つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

一年経って

2016-10-19 17:17:04 | 親父の肺癌

先週の土曜日(15日)、親父の一周忌法要を終えた。

親父の一周忌と一緒に、生後すぐ死んでしまった私の妹・知子の50回忌法要も終えた。

知子はこれで弔い上げである。

妹が死んだとき私はまだ2歳。

だから妹がこの世界からいなくなってしまった、という事実にショックを受けた記憶も、涙を流したという記憶もない。

 

昨年1月、お袋が死んだときは多少感傷的になって涙を流したりしたが、逝ってしまった親父のことを思って流した涙の量はお袋の比ではない。

今でも親父の遺影に話しかけながらだらだら涙を流している自分に気づいたりすることがある。我ながらびっくりする。

親父が逝った後、何度も東京と名古屋を往復する車の中で、繰り返し繰り返し聴いていた曲は「眠り姫」(SEKAI NO OWARI)だった。

涙と鼻水まみれになってハンドル操作を誤り、親父の後を追うことにならなくてよかった、とつくづく思う今日のこの頃だ。

 

僕らが今まで冒険した世界と、俺は一人で戦わなきゃいけなくなったんだな、親父。

--------------------------------------------------------------------------

【眠り姫】作詞:深瀬慧

君と僕とで世界を 冒険してきたけど

泣いたり 笑ったりして

僕らはどんなときでも 手を繋(つな)いできたけど

いつかは いつの日かは

ある朝 僕が目を覚ますと この世界に君はいないんだね

驚(おど)かそうとして隠れてみても 君は探しに来ないんだ

Ah 君はいつの日か深い眠りにおちてしまうんだね

そうしたらもう目を覚まさないんだね

僕らがいままで冒険した世界と 僕は一人で戦わなきゃいけないんだね

ボーッと火を吹くドラゴンも 僕ら二人で戦ったね

勇者の剣(つるぎ)も見つけてきたよね

Ah このまま君が起きなかったらどうしよう

そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ

 

こんな青空のときでも どんな嵐のときでも

手を繋いできたけど

こんなに嬉しいときも どんなに悲しいときも

いつかは いつの日かは

ある朝 僕が目を覚ますと この世界に君はいないんだね

起そうとして揺さぶるけど 君はもう目を覚まさないんだ

Ah 君はいつの日か深い眠りにおちてしまうんだね

そうしたらもう目を覚まさないんだね

僕らがいままで冒険した世界と 僕は一人で戦わなきゃいけないんだね

Ah まだ見ぬ宝も 僕ら二人で探しに行ったね

星が降る夜に船を出してさ

Ah このまま君が起きなかったらどうしよう

そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ

Ah 君はいつの日か深い眠りにおちてしまうんだね

そうしたらもう目を覚まさないんだね

僕らがいままで冒険した世界と 僕は一人で戦わなきゃいけないんだね

ボーッと火を吹くドラゴンも 僕ら二人で戦ったね

勇者の剣も見つけてきたよね

Ah このまま君が起きなかったらどうしよう

そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ

 

 


腫瘍マーカーの数値(31)

2015-11-16 18:25:42 | 親父の肺癌

今更だが、親父から渡されていた最後の腫瘍マーカー検査の結果をアップする。

これが親父の最後の腫瘍マーカーの数値である。

この検査の2週間後、親父は間質性肺炎の急性増悪で入院し、更にその1週間後の10月19日に他界したからだ。

 

2015年9月30日の腫瘍マーカーの値。(  )内は前回検査時(2015年8月31日)の検査結果。

CRP 0.89(0.50)※基準値0.3以下 0.4~0.9だと体内に軽い炎症が発生している可能性を示す

ProGRP -(83)※基準値81以下 肺ガンに特有の腫瘍マーカー

CEA 6.6(6.5)※基準値5.0以下 胃・大腸・肝臓ガンに特有の腫瘍マーカー

NSE -(14.8)※基準値16.3以下 小細胞肺ガン、神経芽細胞腫に特有の腫瘍マーカー。告知時(2012/10/11の数値は22.8)

CA19-9 53(43)※基準値37以下 膵臓・胆道・胃・大腸・肝臓ガンに特有の腫瘍マーカー

【免疫力の数値】

アルブミン 3.4(3.5)※基準値3.8~5.3

リンパ球 23.9(25.8)※基準値18.0~59.0

ガンの大きさは

上部 縦(計測せず)(計測せず)

   横(計測せず)(計測せず)

下部 縦5.16cm(6.86cm)

   横7.88cm(7.88cm)

 

 誰が読んでくれているのかわからないが、現在、このブログで親父が残した過去3年分の日記を公開し続けている。

公開している日記では、昨日(11月15日)が「肺腺癌ステージⅢB」と「余命1年」の宣告を受けた日(2012年)だった。

 

親父は日記にほとんど自分の「感情」を記さない男だった。

淡々と毎日起きた出来事を綴り続けていた。

それでも「2012年11月15日」は欄外にまで書き込みがあった。

「貴方はあと1年から2年で死にます」と医師から宣告され、恐怖と絶望と怒りでペンを持つ手が震えたのだろう。

この日の親父の文字は他のどの日より読みにくい。

 

親父の日記を公開し続けているのは、「余命宣告を受けたにもかかわらず、抗がん剤などの三大療法を拒否した末期癌の患者」が、どのように絶望し、どのように足掻(あが)き、そしてどれほど人間らしく死んでいったのかを、今この瞬間も癌と共存し、あるいは癌と戦い、あるいは癌を受容して日々を生きている方々に、そして、欲を言えば、医療に従事する全ての方々に読んで欲しいからだ。

そして、末期癌患者への「余命宣告」とか「(抗がん剤や放射線治療などのいわゆる)三大療法」の意義について、もう一度、考えてもらえれば、と思うからだ。

 

 

私の二人の息子たちは、親父が逝く前日、親父(彼らにとっては祖父)を病室に見舞い、食欲のなくなった親父に好物だったアイスクリームを食べさせてやった。

もうすぐ大好きな孫たちと会えなくなることを覚悟したからだろう。親父は、孫たちが病室に来た時、男泣きに泣いた。

親父が辿った「余命宣告後の3年間」を、親父の日記をブログにアップすることを通じて一緒に歩いている私は、孫たちの前で泣いた親父を女々しいとも情けないとも思わぬ。

まだ公開していないが、親父の日記の12月の「予記」には、繰り返し、「あと5年生きる」と書かれていた。

親父は告知から2年11カ月で逝った。

親父は自分の死について達観などしていなかった。

死の直前まで、「あと少しだけ。あと少しだけ生きたい」と願い続けていた。

 

親父が死んで、私の二人の息子(特に中学1年の長男)は何かが変わった。

親の欲目かもしれないが、少しだけ大人になった(ような気がする)。

少しだけ、毎日を一生懸命生きるようになった(ように見える)。

長男が勉強もしないでダラダラとマンガばかり読んでいたら、「カシコギ」の一節を語り聞かせようと思っていたが、その機会がなかなかない。

なかなか機会がないので、忘れないうちにこのブログでアップしておく。

たまにこのブログを読んでいる(らしい)長男の目に留まれば、と思う。

 

 

あなたが虚しく過ごした今日という日は、

きのう死んでいったものが、

あれほど生きたいと願ったあした

(カシコギ 趙昌仁/金淳鎬)

 

 

親父。あんたの孫たちは、あんたが逝って、少しだけ大人になったぞ。

だけど、親父。

なんで、死んだ。

 

 

 

 


遺影

2015-10-29 17:52:49 | 親父の肺癌

ここ10日ほど、親父の日記のアップばかりである。

80歳の無名の老人の日記をいったい誰が読みたいと思っているのか、アクセス数に変化がないのが不思議だ。

 

親父はこのブログの(数少ない)愛読者の一人だった。

親父は、

「葬儀は親族のみの親族葬で。友人知人への連絡は四十九日が終わってから。」

と言い残していたが、愛読していたこのブログでなら、自身の他界を公表されても文句はあるまい(と勝手に推測)。

 

このブログを読んでくれている方で、私の親父のことを知っておられるあなた(誰?)。

父、平岩宏志は平成27年10月19日16時46分に他界しました。80歳でした。

死因は肺腺癌ですが、直接の死因は間質性肺炎の急性増悪でした。

息子の私が言うのも変ですが、最期の最期まで男らしく自分を律し続けた、素晴らしい親父でした。

 

親父は最期の瞬間まで自分の指にはめたパルスオキシメータ(血中の酸素濃度を測る器械)で自分の体調を確認し続けていた。

一人暮らしだった親父は、最期を看取った私の妻に、

「(一人暮らしをしていた)あの家で寝ていると、天井を見上げながら、

『このままここで、たった一人で死んでまうのか』

と何度も思った。

病院に入って、こんなにたくさんの人に親切にされながら死んでいけるなんて思ってもおらんかった。

ありがたい。」

と告げた。

 

親父がいなくなった家で、親父の遺品を整理していると、親父の言葉が浮かんできては、この家で一人ぼっちで生きていた親父の孤独に涙が止まらなくなる。

親父が死んで10日。

「俺にはこんなに涙があったのか」と思うくらい泣いた。なのに、それでも涙が止まらない。

 

親父の孤独を和らげるために、

親父が生きた痕跡を少しでも世に残すために、

そして、親父と同じ病で今も頑張って生きている方に、

「あなたと同じ病に侵されながらも、

日々を楽しみ、

1日1日を大切に生き、

最期の瞬間まで自分を律し続けた老人がいる。

親父にできたことがあなたにできない訳がない。

諦めることも、自暴自棄になることもしないでほしい。

最後まで頑張ってほしい。」

とエールを送るために、

私は親父の日記を公開し続けている。

 

親父の遺影はこれだ。

 

肺腺がんの宣告を受けた年の5月5日。2人の孫と自宅の縁側で撮った写真からおこしたものだ。

写真は私が撮った。

2人の孫を抱き、息子に写真を撮ってもらった親父。

この時点ではまだ肺腺癌は見つかっていない。

葬儀会社TEARの担当Kさんに、

「こんな素晴らしい笑顔の遺影は見たことがない。最高の遺影だと思います。」

と言わしめた親父の笑顔だ。

 

親父はこの写真が一番のお気に入りだったらしく、いつもパソコンをしていた2階の部屋に大きく引き伸ばして額に入れて飾っていた。

親父の死後、親父の財布から、縮小印刷した同じ写真を見つけた。

裏には自分と孫たちの生年月日が書かれていた。

たぶん、おそらく、きっと、いつも財布に入れて持ち歩いては、会う人に見せて孫の自慢をしていたのだろう。

だから、財布に入っていた小さい方の写真は棺の中の親父の手に握らせて親父と一緒に天国に送った。

天国で会った人たちに、ちゃんと自慢できるように。

その写真がこれだ。私の部屋にも同じ写真が飾ってある。

 

今もまだ、親父のことを書くと、涙が止まらなくなる。

今から事務所訪問に来てくれる修習生に会わなければならないというのに、このざまだ。

 

もう少し時間が経って、泣かずに親父のことを書けるようになったら、ぼちぼちと親父の思い出を書こうと思う。

けれど、今は、まだ、無理だ。

すまない、親父。


親父は他界しました

2015-10-20 02:37:11 | 親父の肺癌
2015年10月19日16時46分でした。
死に目には間に合いませんでした。

親父の死に顔は、今までの闘病の苦しさから解放されたかのように安らかです。

通夜は21日18時から、告別式は22日10 時から、いずれもティア新瀬戸(瀬戸市川西町1-113 電話0561-89-7900)で行う予定です。

入院

2015-10-18 23:45:37 | 親父の肺癌

先週、親父から9月30日現在の腫瘍マーカーの検査結果が送られてきた。

なので、本来なら、この記事は「腫瘍マーカーの数値(31)」の予定だった。

が。

今週13日(火)の朝、親父は救急車で病院に運ばれた。

朝起きて、耐えられないほど呼吸が苦しかった親父は、いつも世話をしてくれていたK叔父に自ら電話して助けを求めた。

K叔父に付き添われて丸山ワクチンを接種してくれている近所のKクリニックに行き、主治医のK先生に勧められて、救急車を手配して病院に行ったのだ。

病院に行く前、親父は新聞の購読中止の手続きを取り、ヤクルトの配達中止の手続きを取り、給食サービスの中止の手続きを取った。今にも死にそうな呼吸の下で。

 

13日。証人尋問を終えて法廷を出たところでK叔父の奥さんのN叔母からの着信履歴に気づき、折り返し電話をして初めて親父の状態を知った。

その日は別の大きな裁判が夕方に入っており、なんとか2~3日事務所を空けられる手はずを整えて、名古屋に車で向かったのは夜9時半。名古屋に着いたのは日付が変わった14日午前2時半だった。

 

親父は駄文溢れるこのブログを読むのを楽しみにしていたが、おそらく、もう、二度とパソコンを開くことはできぬ。

だから、ここで親父の容体を明らかにしても問題あるまい。

親父は間質性肺炎の急性増悪で入院した。

統計的には1か月持たぬ。

酸素飽和度は70を切っており、ときに50台にまで下がる。体は一回りも二回りも小さくなり、涙もろくなった。

食欲もほとんどない。

おそらく11月は迎えられないだろう。

 

14日・15日と親父に付き添い、16日午前3時にいったん帰京した。

どうしても動かせない裁判の期日が16日に2件入っていたからだ。

17日朝から、今度は妻と子供たちを連れて名古屋に行ってきた。

親父の意識があるうちに、孫たちの顔を見せてやりたかったからだ。

孫たちの顔を見て、親父はまた泣いた。

息をするのもままならないくせに、酸素マスクを自分ではぎ取って、長男に「卓球部の選手に選ばれたんだってな。すごいな。」と声をかけた。次男に「写生大会で金賞を取ったんだってな。えらいなぁ。」と声をかけた。

親父は、孫の話しかしない。孫たちの現在にしか喜ばず、孫たちの将来にしか夢を見ない。

 

17日は親父が契約していたT葬儀社に行って葬儀の打ち合わせを済ませてきた。

棺桶は何にするか、香典返しは何にするか、火葬場までの車は何にするか、参列者にふるまう食事は何にするか。

その日の夕方からモルヒネの投与が始まった。

18日は平岩家の菩提寺のT寺に行き、ご住職と会って通夜~葬儀の打ち合わせを済ませてきた。

 

そして先ほど。

私は明日(19日)、再び外せない裁判が2件入っているので、子供たちだけを連れて帰京した。

妻は名古屋に残って親父の万一の事態に備えている。

 

多くの方々に支えられ、気にかけていただき、親父は3年前に告知された余命を2年近くも越えた。

しかし、次の「親父の肺癌」の記事は、おそらく、「親父他界のご報告」になる。

 

親父の日々の生活の世話はK叔父・N叔母に丸投げだった。

本来は一人息子の私がすべきことだ。

しかし、そのバカ息子は、自分の父親の肺癌をテーマに、自分の父親の腫瘍マーカーの数値を公開し、その父親がいよいよ入院した時も仕事を優先してすぐに父親のもとに駆けつけず、今夜、あるいは明日の早朝、もしかしたら息を引き取るかもしれないのに、妻だけ残して東京に戻ってきて、こんなくだらないブログを書いている。

そして明日は顔色一つ変えずに、依頼者のために法廷で相手方を追い詰めるのだ。

 

すべての批判も罵倒も侮蔑も甘んじて受ける。

これが私の選択した仕事だからだ。

私はこうやって生きていこうと決めた。

だから、これからもこうやって生きていく。

 

親父は苦しい呼吸の中でも、

「仕事は大丈夫なのか? 裁判は大丈夫なのか? こんなとこにいていいのか? 早く仕事に戻れ。」

と私に言う。

友人知人が、親類が、世界が、私の生き方を否定しても、親父は病床にあってなお、息子の生き方を認め、息子を誇りに思ってくれている。

だから私は、明日も、何事もなかったように法廷に立つだろう。

バカ息子の生き方に、親父が、誇りを持って逝けるように。