第2回は荒川区でござる。
前回の「足立区」でも書いたとおり、荒川区と足立区は「我が地こそが奥の細道旅立ちの地」と主張してずっと論争を続けている。
なので、南千住駅前にも芭蕉の像が。
ちなみに、その近くには私がよく来る居酒屋「羽根や」さん。
ただ、今回、荒川区で是非とも来たかったのはここではなくて。
ここ↓
和竿専門店の「竿忠」
私は釣りを嗜(たしな)む人間ではないが、この「竿忠」の写真はブログにアップしておきたかった。
落語好きの方は是非とも一度は訪れて頂きたい。
昭和20年3月10日。東京大空襲の日である。
当時、三代目三遊亭金馬師匠(以下「三代目金馬」)は新宿内藤町(我が事務所の近くでもある)に住んでいた。
東京大空襲の業火を奇跡的に逃れた弟子(現「四代目金馬」)が数日後に三代目金馬の家に挨拶に行くと、三代目金馬は、
「馬鹿野郎!どんだけ心配してたと思ってんだ!」
と四代目金馬を怒鳴りつけた。
ぽろぽろ涙を流しながら。
四代目金馬も師匠と一緒にわあわあ泣いてしまったという。
三代目金馬は厳しいが情に厚く、義を通す人だった。
というか、この話は「竿忠」とは関係ない。
三代目金馬といえば、「狂」がつくほどの釣り好き。
その三代目金馬が愛した和竿の店が「竿忠」である。
当時の「竿忠」の店主は三代目。店は墨田区本所にあった。
東京大空襲で「竿忠」も焼失し、生き残ったのは香葉子という女の子とその兄の二人だけ。
三代目竿忠を含めてその他のご家族(香葉子さんのご両親、祖母、長兄、次兄、弟の6名)は全員亡くなられた。
戦災孤児になって親戚の家を転々としていた香葉子さんが、ある日、家の焼け跡を見に行くと、1本の立て札が。
「金馬来たる 連絡請う」
香葉子さんが神田立花寄席の楽屋に三代目金馬を訪ねていったのはそれから5年後。
三代目金馬は、
「竿忠のカヨちゃんが生きてたか。よかったなぁ、よかったなぁ」
と涙を流さんばかりに喜んだという。
三代目金馬は香葉子さんを自宅に連れて帰り、温かい食事を与え、布団で寝かせ、翌日、
「今日から家(うち)の子におなんなさい」
と言った。
さらに三代目金馬は「竿忠」一家でもう一人生き残っていた香葉子さんの兄を説得し、「竿忠」を再興させるべく和竿職人の修行をさせた。
この香葉子さんのお兄様が現「竿忠」の5世4代目当主、中根喜三郎さんである。
一方、香葉子さんは三代目金馬夫婦に育てられ、初代林家三平師匠に嫁いだ。
すなわち九代目林家正蔵師匠、二代目林家三平師匠、そして、歌手泰葉さんの母上である。
(以上、小学館「落語 昭和の名人 決定版」三代目三遊亭金馬より)
この小さな、古びた和竿店には昭和の落語界の歴史と、どんな人情咄(にんじょうばなし)にも引けを取らない江戸っ子の人情譚が凝縮されている。
帰りがけに、ウチの事務所を作ってくれた白井建装さんに寄って、暇そうにしていた先代社長にバイクを見せびらかして、勧められた汐入公園を回って帰ってきました。
桜は散ってしまったかと諦めてましたが、荒川沿いは今が満開。