遠い記憶に、江田島湾が自衛艦でいっぱいになったことがありました。
街(広島)に出る交通の便は、船しかありませんでした。
決して楽な暮らしではありませんでした。
我が家だけではありませんでした。
50数年前台風が近づいたある日、次から次に自衛艦が江田島湾に避難してきました。
潜水艦を見たのもその時が初めてでした。
4Km四方の江田島湾が自衛艦とその他の船で埋まりました。
狭い津久茂水道を1隻ずつ入ってきました。
風はまだ強くありませんでした。
飽きずに何時間も入ってくる船を見ていました。
この島は、世界に通じていると感じました。
なんとなく誇らしく思ったものでした。
私は、故郷(島暮らし)が嫌でたまりませんでした。
唯一の自慢は世界に通ずる海でした。
古くは和寇が外海で活躍し、呉の造船所が世界市場の船を建造し、
江田島の術科学校が世界に通ずる人材を送りだしてきました。
そのイメージが、世界に通ずる海と思わせたのでしょう。
故郷でやりたかったことが一つありました。
島の段々畑を利用した複合的な農業でした。
山の上で酪農をするのです。
中段の畑で果樹園を作り、果樹園の草は牛に食わせるのです。
麓で有機野菜を栽培するのです。
牛の排泄物は、果樹園と野菜畑で有効活用するのです。
だんだん畑には、日陰がありません。日照条件だけは良いのです。
モノレールを上下に走らせ、餌や肥料を上に上げ、作物を下に降ろすのです。
そんな夢を漠然と描き、工学部の機械科を受験しました。
父に、4男の私に農業を継がせてほしいと頼みました。
父は、大学に百姓をさせるためにやるんではない。
農業は苦労するばかりで、駄目だと怒られました。
私は、1千万円稼げる農業があるんだと夢のような話は父にはしませんでした。
故郷で農業をやる夢は、断念しました。
法事や同窓会で帰った時に見聞きする故郷は、歯が抜けるように次々と廃屋になっていました。
昨年、何とか再生の道はないものかと夢のようなことを考えたことがありました。
故郷に帰らなくても夢は持てると思いました。
短編小説「さなさん」を書いたのもそんなことがきっかけでした。
再生プログラムを考えたのもそうです。
(2014年12月31日投稿、「能美町のこと」参照してください)
長い年月生きてきて、その土地のハンデキャップが他の地域にない特徴になることを学びました。
人を、工場を誘致するのではなく、自分が住みたくなるような場所にすることなのです。
不便を特徴にし、素晴らしいものを保存するのです。
それには、世代を越えて人が住みたい場所でなくてはならないのです。
それが、故郷再生の道の第一歩だと思います。
工場作りで、機械やプラントの営業で、日本全国を回りました。
60歳を過ぎて、真道山から見た江田島湾はどこにもない素晴らしい景色だと感じました。
私は、この素晴らしさを知らぬまま人生を終わるところでした。
どこで暮らしても、不便や不満はあります。
便利な都会では、隣の人と話すこともないまま、孤独な死を迎えることもあります。
私にとって、「故郷とは」は、
生まれたところであり、住んでいるところであり、生活のための糧を得るところです。
故郷を思う気持ちは、住みやすい誇りが持てる場所を作り優しい時代を作ることに、少しずつ変化してきました。
病気にならない限り働きたいし、引き継いだ技術や文化を次の世代に渡したいのです。
夏の日に つるが日よけで 秋に芋
2015年11月3日
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