略してコスプレ。ウィキペディアによりますと
コスプレとは漫画やアニメ、ゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為を指す。近年は意味が拡大し、特定の職業で採用されている制服や特定の着衣を好む者が、その衣装を真似て作った服もしくは本物を着て、自らの意志でそのキャラクターになりきることもコスプレと呼ぶことがある。
カープの応援にはカープのユニフォームを着て、カープファンになりきって応援したほうが選手や球場のファンとも一体感も感じられ、強烈な体験ができます。
私もカープユニフォームを着てコスプレして楽しみます(笑)
サンフレッチェの試合の時にはサンフレユニフォームを着ます。まさにコスプレーヤーです。
ところがですね。このユニフォームを家に帰っても布団の中でも会社に行く時も、はたまたお葬式でも着ていたらどうでしょうか?
「そんなアホなやつ、おらんやろ~」と言われそうですが、ユニフォームは着るものだから、脱いで着替えることができますが、脱げない(見えない)ものを誰でもいっぱい着込んでいるんです。(無意識に)
私は人間である。男(女)である。親(子)である。夫(妻)である。会社員である。社長である。若者である。老人である。
どこそこの、あーゆう家に生まれて、あーして、こーして、あれしてこれした自分なんです。
といった、あれやこれも、見えないコスプレといっていいのではないでしょうか。
それぞれの立場TPOに応じて見えないコスプレをしてその場を対処しているわけです。
自分で自覚してそのコスプレをしているのは脱げるからいいのですが、やっかいなのは無意識、無自覚にしているコスプレです。
私の仕事の性格上、人のしているコスプレがよーく見えます。本人は無自覚なのでそのコスプレをしているが故に目の前に起こり続ける現実に翻弄され、まったく何が起きているのかわかりません。私から見えるところを人によっては本人にお伝えしたり、理解してもらえるようにヒントをあたえたりすることも仕事の一部です。
ということで私はわかっているつもりになっていたのが、大間違い!
しまった、しまった島倉千代子(わっかるかなぁ~?)
先生、先生と呼ばれる仕事はよっぽど気を付けておかなければダメですね!
仕事の場ではそのコスプレも自覚して着けるのはいいですけど、仕事を離れたら「先生」ではないんです。
このコスプレもちゃんと自覚したいと思います。
どんどんどんどん無意識のコスプレを見破り、着ているユニフォームを脱いでいくことが自分の執着とらわれから自由になっていく道だと思います。
無意識の執着をどうやって見破るのか?
自分が苦しいのがサインです。その時が気づけるチャンスです。
どんどん脱いでいったらどうなるのか?
男も女もやめるのか、人間やめるのか?
その通りです(笑)
寿命が来て肉体が焼かれても残っているもの、あるいは生まれる前から存在しているもの・・・
それが生命の本質であると思います。
肉体や自我がたくさん着込んでいるコスプレを見破りどんどん軽くなり、生きていながらもともとの本質に帰っていく、そのプロセスが今回の人生であると感じています。