイトをし、休みもデパートの伝票整理のバイトを一日中し、正月も巫女さんのアルバイトをし。やっと半期の学費を払うことができました。その時、家族を養い、大学に通わせてくれる父の偉大さを実感しました。高卒の父が、大卒の人と働くことは大変だったと思います。働くことは、本当に大変でした。
一番印象に残っているのは、私が小学生の頃、父とお祭りに行った時のことです。一人の老人が階段を踏み外し、ころころと下へ転がり落ちました。私はびっくりして足がすくんでしまいました。でも、父は違いました。誰よりも早く駆け寄り、老人を助け起こしたのです。
後で私が「お父さんがあんなことするとは思わなかった」と言うと、父は不思議そうに「人が困っていたら助けるのは当たり前」と言いました。
クールに見える父は、こんなにも暖かいハートを持っているんだと嬉しかったことを覚えています。
お父さん、私は、あなたの娘でよかったです。
父が骨になったのを見ても、父が逝って二週間が経っても、実感がわきません。非情かもしれませんが、お葬式でも涙が出ずに、ぼんやりとしていた感じでした。涙が出そうになるけど、自分で抑制しているのか涙が引っ込む感じだと妹と言っています。
父がお骨になるのを待っている間、従妹が父から木琴を買ってもらった話をしてくれました。従妹が欲しがっていた木琴、それも思っているのより上等の木琴で、うれしくて誇らしげに木琴を叩いたと。
私も父の思い出をしようと思います。父は、無口でマイペースでした。母にとっては、自分勝手で何もしない夫だと思いますが、私には、穏やかでお茶目な父でした。
小学生の時、夕食後父と妹と三人でトランプをして遊んだことは楽しい思い出です。今、考えると、よく毎日のようにトランプで遊んでくれたなと思います。
子どもが赤ちゃんの時に、大分に帰った時のことです。父が孫たちを上手に抱っこすることに驚きました。人見知りの時期だった子どもが泣くのかと思いきや、安心して抱っこされていました。それを見て、私や妹もこうして父に抱っこされていたのかなと思いました。
従妹に「おじちゃんは、孫を可愛がるの?」と聞かれたことがあります。「可愛がるよ」と答えると従妹はビックリしていました。父は、無口であまり感情を表さなかったので、意外に感じたのでしょう。不器用だったかもしれませんが、父は確かに孫を可愛がっていました。
父がモーターボートの免許を取ろうとしていた時です。私が不遜にも「問題を出してやるわ」と言って、モーターボートの教本から問題を出しました。正解を答えます。どんな問題を出しても正解を答えます。私も意地になって重箱をつつくような問題を出しても、正解を答えました。その時に父はすごいと思いました。
思えば、私が小学生の時、父は通信教育で何かを勉強していました。「えっ、大人になっても勉強せなあかんの!?」と驚いたことを覚えています。
その後も部署が変わると本を何冊も買って、その部署の勉強をしていました。
父の姿から、いくつになっても学ぶことは出来ると教えてもらったような気がします。
ほとんど怒られたことがないのですが、一度、こっぴどく怒られたことがありました。大学生の時、初めてアルバイトをしました。デパートでずっと立ちっぱなしでネクタイを売りました。帰って、バイト代の入った袋を破ると、そこには思ったよりうんと少ない額のお金が入っていました。「えっ、あんなに働いたのに、これだけ?」と思わず愚痴ると父が烈火の如く怒って言ったのです。「働くとは、そういうことだ!」
私は一念発起して、大学の後期の学費を自分で払ってやると思いました。地方の国立大学だったので、半期の学費なら なんとかできそうでした。いつもの家庭教師に加え、学校へ行く前にパン屋で早朝のバイトをし、休みもデパートの伝票整理のバイトを一日中し、正月も巫女さんのアルバイトをし。やっと半期の学費を払うことができました。その時、家族を養い、大学に通わせてくれる父の偉大さを実感しました。高卒の父が、大卒の人と働くことは大変だったと思います。働くことは、本当に大変でした。
一番印象に残っているのは、私が小学生の頃、父とお祭りに行った時のことです。一人の老人が階段を踏み外し、ころころと下へ転がり落ちました。私はびっくりして足がすくんでしまいました。でも、父は違いました。誰よりも早く駆け寄り、老人を助け起こしたのです。
後で私が「お父さんがあんなことするとは思わなかった」と言うと、父は不思議そうに「人が困っていたら助けるのは当たり前」と言いました。
クールに見える父は、こんなにも暖かいハートを持っているんだと嬉しかったことを覚えています。
お父さん、私は、あなたの娘でよかったです。